イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

アニメ感想日記 14/10/02

・ Free!
『かくして少年たちは大人の階段に足をかけ、世界に飛び出していったのでした』という回。
登場キャラクターの問題提示とその解決は、最終回一個前まででほぼ終わっており、最終回はそのおさらいと総決算としてのリレー、エピローグという構成。
なので、最終回を振り返るというよりもFree! 一期はどこが良く、どこが良くなかったのか、そして二期は何が変わったのかという話を、これからしていきたいと思います。
相当長文になりますが、宜しくお願いします。


自分はFree! 一期が終了してから一年間、このアニメに対してモヤモヤとした感情を抱き続けていました。
京都アニメーションが制作するアニメに特有なのですが、ジャンルが要求するルックというか、青少年の物語が当然内包してしかるべき終わり方への目配せは、一期の頃から異常に巧かったです。
"当然内包して然るべき終わり方"とはつまり幼年期の終わりであり、保護から自立へ、身内から世間へ、自己から他者へ、内側から外側への変革を完了して終わることを、青春期を舞台とした物語は基本的に期待されているわけです。
そして、京都アニメーションはそういう終わり方の予感を物語の途中に練り込むのは、とても上手い。
台詞ではなく描写で、説明ではなく言動で、物語が終わることを予感させるシーンを必要なだけ盛り込む手腕に京都アニメーションはやはり優れていて、その巧妙さは物語の見取り図を視聴者に飲み込ませ、期待を煽る結果を引っ張ってくるわけです。

そして、それをひっくり返す。
視聴者が「普通こうなるよね」と意識的・無意識的に理解し期待している終わり方とは、相反する欲望を忠実に感じ取って、京都アニメーションが青春期を扱ったアニメは閉じた終わり方をすることが多々あります。
獲得した自立を投げ捨てて閉じた世界の中での庇護を、世界に向かって開かれたはずの態度をひっくり返して自意識とその周辺物としての親友の領域へ、Uターンしていってしまう。
けいおん!!』でも、『中二病でも恋がしたい!』でも、結局のところ柔らかく温かい幼年期のなかに、登場人物たちは帰還していくわけです。
(無論、例えば『氷菓』だとか、『たまこラブストーリー』まで引っくるめた『たまこまーけっと』だとか、劇場版全てが取り残される中野梓への詫び状だった『映画けいおん!!』だとか、外側に突き抜けていく方向を持った青春時代の物語も多々あるわけですが、それと同じように、外側に抜ける物語を予期させて内側に帰還する物語もまた、京都アニメーションの集団人格として特徴的な作風だと思います)

最初から内側のベクトルにのみ物語が進行するように見えるのであれば、『そういうもの』として納得も出来ますが、世間的に妥当とされる以上の説得力を持って、京アニの青春物語は健全な"ふり"をする。
そして、最終的には同じように圧倒的な説得力を持って描かれ、僕らを魅了する『閉じた世界』に帰還していく。
それがずっと同じ物語を見ていたいという僕達の欲望なのか、それとも製作者たちの欲望なのか、はたまた僕達の欲望を的確に叶える製作者たちの手腕なのか、そこまでは判りません。
ただ、京都アニメーションが"ふり"として見せる『開いた世界』と同じかそれ以上に、足踏みを続けながら圧倒的に煌めいている『閉じた世界』には、恐らく共犯的な欲望が存在しているはずです。

健全に開放的に、建前として一般的に「こうであるべき」と語られる『開いた世界』を求めると同時に、不健全で不健康で、それでもそれ故に「こうあって欲しい」と願われる『閉じた世界』を僕たちは求め、製作者たちはそれに答える(もしくは、製作者自身も欲望する)わけです。
僕達が見たいと思うものを敏感に感じ取って製作者たちは物語を作り、それ故に物語は支持を受ける。
そこには、確かな共犯関係が存在していると思います。


