イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

プリパラ:第135話『スマイル0%』感想

三年間の物語、その全てを燃焼させるか如くクライマックスに向けて加速する偶像神話、遂に決戦の第135話です。
名曲"Mon chouchou"の圧倒的なパフォーマンスにより、最強アイドル集団の名前をほしいままにしているトリコロールと、何にもできない駆け出しからはじめてプリパラを背負うアイドルユニットにまでなったソラミスマイル、二つの生き様がぶつかるエピソードでした。
キャラクターたちが背負ってきた歴史を活写しきるだけではなく、彼女たちに背負わされているテーマ性、そこから見えてくるプリパラという場所、作品の在り方までを照射する、とんでもないエピソードでした。
二期で触りつつ掘りきれなかった、『ステージに立つ資格としての才能の有無』『ステージが広く開放されていることの意味』を、普段よりもさらに長いステージングの只中で答えていく姿勢は、あまりにも豊か。
今、プリパラという作品はここにいるんだということを実感できる、傑作でした。


例によって例のごとく、非常にたくさんのことが盛り込まれているエピソードとなりましたが、根本的にはトリコロール(でも特に、紫京院ひびき)とソラミスマイルが闘い、決着が付くお話です。
軸はシンプルなんですが、この2つのユニットはたくさんのものを背負っているし、それぞれのキャラクターが培ってきた歴史も多彩なので、勝負にフォーカスしていると自然、色んな物を切り取ってしまう、ということなのでしょう。
2ステージ、しかも連続メイキングドラマを両方がやるということで、時間的に余裕があるわけではないのですが、台詞にならない描写に大量の意味を込めること、勝負の意味合いを熱く、真剣に描写し切ることで、彼女たちが象徴するものを見事に包括する、横幅広く奥行きが深いエピソードになりました。

今回の戦いは神GP決勝に駒を進めるユニットを決定すると同時に、ひびきとらぁらの長い戦い、その先端に位置づけられる闘いだとも思います。
『選ばれたものだけがパフォーマンスをし、凡人はステージに上る価値がない』とするひびきのエリート主義と、『みんなトモダチ、みんなアイドル』を肯定するらぁらの公平な立場。(ひびきの言葉を借りれば『ポピュリズム』)
プリパラで求められるのは、鍛え上げた天才が圧倒的な凄みで魅了する『縦方向』の快楽なのか、はたまた親しみやすい友達アイドルが『みんな』を取り込みながら拡大していく『横方向』の悦楽なのか。
二期で巧く掘り下げきれなかったテーマを語り直し、プリパラという作品がどういう場所なのかを示す意味でも、今回の試合はかなりシリアスなものです。

ここらへんの空気を出すために、ふわファルが『友達』の延長線上でソラミに挨拶に行こうとし、同じ考えでソラミも手を差し伸べる流れを、ひびきが断ち切る展開は、強い説得力をもっていました。
第133話でコメディエンヌとして暴れまくったひびきですが、あじみとの個人的な関係を進展させるあのお話とは異なり、今回は非常に抽象的なもの、己のスタイルを背負っての戦いになります。
主人公に破れたラスボスとしての教示もあるし、何よりガッチンガッチンに『勝つ』こと、プリパラの競技性にこだわってきたひびきにとって、パラ宿代表としてセレパラ代表の自分に挑み、王国を奪還していったらぁらとの闘いは、一味違った意味がある。

それは今回の戦いだけの個別の緊張感であると同時に、プリパラで行われた対決、全てに延長されるものです。
『みんなトモダチ』を肯定するか否かに関わらず、そこには勝ち負けがあり、明確に上下が付けばこそ悔しく、楽しくもあったはず。
『ライバル』でありながら『トモダチ』でもあるという、非常に難しい距離感にずっと取り組んできたプリパラにとって、ひびきの厳しい態度は『勝負』の部分を肯定する、強力なロジックでした。

