イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

ラブライブ! TV版二期感想

二期はMixi日記をはてなに移譲しはじめた過渡期なので、序盤かなりの数が抜けてます。

その保管とまとめて読むときの利便性を合わせて、こちらもまとめることにします。

やっぱ半分くらい自分用です。

 

ラブライブ!:二期第一話『もう一度ラブライブ!

今期の核爆弾的立場にある、僕も大好きなラブライブのセカンドシーズン。
一期であえて逃げた「ラブライブの頂点!」という解りやすくて巨大で、扱いの難しい素材を正面から四つ相撲するようですね。
さらに言えば、永遠に続けられる世界にあえて「三年生の卒業」という大ネタをぶっ込む第一話でもありました。
「セカンドシーズン、こう行きますよ」という気概が感じられ、その上で力みのない、いい出だしだったと思います。

とりあえず褒めたいのは、動画のピュアピュア感。
どこで一時停止しても女の子がキラキラしててスゲー可愛いという、奇跡みたいな映像になっていました。
明日の朝刊の見出しが『μ's全員、可愛い罪で禁錮二兆年』になっても、全くおかしくないレベル。
このフレッシュな輝きは、相当気合入れたんだなぁというのがよくわかりました。

なにしろスクールでアイドルなので、女の子が可愛いこと、そして生き生きしていることはとても大事です。
その一番大事な土台をとにかく徹底的にやっているということは、自分たちが何を作っているか自覚的で、それを実現する能力ももっている、ということです。
そんなわけで、視聴をここまで引っ張った不安感は開幕三分でぶっ飛びましたね。

ラブライブ全国制覇という明確な目標を早速出したのは、三年の卒業と、実は背中合わせだと思います。
ラブライブというIPがどこまで延命するかはともかく、アニメは二期で走り切る。
結果として三期、四期があるかもしれないが、それでも物語とキャラクターが要請する一つのゴールには到達する。
いやこっからスカしてくるのかもしれんけど、現状僕はそういう気概を感じました。
そして、それはとてもいいことだと思います。


一期は兎にも角にも話のエンジンを穂之果に担当させて、11話でそれが壊れて治って終わるという構造を持っていました。
そして、二期一話のエンジンは穂乃果以外の八人全員であり、綺麗に一期の逆さまでした。
二期一話で穂乃果が煮え切らない態度を取っていたのは、海未ちゃんがキッチリ代弁してましたけども、穂乃果もただ物語に必要な牽引力を果たす書割ではなく、悩んだり、反省したり、傷ついたりする人物なのだ、という制作サイドのサインではなかろうか。
穂乃果をエンジンルームから下ろし、より掘り下げた描写を担当させるのであれば、別の誰かがエンジンにならないといけない。
そこら辺の情勢づくりかなぁ、と。

そういう意味で、二期一話で一番仕事していたのは勿論我らの矢澤なわけです。
やっぱあの子はいい。素晴らしい。
周りの輩が穂乃果可愛さとセンターへの信頼感で一歩下がっちゃう所で、胸に滾るドル愛全開でグイグイ行くのは、やっぱ矢澤先輩の仕事になる。
そう言う、無様で賢くない存在がいるってのは、ラブライブという物語において凄く幸せなことだと思います。
他の子らの見せ方、出番も沢山あって、μ's九人それぞれを一人の人物として受け止める愛情みたいのを、画面越しに感じました。
そういうアニメは、やっぱ信頼できる。


プリリズを経由してラブライブに戻ってくると、京極監督が菱田イズムの正統後継者であることが、良くわかります。
オーソドックスでベーシックなネタを振り回すことへの照れの無さもそうなんですけど、説明を途中で切り捨てることの迷いの無さが、一番毛並みが出てるところかなぁ、と。
「わざわざセリフで説明しないけど、判るよね? 判んないなら、まぁそれでいいや」という覚悟で、画面に情報を埋め込みまくり、高速でキャラ固有のエピソードを展開させていく。
これは結構な数の脱落者を生む手法だと思うけど、同時に語らないことで出てくる豊かな魅力も有していて、僕はとても好きです。

ラブライブはアニメ一期の大成功を経て、非常に大きなIPになりました。
期待されず顧みられず漕ぎだした一期に比べれば、乗り越えるべき波は大きいと思います。
しかしながら二期一話を見る限り、製作陣は波の大きさに縮こまっていないし、一期に持っていた強さをそのまま、素直に振り回しているように感じました。
非常に面白くなりそうで、僕はとても期待してしまいます。

 

ラブライブ!:二期第二話『優勝を目指して』

・ ラブライブ
ラブライブのもう一枚の看板、お馬鹿高校生のドタバタコメディを展開する回でした。
いやー、全然進まなかったな!
と思いきや、各ユニットごとに3×3で人員を分割し、細かく見せ場を作ってキャラを回す展開。
そして三年の頼もしさが要所要所で確認できる、いい展開でした。

ラブライブの強みの一つは九人のキャラが嫌味なく立っていて、どの娘を画面に移してもシーンが維持できるところだと思っています。
誰もが主役張れる強さがある、というか。
そこら辺をフルに活かして、ドタバタドタバタ可愛らしい、視聴者(≒僕)が望むラブライブを丁寧に流してくれるサービスごころには頭が上がりません。
ほんっとね、二期のあの子らは可愛い。

実務担当の海未・ことり・マキちゃんがスランプに陥り、穂乃果+三年でブレークしていくという構造もグッド。
マキちゃん専属で仕事しまくってた矢澤は言うに及ばず、のんちゃんの包容力というか、人間力の高さにフォーカスを与えてくれたのは良かった。
わし、のんちゃん好きやねんスゴク。

ぶっちゃけ箸休めなんですけど、その箸休めの仕上がりの良さがラブライブの強さでもあって、そこをしっかり作ってくれたのは凄く安心したし、嬉しかったです。
さて、メインディッシュをどう仕上げて、誰にどういう仕事をさせるのか。
次の話辺り、見えてくるんでしょうかね。

 

ラブライブ!:二期第三話『ユメノトビラ』

ラブライブ二期の大きなゴール二つ、その一つである「ラブライブ決勝」の背骨を支えるA-RISE登場回でした。
プリリズRLのジュネ様もそうでしたが、ラスボスの強さデカさヤバさというのは、最終的には実際のアクティングでしか担保されない。
此処が勝負どころというところでキッチリ力入れてくる、素晴らしい第三話でした。

フル作画のダンスシーンの仕上がりだけではなく、油断なしリスペクトありのA-RISEスタイルには王者としての説得力があり、キャラクターとして好きになれる部分がとても多かったです。
主人公たちを立てるために、その障害が間抜けになったり嫌なやつに為ったりするという失敗はよく起きますが、気持ちよく立ち向かいたくなるライバルとして、しっかり描けていたと思います。
すでにμ'sのことを好きになっている視聴者に共感を抱かせるべく、A-RISEもμ’Sが好きという設定にしたのは感情動線を的確に導く妙手。
……事前調査完璧すぎて、ちょっとμ’Sキチ過ぎねぇ? と思ったのは秘密だ。

センターツバサが穂乃香にコンタクトして鮮やかに拉致り、ファン(はなよ)に内緒♪する一連の流れは圧倒的なアイドル&王子力で、「そらーA-RISEのセンター様やわな!」と納得させられる流れでした。
「ツバサさんは格好いいんだよ!」というセリフを言わせる前に、格好いいところを実際に見せてしまう手法はやっぱ、圧倒的な説得力を持ってる。
そして束ものアイドルは真ん中勝負なので、ツバサが立てば他二人も立つという理にかなった時間の使い方。
グッドだ・

今回はにこぱながいい解説役を担当して、ただでさえしっかりと見せ方を考えられたA-RISEの大きさが、にこぱなのワッショイで更に上り詰めるという好循環。
同時にヒジョーにそれっぽい生々しさで、憧れのアイドルとコンタクトしたドルヲタの舞い上がりっぷりを表現していて関心しきり。
あそこら辺の空気はアレだ、"魁! 音楽番付"の企画でBerryzと共演した時の指原マンマだったな。


視聴者と同じようにA-RISEのアクティングに度肝を抜かれたμ'Sの面々に、発破をかけるのはやっぱ穂乃香。
二期になってはじめて穂乃香が穂乃香らしい活躍を見せたようで、俺もニッコリ。
やっぱ穂乃香の突破力で困難を突破していく構造は、ラブライブで最もパワーの有る要素だと思う。

W新曲での対決と為った今回ですが、モロ韓流アイドル直系な切れ味鋭いA-RISEのダンスと、可愛さと統率のとれたフォーメーションで見せるJスタイルアイドルなμ’sは、とてもいい対比でした。
韓国のアイドルさんは一年間軍隊みたいな合宿を経てから出荷されるので、バミリ(ステージを分割し番号をつけて、ダンスの時の立ち位置を確認するための目印)なしで完璧に踊れるのがスタートラインだそうです。
Perfumeがこれ出来ないそうなので、このレベルで踊れるアイドルは日本に多分いない。
そんな感じで求められるものが違うK系列とJ系列のアイドルを、フル作画起こしと2D/3D作画混交というメディアの違い絡めて、振付・衣装・曲調すべて対照的に(そして魅力的に)描いた今回は、とてもいい回だったと思います。
やっぱラスボスが強くないと、お話は面白く無いもんな。

個別のキャラトークをするとはなよ今回グイグイ来てて良かったとか、ことりちゃん穂乃香の方見過ぎとか、あんじぇさんツバサさんに近すぎとか、ロボだこれ! とか色々。
こういう細かいキャラの見せ場をしっかり入れて、九人の魅力を毎回引き出してくれるのはとてもありがたい。
あとモブ支援隊がしっかり描かれてるのも人情を感じるし、世界の広がりみてーのを見せてくれてる印象。
いろんな部分で的確なお話で、今後の展開に期待の持てる第三話でした。
いやー、良かった良かった。

 