Free! 一期は建前としての『開いた世界』に目配せをしつつ、最終的には『閉じた世界』に帰還する物語でした。
怜を除外し、凛をメンバーとして泳いだメドレーは共に労苦を共にした仲間だけではなく、"競"泳という競技それ自体、隣のレーンで泳ぐ名前もないスイマー達、それを成り立たせているあらゆる人間と世界、それを蔑してまで閉じた身内の心を救う話でした。
拗れに拗れた精神状態を抱えて物語に現臨した松岡凛という少年の面倒くさいコンプレックスを解消するためにはたしかに、あのように劇的な処置-かつてあった黄金期の、かつてのメンバーでの追体験-が必要だったと思います。
それを納得させるだけの細やかな心理描写、関係性の活写は、一期で最も重点されたポイントでした。

しかし同時に、松岡凛も、彼らの共犯者である七瀬遙、橘真琴、葉月渚(岩鳶水泳部とは言いません。それでは余りに怜が報われない)も、けして一人で泳いでいたわけではありません。
凛の場合は似鳥を筆頭とする鮫柄水泳部、何よりも競技者として年長者として凛を見守ってきた御子柴部長。
三人の場合は誰よりも竜ヶ崎怜の存在を無視して、彼らは思い出を取り戻し、ギクシャクしていた関係を修復し、身内の傷を癒やしたわけです。
それはいい。
それは見事な回復の物語であり、収まるべきものが収まる所に収まった物語です。
ただし、四人以外の人間が存在しないという前提においてのみ、です。

一期は余りに巧妙に青春部活モノというフォーマットが求める要素をこなした、『巧いアニメ』でした。
結果必然的に暑苦しくおせっかいな世界、小学六年生から五年成長を重ねた結果手に入れてしまった『開いた世界』もまた描写され、丹念に丁寧に巧妙に描写された少年たちの『閉じた世界』(それは常に本音で、すれ違い、解って欲しいという甘えに満ちた子供の距離感でした)と対比されていました。
その対比は緊張感とドラマの予感を産み、実際『自分一人で泳ぐ』ことを至上としていた遥は、物語内部の経験を経て『仲間たちと泳ぐ』ことを最上とする新しい価値観を手に入れたわけです。
それはやはり、見ていて気持ちのいい若造の成長譚でした。

僕自身としては最終的に『開いた世界』に道を譲って『閉じた世界』を終える話だと、Free! という作品のことを勝手に理解しており、そう妄想するに十分な描写もあったと考えています。
しかし結果として『閉じた世界』の事情が『開いた世界』の厳しさを駆逐し、四人組の玩弄は見事に成就し、罰を受けることも踏みつけにした他者に対する謝罪もまたなく、Free! 一期は終わりました。

そう、ここまで論を積み重ねて僕自身の心を偽るのは不実でしょう。
身勝手にも、僕は『裏切られた』と感じたわけです。
そこには「結局京アニは、客の欲望の外側に出れないのかな」という手前勝手な失望があったことは、否定できません。
僕は明らかに離別を匂わせておいて強引に同じ大学に進むことになった『けいおん!!』の先を、幼児性を是認したその先、成熟と未熟の止揚手前で終わってしまった『中二病でも恋がしたい!』の次を、Free! で見たかったわけです。
しかし、Free! 一期はそれ足り得なかった。

提出された物語の終わりを受け取る以外視聴者には取れる行動がない以上、「こうあって欲しい」「こうあるべき」という期待が叶わなかったからと言って『裏切られた』というのはやはりエゴイスティックな意見でしょう。
それを理解しつつもなお、一年以上『裏切られた』傷がジクジクと痛み続けたのは、一期が見せた『開かれた世界』への目配せが、最終的に提出された結論を裏切るとしても、僕に夢を見せてくれた証明だと思っています。
Free! 一期はとても良く出来たアニメで、とても好きなアニメで、しかし納得の行かないアニメとして僕の中に刻まれてしまったわけです。


長い前置きになりましたが、それを踏まえて最初に結論を言います。
Free! 二期は非常に良いアニメでした。
一期の終わり方、『閉じた世界』に帰還していった結末に不実と裏切りを感じた人ほど、二機を見るべきアニメでした。

