イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

ノラガミ ARAGOTO:第6話『為すべきこと』感想

神と亡霊と人間の残虐オペラ、第六話は毘沙門騒動一応の幕。
事態の起因となった陸巴は追放され、かつてヤトが担った同胞切りの罪科は毘沙門自体が背負う。
毘沙門一家の胎に潜んだ悪意は摘出され、数は少なくなったけど今までどおりの楽しい毘沙門一家が戻ってきました。
……本当に?

今回の騒動、一見陸巴が全て悪いようにも見えますが、彼の行動にも理があることは描かれてきました。
残忍な世界のルールに反して善意を全開にし、自分の器から溢れるほどの亡霊を救い続けた毘沙門。
過剰な魂を救い続けた無理が集い、神器の面倒を見きれなくなった結果、溜まった悪意は暴発寸前だったわけです。
陸巴の行動を正当化するわけではない(アイツマジ胸クソ悪い。鈴巴くん死ぬ必要マジ無いし)ですが、陸巴が加速させなくても、かつての麻一族の虐殺のような事件は、もう一度起きていたでしょう。
つまり、被害者でもある毘沙門は加害者でもある。
そういう残酷なシステムが、この作品には練りこまれているわけです。

マイナスの感情を許さない神と神器の関係は、この作品世界における絶対のルールです。
破れば化物になって人間を恨み、食い殺し、殺されるという罰が待っています。
だから神器との関係には気を使うし、刺された時は本気で対応する。
一期での雪音くんをめぐる物語を思い出せば、そこに潜む感情の重さと面倒臭さ、溜まった悪意がもたらす結果については、実感を伴って考えることが出来ます。
ここら辺の面倒くささを完成されたシステムとして処理しつつ、峻厳な判断を個別に行っている当たり、天神さまは優秀な神なのでしょう。

翻って、毘沙門はこのルールに対応できるシステムを構築しなかった。
善意で人を救えばそれで良くなると考えて、亡霊を救ったこと。
それはやはり良いことで、それによって生きる道を与えられた神器が沢山いるということも、しっかり描写されています。
その上で、世界の残忍なルールから神器を守ることには考えが及ばない。
捨て猫を拾うだけ拾って、食事だ排泄だ住む家だ掃除だといった、面倒な後の世話には一切手を出さない、無責任な飼い主のようです。

彼女が慈悲深く愛情に満ちた神だということは、テロリストとして罪科のない神器を虐殺した陸巴への対応でも判る。
名前を説いて野良へ追放するという処分は、たしかに毘沙門という名前を愛しすぎた陸巴には相応しい罪過だけれども、彼が殺した人数と釣り合っているかというと首をひねる処分です。
『殺す神』であるヤトが望んだ(であろう)死罪が当然と視聴者としては思うわけですが、毘沙門は追放で許した。
陸巴が吠えたように、確かに最強の武神の名前には相応しくない優しさと愛情、善意に満ちた存在が、今代の毘沙門の在り方なのです。

主がシステムを構築しないのなら、導き役である神器がルール対策を考えなければいけない。
その役にあった兆麻は、かつての麻一族の失敗を省みて、みんな仲良し笑顔の楽園というシステムを構築した。
しかしそれは一見天国のように見える地獄であって、笑顔の仮面の奥で当然のようにみんなストレスを貯めこみ、藍巴は過酷なイジメを続けていた。
亡霊になっても神器になっても神様ですらも抗えない宿命、人間には感情があって、起こった自体に対して善くも悪くも何かを感じるということ、それは澱のように溜まっていつか爆発するという事実を無視し、善だけで世界を塗りつぶそうとした二代目毘沙門一家のシステムは、破綻を約束されていたわけです。
だから、雪音くんの言った「ここは地獄だ」という言葉は真実で、だから、強い力を持ってお話を動かした。