ラブライブ!:二期第四話『宇宙ナンバーワンアイドル』

ラブライブ!の主人公、矢澤にこの話をこれからします。
長くなるので、そこんところよろしく。


今回はμ'sの三年生、自称宇宙ナンバーワンアイドル矢澤にこの個別エピソードでした。
矢澤にこという人物はμ'sの中でも色んな意味で浮いていて、ぶりっこだし、性格悪いし、スペック低いし、団地住まいだし、一言で言えば無様です。
そんな矢澤にこがいるから、ラブライブはギリギリの所で成り立っているということを、今回のはなしで僕は再確認しました。

ラブライブはスクールアイドルの話で、ぶっ飛んだ世界観の装飾を剥がすと「学生が夢を追いかけ、競技に挑む」という非常にオーソドックスで、シンプルで、パワフルなお話が見えてきます。
「学生が夢を追いかけ、競技に挑む」の「競技」の部分をアイドルにしたのがアニメ版ラブライブ!公野櫻子が軸になって回している文字媒介はスポ根というよりも、公野イズム満載の奇っ怪な青春絵巻なのであえて限定します)の特異性なわけですが、「夢」の部分、つまりなぜμ'sを結成しラブライブに挑むのかという部分は、個々人によって異なっています。
この事により群像の中で個々が際立ち、物語の粒が立つわけですが、「アイドル」という競技それ自体に強烈なモチベーションを持っているキャラクターは、実は少ない。

物語の中心に成る穂乃香は「廃校阻止」を目標とし、目的は「みんなと一緒の青春を守る」ことです。
二年生二人は「穂乃香を助けること」がモチベーションですし、絵里は「良い子の仮面を外しやりたいことをやる」こと、希も二年組と同じく「絵里の助けになる」ことが目的だと言えます。
真姫ちゃんは絵里と似ていて「決められたレールから外れて音楽をやる」こと、凛ちゃんは「花陽の助けになる」ことがメインクエストだと言えます。
(無論その目的のためだけに活動しているわけではなく、友人たちと一つの目標を果たすこと、結果として廃校を回避できること、アイドルというステージアクトを完遂することなど、様々な楽しみが彼女たちの行動の原動力になっているわけですが、あえて根本的なものを取り出しています)

そんなメンバーの中で「アイドルが好きだから」スクール・アイドルをしているのは、花陽とにこになります。
彼女たちは「アイドルであること」それ自体が「アイドルをすること」の目的になっている、一種純粋なプレイヤーです。
しかし、穂乃香がμ's結成のスタートを切るまで、彼女たちはアイドルとして活動できなかった。
正確に言えば、矢澤にこは一度アイドルであることに失敗し、友を失い、暗い部室で待ち続けていた。
それは何故か。


その疑問に入る前に、ラブライブ! のリアリティレベルの話をします。
アイドル(というかステージアクト、もっと言えば人生)は残酷に選抜され、資格を問うてくる苛烈な活動です。
外見、歌唱力、ダンス、人当たり、地頭、行動力、運、そして特に説明できない"華"。
必要とされる性能は多岐にわたり、希望者は多く、「持っていない」人たちは道半ばにして、もしくは途につくこともなく諦めざるをえない。
「アイドルの問題」は山積みで、天地人全ての能力を要求される、とても厳しい世界です。
そして、そのことはドルヲタであり、一度スクールアイドルグループを崩壊させているる矢澤にこが、一番良く知っている。

ラブライブ! はフィクションですから、その世界が残酷か否か、どの程度のリアリティ(もしくは不都合さ)で回転するのかは、製作者が決めなければなりません。
アニメ版ラブライブ! は基本、夢と希望が叶うというリアリティラインの低い世界を設定しつつ、要所要所で厳しさが立ちふさがり、それを克服することで物語のダイナミズムを作る構造をしています。
「楽しいだけじゃない 試されるだろう (わかってる) だってその苦しさもミライ」と一期OPで歌っていますが、まさにこの歌詞どおりの苦さと甘さのバランスで、音ノ木坂は構成されているわけです。

スクール・アイドルであるμ'sの前に立ちふさがる困難は様々な形を持っていますが、例えば客が入らないという「スクールアイドルの問題」(一期三話)や、自分のやりたいことに素直になれない(一期四話・八話)友達が遠くに行ってしまうという「スクールの問題」(一期十二話・最終話)などが今まで提示されてきました。
そして今回暗示されたのは「アイドルの問題」であり、これを受けたのが矢澤にこであったと、いうことが出来ると思います。

陽性で風通しの良い物語を維持するため、主人公にして話のエンジンたる穂乃香は全てに愛された、「持ってる」存在です。
運が良く、人当たりがよく、カリスマがあって、失敗に尻込みしない勇気を持って踏み出し、周りの人もついてくる。
彼女に引っ張られてμ'sは動き、メンバーの人生は良くなり、お話は明るいほうへ明るい方へと回転していく。

これに対し、矢澤にこはとにかく「持っていない」存在です。
もしにこが穂乃香のような人徳を持っていれば、今回暗示された退部届も一人だけのステージも発生せず、弟妹たちについていた嘘が全て実現していたのでしょう。
しかし彼女は物語の開始段階で失敗しており、ということは歌も踊りも下手で、器量も図抜けて良くはなく、キャラ一本でファンをフック出来る愛嬌もなく、つまり「アイドルの問題」を解くことの出来なかったアイドルなわけです。
自分の「持っていない」加減と穂乃果の「持ってる」加減をにこはよく理解していて、モグラ叩きの真ん中=センターを穂乃香に、3番ポジションに自分をおいているシーンは、彼女の冷静で切ない現状認識が見える良いシーンでした。
言うなれば、矢澤にこは失敗した高坂穂乃果であり、高坂穂乃果矢澤にこが望んだアイドルの完成形です。

矢澤にこの無様さというのは、凡人が天才の領域に土足で上がり込んでいる無様さです。
綺麗な身の振り方だけを求めるなら、手早く荷物をまとめて撤退し、サイリウムを振る側にいたほうが良いのでしょう。
でも、矢澤にこはそうしない。
自分の資質がないのは分かりつつ、ステージに立つ。

それは凄くしんどいことで、何かで心を守りながら出なければ続きません。
今回見えた矢澤にこのパーソナルな部分、いかにもな営団住まい、広くもない部屋満載のピンキーな装飾、自分を真ん中にすげ替えつつも穂乃果を追放できないコラージュなどなど、語ることのない物質全てが、どれだけしんどい場所で矢澤にこはアイドルを続けているのか、見せてくれた気がします。
最後のゴテ盛りのブリブリな衣装はいわば戦闘服であり、矢澤にこがアイドルの神様から浴びせかけられている、圧倒的に残忍な攻撃から己をシェルターする防具なのではないでしょうか。
これを同じ三年生である絵里と希が用意してくれたということに、僕はとても安堵したし、ありがたいとと思ったし、彼女たちのことがより好きになりました。
そういう情というのは、あるべきだと僕は思います。


矢澤にこの失敗した二年間が何を担保しているかといえば、スクール・アイドルとしてμ'sが挑む「アイドル」という競技の厳しさです。
志望者全てが突破できるのであればわざわざ切磋琢磨することも、困難にぶつかる必要もなく、「学生が夢を追いかけ、競技に挑む」という基本構造それ自体が崩壊してしまいます。
なので、「アイドルであること」は困難で、挫折と痛みを伴わなければいけない。

もう一つの劇作上の理由は、我々は穂乃果ではない、ということです。
大概の人が才能も運もなく、夢の道を邁進する異常なエネルギーも持たず、どこかで折れ曲がり挫折し諦めている。
だからこそ夢物語として穂乃果に憧れ、彼女に道を邁進し完遂して欲しいと願う。
穂乃果はそのような、上向きにいる対象です。

ですがそれだけではお話は成り立たないわけで、夢が叶う物語には、視聴者と同じようにどこかで折れ曲がり挫折し諦めているキャラクターも必要になる。
それが矢澤にこなのではないでしょうか。
同じ「アイドルになりたい」キャラクターでも、花陽は一年生であり、にこがそうしたようにスクールアイドルを自分からはじめ、上手く行かず挫折した存在ではないため、花陽が「アイドルの問題」を背負うわけには行きません。
μ'sにおいて、一番負けているのが矢澤にこなのです。
憧れを抱いて足踏みしている存在と、憧れを抱えて転んでしまった存在は物語の中での役割が違うわけで、同時に物語のエンジンである穂乃果によって「アイドルになりたい」という夢を牽引されたという部分は共通しているわけですが。

失敗とは劇物でもあって、陽性で涼やかな気風を維持するためには、繊細な扱いを要求されます。
それ故にスクールアイドルは「部活の延長線上」にあり、「やりたいという気持が大事」で、「無理なく続けることが一番」なものとして設定され、芸能界の金銭事情だとか、勝利至上主義の歪さだとかからは徹底してプロテクトされている。
言い換えれば、ラブライブ!における「アイドルの問題」は、「学生が夢を追いかけ、競技に挑む」という基本骨子を崩壊させないよう、的確に選択されて導入されているわけです(この構図は、アイカツと同じ)

それは今回流れた映像にも解りやすく現れていて、例えばにこが経験した挫折や困難は全て過去のもので、それに対し直接的な意見をにこが一切述べない所だとか、ステージ内容が具体的にどういうものだったか=どのくらい無様でしんどい経験をにこがしたかは見せないだとか、徹底的に矢澤にこの敗北はフィルターが掛かった状態で提示されました。
まぁこの話を始めてしまうとラブライブ!ZEROが始まってしまい、尺は足らない話の軸はブレるといいことなんにもないので、それでいいのですが。
ともあれ、ラブライブ!において苦さ・辛さというネガティブな感情は、計算した上で投入されているわけです。
そのようにコントロールされていても、矢澤にこの無様さは伝わってくるし、「ただただ都合の良いことだけではなくいろんな困難は起こるし、それなりに現実感のある物語なんですよ」というメッセージは伝わるよう、しっかり仕上げられているのがラブライブ! の強さなわけですが。