彼女が背負っている『理』を感じ取って、少女たちは差し出した手を引っ込め、笑顔を引き締めて舞台に挑む。
勝負は勝負、楽しみは楽しみと一線を引きつつも、そこには『トモダチだからこそ勝ちたい』という気持ちも反映されています。
『トモダチ』であることと『ライバル』であることは対立項ではなく、相互に影響し合う関係にある。
しかし、『トモダチ』であることと『ライバル』であることは明確に違うことで、そこに敬意を払えばこそ、その二つの間に橋がかかり、相互理解が可能になる。
ひびきの一喝は、この構図をアイドルたちに、そして視聴者に再確認させる一声だったと思います。


そんなひびきが辿り着いた、彼女なりの『トモダチ』の形がトリコロールなわけですが、それが象徴しているのは『高い』ということです。
元々ラスボス×2+メインキャラという並び自体が強いわけですが、激しい自負を隠さないステージング、優れた身体能力に支えられた高度なパフォーマンスを巧く演出することで、トリコロールが『高くて強い』ということには、強い物語説得力があったと思います。
いわば『プリパラの天井(人間版)』としての『高さ』は今回、『トリコロールにソラミは勝てない』という空気を徹底的に作るすることで、更に強調されます。

実際のパフォーマンスに心動かされなければ、それも題目で終わってしまうのですが、"Mon chouchou"という曲自体の強さ、そして強さの表現としてはアイドルフィクションでは一般的ながら、プリパラではあまり乱用されなかった『連続メイキングドラマ』というカードの切り方により、『トリコロールは強い』という設定は、実感を伴って視聴者に届く。
これはステージ中の観客のリアクションを見事に統制しているのも聞いていて、『高い』存在であるトリコロールへの視線は常に上に向いているし、アクターに言われるままにサイリウムは綺麗に三色に分かれているし、曲入りのリアクションは『歓声』であって、一緒に曲を作っていく『コール』ではないのです。
『高さ』によって縦方向に切断されたトリコロールのステージは、それゆえに『崇高』という感情を惹起し、自分にはけして追いつけない、天才性への圧倒的なあこがれを燃料にして、更に高く飛び上がっていきます。

かつてひびきがセレパラの理想とした、天才が圧倒的に『高く高く』飛び、観客はそれに追いつけない、ギャップを前提としたパフォーマンス。
今回のステージも基本はそこにあるわけですが、三期になってからのひびきは、二人の女に支えられつつ、一歩ずつ『みんな』を受け入れていきました。
第111話では赤ん坊という『都合の悪い他者』と向かい合い、第114話では自分なりの『トモダチ』像にたどり着き、過去の悲しい経験を忘却するのではなく、それもまた今の紫京院ひびきを形作る要素なのだと認めた上で、少しずつ変化しようと戦ってきた。
その結果として、第133話ではあじみとの歪んだ関係を少し修復して新しい距離感を見出し、今回のステージにたどり着いたわけです。

元々二期の時点で、ひびきは『観客』それ自体には悪感情を抱いていませんでしたが、非才な『観客』が『アイドル』の高みに登ってくることは、強く反発していました。
『観客』がいて初めて天才のステージが成立する以上、『観客』は非常に大事な存在なのですが、それは己の分をわきまえ、不相応な望みなど抱かず、『高さ』を乗り越えては来ない前提あってのものです。
しかし今回、凛としながら柔らかな雰囲気ももったひびきのステージは、今は『観客』でしかない少女たちが、自分たちに憧れて『アイドル』の高みに登ってくることを、期待すらしているように見えました。
それはこれまでの物語の中で、ひびき自身が変われたこと、そばにいて成長へを支えてくれた少女たちへの感謝があって、初めて可能になった姿勢だと思います。
あくまで『トモダチ』と『ライバル』の、『観客』と『アイドル』の間に線を引きつつも、それを超越する可能性自体は否定しない、むしろ期待するステージングは、ただ圧倒的な才能で衆愚を引っ張っていた過去のひびきとは違う、トリコロールのステージです。

