イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

ガッチャマンクラウズ インサイト:第6話『engagement』感想

エゴまみれの我々が変化できそうで出来ないお話、六話目は宇宙人主導の超直接民主制日本の肖像。
風に乗って日本の頂上に乗っかったゲルサドラが『みんなの心を一つに』するべく選んだのは、政治システムを全て爆破し善意と対話のみで国家を運営するという、まさに異形(か偉業か)の発想。
これが原始時代への退行なのかはたまた情報技術の後押しを受けた来るべき新世界なのかは、これから先のお話です。
……嫌な予感しかしないけどな。

ゲルサドラは数多の文明を導いてきただけあって、圧倒的な能力で超寡頭政治を可能にしています。
書類の処理速度を見ても、議事堂質疑でヤジを個別に封じ倒した知性を鑑みても、たった一人で国府の機能を代替できることは間違いないのでしょう。
いわば、人間の形をした総裁Xといったところです。
『顔のない悪意』の象徴としてのヤジを、名前を呼び対面の状況を強制的に作り出すことで無垢に叩き潰してしまうのは、カッツェに踊らされた一期の描写と対比的ですね。

そんな彼が代表制民主主義をぶっ倒して実行しているのは、みんなが仲良く暮らせる善意の世界。
弱者にお金が行き届き、全ての資金運用が透明化され、顔の見える相手と感情で繋がった血の通った政治が実現されようとしています。
綺麗ごとがみっしり詰まった見事なマニフェストで、そら支持率も高いわなという夢の世界。
民衆もみんな幸せそうです。


無論中村監督が額面通りの描写をするほど性格のいい創作者なわけがないので、この理想郷には色々危うさが潜んでいます。
一つには、宇宙人であるゲルサドラが求める『笑顔』と、人間が求める『笑顔』が食い違っている可能性に、一部の人間以外思い至っていないこと。
作中最高の叡智であるはじめは最速で突っ込んでいましたが、ゲルサドラを表すフキダシ様は存在していないのです。
例外的に自分自身を能力の適応から外しているのならまだ良いんですが、可視化される心象がそもそも存在していないとしたら、善意に基いているように思えるゲルサドラの政治は、一種の自動反応に意味を変えてしまいます。
ツバサとやっている深呼吸でゲルサドラは吸うだけすって吐き出していないわけですが、それは呼吸の概念が人類と異なる、つまり吐き出すべき価値観や感情がそもそも存在していない故、そうなっていると言えるかもしれません。
ここら辺を早い段階で指摘していたゆるじいは、やっぱ作中最高位の賢人なんでしょうね。

もう一つは、戯画化された大衆の快楽主義・反知性主義
この作品の大衆は目の前の快楽(道徳的に『良いことをしている』と感じる快楽も含む)に流され、小むづかしい理屈や理不尽な決断が生まれてくる理由や背景には、一切目もくれません。
目の前の問題、目の前の快楽、目の前のメディアと触れ合いが、とにかく大事なのであり、その代表者がツバサなのでしょう。
非常に意地が悪く歪んだ描き方ですが、真理の一部を抉ってる描写だと思います。

累は懇切丁寧に理想と現状について語っているわけですが、小難しい彼の言葉は聞き流され、対面で感情を救い上げてくれるゲルサドラが支持されていく。
一期のお話が非常にクレバーでスマートだった反動のように、もしくは物語の都合で排除してきた人間のカルマと取っ組み合うように、エリートたちは丁寧に排除されていきます。
せっかくヒーローを拡散させたクラウズを放棄することからもわかるように、選択する主体としてのエリートは排除しているのに、問題を解決する主体としてのエリートに過度に依存する社会体制が加速しているのが、アンバランスさを際立たせていると思いますね。
そんな中で、一期では流される側代表だった梅田さんが、自分の意志でクラウズ維持を選択している描写があったのは、個人的には安心できるところでした。


ゲルサドラは人間の善意を吸い上げ、強制的に社会を変革できる政治的超装置です。
吸い上げた結果何が起こり、誰に被害が行くのかチェックする機構は、しかし搭載されていない。
彼個人の超人的能力(何しろ宇宙人です)で業務的な処理は完璧なんでしょうが、しかしその上で、何のために善意を分配し、何を幸福と規定して政治を行っていくかという理念のチェックは、能力では果たし得ない。
チェック機構を失った単独の政治が簡単に暴力的独裁に変化するのは、良く知られたところです。
過去の人類史では暴力と死が思想を統一(ってことになってる状態を生成)しましたが、超人であるゲルサドラの平和は、多分暴力を用いない。
それは国会でのおちゃらけたやり取りに隠された、ひどく不穏な予言です。
死や暴力よりも甘く優しく、致命的な手段を彼は行使できるからです。

彼の行動が速度と破壊力に満ち、どんな反対勢力があっても粉砕し実行するということは、今回の政治家・完了排除を見てもわかります。
ゼニ持ってるバカ政治家共の首を切り落としたのは喝采されるべき偉業なのかもしれませんが、理念のないゲルサドラは善を行うように、悪もまた常識外の速さと強さで行っていくでしょう。
政治家の首にかかった刃が、ゲルサドラを権力の座に押し上げた『罪なき大衆』に向かわない保証は、実は一切ないのです。

賢人たるゆるじいがしつこくツバサを問い詰め、彼女の行動理念を洗いあげていたのも、このような危うさに感づいているからでしょう。
ソクラテス的な問答法は相手が考える動機、無知の知に気づいていれば有効だと思いますが、ツバサは自分が間違っていることを疑わず、愚かであることを肯定し、行動だけを無条件に信じ実行できる愚者です。
結果、戦時下という『暴力と死が思想を統一ってことになってる状態を生成』し時代を体験したゆるじいの言葉は、ツバサに届かない。
ここら辺の直感力・思考能力の高さと、伝達能力の低さのアンバランスさは、ゆるじいと同じ存在であるはじめと全く似通っていて、面白いなと思います。


新たなるアゴラとなった立川の公園はひどく牧歌的で、ノスタルジーにも似た『人類が完全だった過去』への視線に満ちています。
難しいシステムや理念を全部蹴っ飛ばし、全てが顔の見える距離で決定し、世は全て事もなかった時代への、無垢なあこがれ。
それを捉える製作者の視線はしかし、単純な夢を信じ切れるほど無垢でもなく、描き方は非常にシニカルかつグロテスクです。

あのシーンは気持ち悪がられるためにあるシーンなのですが、同時にただ嫌悪し馬鹿にする態度は、自分にはちょっと取れません。
多分僕もあの輪の中にいるだろうなぁという感覚を、吐き気とともに覚えるからです。
みんなと同じ空気を吸って、吸って、吸うあの空間は多分、凄く居心地が良くて快楽で、絶対に抜け出せない魅力に溢れていると思います。
あそこにいる百万のバカどもと僕は同じで、輪の外側にいてタバコを吸っているジョーさんや、直接危うさを指摘したはじめちゃんには、絶対になれない。(女と肉ばっか食ってるチャラ音に関しては、特に言うことはねぇ)
『気持ちよさそうだけど、あの輪には入りたくねぇなぁ』と思わせている時点で、今回見せたゲルサドラの平和の描写は、中々切れ味の鋭い理想郷/絶望郷のフィルムだったんじゃないでしょうか。

一見いいコトずくめの、宇宙人が善導する新しい日本。
超人一人が善意を吸い上げて導く21世紀の哲人政治が、今後どうなるかは、次のお話を待たなければいけません。
楽しみでもあり、不安でもあり、どうなっちゃうんでしょうね、インサイト