失敗だけが、矢澤にこを特別な存在にしているわけではありません。
才能を持たずアイドルを続けることが辛いだけなら、かつての仲間のようにアイドルを諦め止めてしまえばいい。
しかしにこは二年目に一人でステージに立ち、三年目は腐りつつも諦めきれずμ'sのステージに足を運び、嫌がらせという名前のちょっかいを出し続け、自分と同じ状況で片っ端から成功し続ける穂乃香を横で見ながらにこにこにーと痛々しいキャラを貫いてステージに立ち続けたわけです。
それはやはり、矢澤にこにとって「アイドルになること」という目的、夢があまりにも強大過ぎて、どんな状況でも諦められない、呪いのような魅力を持っているからではないでしょうか。
そこで踏ん張って無様ににこにこにーと言い続ける姿は、「持っている」穂乃果にはけして担当できない、泥まみれの輝きを放っていると、僕は思います。

一期ラストの展開で、廃校を阻止し、友だちがいなくなり、今までまるで神人のように全ての問題を解決し続けた穂乃香は、突然(というわけでも実はなく、彼女は物語装置ではなく一個の人間であり、傷つきもすれば悩むこともあるというのは映像の要所要所に埋め込まれていたわけですが)折れます。
スクールアイドルを続ける理由は、「アイドルになりたい」わけではない彼女には、もう無くなってしまったからです。
そこで一番最初に噛み付いたのがにこだったというのは、今回のお話を見た後だと非常に納得がいく配置です。
自分にない全てを持っていて、自分がやりたかった事を全て叶え、なりたい自分に矢澤にこを引っ張ってくれた穂乃果が、スクールアイドルをやめる。
そう宣言された時のにこの心境は、ひどく複雑で苦いものだったと思います。
(この後穂乃果が挫折から立ち上がり、「スクールアイドルを続けたい」という「本当の自分」の気持に気づいていく展開は、今まで他のメンバーの問題点を発見させ、引っ張り、救い上げてきた彼女が今度は立ち上がる側に成るという見事な逆転現象であり、このリバースがあるからこそ穂乃果がただの便利な装置で終わらず一個のキャラクターとして活きるわけですが、別の話なので省略します)

それでも、矢澤にこはスクールアイドルを続けるべく、凛と花陽に声をかけレッスンを続けます。(個々でソロという選択肢を選ばない辺りが、ピンでやれるほど神様に愛されていないという矢澤にこの自認を透けて見させて痛ましいのですが、別の話なので省略します)
他のメンバーが戸惑う中、歯を食いしばって最速で行動したにこは、矢張り宇宙ナンバーワンアイドルだったと、僕は感じました。
己の限界を嫌というほど知っていながらそれでも、折れずに立ち上がり"何か"をしてしまう業は、都合のいいお伽話からギリギリの所でラブライブ!を救い上げ、より優れた物語として昇華させている重要な要素だと思います。
そこを担当している矢澤にこはやはり、二人目の主人公と言っていいのではないでしょうか。


補足的にリアルアイドルの話をすると、矢澤にこロールモデルとしている「清く正しく美しい」アイドル像というのはかなり昔に崩壊していて、松田聖子が「ぶりっ子」として煽られたのが80年です。
34年前ですでに「ちょっと痛くないかにゃー」扱いだった「ウンコしない系アイドル」は、束ものアイドルだのアイドル冬の時代だのパフォーマンス系アイドルだの様々な変遷を経て、「キャラ付け」として復活します。
すでにパスティーシュとしてしか存在し得ない「ぶりっ子」を、遊戯的に消費していく文脈つーのがドル界には存在していて、例えば小倉優子の「こりん星」が一番わかり易いかなぁ。
"夕やけニャンニャン"から"ASAYAN"に繋がるアイドルバラエティーの隆盛の結果、「アイドルはキャラが立っててなんぼ」という黄金則が生まれ、その中の一つとして「化石アイドルめいた言動をするぶりっ子アイドル」というキャラ記号が定着した流れの中に、にこにこにーはあると思っています。

そういう方向を完璧に使いこなしてるのが嗣永桃子であり、矢澤にこがフィクションの中で見せている泥臭さ、強かさ、面白さに一種の天才性を加えた変奏曲として、この人のことは面白いと思います。
この人はエピソード多すぎていちいち書けない(この高度にメディア化され全てのエピソードが高速で消費されるアイドル戦国時代に、エピソード全てを記述できるアイドルのほうが珍しいですけども、それでも嗣永桃子が持ってる伝説の量は桁が違う)のですが、矢澤が持ってない「地頭の良さを活かし徹底してキャラを貫いた結果、ファン層の支持を手厚く貰ってる」才能を現実のアイドルが持ってるつーのは、なかなか愉快だ。
まぁ嗣永さんはなパフォーマンスの地力とプロ根性が根本にあって、それに支えられてキャラでフックしてる部分もでかいけれども。
散漫に終了。

ラブライブ!:二期第六話『新しい私』

色々あって欠番。

書きたいことの優先順位を付け間違って、色々グルグルした挙句タイムアウトするのは劇場版と同じ流れだなあ……。

一言で言うと凛ちゃんのキャラクターを完璧に彫り上げた、見事な個別回。

二期でも一二を争うレベルで好き。

 

ラブライブ!:二期第六話『ハッピーハローウィーン』

アホトリオがエンジンに座って、μ'sをトンチキな方向に引っ張っていくコメディ回。
ほんとあの三人に舵取り任すと、徹底的にIQ低い方向に走って行くな。
花田先生のコメディシーンは、間合いが良くて好きです。
とりあえずやりきってから正気に戻して落差作るのがね、好きなの。
ビッグ・ザ・矢澤とかね。顔見えないアイドルPVってマジどうなの。

その矢澤は衣装作りながらイライラしてましたが、まぁ矢澤だしねとか、結構ネガいシーンを担当されることが多くて矢澤も大変だなぁとか、最近こういう凸凹もアリかなぁと感じてきたとか、まぁ色々。
あそこでことりちゃんがサラッと流したからダメージ少なかったが、嫌な顔とかしてたら生臭さ漂うシーンだったとは思う。
そこら辺のプロテクトは相変わらず的確やね。

自分的にはA-RISE登場シーンが好きで、実はあんまやること残ってないラブライブ!二期において巨大なファクターである彼女らが、如何に完成度高く全国区のクオリティを持つアイドルか、つー部分をよく出していたと思う。
ファンに求められてる部分を理解して卒なくこなし、想像以上で期待通りのものを出すというプロっぽさ。
対してギクシャク不器用にもがきつつ、結果として人の心をフックする甲子園スタイルのμ's。
アホな話しつつ、必要なポイントは稼ぐ手腕はさすが。

後アレだ、キュートスプラッシュが出てきた瞬間「監督、プリリズ好きすぎやろ」と思ったり、穂乃果の部屋で少女漫画読ん出た凛ちゃんは前回のイベントを経て女の子らしさを隠さなくなったのかなぁとか、細かいクスグリも冴えてた。
新曲、希センターだったしね。素晴らしい。
ラブライブ!は単純な話(簡単な話ではない)なので、こういう話を挟んでキャラやグループの再確認をし、描写を深めるのは大事だと思うネ。

 

ラブライブ!:二期第七話『なんとかしなきゃ!』

前回のクリフハンガーはしょーもなく解消され、しょーもないダイエット回……と思わせておいて、ぐうたら生徒会長穂乃果がツケを払う回。
ラブライブ二期は物語的燃料がかなりなくて、かつ一期でやった話と同じネタで走るつもりも、特に障害も進歩もなくダラダラ時間を使うつもりもないという、結構面倒な状況だと思う。
今回も序盤でくっだらなくて歯ごたえがなくて甘くてよく出来た可愛い女の子を見せておいて、「穂乃果会長って……どっかで事故るだろ」という視聴者サイドの疑問点を拾って解消する展開。

ココらへんのターンが急なのが花田先生の特長(中二一期とか)だと思うけども、緩急をつけようと考え、実際に曲がっていることは僕は好きだ。(どっちかというと京極監督の指示って感じもするけど)
視聴者の「んん?」という疑問点を敏感に拾うのはラブライブ!の特長だと思っていて、例えば「矢澤は納得した顔してるけど色々ドロドロしたものを抱え込んでんじゃないの?」つー疑問を拾ったのが四話で、「凛ちゃんはほんとにアイドルしたいの? ただのかよキチじゃないの?」つー疑問を拾ったのが四話。
今回拾ったのはさっきも言った「穂乃果会長って……どっかで事故るだろ」という疑問と、「シリアスな問題をのぞエリの頼もしさだけで解決してていいの?」という疑問、だと思う。

音ノ木坂学院は丁寧にプロテクトされたドミニオンであり、彼女らの夢の達成というおとぎ話の実現を阻む要素は丁寧に取り除かれているわけだけど、僕らのつまんねー現実と照らしあわせた時の不自然さや疑問点を作中に盛り込んで一応の解決を図る姿勢はつまり、風通しの良さ(もしくは風通しが良いという状態の捏造)に繋がっている。
そこら辺の"頑張って創りだした清潔感"は確かに模造品だけど、それを意識して作っていくことは物語の面白さとしても、製作者サイドの健全さとしても大事だと、僕は思う。

今回で言えば、のぞエリが"いつもの様に"お姉ちゃんらしい現実対応能力で予算問題を解決しようという提案をし、穂乃果がそれを蹴っ飛ばす展開は必要だし、大事だ。
一話二話で「三年は卒業するし、その後釜は穂乃果だよ」と宣言してしまった以上、のっぺりお気楽に学生やってる隙間を埋めて、頼りになる三年生への階段は順繰りに上がんないといけない。
ココらへん、マリみて祐巳が山百合モンスターとして完成していく様子に少し似てる、気がする。

前半のダイエット展開も、ラブライブ!らしいキュートな展開で好きだけどね。
お弁当屋さんの前で無言コメディをするシーンとか、海未ちゃんがずーっとカリカリしてる所とか、すげー好き。
後半の展開に必要なのは、美術部の予算にめくら判するところだけなんじゃねぇの? と言われれば返す言葉はない。

