イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

昭和元禄落語心中:第1話『与太郎放浪篇』感想

ヤクザと昭和と落語が出会うとき、物語が始まる! っつーわけで、麗しき昭和を舞台にした噺家たちの人生目録、その出だしであります。
艶とあだな感じ漂う色気のあるキャラデザイン、古いフィルムのような質感、高座の興奮を伝えてくる音響、緊張感とフェティシズムの溢れる画面作り、そして声優の熱演。
押し込めても押し込めても溢れてきちまう『本気』がドカンとぶつかってきて、一気に話しに引き込まれて離してくれない、素晴らしい第一話でした。

主人公が異能力に目覚めるでもなし、ラッキースケベがあるわけでなし、流行りのフックが埋め込まれた話ではありません。
やってることはただ一つ、『主人公が落語に出会う』ということでありまして、人が良すぎる犯罪者がどうにか生きていく術として話術に思いつめ、師匠に惚れ込み、姐さんと心を通わせていく。
そういう地道で特別な、一人の芸人のお話であります。

人数を絞っている分その描写は濃厚でして、主人公・与太郎が何を持っていて何を持っていないのか、じわりじわりと染み入ってくる作りになっています。
圧倒的な存在感を誇る師匠・八代目八雲の落ち着きと貫禄は持っていないが、人に惚れ込む真っ直ぐな気性と情熱、大型犬か小僧っ子のような可愛げはたっぷりと感じられる。
第1話でテーマのど真ん中『何故落語なのか』を撃ちぬいたのもあって、このキャラクターが何故主役なのか、これから何をするのかがはっきりと分かり、それに好感と期待を抱ける仕上がりでした。
これは関さんの純朴な稚気が香る演技と、激しい動きのない高座でどう人間を見せるか、良く考えた演出のおかげだと思います。

落語は音声の表現であると同時に身体の表現でもあり、表情や身振り手振りに目線に仕草といった、非言語的表現でいかに客を掴んでいくかが大事です。
『落語なんて下らねぇ』と切り捨てた兄貴分を笑わせようと、必死に演じ続ける与太郎の奮闘を、360度自在に切り替わるカメラでテンポよく切り取っていく演出には、高座に吸い寄せられていく魔力が宿っていました。
あそこでやっていた"出来心"は泥棒のマヌケなお話であると同時に、八雲と落語によって生きる意味を見つけた与太郎の人生の物語でもあって、またわざわざ落語をテーマに選んだこの作品の核心を見せるパートでもある。
そこにはとても熱くて重たいものが込られているわけですが、それを表に出して声高に主張したら高座が壊れてしまうというのが落語の怖さでもあります。(マンガやアニメといった創作、もっと言えばコミュニケーションそれ自体の怖さかもしれません)
あくまで落語家・有楽亭与太郎を演じつつ、顔のわかる誰かに届けようと必死になる主人公の危うい綱渡りを巧く切り取ったからこそ、『噺一本まるまる放送』という暴挙が演出になってしまうわけです。

自分の内側を裏っ返しに客に見せて喜んでもらう、高座の楽しさと怖さは、客の反応を的確にカット・インさせることで伝わってきました。
"出来心"と"初天神"の温度の違い、更に言えばアクシデントすら笑いに変えてしまう八雲の高座捌きが説得力を持って立ち上がってくるのも、名前もない客のシビアな反応を、いいタイミングで混ぜているからでしょう。
訳のわからないなりに必死に落語に取り組み、それ故に成功したり失敗したりする与太郎と、当代名人として大箱を埋めきり観客を支配してしまう八雲との差は、彼ら自身を描くと同時に、彼らの目線の先にある客席の反応をしっかり描くことで、よりクリアに見えてくるわけです。

身体表現へのこだわりは至る所に現れていて、特に八雲と与太郎が持っている芸風の違いを立ち居振る舞いで見せようと言う意欲は、随所に感じ取れました。
正座をするにしても、ドッシリと腰を落ち着けた八雲の座り方と、いてもたってもいられず腰が浮いてしまう与太郎の仕草は如実に違う。
その違いが噺の違い、芸の違いになってすれ違いを産みもするんだけど、違っていればこそ与太郎を通じて八雲は死んだ助六を取り戻せるかもしれない、という希望にもなっています。
八雲師匠が弥太郎と小夏に何を見ているのかは、これから語られる過去編で明らかになると思いますが、3つの約束のシーンで暖かい心根を見せてくれたので、結構安心して待てますね。

足裏以外にも斜めに視線を送る眦、煙管や煙草を吸い付ける唇などなど、要所要所にフェティシズムを感じさせるクローズアップが多用されていたのは、動きの少ない話にスパイスを効かせていて良かったです。
落語というテーマを扱うのにどうしても欲しくなる洗練と色気が、パーツへの偏愛を毒薬のように隠した絵作りで巧く醸造されていて、引き寄せられる空気が生まれていました。
声優さんたちの声がまたエロくてなぁ……フィルム風の処理とか、じわっと入り込んでくるBGMとか、アニメで動員できる全てを使ってムードを盛り上げてくれるのは、やっぱ素晴らしい。