トリコロールのメイキングドラマは、三人がそれぞれ個別に花開き、最後に三人のパフォーマンスを見せる形式です。
あくまで『個』としての圧倒的な才能を前提に、『個』を飛び越えてユニットとなった自分たちを全力で表現する構成には、圧倒的な説得力がありました。
全体的なモチーフがハイブロウで、ユニットの特色である『高さ』を強調するものだったのも良かった。
楽曲、ダンス、ステージ演出、メイキングドラマの構成と内容。
3Dで表現されるステージの中で『トリコロールと紫京院ひびきは、何を肯定し代表するのか』がしっかりと詰まった、見事な演出でした。


さて、そのようなステージを受け作中の観客たちも、見ている視聴者も、当の自分たちも『勝てない。高みに追いつけない』と思い知らされたあとで、主人公たるソラミスマイルはどう戦うのか。
元々『勝てない』ムードを強烈に演出され、では『どう勝つのか』という期待と不安を煽られてきた勝負なんですが、トリコロールのステージに濃密な説得力があったため、生中な切り返しでは追いつけません。
放送前は『そふぃの才覚で良いところまで並べるんじゃないか?』とも思っていたんですが、試合前の接触でひびきがジャブを入れてきて、『そふぃの才覚だと、並べてファルル一人。トリコロールという『縦』のチームには追いつけない』というロジックで潰してくるのが、非常に巧妙です。

試合前、結構唐突に思い出話を始めるのは、『負けてもしょうがないかな』という空気に支配されかけていた証拠だと思います。
実際みれいは『試合がどうなっても……』と言いかけて、いつもの様にらぁらの無限の前向きさで勇気づけられているわけですが、ここでそれを言い出すのがみれいであるということが、圧倒的に正しい。
みれいは凡人であるがゆえに語尾キャラ付けないとアイドルにはなれなかったし、才能の『高さ』を努力で乗り越えようとした結果惨敗して、第79話"アイドル終了ぷり"で『アイドルやめる』と自分から口にした唯一のキャラクターになった。
トンチキぷりぷりな仮面を必死でかぶりつつも、南みれいは常に自分の実力を冷静に見据えていたし、だからこそトリコロールの『高さ』を前に立ちすくんでもしまう。
この反応は、特訓の成果実って『1』を引いたひびきが、先制攻撃として狙っていたところだと思います。
一回完全に勝ってるしね。

その上で、だからこそ。
第1話から第13話までソラミ結成の物語を述懐し、原点に戻ることの意味、諦めずに立ち向かうことの意味を取り戻したみれいが、『曲を変える』という奇策に打って出て、勝利をもたらす展開があまりにも正しい。(この場合の『正しさ』は、外部にある何らかの規範にそっているのではなく、自分たちが積み上げてきた物語に対して嘘がない、という意味でも『正しさ』です)
プリパラは才能や現実の残酷さにはかなり嘘をついていなくて、第37話"奇跡よ起これ!ミラクルライブ"でもアイドルだけの力では奇跡は起きなかったし、みれいの努力はひびきの才能に追いつけなかったし、神GPでも順当に格上が勝っています。
『高さ』を比べあっても、プリパラの世界律は厳密に上下を付けて、その通りの勝敗を付けるだけ。
その事実に立ちすくんでいたみれいは、土壇場でルールそれ自体を逆転させ、パラ宿というこの場所、ソラミスマイルというユニットでしか達成できない逆転の一手に、見事たどり着きます。