んで来週はおそらく希個人回。
希のキャラクターを掘り下げず、ミステリアスな便利装置として使うことで問題を強引に解決していた部分がこのアニメにはあると思うので、希の個人回が来ると「あー……こら卒業するんだなぁ」という意識が強くなる。
今回の『あー……あの子ら私達必要ないんだなぁもう。嬉しいやら寂しいやら』みたいな表情も良かった。
矢澤と凛ちゃんの個別回がとんでもない仕上がりだったので、期待が高まるね。
関係ないけど、「私の希」だとエリーチカがとんでもなく重たい女であることがバレる話みたいで、非常にグッドナイスだと思います。

 

ラブライブ!:二期第八話『私の望み』

μ'sのお母さんこと、東條希さんの個別回でした。
うむ……なんというか……キテたね!!
二期の個別回の切れ味はヤベェなぁ……ムラマサブレード!! って感じだ。


希はにこと並んで、持ち前の人間力故にお話の便利なところを担当しがちなキャラだと思います。
穂乃果エンジンは推進力と求心力はあるのですが、細かいところを詰める性能はあまり高くなく、人間関係のフォローや因果関係のつじつま合わせなど、影の部分の仕事は大抵のんちゃんがやってた記憶があります。
というか、μ'sメンバーで希に背中を押されてない人のほうが少ないんじゃなかろうか。
とまれそんな感じで、常時周囲に気を配り、表に出ず状況を整えていくサポーターとしての希が、今までのラブライブ!での東條希のお仕事でした。

それは目立ちはしませんし、それ故に大々的に賞賛される立場でもないわけですが、真ん中になってみんなを引っ張っていく立場と同じくらいに難しい立場であって、リターンが少ない分真ん中よりシンドいかもしれません。
引っ込み思案で女房役が性に合っている性格というのもありますが、μ's結成前段階からそこに可能性を感じ、親友たる絵里の背中を押せればという願いと同時に、自分自身の青春が躍動する感覚にしたがってμ'sを導いてきた希。
その彼女の地道で目立たない、しかし重要で貴重で大事な立場というものを、製作者サイドはどう捉えているのか。

その答えは、今回の出来を見れば一目瞭然だと思います。
こういう立場の子にこそ、優しい目線を向けしっかりとしたお話を作ってくれること。
仮想世界のキャラクターたちへの扱いにおいて、これ以上に製作者サイドへの信頼を生み出す行動というのもなかなかないのではないでしょうか。

センターで頑張るやつ、真ん中すぐ後ろで支えるやつ、離れた距離で自由に動くやつ。
そして全体に目を配るやつという風に、各々の個性、各々の希望に応じた立場があるからこそチームは機能し、それはどれも重要で貴重なのだ、という認識。
それこそが青春部活動モノとしてのラブライブ!に一本ぶっとい背骨を入れている演出哲学でありまして、今回の希の扱いはそういう意味でも、非常にありがたいと言えます。


「あと一歩を踏み出したくて、なおかつ足踏みしてた少女」というのはμ'sメンバーほぼ全てに共通する要素であり、これを免れているのは主人公としてお話を牽引する立場にある穂乃果だけです。
希もその分にもれず、引っ越しを繰り返し己の誠実さという枷をはめられ、どうにも身動きがとれない不器用な女の子なわけです。
そんな子が前に出た一回目が絢瀬絵里との出会いであり(ありゃ一目惚れだね。レズとかそういうことは横において、そういう人との出会いは極稀に時々あると思います)、二度目がμ's(の真ん中である稀代のカリスマ高坂穂乃果)との邂逅だった。
そこら辺の流れを、コンパクトにまとめた過去回想と、過剰とも言える目線と距離感のエモさでしっかり盛り上げる辺り、やっぱラブライブ!の感情動線操作は巧みです。

各々事情は違えど「あと一歩」に届かない存在としてμ'sが描かれているのは、共感を引っ張り込むためだと思います。
夢への憧れと恐れ、意気地の無さ、足踏み、そして圧倒的な存在に引っ張られて理屈も損得も蹴っ飛ばして踏み出してしまう瞬間。
その全ては僕達の「あと一歩」として普遍性のある描写がなされており、今回で言うのであれば希のためらいは僕のためらいであり、希の希望は僕の希望でもある。
そういう力強さが、東條希というキャラクターと、今回のお話にはあったように思うわけです。
そして、そういう見せ方ができているということは、ラブライブ!が青春群像撃として、そしてただの物語として、非常に強いものを持っている証明なんじゃないかな、と思います。

また、希(とそれに共感する視聴者としての僕)を寂しさから遠ざけ、守ってくれるのが絢瀬絵里という存在なのも、画面からビリビリと伝わってきました。
孤高の存在として常時ツンツンしてた絵里を希が支え、絵里の気高さに希が救われる関係は、ふたりきりの寂しい関係かもしれないけど、綺麗で優しいなぁと思いましたね。
つーかのんちゃんはえりち好きすぎ、えりちはのんちゃん好きすぎ。
気になったら家まで追いかけちゃう真姫ちゃんも、非常に情が深いんだけどさ。
ココらへんの、一期の財産を忘れず主客を転倒させてリフレインさせる手法も、二期に特徴的であり、効果的でもあると思います。

そして、その一歩を絵里と真姫だけではなく、残りのμ's全員で引っ張り上げ、歌唱という具体的な精髄をみんなで作り上げることは、μ'sがスクールアイドルであるからこそ出来る事で、これも幸せなことだなぁとつくづく感じ入りました。
ただお互いの優しさに癒やされるだけではなく、その先にある"何か"を作り上げ、おそらくラブライブ!予選突破という結果に結びつける事ができるのは、劇作の強さとしても、お話の運びとしても、キャラクター同士の関係としても、非常に実りのあるもの。
こういう形で話を結実でき、ライブアクティングの感動と人間関係の上げ下げを一体化出来るあたり、本当にこのアニメは強い。

とまれ、非常に素晴らしい個別キャラの掘り下げ回でした。
この勢いを受けて、次回はラブライブ!東京予選決勝。
今回のお話が仕上がりすぎてハードル上がってる気がしないでもないですが、まぁ大丈夫でしょう。
このアニメはラブライブです。 

 

 

ラブライブ!:二期第九話『心のメロディ』

主役を「μ'sを支える人たち」に譲りつつ、名曲"Snow Halation"を引っさげての地方予選決勝。
2月の大雪と伝説のSSA初日をオーバーラップさせる、ライブ感の強い回でありました。
いやー、あの時は雪かき大変だったなぁ……。

今回、EDテロップが流れるまでの映像は、ほぼすべて「μ's以外」を描写するのに使われました。
アバン周りで徹底的に描かれる、家族との光景。
一期の奮闘により穂乃果たちが獲得した、新入生への説明会。
そして、まさに縁の下の力持ちな活躍を見せた、音ノ木坂学院一般生徒。
彼らのバックアップがあってこそ、μ'sはステージに立てるのだ!! というメッセージを積んだ上でのスノハレリブート。
負けるわけがない流れでした。

登校するまでの描写は家族との繋がり(高坂家、綾瀬家、矢澤家)と、学年どおしの横のラインの再確認が主でした。
雪穂が思いの外ホノキチで、一期のメイド喫茶といい、「高坂姉妹の絶妙な距離感を一発で描写するのこのアニメうまいなぁ」と再確認。
姉の緊張感に一発で気付き、即座にほぐしに係るアリエリの間合いとか、そこを希でリフレインさせる演出もね。
あと、矢澤がなんか消えそうだった……アイツの強がった背中には。いつも儚さがあると思います。(矢澤にこに思い入れが強すぎるマン)

同級生登校風景はまぁファンサービスで、丁寧にキャフフさせててグッド。
三年の思い出つくりムードに「うーわー……終わるやんけこのアニメ」と再確認したり、一年トリオが三人だけの時に見せる子供っぽさが微笑ましかったり、こういうスケッチ的な描写の巧さは日常を取り扱うアニメではホント大事。
八極拳の達人みたいな動きで矢澤ハウスの扉を制圧するのんちゃんは、前回を受けて少し積極的になったのだろうか。
……元々、自分のやりたいことに関しては積極的だった気もする。


学校という要素は"スクール"アイドルであるμ'sの物語にはとても大事で、それは穂乃果が生徒会長になったことで強化された部分でもあると思います。
廃校回避という目標を達成し、クエストの喪失危機だった穂乃果に、一話で「音ノ木坂にこだわる理由」を与えた一話は、思い返すと妙手だったな。
一期後半の身勝手な行動への反省と、生徒会長としての責任感を組み合わせて描写するシーンは二期では結構多くて、七話の予算騒動であるとか、今回の遅刻覚悟の説明会参加だとか、細かいところだと更に色々あります。
そこら辺は一期を踏まえた上でのキャラの成長描写であり、シリーズアニメの醍醐味だなぁとも思いますね。
巧いなぁと思うのは、「理事長は説明会でなくて良いと言っていた」という補足を入れることで、極力悪者を作らない努力をしているところでしょうか。

その後のスーパー雪かきユニットヒフミの活躍に関しては、理屈ぶっ飛ばしていいんじゃないでしょうか。
ラブライブ(つーか京極監督と、その師匠である菱田監督)のロジックは常にエモーション優先であり、他のアニメの言葉を借りれば「ややれそうな気がするときはやれる」という法則に則って、世界が回ります。
一期ラストの空港だってどう考えても間に合わないし、穂乃果は二回ワープしているとしか思えませんが、お話の躍動が『学校での海未との会話→空港でのことりの説得→学校でのμ'sライブ』という形式を求めるのであれば、それを優先してシーンをセットする。
この3つのシーンはそれぞれ『学校(出発)→空港(達成)→学校(帰還)』という場所を必要としているので、そのニーズを再優先したセッティングだと思っています。

「お前らがこの子たちの物語を、自分たちの物語だと思えるようなブリッジは限界まで描写する。だから、それでもなお判らないなら判らんでいい。無様に直球の描写をすることはない」つー、京極監督の演出哲学に関しては、如実に菱田イズムを継承していると思います。
画面の端っこにおいたもので心情を描き、細かい台詞で物語的な刺を抜き、描写の豊かさをふくらませて膨らませて投げるスタイル。
これは視聴者が物語と、作中人物に対して前のめりにならなければ通用しないスタイルであり、取り残される人たちには「理不尽である」という印象を与えるスタイルでもあると思います。