この話は落語の話であると同時に、与太郎という人間の話でありまして、彼が関わっていく人をどう描くかも大事になります。
このアニメは第一話で既に『落語を描くことが同時に人を描くことにもなる』という水準まで達してはいますが、同時に人間の話を真っ直ぐに描くことにも手を抜きません。
天才肌で独特の世界を持った八雲師匠や、蓮っ葉な中にも人情を滲ませている小夏、薄暗い空気をまとったヤクザ兄貴などなど、登場するキャラクターはお決まりのステロタイプだけを演じるのっぺらぼうではけしてなく、感情がよく刻まれた、彫りの深い表情をしていました。

特に主人公にとって(ということは作品にとって)の落語を象徴する八雲の描き方は見事で、弥太郎のように土下座して身を預けたくなる貫禄と気風、才覚を感じることが出来ました。
芸人として大人として、完成した一つの世界を持っているようでいて、助六との因縁に巧く決着を付けられない、未熟な(と言い切ってしまうには、情の篭った)部分があるアンバランスさも、何かホッとできる優しみを感じさせてくれます。
引取人のいない与太郎や、かつてのライバルの娘である小夏を引き取りつつ、そこに込めた上をぽーんと蹴っ飛ばして洒脱に振る舞う仕草も、その裏にあるやせ我慢を感じさせてカッコいい。
師匠役がこういう可愛げと風格を兼ね備えた描き方をされていると、それに惚れ込んだ主人公のことも好きになれて、とても良いです。
石田さんの演技も枯れ切っていない色気が良く出ていて、『し』が『ひ』に変わる江戸言葉が悪目立ちしない、良い演技でした。

いきなり元犯罪者と同居することになった小夏も、何かと与太郎の面倒をよく見て、凹んだ時は支えてくれる優しさと、噺家の娘らしい気っ風の良さを併せ持った、気持ちの良いキャラクターでした。
助六の落語との橋渡しをしたり、『父親の死』という重たいファクターでサスペンスをひっぱたり、いい仕事をたくさんしている彼女ですが、男の世界の中で唯一の女として、主人公とは違うルールで動いているのが大事かなと感じます。
女であることを恨みつつ、落語という共通のツール与太郎と、八雲と、助六と繋がろうとする彼女がいることで、話が特定のルールに閉じていかない開放性が確保されているようなきがするわけです。
ここら辺はお話が先に進んで、小夏が大事な役割を果たすタイミングでより明確になるとは思うのですが。

第1話のゲストヒロインであるヤクザ兄貴は、『落語なんてなんでぇ』とメインテーマに砂をかけることで、このおはナシがこのお話である必要性を際立たせる、大事な仕事をしていました。
だらしなさと危うさを巧く絵にしたタレ目が好きなんですが、ヤクザな態度で与太郎をたらしこもうとした『悪い親代わり』が、八雲という『良い親代わり』に諭され寄席に足を運び、『落語なんてなんでぇ』と思いつつも気づけば笑ってしまっていることで、与太郎の『悪い親代わり』から降りるというお話しの構図が、なかなかスマートでした。
これを描くことで与太郎の成長、それを可能にした八雲と落語の強み、ヤクザものすら素直に正道を歩ませてしまう笑いの強みがスッとお話に表現されているわけで、最初に持ってくる話としてはベストだなぁ。
与太郎がヤクザ兄貴に背中を向けて高座に向かうとき、八雲家の『敷居を跨ぐ』足を一瞬クローズアップにしてる所とか、演出の意識が細やかで好きですね。


一時間の拡大版で与太郎の『現在』を描いたわけですが、話は過去に戻る。
名残惜しげに亡霊を幻視するほど、八雲に深く刺さった助六という存在は、その娘である小夏にも、レコード越しに芸で引き寄せられている与太郎にも、強い影響力を持った死人です。
なので、一旦時間を引き戻して八雲と助六の因縁を整理するというのは、間接的に与太郎や小夏の、そして落語の肖像を描き直せる、うまい手だと思うわけです。
『落語を生き残らせる約束』という、インパクトのあるコピーでサスペンスを引っ張り、過去編に興味を持たしてる所も良いですね。

助六という人は殆ど喋らない(死人だから当然といえば当然)のに妙な重力を持っていて、それが落語という芸能を扱う話に必要な『才能の重さ』と『情念の濃さ』を、間接的に描いてもいます。
死んだ後も八雲師匠や小夏を吸い寄せ、レコードを通じて弥太郎を夢中にさせる男の話はやっぱ気になるし、今回見せてくれた独特の絵作りや雰囲気、ピリッとした空気を思えば、期待も高まる。
昭和元禄落語心中、早速の過去編ですが、一体どうなることやら。
とても楽しみです。