最終話ラストシーン、遥と凛はオリンピックのスタート台で隣り合っています。
それは何時かの未来であり、夢かもしれないし現実かもしれない、しかし叶えるべき目標として二人がたどり着いた目標なわけです。
此処に辿り着くために、一期で長い迷走を経て道を見つけた凛の助けを受けつつ、遥は迷い、戸惑い、当たり散らし、自分の夢を手に入れます。
それはつまり、子供が大人になる時に絶対に必要な、健全な迷走と衝突であり、一期において凛がたどった道を、遥もたどり直して辿り着いた場所と言えます。

その『開いた世界』に二人はワープしてきたわけではなく、遥は真琴を筆頭とする周囲の人々とのかかわり合いを経て、凛は一期(あのエンディング含めて!)を丸々使った逡巡を経て、ようやく辿り着いた場所なわけです。
手順をしっかり踏み、何故彼らがそこを求めそこに至ったのか視聴者が納得出来るように積み上げてきた、つまり物語としてしっかり作ったからこそ、あのエンディングの読後感は圧倒的に爽やかであり、猛烈な達成感を与えてくれます。
二期において、『開いた世界』への目配せは"ふり"ではなく、作品の根幹に関わる本腰の描写だったわけです。

二期が一期よりも優れている部分は、大人になる人物が増えていることです。
キャラクター紹介などを交えて展開した一期では凛の子供時代を終わらせることが限界点だったわけですが、既に視聴者の中で登場人物たちが活きている二期は、時間的余裕がありました。
結果として、自分で遥へのあこがれを殺し社会的活動をいち早く始めた真琴だとか、両親や学生としての責務に正面から向かい合う事になった渚など、遥の周囲の人達もまた『開いた世界』への歩みを進める結果となりました。
怜に関しては幸運にして不幸なことに、ずっと大人であることを要求され続けていたわけで、
特に大きな事件がなくても彼はずっと大人だったわけですが。
とは言うものの、彼もまた陸上部時代に対する健全な決別を達成する話を個別で与えられたわけで、二期は主役以外の人格的成長に時間を使っていたと言えます。
そしてそれは、キャラクターに対する扱いの丁寧さを視聴者に教えてくれ、製作者への信頼を生み出す重要な描写です。
「ああ、この人たちは僕が好きなこの子たちのことが、ちゃんと好きなんだな」と思えること以上に、作品に対し"大丈夫"という信頼を置く足場はありません。

真琴の人格的成長に大きな尺を使ったのはとても大事で、主人公たる遥を揺りかごから追い出し、半ば強制的に大人にするためには真琴の庇護(と相互依存)を切り離す必要があるからです。
『永遠に仲間と楽しい水泳をしていたい』という幼い、それ故に切実な願いを抱え込んだ遥は、その天才ゆえに社会から切り離された立場で在り続けることを許される、エキセントリックな存在です。
遥の社交性のなさ、生活能力の無さ、コニュニケーション能力の欠如を補う立場にいるのが真琴で、突っ走る遥の背中を守る真琴という、危うい共犯関係の描写は魅力的でした。
しかし、二期においてこの共犯関係は破綻します。
一度共犯関係を破壊し、ただの子供である遥を決断を強いられる荒野に放り出さなければ、最終的に辿り着くべき夢への道は描けないからです。
最終話において描かれた、別々の大学に通う二人。
そこからは破綻してなお。二人は決別しあうわけではない、ただベッタリと繋がる以上の成長した関係性が再建されていることが見て取れます。


しかしながら、遥を直接夢の場所に導いたのは真琴ではなく、凛でした。
このことは二期において特徴的なテーマ、『夢を追いかける資格』を、残忍かつ的確に見せつけるキャラクター選択だと思います。
競泳競技者として、遥と同じ場所に立つことが出来るのは、同等の才能を持つ凛以外にいないのです。
競泳指導者というまた別の、オリンピック競技者と同等かもしかしたらそれ以上の価値を持つ夢を手に入れた真琴はしかし、『泳ぎ続けたい』という遥の夢に並ぶ存在として、説得力を持ち得ない。
その厳密な区別は、競技性に砂をかけた一期にはけして無かったものです。