今回で言えば、あの雪の描写で2/9のSSA雪中行軍なり、家の前の雪かきなり、止まる電車なりの、個人的な物語を思い出し、重ね合わすか否か。
自分の物語として、モニタに映し出されている穂乃果の焦燥と、それを神の如き奮闘で突破させた一般生徒への感謝に共感できるか否か。
これは優劣の話ではなく、物語へのレセプターの話、個人の特性の話になるので難しい所ですが、ラブライブは前のめりに見たほうが楽しめる、とは言えると思います。
一歩引いた距離から見ていると、入り込んで見つめること前提の演出が、効果的に刺さらないアニメというか。
無論、入り込ませるための布石は大量に打っているし、それは効果的だと自分的では思っていますけども。

一般生徒が楽しそうにジャンプしている様子を、OPで積極的に写してることから見て取れるように、アニメラブライブにおいて「みんなでμ'sのステージを作っているんだ!」という意識は、相当に強いと思います。
ましてや、音ノ木坂学院の生徒は廃校回避という問題(利害?)を共有し、学院という場所を共有し、ステージセッティングを支援してもらっている立場であり、彼女たちにスポットライトが当たったのは、とても良かったと思いました。
観客/裏方を描写することで世界が広がっているのもありますが、"他人"を巻き込める魅力がμ'sにはあるんだ、という描写をすることで、アイドルとしても、部活としても魅力が増したところだとおもいますね、滑走路のように開けた雪の道は。

ヒフミ達はスーパーサブとして、一期三話くらいからすげー重要な仕事をしている大事なキャラだと思っています。
一期終盤で穂乃果が立ち直るきっかけも、彼女らが与えているしね。
そんな彼女らが、「自分たちが体を張って、μ'sをステージに上げるんだ」という誇りと矜持を持って裏方やっているということが明示されたのも、今回の良かったポイントですね。
いや、見てりゃ判るけどさ彼女らのプライドとまごころは。
あのクッソイモいレインコートと長靴は、宇宙で一番カッコ良かった。


ステージに関しては、言うことはねぇ。
散々煽った期待感を踏み台に、空の裏側までカッ飛ぶようなパワーの有るリブートでした。
曲が一旦落ち着いてからのUO点火はあれだな、理屈をすっ飛ばしたアゲ感があるな。

むしろ重要なのは、これだけエモーションのあるステージを見せて、それをぶつける相手であるARISEをどう描写するのか、という部分だと思います。
彼女らはμ'sが抜くべき"天井"として非常に巧く描かれていたので、その終着点である直接対決にも、否応なく期待が高まわるわけです。
ましてやμ'sからのコールが、物語的助走も含めてあれだけの仕上がりだった今回、ARISEからのレスポンスがショボイと、すげーしんなりすると思います。
が、まぁラブライブ! なんで。
どーとでもなるでしょう。どーともするでしょう。
来週、楽しみですね。

 

ラブライブ!:二期第十話『μ's』

危ない! と一声かければすむところを、ノータイムでハードコンタクトに行ったアリーチカは、相当重度の海未キチ(挨拶)
ラブライブは褌を締めて見ないと魂を持っていかれるアニメなので、ついつい感想を書くのに腰が重くなってしまいますが、今更十話の感想であります(言い訳)
……僕はこのアニメに過剰に思いいれている部分があって、そこを外される怖さみたいのを、不要なほど感じてるんだろうなぁ……。

今回の話はA-RISEとの闘いの始末を描写しつつ、μ'sの魂がどこにあるのかを、μ'sの魂である穂乃果が歴程していく話でありました。
というか、これ以上ないほどのド直球ドル論であり、正直ここまで真っ直ぐ速度のあるタマを投げてくるとは思っていなかった。
穂乃果という女の子は画面の真ん中に座ると、全てが背景になってしまうくらい存在感のあるキャラクターなので、特に二期はあえて前に出ていなかった印象がありますが、μ's(というかアイドル)のアイデンティティを徹底的に探る今回は、彼女が出なければ話にならない。
なので、ほぼすべてのシーン、カメラは穂乃果をとらえ続ける形になります。

とは言うものの、9話のヒキが「μ'sの攻め手」で終わり、10話のウケが「時間すっ飛ばして新年」で始まる関係上、「んで、どっちが勝ったの!」というヤキモキが、開始から五分間引っ張られます。
このじれったさは非常に巧妙に計算されていて、五分間徹底的に不協和音めいた期待感が胸を突っ走るように、画面が構成されていきます。
今回のコンテは山本裕介でしたが、最終的に勝敗が見える階段のシーンにおいて、階段の上下と明暗を入れ替えることで、感覚的に勝負を先覚させる構図の妙は圧倒的でした。

光当たる高い場所にいたA-RISEがμ'sに場所を譲り、ラブライブの舞台から降りていくあのシーンは、高まりに高まったハードルを爽やかに潜り抜ける、巧妙な作画的カロリーコントロールでもありました。
あのSnow Halationに匹敵するステージを描画するとなれば、同じ労力と尺、同じドラマの盛り上がりを要求するわけで、真向から当たるのではなく、叙情性と演出の妙で正面を外してきた今回の描写は、優れていると思うし、好きです。


その上で、ただ負けさせないのがラブライブ! 
今まで「スクールアイドルの天井」として描写され、ライバルにしてメンターだったA-RISEに最後の仕事として。「μ'sとはなにか」という根本的な問いを投げかけさせます。

「アクティングとしての完璧さはA-RISEが上だった。ならば何故、μ'sが選ばれA-RISEは下がるのか」
スクールアイドルとしてのμ'sは「スクール」の部分が今まで重点的に描写され、アイドル論は作中であまり語られなかったわけですけども、最終盤の一歩手前、このタイミングしかない場面でしっかりねじ込んできました。
そういう大事な仕事を、ちゃんとツバサにさせる優しさみたいなものが、僕は好きです。

とは言うものの、あのSnow Halationは余りに完璧で、「アクティングとしても優れてんだからドラマまで背負ってるμ'sが負けるわけねーだろ」と感じさせてしまっているのが贅沢な悩みだとは思います。
階段や屋上での練習シーンを、一期と同じレイアウトで見せることで、μ'sのスペック向上を描写するシーンも有りましたし、それこそツバサが言っていたように「どうしてもわからない最後のひと押し」を手に入れるためには、それ以外の全てを必死にやることが必要なんでしょうね。

画面としても、ツバサが穂乃果を問うシーンは印象の作り方が非常に明確で、いいシーンでした。
ベンチの前に柵を置いてちょっと圧迫感を出しつつ、晴天の池が抜けるように眼前に広がっている構図。
希望そのもののような青い場所にはしかし、目の前の問いを突破することでしかたどり着くことが出来ず、今これから巡礼を始めるシーンとして、これ以上ないレイアウトでしたね。


この後、最も身近な助言者であった雪穂だとか、バックステージを支えた一般生徒だとか、様々な人と触れ合いつつ穂乃果は答えを探していきます。
此処で問われているのはμ'sというよりも、個人的には直球にアイドルそのものだった気がしています。
雪穂が非常に的確に答えていますが、「アイドルは頼りないほどウケる」のです。

アイドルというのは非常に特殊なステージアクターで、如何に多様化してもその原義的には、10代の少年少女が直向きに舞台を務めることで、観客の声援と好感を得る構図を持っています。
此処において、稚拙であることや無様であることは、むしろ賞賛の対象になりえる。
日本の芸事には雛なことを尊ぶ価値観が確かにあり、例えば歌舞伎のお披露目であるとか、あるいは高校野球であるとか、「稚拙でもいいから全力でやれ」という「結果を置いて、志を買う」ステージングの文脈が、確かに存在していると思います。
アイドルも(そしてスクールアイドルも)また、「志」の価値観の内部にいるわけです。
年経て賢さに支配されれば、神がかった誠実さというのは自然失われるわけで、アイドルに年齢制限があるのは何もペドフィリアへのセックスアピールだけではなく、それが青春という季節でしか実現できない夢だから、という意味合いも強くあるでしょう。
そしてそれこそが、「スクール・アイドル」の物語として、少女たちに「学校で」「アイドルを」させた理由(の一つ)なのではないでしょうか。

「志」を評価されるのは「結果を無視される」というわけではなく、そこに込めた思いやドラマ、真摯さに対し敬意を表して価値を認めているわけです。
それは誠実さを核とする清涼な関係であり、「志」に「志」で返せない、感謝のない存在は即座に弾き出される恐ろしい関係でもあるわけです。
「志」の視線と支援を浴びるに相応しい存在として、穂乃果は即座に餅をつき、自分を支えてくれた人々に感謝を返す。
「志」のコール&レスポンスがしっかりと出来ている、誠実な(もしくは神がかり的な)アイドルだからこそ、μ'sはA-RISEに勝ったというロジックが、此処で示されます。

そして、精神が肉体を、理念が実態を凌駕するこのロジックは、創作物であるラブライブ! においては圧倒的に正しい。
物語において、物語内部の力学、丁寧に組み立てられた盛り上がり(もしくは盛り下がり)ほど優先するべき論理は、存在しないからです。

(此処でやることが「餅つき」であることに、ちょっとしたメタファーを感じずに入られませんがそれはそれ。
最終的な啓示を受ける場所が絵馬置き場であることもあって、今回の描写は神事としての芸能を、強く意識していた感じがあります。
若さと汚れのなさを根本的に重視する芸事と、アイドルとの共鳴関係はなかなかおもしろい視点だとは思いますが、これ書くとラブライブ!からズレるんで今回はナシで)


結局穂乃果はいつもの様に正解にたどり着き、「真摯(もしくは神聖)な応援を受け止め、姿勢(もしくは至誠)を正して舞台を務め、それにより応援してくれた人々に活力を与える」往復関係こそ、μ'sの核心である、と宣言します。
これはアイドル(つーか芸事)の核心でもあり、同時に三次元のアイドルは一瞬しかたどり着けない極点でもあると思います。
生身の肉体を持った生アイドルは、スクールアイドルのように経済から自由でもないし、μ'sのように周辺を女性で固め、性的な視線や暴力から遠ざけられた世界に安住することも出来ないからです。
アイドルを職業とする少年少女達は、時には年老いて、時には傷ついて、時には傷つけられて、綺麗で透明な共鳴関係が支配する舞台から降りなければいけなくなります。