システムに悪意が開放される抜け穴を造ったり、そもそも主が器を超えた行動をするのを諌めたりするのも、導き役の指名でしょう。
しかし抜本的な改革を行うには初代毘沙門一家の虐殺に触れざるをえず、それをすれば兆麻が虐殺をヤトに依頼した張本人であるという事実を、毘沙門に教えなければいけない。
そうすれば嫌われる。
愛する人に嫌われ、捨てられてしまう。
人間が持っている愛情と、神器が持っている恐怖で板挟みになった兆麻は、虐殺が終わり主が子供を皆殺しにする段にならなければ、真実を伝えられなかった。
他のことでは有能なのに、毘沙門相手には間違った判断をし続ける兆麻の姿は、『愛すらも正しい行動や善を導かない』という、作品世界の残忍なルールを教えています。


器を超えた過剰な善意と、道を間違え続ける愛情。
二つが噛み合って二度の虐殺が起こったわけですが、では三度目はどうなのか、という話になります。
全てが終わった後の始末を見るだに、毘沙門は変わっていない。
『神は変わることが難しい』というのもこの作品のルールだと思いますが、彼女は相変わらず善意の嵐であり、同時に幼い。
このまま進めば、遠からずまた子供たちが悪霊になり虐殺される地獄が生まれるような、危うい善意が彼女の周りには漂っています。
そして、ねっとりと重たい本気の悪意が交換日記という微笑ましいフェティッシュで解消されるとは、僕には思えない。
あのままでは、確かに少し抜け穴が出来て楽にはなったけど、あの楽園は三度目の破綻を迎えると、僕には見える。

善意だけを信じ悪意を憎む『正義』の味方。
毘沙門(と彼女を庇護者と奉じる一家)のアイデンティティはそこにあります。
だから悪意の塊を虐殺したヤトを憎むし、その悪意が自分たちから生まれたものだとは認められない。
しかし悪意は確実に存在していて、神や神器を蝕み続ける。
それは誰かを殺せば終わる事件ではなく、世界に埋め込まれたルールです。
悪意を否定する善意の塊ではなく、悪意を前提とした善意の行使こそが三度目の悲劇を回避するためには絶対に必要なわけですが、毘沙門には変わる気配がない。
となれば、破綻は(今回の事件の結果で、少しは先延ばしにされるでしょうが)必須でしょう。

その運命を変える事ができるのは導き役である兆麻しかいないわけですが、彼は変わったんでしょうか?
神が道を過った時、己が嫌われても正せるくらいの強さを手に入れたんでしょうか。
それは今後の描写次第なわけですが、毘沙門が変わらない以上、兆麻が変わらなければ地獄はかならずまた訪れる。
善意だけの粗略な楽園を許してくれるほど、この作品世界は優しくはないのですから。
彼が悪意の存在と正面から向き合い、毘沙門への愛情と真っ向勝負をする以外に、破綻の運命を回避する事はできない。


一見落着したように思える毘沙門騒動ですが、実は様々な問題点を明らかにして続いている用に思えます。
どうあがいても悪意が蝕んでくる世界のシステム。
それを増幅する野良や『ととさま』、陸巴の存在。
悪意を許さない神器と神との関係性と、変わることが出来ない神の在り方。
残酷な世界で生き残るために、必要とされる神の側のシステム。
ノラガミという作品が持っている、シリアスなルールが今回、かなり整理された形で明らかになったと思うわけです。

様々なシステムとルールが噛み合って今回の虐殺が行われた以上、毘沙門とその一家の方向性が変わらなければ、また悲劇は起こる。
『神と神にまつわる人間は、変わることが出来るのか』という問には、実は今回の騒動で一切答えが出ていない問題です。
今回描写されたのは、善意で始まったシステムにも悪意は必ずそこにあり、的確に対処できなければ人がたくさん死ぬという事実であって、毘沙門一家というシステムが適切に変化できたかは描写しきれていないでしょう。
それは今後のアニメ(では扱う尺が足らないので、漫画か三期)で描写されるべき問だと、僕は思います。