そして、その残忍さを最後の最後で支えたのは、二期からの追加キャラクターである宗介でした。
故障という形で『夢を追いかける資格』を失った宗介に、凛は「戻ってこい、自分の限界を決めるな」と声をかけます。
それに対し「考えておくよ」と切り返した宗介は、しかしそれ以降画面に映ることはありません。
オリンピックの舞台で凛の隣に立つのは、あくまで遥なのです。
宗介は自分が言ったように、凛という己の夢を完成させ、物語から退場します。
自分の夢に自分で引導を渡し、別の夢を手に入れた真琴ととは正反対の終わり方です。

凛が真実宗介に恩義を感じ、競泳の道に復帰させたいのであれば、オリンピック競技者としての夢を捨てて、宗介の復帰に全てを注ぐことも出来ます。
そこまで人生を投げ捨てなくても、彼のリハビリテーションに付き合い、支える描写があってもよいでしょう。
しかし、それはない。
一期において物語の要素を使い切ってしまった凛の、補助ブースターとして便利に使い潰されたという見方もできますが、僕個人としては世界の厳しさを維持したかったのだと思います。
遥や凛のように夢を叶えるものもいれば、真琴のように別の夢を手に入れるものもいる。
そして、宗介のように夢を諦めてしまうものもいる。
ひどく残忍なスパイスですが、宗介の挫折と退場があればこそ、遥と凛の夢の舞台の峻厳さが担保されているわけです。
それもまた、『開いた世界』の厳しさでしょう。


さて、『開いた世界』に辿り着いた少年たちがかつて属していた『閉じた世界』はしかし、『開いた世界』と完全に切り離されたものなのでしょうか。
Free! という作品の何よりの強さは内面描写だと、僕は思います。
繊細で複雑に折れ曲がり、素直になれないくせに解って欲しいと目配せする様々な仕草。
それは何も台詞や語調、目線といった身体表現だけではなく、天候や風景、明暗といった情景表現、効果的な音楽……つまりは演出全体を用いて細やかに表現された、少年たちの柔らかな内面です。
Free! とは彼らは僕達と同じように面倒くさく、傷つきやすく、甘えん坊であると、映像全体が語りかける作品なわけです。
その繊細さは、否応なく引き込まれる圧倒的な共感を、視聴者に抱かせるわけです。

そして、その複雑で厄介な内面への共感があって初めて、彼らが幼年期を終え決断と峻別に満ちた世界に飛び出していく物語的躍動に、強い納得と感動が生まれると思うのです。
『閉じた世界』のみが描写される世界から腐敗臭がするように、『開いた世界」のみが描かれる作品は、建前ばかりが横行する無味乾燥な世界です。
正しく健全でまともなばかりの世界もキャラクターも、「私とは別の人」として共感を跳ね除けます。
『閉じた世界』を恋しく思う幼児性と、それを振り捨ててでも夢に向かいたい成熟はお互いを否定するわけではなく、お互いがお互いの背中を押し合う魂の双子なわけです。

二期で描かれた『閉じた世界』から『開いた世界』への物語的運動が、僕達の共感を呼ぶなら。
「これは僕達のお話で、とても面白かった」と思えるのならば、それは『開いた世界』への健全な志向だけではなく、一期において物語を飲み込んだ『閉じた世界』への欲望を御し切ったからこそ生まれてくる感覚なのではないでしょうか。
ウジウジと女々しく、どこまでもナイーブな感情表現があってこそ、あの夢の舞台へとたどり着いた爽快感もまた、上滑りすることなく僕達の心を打つのではないでしょうか。

僕個人の感想を述べるのであれば、一期に期待していたのは正に"それ"でした。
非常に巧妙で熱気のある情感描写の手綱を握り、健全で健康なジュブナイル・ストーリーとして、Free! という物語を制御して欲しかった。
それだけの可能性を、僕はあのアニメに感じたのです。
しかしそれは、裏切られた。
正確に言えば、僕は裏切られたと感じた、のですが。

そういう欲望を持って、それが叶わなかった人間だからこそ、Free! 二期は予想される可能性を全て達成し、それ以上の感動を与えてくれた、素晴らしいアニメーションでした。
もしあなたがFree!一期を見て「裏切られた」と思っていて、それ故二期を見ていないなら、このアニメはあなたのための物語です。
それは、このアニメが僕のための物語、彼らの物語が僕の物語になった、それと全く同じことです。
ほんとうに良いアニメでした。
ありがとう。