そういうことを描いていないラブライブ! は、狡くて都合の良い話なのか、という疑問もあるでしょうが、物語を加速させ事象の核心を活写するためには、テーマを確実に捉え続け「何を画面に写すべきか(もしくは写すべきではないか)」という問いを延々と繰り返すことが必須です。
ラブライブ! が省略/操作した苦さ、汚さ、辛さは、たとえそれが綺麗事で、一瞬しか到達できず、常に損なわれ続ける宿命にあるとしても、アイドルの核心にある答えを明確に描写するために画面から遠ざけられたのだと、僕は考えています。
そして、それは必要なことだとも。

「青春物語としてのラブライブ! に、このシーズンでケリをつける」というサインは、それこそ絵里から穂乃果に権力が禅譲された二期一話アバンから、ずっと出されていました。
残りの尺は、μ'sを如何に終わらせ、聞こえてきた青春の音に終止符をどう付けるかというポイントに重点されるはず(べき)です。
その前に、「何故アイドルなのか」というもう一つのテーマ(何しろμ'sは「スクール・アイドル」なのです)に真正面からぶつかり、しっかりと答えを出した今回の話を、僕はとても良いなと思いました。

 

ラブライブ!:二期十一話『私たちが決めたこと』

前回が「アイドル」の最終回であったのであれば、今回は「スクール」の最終回。
μ'sたちの個人的な決着と、彼女たちに憧れてしまった存在への責任を果たす話でした。
最終回がテーマごとに複数あると、スクライド思い出しますね……何を我慢していやがる矢澤……お前は今泣いていい、泣いていいんだ!!(東條カズマ爆誕)

スター性のある存在とは一種の呪いであって、憧れという名前の焦燥を勝手に胸に植え付け、行動を規定し、挫折を強制してきます。
「みんなで楽しく、学校のために」やって来たμ'sも、勝手に輝いてしまったとはいえ、その魅力に引きつけられ、人生をねじ曲げた存在が多数いる。
それはなにも、無邪気に10人目になれると思っていたアリーチカだけではなく、ラブライブ! という作品に脳髄を焼かれ、心に刻まれてしまった視聴者もまた、其の決着を付けなければならない、ということです。
つまり、今回のアリーチカは僕なのです。
「お前らも頑張れ! μ'sのラブライブ!ではなく、お前らなりの何かを作れ!」という穂乃果の言葉は、アリーチカ=視聴者に向けてのスタッフからのエクスキューズであり、同時に激励でもあったのかな、と深読みしてしまいました。

結果として、穂乃果はアリーチカ(つまりファン)の憧れに背中を向け、「九人の物語」の美しさを優先してμ'sを解散させます。
この構造は非常にメタ的で、「一生今のお話が続いてほしい」「素敵で楽しいμ'sのアニメがずっと見たい」という、身勝手ながら当然なファンの気持を、誠実で残忍なフィルムで切って落としているわけです。
少なくとも、俺達が作るμ'sの話は、此処で終わりにする。
そういう強い決意と、それをわざわざ宣言し描写しなければならないスタッフの心のこり、両方を感じさせる展開だったと思います。

僕個人の価値観からすると、物語は終わるべきであり、終わるべき時が必ずあります。
それを逃して続く物語は、その精髄を失い、本来視聴者(つまり僕)を惹きつけていた魅力は反転し、精彩を欠いたものになります。
だから、しょっぱなから「終わる」と宣言していたアニメ二期には信頼できるものを感じたし、物語のエンジンから力を失い、少し迷走していた時期には「もしかしたらアレとかソレみたいに、終わるべき時に終わらねぇんじゃねぇかな……」と不安にもなりました。
(なお、終わるべくして終わるのはアニメラブライブ! であり、ラブライブというメディアそれ自体はぜひぜひ活況してほしいと思います)

やきもきしましたが、ようやく此処に来た。有り難い限りです。
こういう風に尺を使ってファンの未練を(実際に断ち切れるかは別にして)始末しにかかるのは製作者として誠実だと僕は感じるし、此処で巧く断ち切れないと、『けいおん』なり『たまこまーけ」みたいに、映画一本まるまる未練の処理に回したりするわけです。

憧れを抱いて上を見上げ、μ'sを目標に歩いてきたアリーチカは、μ'sが「九人」であることへの思いを感じ取って、自発的に身を引きます。
あまりにものわかりの良い「いい子」だった其の姿に、都合の良さを感じてしまうのは、ある意味自然なことかもしれません。
ぶっちゃけあそこで「μ's解散あかん! あかん!!」とダダコねられてたら、Bパート丸々叙情性の積み重ねに使う構成が破綻するんで、しゃーないといえばしゃーないですが。

ただ、最初が憧れであったとしても、「スクールアイドル」という競技への真摯な態度はアリーチカの中に確かにあって、「μ'sではなく自分のスクールアイドルを目指す」という発展性のある結論は、必ずしも物語的な都合だけで呼び出されたわけではないと、僕は思っています。
そこに結論を引っ張って来た雪穂の人間力もひっくるめて、やっぱいい子たちだなぁ妹チーム。
……時々ほのキチ海未キチすぎんけど、ラブライブ! の女の子みんなそうだしな……。

 

こうして「外側」との決着を付けたμ'sは、九人だけの物語に入っていきます。
それは「スクールアイドル」μ'sではなく、絢瀬絵里であり、東條希であり、矢澤にこであり、高坂穂乃果であり、園田海未であり、南ことりであり、西木野真姫であり、星空凛であり、小泉花陽である、個別の女子高生の物語の結末であります。
それは観客や、バックステージを支える一般生徒や、家族や、ライバルや、その他もろもろの「外側」が存在していてはどうしても語れない、「内側」の物語なのです。

彼女たちは何故、「ラブライブ!が終わるまで、その後の話は無し」にしていたのか。
笑ってお別れしたくてとても楽しい時間を過ごしたのに、泣いてしまったのか。
それは、彼女たち九人が、彼女たち九人を、とても好きだったからです。

「なんてことない毎日が かけがえないの」とは別のアイドルアニメの歌詞ですが、出会いと別れ、失われてしまうけど輝く青春の季節を切り取るのであれば、「楽しい毎日」をどれだけフレッシュに切り取れるかは、まさに死活問題だと言えます。
人が人を好きになるには、命や人生のかかった劇的な瞬間だけではなく、下らなくて詰まらない、しかしかけがえのない毎日というものが、とても大事だからです。
物語は描写されたこと以外は存在しませんから、我々が生き延びているこの人生の中では自動的に発生する日常の積み重ねも、叙情性を持って印象的に描写されなければなりません。
そうしなければ、作中の人物たちが感じる「あ、この子好きだな」という感覚に、視聴者は共鳴出来ないからです。

今までのラブライブ! でも「なんてことない毎日」は沢山描写されてきました。
今まで見てきたなら、「ああ、あのシーン好きだな」というどーでもいいシーンが、どっさりと思い出せるはずです。
俺は……やっぱ矢澤とのんかな……ワシワシなシーンね。

同時に、日常的な時間の積み重ねは劇的なシーンのために存在していて、今回で言えば六人で一緒に行った「μ's解散宣言」のシーンです。
アレは相当生ドルを研究したであろう、「アイドルの卒業」感満載の素晴らしいシーン(言いかけて詰まる穂乃果とか、よく見てんなぁと感心した)でしたが、今回穂乃果が悩んでいた問題への結論を、クッキリ宣言するシーンとして分かりやすい山場でした。
Bパート前半で、今までのエピソードを再確認するように巡った「九人の楽しい時間」が楽しすぎるからこそ、「外側」の目線をすべて捨て置いてでも九人の「内側」の理論に従って、μ'sを終える。
これが取り残される六人が出した結論であり、制作スタッフの出した答えでもあると、僕は思いました。


此処に至る前に矢澤が相当ゴネていますが、そのつっかかり方にこそ、ラブライブ!製作陣のキャラ把握・キャラ表現の極意があると感じた。
矢澤にこはμ'sで唯一アイドルという存在に強いモチベーションがあり、「アイドルかくあるべし」という理想をエンジンとして、苦しい三年間を走りきってきたキャラクターです。
つまり、金銭やファンへの責任などのしがらみに束縛された「アイドル」の「普通」を、しがらみから開放され青春を走り切ることだけ考えれば良い「スクールアイドル」に問いかけることの出来る、唯一の存在なわけです。
この疑問点は「スクール・アイドル」が「アイドル」でもある以上、視聴者が抱く当然の疑問であり、これに答えることで「スクールアイドル」の特権性、この作品があくまで学園青春モノであるという主張を、スムーズに視聴者に届けることが出来る。

物語の機能としてだけ矢澤のこだわりは存在しているわけではなく、アイドルを愛しているからこそ、自分の好きな人たちにアイドルを続けてほしい(でもそう明言はしない)矢澤にこの心意気の表現でもあります。
それをしっかりと真姫ちゃん(を筆頭に、アイドルを好きになった取り残される六人)が受け取ってるのも、最後まで意地を張ろうとするのも、決壊してすげーブッサイクな顔でなくのも、俺の好きな矢澤にこを映像にしてくれ過ぎてて死ぬかと思ったデス。
湿っぽくなるのを嫌って思わずダッシュしちゃう穂乃果とか、完全に察してる海未ちゃんとか、あえて「外側」を排除しても九人の物語に決着を付けた回だけあって、キャラへの理解と表現は「全員個別回」ともいうべき濃厚さだった。

「アイドル」というテーマに、答えを出した前回。
「スクール」で出会った九人の物語に、決着を付けた今回。
となれば、来週は「スクールアイドル」という物語に決着がつく回だと思います。
ラブライブ! が「スクール・アイドル」の物語である以上、此処が一つの決着点であるのは、間違いないでしょう。
楽しみです。

 