それは『横方向のステージ』、『高さ』を見上げるのではなく『みんな』と一緒の『広さ』、そしてもう一つの奥行きである『共有された時間』を活かして戦うという、価値的転倒です。
圧倒的なパフォーマンスで観客を圧倒するのではなく、最初から観客席に入り込み、『トモダチ』の距離感で語りかける出だし。
三年間慣れ親しんできたらぁらの、みれいの、そふぃのアイドルとしてのキャラクターを前面に出し、『みんなこの曲、知ってるよね?』と問いかける"Make it!"の選曲。
それはトリコロールが見せた『高み』のステージとは全く別の、地面からじっくりと積み上げ、時間をかけて蓄積し、『みんな』の代表としてステージに立ち続けたソラミスマイルだけが可能な、彼女たちらしいステージングです。

アイドルの『高み』へ一方的に投げかけられる歓声ではなく、アイドルからのコールに観客がレスポンスし、観客のコールもまたパフォーマンスの内部に取り込まれてしまうような、渾然一体となったステージ。
それを証明するように、サイリウムの色は三色に限定されたものではなく、様々な色が様々な場所で咲き誇る、『みんな』の色合いです。
四つのメイキングドラマも、全てソラミ三人全員が登場し、過去の物語で大きな役割を担った、『歴史』を背負った演目、それを前提に新しい場所に『みんな』と一緒にたどり着くという、横幅の広いものです。

『高さ』を競い合うトリコロールのロジックそのままでは確かに勝てないが、パフォーマンスの精度ではなく、観客を味方につけるこの形式ならば、ソラミスマイルが三年間積み上げてきた主役としての時間が、強力な武器になる。
観客とアイドルの間に一線を引くのではなく、ステージに憧れるだけの子供だった出発点を思い出し、観客の中からステージに上っていくトモダチ目線の演出法なら、強みを活かせる。
南みれぃのキャラクター性だったはずの『頭脳派』は、ぶっちゃけここ最近錆びついていましたが、絶対に負けられない(というか、自分たちらしさを証明することなく『高さ』に飲まれる訳にはいかない)戦いを前にして、最高に機能したわけです。

到達した『高み』を比べ合う、真・セレパライズムともいうべきひびきのステージングに対し、勝負の盤面自体を自分たちが勝てるものに変化させ、実際に勝ちをもぎ取ったソラミスマイルのあがきは、凡才ゆえの勝利とも言えるでしょう。
いつでも真っ向勝負、芸事の王道を真っ直ぐ進むだけの実力を持ったトリコロールは、自分が勝てるリングを全力で引っ張り上げるソラミの戦術を、けして選ばないと思います。
努力が連れてくる凡人の勝利を、ひびきが一回完膚なきまでに叩き潰しているだけに、プリパラ全体を背負うらぁらや、同等と認めるだけの才を持ったそふぃに比べ、どうしても甘く見ていた結果でもあるでしょう。
勝ち負けのロジックが綿密に組まれているからこそ、ひびきが勝負に真剣に挑む姿勢も、それが他のキャラクターに伝播する描写も、後付で補強されて強い説得力を持つというのは、非常に面白い構図です。

劣っているからこそ、非才だからこそ、自分たちは地面から一歩ずつ這い上がってきたのだし、その歩みをローカルな観客は共有しているはず。
みれいが正しく見きった自分たちの強みは、弱いからこそ掴めた、『高さ』とはまた違う『広がり』と『奥行き』の強さ、『みんな』の強さなわけです。
そして、歴史と感慨を否応なく呼び覚ます始まりの曲"Make it!"を選び、観客の中から始め、観客を引き込みながら『プリパラ代表』という親密感を呼び覚ますステージングを徹底した結果、極限まで高まっていたハードルを乗り越え、説得力のある価値を掴む。
見事な勝利でした。