『神は一つの方向性を持った力の塊であり、善悪を超越した一種の現象である。
それを解釈して人間の持つ善悪とすり合わせていくのは、元人間である神器の役目である。』
ヤトが言った『神はいつでも善である』という言葉には、このような世界のルールが背景にあると思います。
人間の善悪を超越した彼岸に神はいるのだけど、人間の信仰がなければ神は存在できない。
だから、人間側の善悪に沿った方向性を神が獲得できるよう、神器は頑張らなければいけない。
ひよりに支えられ行き方を変えてきたヤトだからこそ、世知辛い世間のルールを込めてこの言葉を発したのでしょう。
毘沙門一家はヤトからのこのエールを受け止め、少しは世間にあった在り方に変わることが出来るのでしょうか。
少なくとも、交換日記が万能の解決策というわけでは無いでしょうね。

 

毘沙門一家の内紛に振り回される形となったヤト家族ですが、お疲れ様でしたとしか言いようがねぇ。
馬鹿女は真実知らないまま殺しに来るし、クソメガネは自分大事でホントの事言わないし、大切なお母さんは攫われるし、大事な子供は友達死ぬわ真っ二つになるわで大忙し。
ホント今回ヤト家は災難でした。

『変われない神様』である毘沙門に対し、雪音の反抗期(命がけ)やらひよりの包容力やらで行き方を『変えることが出来る神様』として描写されているヤト。
そもそも、野良と決別して『殺さない生き方』を選んだ物語の開始時点で、ヤトは『変わることが出来る神様』だったのでしょう。
一期で描写されたのは『変わることが出来る神様』が導き手である雪音と出会い、自分を信仰し導いてくれるひよりと邂逅し、『更に変わっていく』物語なのです。
残忍なこの世界では『変わる』ことは過大な対価を要求するわけで、ヤトはさんざん刺されて死にかけるし、雪音はクソ窃盗犯の嘘つきのクソガキである自分と戦わなきゃいけないし、ひよりおかーさんはバカガキどもを叱りつけたり甘やかしたりしなきゃいけなかった。
そういう凸凹道をなんとか踏破して、二期のヤト一家があります。

毘沙門都の戦闘で見せたヤトと雪音の信頼関係、人間の目線で見て気持ちが善い間柄は、そうして獲得されたものです。
健全、というよりも悪意に満ちたこの世界でいろいろ在りつつなんとか帳尻を合わせていく実際的な生き方は見ていて気持ちの良いものですが、今回の騒動を経て、そういう生き方に毘沙門がたどり着けるのか。
それとも『変われない神様』のままなのか。
そういう意味でも、毘沙門のお話は全然終わっていないと思います。

変わったというものの『殺す』ことが夜ト神の本文ですので、当然仮面の化物は殺しに行きます。
そこでひよりが止めるところが、人間と神の間柄を適切に表現していて、素晴らしいシーンだと思いました。
善悪を把握した人間の働きかけがあればこそ、神は変わることが出来る。
『殺す』神であることにイジケテイても、毘沙門の代わりに汚れを引っ被ろうとするヤトが『殺さないで日常に帰る』という選択肢は、ひよりが代表するこれまでの経験があればこそ生まれたのでしょう。
今回ひよりほとんど喋ってないけど、お話的にはすげー大事なことしてて最強ヒロインだなって思う。
あの子大好き。


今回の騒動はヤト一家に何をもたらしたのか。
考えなおしてみるととにかく全てがとばっちりで、当事者性がそこまで高くない感じがします。
雪音には初めての友だちが出来たけど、犬に喰われちゃったしなぁ……。
あのシーンを思い出すたび、陸巴の言動に頷きそうになる自分を止めることが出来て有り難いです。
マジ許さねぇ、マジ。

そんな他人事の騒動の中で確認できたのは、これまで一家が辿ってきた物語の重さと、そこで生まれた信頼だと思います。
しょげてる雪音に、ぶっきらぼうに声をかけるヤト。
雪器と呼ばれ頼られて、とても嬉しそうな雪音くん。
そしていつものよーに、彼らがギリギリ人間らしい生き方をするために最大限のおかん力を発揮するひより。
一期のクソ反抗期描写がマジ辛かったからこそ、彼らが辿り着いた暖かい関係を見せられると、じんわりと感謝の気持ちが湧いていきます。
『良かった……ノラガミ見てて良かった……』って感じよ。