ラブライブ!:二期第十二話『ラストライブ』

いいクライマックスでした、掛け値なしに。
そういう感じのラブライブ! 十二話感想。
言うなれば介錯、文句なしの太刀筋でバッサリと未練を切り落とすために。

今回のエンドシーン、アンコールからの『僕らは今のなかで』は26話続けてきたアニメ版(京極版?)ラブライブ!のクライマックスであり、彼女たちの青春の物語、その最高潮であります。
自然そこは視聴者の高まりにおいても最高のピークであるべきで、今回の話はその頂きをどう作るのか、という構成の妙が光りました。
到達点をラスト一話前に持ってきて、クールダウンと広がりの確保に丸々一話持ってくる構成は、モロにプリリズっぽいすね。
コンテも菱田さんだし。

前半パートは花陽を悩み役、矢澤をグイグイ行く役に設定して、未だくすぶる「うおー、ラブライブ終わんないでマジ!!」というキャラクター(そして視聴者)の気持を、丁寧に描写していくフェイズでした。
「出すためには閉じなければならない」とばかりに、Bパート怒涛のテンション三段天井を成功させるため、シットリとして落ち着いたAパートを持ってくる構成の妙を感じます。
一番描写されていたロケーションである音ノ木坂学院を、最後の日常パート(13話でも日常描写はあるのでしょうが、それはいわば余生で、ラブライブ!本戦トリ&アンコールという最高の非日常をくぐり抜けた後では、仕事の内容が大きく変わるので”最後”)に指定したのは、彼女たちの青春を見守り、追体験してきた視聴者へのクスグリとしてベストでした。
「あー、あったわー」と思わせるカットを多用することで、画面に写っている以上の情報を視聴者の脳味噌から引き出し、劇作に奥行きが出ていました。
これ自身は前回もこれでもか! とばかりに使われた演出手法であり、ノスタルジーを兵器に転用できるだけの蓄積があるアニメは、やっぱ強いと思います。

無論過去を振り返るだけのアニメではないので、懐かしさは未来に飛翔するための滑走路。
そこら辺の「シンドいが前に出る」仕事は、やっぱりμ's一の意地っ張り、宇宙ナンバーワンアイドル矢澤にこが担当することになるわけです。
「憧れのラブライブ!抽選に出ただけで、感極まる矢澤」「一期のリベンジとばかり、神の引きを見せる矢澤」「後輩を突き放しつつも、即フォローに入る矢澤」などなど、クライマックスでも矢澤はしぬほど美味しかった……。
やっぱ、矢澤にこという存在がいなければ、アニメ版ラブライブ! は成り立ってねぇなと再確認。

「エピソード全体が終わりに近づいているので、出し惜しみなし!」とばかりに、穂乃果が正解を言う→絵里が追認して残りの七人に広げるという”型”を出していました。
これをやるとテーマはまとまっちゃうし、キャラクター全員が問題を解決しちゃうしでまさにμ's伝家の宝刀ともいうべきパターン。
静かに進めつつ、もう一度「スクールアイドルとは」「μ'sとは」「ラブライブ! とは」といった諸テーマに答えを出し、「ああ、こりゃ勝つ/終わるわ」という心境に視聴者を導くのが、ステージが始まるまでの映像の仕事です。
尺を上手く使う必要のあった二期前半では、あえて抜かなかったパターン(例えば5話)でもあるんですが、話のまとまりを出さなきゃいけない局面でバンバン使うのは、正しい演出だと思います。
『話のテーマに答えを出す』仕事を、個別回以外はほぼすべて穂乃果がやっている事を鑑みると、やはり高坂穂乃果は素晴らしい主人公であったな、と再確認します。


Aパートが学校を舞台に「スクールアイドル」についてもう一度答えを確認するパートだとしたら、Bパートは「ステージ」についての描写をするパートでした。
大舞台に上る前の緊張感、高揚感、そして表現だけが持っている『全てが渾然一体になってしまう、圧倒的な瞬間』の丁寧な描写は、ただμ'sの心境をリアルに追体験させるためだけではなく、ラブライブ!が扱ってきたテーマ、その最後のピースを埋めるための補強だと言えます。
それはつまり、「歌うのは楽しい」ということです。

μ's(というか、その中心核たる高坂穂乃果)には、μ'sであるべき理由がたくさんあります。
アイドルに憧れているから。
自己を実現したいから。
友達を助けたいから。
廃校を阻止したいから。
時々理由を見失いそれを再獲得したりしつつ、彼女らは全力で青春を駆け抜けていったわけですが、μ'sのステージが身体表現である以上、そこには大きな理由があります。

それは「楽しいから」というものです。
歌って、踊って、表現して、それが人に伝わっていく楽しさ。
UTXのオーロラヴィジョンでA-RISEのパフォーマンスを見た時(つまり物語の開始時)から、高坂穂乃果はステージの楽しさに取り憑かれたのであり、それは何度も表明されたテーマでもありました。(例えば一期三話の絵里との対話)

ラブライブ!の成功の大きな要因は、『登場人物が何故、それをしなければならないのか」という理由付けをテーマとシンクロさせ、その全てをなおざりにしなかったことにあると思います。
友達との関係も、アイドルへのあこがれも、学校という場所への義務感も、真の自己表現も、しっかりと話数を与えられ、はっきりとした感情の起伏と一緒に描写され、共感されてきました。
しかし、この話は「スクールアイドル」の話しであり、ステージングという表現手段をわざわざ選びとった少女たちの話であります。
ならば、「なぜ、ステージなのか」と問いと「それは、楽しいから」という答えは非常に重要で、それは最高のクライマックスとともに描かれなければならない。
そんなスタッフの意思が、長い時間を使って丁寧に描かれた、観客席とバックステージの描写から感じられました。
そこには、奇っ怪な魔力のようなものが、確かにあるのです。


入念に準備されたμ'sラストステージで、視聴者(というか僕)のテンションは天井まで行くわけですが、此処でアンコールを挟み、必要な情報をテロップまで動員して驚異的な手際の良さで見せていく手腕で、クライマックスはついに爆発します。
爆発的なアンコールの声と、揺れるサイリウムの海を見てついに穂乃果が決壊するシーンのヤバさは、筆舌に尽くしがたい。
此処で水際に達したテンションを、カーテンが開くと同時にぶち抜きで出る『挿入歌 「僕らは今のなかで」』で更にもう上げる手腕には、もう白旗上げるしかない。
25話見てきた(もしくは、企画立ち上げから付き合ってきた。もしくは、3rdからシングル買った)視聴者であれば、アレはどうしようもなく持っていかれるように、入念に組み立てられているシーンです。
そういうシーンが、最後に来る。
アニメとして、とても幸せなことです。

あのアンコールシーンは、とても優しいなと感じました。
それは客席にいる『今までμ'sが出会った人々』の声援でも、この期に及んで株を上げるヒフミチームでもなく、視聴者にとって優しいという意味です。
ラブライブは終わる。
とても楽しくて素晴らしいアニメだけど、これ以上彼女たちの物語を現在の状況で続けることは出来ないし、終わらなければならない。
その苦しさを、全て燃やし尽くすように物語のテンションは極限まで上がり、「僕らは今のなかで」で極限を超える。

それはファン感情への一種の介錯であって、「物語は完全に終わることで、永遠に続く」という矛盾の昇華でもあります。
「アレはして欲しかった」「このシーンは欲しかった」
好きであればあるほど、未練は名残り胸を苛むわけですが、『μ'sの物語』を限界まで『僕らの物語』として受け止め、彼女たちの終焉を僕達の終焉として認められるよう、スタッフはラブライブ! を燃やし尽くしたのです。
無論、様々な困難を乗り越え、製作者たちの才能と努力の限りを尽くして作り上げた作品が、そのような終わり方を要求し、達成させたのであり、ならばラブライブ! は「製作者」と「視聴者」の矛盾もまた(それこそ穂乃果がバックステージで言ったように)昇華させてしまったのではないでしょうか。
綿密な計算と圧倒的な技量、それを実現させる熱意。
全ての詰まった、素晴らしい回だったと思います。

かくして、ラブライブは終わり、μ'sはラストステージを達成しました。
まさに完全燃焼と言っていいでしょう。
燃え尽きた灰から、如何なる人生が再誕するのか。
とても楽しみです。

 

ラブライブ!:二期第十三話『叶え、みんなの夢--』

かくして、TVアニメーションシリーズとしてのラブライブは終わる。
それは多分、幸せな終わり方。
幸福な共犯関係に満ちた、双方向性のある開かれた終わり方。


スクールアイドルの頂点だったA-RISEとの決着を付け、μ'sを支える人たちを描写した九話。
地方予選の勝利を受けて、"アイドル"の問題に関して答えを出した十話。
三年生の卒業を真っ向から取り上げ、"スクール"の部分に結論を付けた十一話。
"スクールアイドル"の総仕上げとして、圧倒的な盛り上がりで最高のライブを見せた十二話。
お話に決着を着けるのが最終回だとしたら、ラブライブ二期の実に1/3が最終話という、「終わる話」だったラブライブも、今回の十三話が本当の最終話です。

物語的な物語としては十二話で燃やし尽くしたため、今回はアウトロ的というか、今まで演奏してきたテーマや題材、印象的なカットやセッティングを取りまとめつつ、「京極監督が携わってきたラブライブとは、一体何だったのか」をまとめる話だった気がします。
自分が奏でてきた物語の要素をリフレインするのはこのアニメの大きな特徴だと思いますが、一期第一話とセッティング的にも、話の構造的にも、テーマ的にも重なりあうこの最終回は、まさにラブライブ的であり、「お話は必ず、最初に戻るように終えている」とプリリズRLのインタビューで語っていた菱田正和直系のエンディングと言えるでしょう。
そういうお話の構造も含めて、まさに集大成というか、静かに取りまとめて終わる、いい最終回でした。

テーマのリフレインという意味では、送辞から"愛してるばんざーい"に繋がるシーンは、アイドル(というかアクター)をテーマにしてきた作品だけが持つ、万感の説得力に溢れた良いシーンでした。
あそこで合唱が起こったのは、一つには音ノ木坂の子らが仁性に溢れた良き人々であるのが理由なのでしょうが、観客6人の講堂から活動を行い、二期一話・九話に見られるように全校からの支援を受けるに至ったμ'sの集大成のようにも思えました。
三年生をクローズアップで写すところで、絵里が号泣し、希が涙をにじませ、矢澤はこらえるという描き分けは、圧倒的にラブライブ!的キャラクターへの愛情に満ち溢れた描写だったし。