『縦』と『横』の差異はユニットのリーダーシップを描写する上でも活きていて、あくまで『ひびきさん』を中心に据え、ユニットのカラーや方向性をひびきのセレブで統一したトリコロールと、定まったリーダー無しで、それぞれの個性をぶつけ合いながら(時に迷走しながら)進んできたソラミスマイルは、全く違う輝きを持っています。
ふわりのナチュラルさや、ファルルのボーカルドールの無垢さを取り込んで、三色入り交じった新しい色合いを出すことも可能だったんでしょうけども、トリコロールはあえて三色を混ぜ合わせず、ひびきを中心にそれぞれの個性を共鳴させる方法論を選んだ。
なので、今回の話は『トリコロールVSソラミスマイル』というよりは『ひびきVSソラミスマイル』という色合いが強いし、『広がり』の戦術を思いつくためには、三人が共有する思い出を語り合い、弱気になったみれいをらぁらとそふぃが鼓舞することで、逆転の秘策にたどり着く。
そこら辺の方法論の違いが、様々な領域でしっかり演出されていたことが、今回の話の『語るべきことを、見事に語り尽くした』という満足感に、強く繋がっている気がします。


上記のような構造を、今回のエピソードは説明しません。
ポピュリズム』という言葉をらぁらが聞き返したように、メインターゲットに言葉で解説するには難しすぎるという判断かもしれませんが、それ以上に語らないことで生まれる余韻、視聴者が(無自覚に感じ入るかたちでも)構造を読むことで、深く作品に切り込んでいく効果を狙って、あえて語っていない部分のような気がします。
それはこれまで自分たちが何を描き、何を積み上げてきたかを明確に把握し、どの要素を使って話を組み立てるかしっかりと計画し、どうすれば効果的に視聴者に届くかを考え抜き、実際の映像に仕上げた結果届く、豊かな沈黙です。

そういう沈黙は様々な場所で表出していて、今回ひびきは無言でステージングを『見る』描写が多いです。
自分が与えたサプリを使わず、ヘニャヘニャな声で「ぶっとばすぞぉ~う!」と気合を入れ、汗塗れで連続メイキングドラマに挑むそふぃ。
かつて徹底的に踏みにじった、凡人の努力で勝負のルール自体を捻じ曲げてきたみれぃ。
そして、かつてプリパラを背負い、己のカルマを詰め込んだセレパラを解体し、敗北を味わわせたらぁら。
彼女たちの貧者の一撃を受け止めながら、ひびきは静かに、しかし無表情というわけではなく見続けます。

彼女が自分の感慨を言葉にしないのは、他者に心動かされたり、他者を認めたりという行為を素直にできない、面倒くさい性格ゆえかもしれません。
『トモダチ』をどうやっても口にできない心の傷と、自分こそが最強だという自負がない混ぜになったプライドは、彼女を他者から遠ざけると同時に、圧倒的な『高み』へ押し上げる足場でもある。
そこで言葉を使わない/使えないからこそ、自分の気持ちを素直に言葉にできないプリパラのアウトサイダーだからこそ、紫京院ひびきは紫京院ひびきなのでしょう。

その上で。
二期では結局飲み込みきれないままプリパラに去り、トリコロールを結成するときも世界が要求する形では認められなかった『みんなトモダチ、みんなアイドル』というプリパラ世界のルールを、ひびきは今回明確に祝福します。
第51話で登場して以来21ヶ月、ひびきなりのやり方でプリパラを肯定するまで時間はかかったけども、彼女は自分を裏切り、そして裏切り返した『トモダチ』への苦悩を飲み込め(乗り越え、ではない。ひびきのトラウマは、癒えるものでも消えるものでも乗り越えるものでもなくて、どうにかして付き合い方を見つけていくひびき自身なのだと思う)るようになりました。
それは自死すら望んだ一人の少女が、ようやく少しだけ生きやすくなって、愛するべき女と、腹立つしやり方もぜんぜん違うけど尊敬できる強敵(とも)と出会った物語の、凄く良いエンドマークだと思います。
三期でも粘り強く、紫京院ひびきというキャラクター、彼女を支え彼女が支えるトリコロールというユニットを掘り下げ、描き続けたからたどり着けた、とても独特で、彼女らしい一つの終わりだと思います。