毘沙門とヤトをつないでいるのは一回目の虐殺への恨みなわけですが、それは晴れたんでしょうか。
これも今後の描写次第なのですが、まった痴女服着たライオンライダーに襲われるようなら、本当に今回ヤトが巻き込まれた甲斐は全然ありません。
悪意が世界には存在していて、それはよくないことを撒き散らす。
それを止めるためには『殺す』しかなくて、ヤトは(今回のサブタイトルのように)為すべきことをした。
二度目は自分の手で『殺す』という選択をした毘沙門には、そこら辺の道理を踏まえて、ヤトへの恨みも収めてほしいものです。
……どーなんのかなぁココらへん。


騒動が一段落していい人サイドだけはなく、悪い人サイドのお話も終わりました。
陸巴はマジ許さないわけですが、彼が言っている毘沙門の欠点は全てごもっともであり、彼の悪行にも一分の理があると認めざるをえない。
あれだけ憎んでいた『悪役』の言動に納得してしまうのは、なかなか面白い作りだと思います。

ヤトに腕ぶった切られて『ママのオッパイがほしいだけのガキじゃねぇか。死ね』とか言われてましたが、行動の原理はたしかにそうだと思います。
しかし彼が指摘した毘沙門一家の問題点は正鵠を射ており、そこを変化させなければいつか必ず同じ悲劇が起きると、明確に示している。
ゴミクズ人間陸巴をぶっ殺す(作中では追放でしたが)理由はあるけども、それは彼が指摘ツィタ毘沙門が変わらなければいけないポイントを、無視して良い理由にはならないでしょう。

しっかし9割か……減ったなぁ。
この単純な数だけで、『この腐れアマちゃん女、武神毘沙門の名前にふさわしくない。リセット!!』という陸巴の訴えに、『気持は良くわかるし指摘はごもっともだが、やり方が最悪なので死罪』と返せる気がする。
負担が減って一家を維持するのは楽になるんだろうけど、これまでどおり犬猫みたいに拾ってきて数が増えるのなら、三度目の悲劇は起こる気がします。
武神・毘沙門の善意は消えやしないし、それが救い上げる存在も沢山いるけど、そこには無理がある。
陸巴のテロリズムは結果として、一家維持に伴うクリティカルな欠点を指摘する、苦い良薬でもあったのだな。
……苦すぎるけどさ。


そしてテロリズムの背中を押した野良にも、『ととさま』なる黒幕がいることが判明。
今回の殺戮は『ととさま』の意図で加速されてたってことかなぁ。
野良は実行犯という形になるのか。
ここら辺は長く引っ張りそうなネタだ。

野良と別れることで、ヤトは殺戮装置から変わる決意をし、現在に続く『変わることが出来る神様』の物語が始まる。
作品の根本に関わる大事なネタなんだけど、作中時間軸の外側の出来事だからなぁ。
知りたいが、普通にやっていては知ることができないオリジン。
そこに関わってる野良(と『ととさま』)が騒動の糸を引いてるって構図は、当事者性の薄い主人公サイドに足場を与える創作術でもあるのかな。
野良との決着をつけると話が終わってしまうわけで、しばらくは裏で蠢く形なんだろうなぁ。


というわけで、毘沙門騒動一応の始末でした。
善意で構築された天国の危うさ、秘められた悪意が導く地獄、それに相対する人間的な神様。
色んな物が描かれたエピソードだったと思います。

あまりにも危ういバランスが暴露された毘沙門一家ですが、この騒動をどう受け止め、どう変化するか(もしくは変化しないか)はこの後の物語。
語られるかどうかは分かりませんが、願わくばクソ女が少しは自分の善意の成果を鑑み、クソメガネが臆病な愛情を乗り越えて善を示すような、人間的な価値観において『善い』結果に辿り着いてほしいなと、神ならぬ僕は思います。
この作品が持っているルールは軒並み厳しく、善意ですら悪意を呼びこむように世界が作られている。
そこに立ち向かうためには、風通しの善い人間関係を維持できる何らかのシステム(擬似家族なり厳正な契約関係なり)を用意し、戦い続けなければいけないのだということも、今回のお話から感じ取れた部分です。
いろいろあったけど、がんばれ、毘沙門一家。