数多の楽曲に彩られてきたラブライブ! 最後の挿入歌"Happy Maker!"もまた、今まで学校で行ってきたライブ(一期一話EDの"ススメ→トゥモロウ"、三話の"START:DASH!!"、六話の"これからのSomeday")のアイコンを取り込み、リフレインとテーマの再確認に満ち溢れたPVだったと思います。
トンチキだけど幸せで元気になれる曲を流し、"これから"について語って終わるという形も一期一話と同じ構図であり、こういう意味でもリフレインが満ちている。
今までμ'sに関わった人たちを全員写す贅沢なカットアップといい、ハッピーな空気に満ちた曲調といい、グランドエンディングにふさわしい終わり方だったのではないでしょうか。


「スクールアイドルという競技」についても、「アイドルという存在の特別性」についても、「青春という季節の儚さと強さ」についても、「ステージの持つ根本的な力」についても、巨大なテーマほぼ全てについて回答を出してしまったラブライブが、最後に選んだテーマは「継承」だったと思います。

屋上に書いた水文字のように、μ'sという存在、九人でいた青春の季節は消えていく。
「だが、それでいい」と高坂穂乃果は言うし、そこで得たもの、それを構成していたものは、受け継がれて消えないということは、例えば生徒会室での絵里と穂乃果、部室での矢澤と一年組とのやりとりを見れば、一目瞭然でしょう。
青春という季節へのシビアな視線はラブライブに非常に特徴的だと思いますが、それ故このように終わらせる決断が出来たし、終わってもなお終わらないものがあるという、一歩前に出た結論を導くことも出来たのだと、僕は思っています。

無論そこら辺の整理が一話で出来るわけではなく、「μ'sに憧れてしまった人たちは、終わるμ'sをどう継承するのか」は11話Aパートで語っていたり、同じ問題を別のアングルから捕らえて見えてくるテーマを、細かく解消しているからこそのゆったりとして馥郁たる最終話が生まれるわけですが。
こういう構成は「物語を描く上で、何がテーマであり、何が問題で、それをどう書くべきなのか」という意識がはっきりしているからこそ出来るわけで、強烈に「終わる」ことを目指して突き進んできたラブライブ!(特に二期)だからこそ、豊かさを残して走り切れた部分だと思います。


こうして豊かに終わったラブライブ!が、他のいわゆる「ゆる系」のお話に比べ特異な点があるとしたら、やはり「終わる」ということ、そして「開かれている」ということだと思います。
これは「終わる」の部分が主にスクールアイドルの"スクール"の部分(つまり、青春という季節)に、「開かれている」の部分が主に"アイドル"の部分(つまり、ステージアクターであるということ)に関連しています。

青春という季節はオタクカルチャーの中ではかなり特権化されており(創作物の中で、もしくは人生の中で貴重かつ特別な季節として重視され価値化されている時間だと思いますが、オタクカルチャーの中では特別に)、それ故一種の聖域化、「終わってはいけない季節」として永遠に続くべき季節にされてしまっている部分があると、僕は感じています。
これを一番感じたのはアニメ版Aチャンネルの最終回、一話と同じように足踏み(!)するるんに、主人公トオルが「変わらないね」と声をかけたシーンでした。
これはリフレインではあるのですが、彼女たちは時間が進むでもなく同じ時間軸に戻り、貴重で綺麗で大事な(ものであるという印象を丁寧に捏造された)青春という季節を幾度も繰り返すお話でした。

出口のない円構造に囚われた青春の季節はしかし、「一度きりしかない契機」としての特別性を気付けば失い、ただの『青春っぽさ』を宿らされた流通貨幣になってしまうと、僕は感じました。
つまり、余りに青春を大事に大事にしすぎて、その終わりを設定しなければ、青春という季節を語る意味や理由、特別性もまた無くなってしまうと、僕は思うわけです。
そんな違和感を覚えていた状態で、露骨に「終わらせるから」というサインを出して始まり、「終わっても終わらないから」という結論で終わったラブライブ二期は、とても特別な作品になりました。

(むろんオタクメディアの中で青春を扱ったすべての作品が、「終わらない青春」を続けているわけではないですし、むしろ「ゆる系」と呼ばれるジャンルの立役者たちの青春は、軒並み明確に終わったりしてますが。
退廃と円環を好む気質は無論僕の中にもあるし、その傾向を「不健全」「逆行的」と断じて切り捨ててしまうよりも、結果としてそのような作品がチラホラ目立つのはなぜか、好まれる・好むのはなぜかという所に論を持っていったほうが、実りは大きい気はしています。
がこれはラブライブ!の感想日記なので、Free二期一話とかについて話すときに、もしかしたら触るかもしれません)


ラブライブ!一期で「みんなが輝く舞台」へと九人が集い、μ'sを結成するまでで八話使ってしまった関係上、残りの話数ではその青春の到達点たるラブライブ!本戦を描く事は出来ませんでした。
それ故、話の重点は物語の中心であり、お話を回転させるエンジンたる穂乃果が「何故、スクールアイドルなのか」という問題を、ことりとの離別に直面して再発見するというドラマで終わっています。
それを受けての二期では、一期で描いたテーマをもう一度掘り下げつつ、出会いの後の達成、つまりラブライブ!本戦までを描き、そして如何に青春を終わらせるかというテーマに取り組んでいました。
一期から二期を通してみると、目覚め・出会い・達成し・終わるという物語の基本構造を、丁寧に達成しているのがよくわかります。

その上で、「お話は終わらないと良くないから」「青春というテーマ上、終わらないといけないから」で希や絵里や矢澤を卒業させるのではなく、「どうしてもたまらなく、μ'sは此処でおしまいにしないといけないから」という形に描写できていたのは、ラブライブ!の強さだと思います。
冷静な物語構造の分析は、これだけのお話を走り切る上で絶対必要だと思いますが、それだけでお話は走り出せない。
沢山の人を巻き込み、熱狂させ、僕がそうであるように「μ'sの物語は、俺の物語だ」と思えるくらいに物語の速度を出させるためには、矢張り作中人物の心理、感情、迸る想いがあるべき場所にたどり着くパワーが必要です。
それを生み出すのは台詞、レイアウト、タイミング、描画、ライティング、演技といった細かい映像の構成要素一つ一つであり、画面に映るものを怠けず、しっかりとした哲学を持って製造・配置したからこその盛り上がりと余韻なのだと思います。


一方"開かれている"と感じるのは、やはり彼女たちが"アイドル"であり、ステージの上で歌い踊ることで自分を表現し、それを観客と共有できる存在として、画面の中にいたおかげだと思います。
"スクール"の冠詞が付くとはいえ"アイドル"である彼女たちは、ファンやライバル、裏方や家族と交流しながら、自分たちが何をするべきか、何故アイドルたり得ているのか、アイドルは何をするべきなのか、ずっと考え答えを出していました。
そこで提示され、描写された答えは"スクールアイドル"だけのものではなく、"アイドル"だけのものでもなく、京極監督を初めとするアニメスタッフと僕達視聴者、もしくは創作物と読者との関係にまで届いた、普遍的なものになっていたと、僕は思っています。

思い返してみると、例えば秋葉原のアイドルショップで、もしくは空っぽの講堂で、彼女たちは常に「自分たちはどう思われているのか」を突き付けられて来ました。
もしくは「μ'sだけでは、μ'sのライブは出来ない」というメッセージを、一話から常に理解者であったヒフミや雪穂の助力を怠けず描写することで、常に発信してきました。
ラブライブ!が"開かれている"ように感じるのは、"終わる"感じと同じように、作品全体に通底する哲学に基づき、個別のシーン、個別の演出、個別の映像を怠けず、しっかりしたものに描写し、積み上げ、効果的にリフレインしたからこそだと、僕は思います。

ラブライブの開放性は、μ'sへ世界が突きつける視点だけではなく、ライブアクティングという強烈な身体言語を使って、μ'sが世界へ突きつける双方向の開放でもあると思います。
彼女たちの歌が届いたからこそ、オープン(!)キャンパスライブによって音ノ木坂学院を志願する生徒が増え、ランキングを駆け上がり、神社に応援の絵馬が並ぶ事になったわけです。
そのようなμ's←→ファンという双方向性だけではなく、μ's結成段階からあの三人を補佐してくれたヒフミだとか、そっけない態度を取りつつ圧倒的に姉のことを見ている雪穂だとか、より身近な人達との双方向性・開放性も、丁寧に描写されていました。
二期九話を「縁の下の力持ち」に捧げていたのが、そういう人々にラブライブ!はどういう視線を向けているか、如実に表していると思います。

もっと言えば、よりメタフィクショナルな段階、製作者と視聴者というレイヤーでも、双方向的開放はラブライブ!の特徴である気がします。
何度も繰り返される「叶え、私達の、みんなの夢」という言葉。
現実世界ののμ'sライブアクトをエピソード化し、仮想世界のμ'sに取り込む演出法(二期九話、十一話)
無論、それはμ'sの物語にのめり込み過ぎた僕が夢見る過剰な夢、「こんなに素敵なお話を届けてくれた創作者は、僕に向けて何かを言っているに違いない」という妄想であり、物語はあくまで物語なのですが、あくまで創作物である物語を使い捨てに出来ず、己の身に寄り添って受け止めてしまう熱量が、少なくとも僕にはあるわけで、そのような温度を生み出せる作品は、個人的な価値観としては幸せなものなわけです。


「終わる」からこそ「開か」れ、「開か」れているからこそ「終わる」物語として、ラブライブは一つの終りを迎えました。
それは豊かで、正しく、優しいお話だったと思います。
ラブライブ!について語るということは、この作品が僕に与えてくれたこと、気づかせてくれたもののについて語るということであり、まだまだたくさんのことを語り得る気がします。
が、今は一応これにて。
良いアニメでした、本当に。