『ライバル』の厳しさを体現するひびきは、らぁらに勝利をもたらしたものを『デモクラシー』とは言いません。
けして褒め言葉ではない『ポピュリズム』-衆愚主義-という言葉を選ぶ。
圧倒的なエリートへの恐怖が背景にあるポピュリズムが、『高さ』を武器にするトリコロールを引きずり落とす形になったという、ちょっと意地悪な視線がそこにはあります。
同時に、それは(ひびきの他の『見る』行為と同じように)真実を捉えてもいる。

プリパラの観客(もしくは衆愚)が凄まじくミーハーで、簡単に掌返すし面白ければなんでも良い連中だというのは、セレパラ移行期を例に出すまでもなく何度も描かれてきました。
『いいね!』で押し上げられていく階段に、名前と顔のあるアイドルだけが乗っかり、民衆の支持を得つつも特定のエリートがパワーを独占する形になっているプリパラの現状も、よく描写されてきた。
神アイドルへの道は水平方向ではなく、常に垂直方向に積み上がり、底辺との距離は開きつつも、その支持基盤はあくまで『みんな』の『いいね!』である。
この状況は確かに、ポピュリズムと形容するのが正しいでしょう。

その上で。
みれいが見つけ、らぁらとそふぃが演じたように、プリパラの理想は『みんな』が同じ視線で、渾然一体となってステージを作り上げ、選ばれし『アイドル』と顔のない『観客』という立場に分かれつつも、その差異があくまで職分(権力ではなく!)の差異である、デモクラティックな世界だと思います。
今はそうではなくても、いつかは『みんな』がステージに上って、『みんな』で楽しみ、競い合いながら『高み』に登れる、可能性への開放。
その本質を今回のステージで感じ取っていたから、ひびきは一種、己を打ち負かしたロジックを受け入れるような姿勢で、らぁらの手を取ったのではないか。
半分以上期待を込めつつ、僕はそういう絵を読んでしまいます。

ポピュリズムとデモクラシーの境界線は、常に危うく、薄いです。
これを突き詰められなかった結果、二期では『何故らぁらは勝つのか。彼女が背負う大衆は、ひびき個人の圧倒的才覚に何故優越するのか』という疑問に納得の行く回答が出し切れない終わりを、不本意ながら迎えたように、僕には見えました。
今回『縦』と『横』、二つの圧倒的なステージを連続してみせることで、ひびきが背負っていた(そしてファルルとふわりによって共有された)ものと、ソラミスマイルが背負っていたものが明瞭な形で対比され、優劣ではなく差異を強調しながら、一つの結果が出た。
それは今回の物語、神GPを目指して走ってきた三期だけではなく、ひびきが軸になって回った二期の物語、それを含めたプリパラという作品全体に対して、誠実に答えたのではないか。
自分たちが制作し、発生したコールに対し、アイドルらしくレスポンスを返しきったのではないか。
僕はそう思います。


というわけで、紫京院ひびきというキャラクター、彼女が背負う一つの理念、それを共有するトリコロールの仲間、対決するソラミスマイル、同じように背負うもう一つの理念、その昇華の場としてのプリパラを、見事に語り切るエピソードでした。
雄弁な沈黙を見事に演出した結果、24分という時間の中に大量のメッセージを埋め込むことに成功し、非常に濃厚な回となりました。
第130話と言い、第134話といい、福田さん太すぎるな。

これだけ凄まじいものを見てしまうと、続くドレシとの決勝戦をどういう説得力で描けば良いのか、想像を超えてしまった感じもあります。
しかしこのアニメは抜け目なく、ひびきが才覚を認めた証明であり試練でもある囲碁タブレットを打ち負かし、己の修行の完了としたシオンの姿を切り取っています。
あくまでレッドフラッシュにもひびきのサプリにも頼らず、弱いままの自分で闘いきったそふぃと、天才に認められた自分の才を、自分なりのやり方で証明したシオンがぶつかる次回。
また、凄まじいものが見られるでしょう。
とんでもなく、楽しみです。