唐突にダリフラの話。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年7月22日
後半、叫竜が用意した宇宙戦争装置に組み込まれ、パパ=VIRMとの神話的戦いに半自動的に己の運命を投げるヒロ。
ここのフニャフニャ感を相変わらず飲みこめずにいるが、己を”パラサイト”と定義せ/させらざるを得ないコドモに、コピー世代の私小説を重ねると飲みやすいか、と妄想
巨大な物語が遠くに置き去りになり、何かを作るにしてもコピーのコピーのコピーのコピーのサンプリングにしかならない時代。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年7月22日
すでにある巨大な先例から汁をすすり、己を太らせる”寄生虫(パラサイト)”あるいは”宿り木(ミストルティン)”としてのコドモ像。そこに造り手の自己投影があるのではないか
望むと望まざると、自分が選び取ったわけではない非-オリジナルでお話を組み上げるしかない現状。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年7月22日
たとえ自分を死に追い込む悪しき物語でも、それを受け入れて諾々と死ぬか、あるいは理論ではなく曖昧な感情/感覚でしか跳ね除けられない空疎さ。
それでも素朴で綺麗な物語を求めて、一つ綺麗な物語を選び取るあがき。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年7月22日
それすらもまた、顔のないオトナ世代の起源の見えない善意によって、外部から与えられたものである事実。
外部の物語に寄生し、再生産/用意された反発の形でしか物語を編めない寄生虫(パラサイト)。
すでにある外部の文脈に、物語の舵(エンジン、あるいは終着点)をかなり預けてしまった(ように僕には見える)ダリフラが、語ったコドモたちの物語。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年7月22日
それがダリフラを編み上げる人々の、どん詰まりの自己認識を反映したものであったとすれば…。
、己の物語を語り己を名付けることを求めつつ、結局己の物語を外部に預けた部分のあるヒロの物語は、何らか作者の自己像を反映しないか。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年7月22日
個人史から文学を読む行為が常にそうであるように、読めない人間の心、体験できない状況、精査できない印象論を組み合わせた思いつき(あるいは妄想)でしかない
が、既存の巨大な物語に苦しめられ、己の物語を求めつつ、しかし外部の物語に身をあずけるしかなかったダリフラに、何らか製作者の私的イメージ(拡大した”今の私達”像も含めて)が反映されているという誤謬に、僕はしがみつきたくもなっている。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年7月22日
それを真実確認する方法はないし、いかにも”制作秘話”的な顔で出てくるものがどれだけ真実/事実/現実を反映しているかも根本的には疑わしいと思っている中で、これを思いついてどうなるものか。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年7月22日
そういう気持ちもあるが、さて。少しアタマの中で寝かせて、己の反応を見たくもある。
ふと、ダリフラがはじめてのロボットアニメだった人々が、ダリフラをどう受け取ったか知りたくもなった。パクリだコピーだの外野のワイワイは、”知らない”人々には雑音だろう。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年7月22日
そういうノイズを取っ払って、作品を純白のカンバスにぶちまける特権を持った人達のダリフラ。
それを感じ取ることが出来たら、また別の見え方もするかな、と思う。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年7月22日
別に知ってりゃ偉いってわけでもなく、真実”知っている”というほど知っているわけでもないが、なんかこー、”無邪気に見る”という過ちに、一回飛びつきたくもなっている。
こういうこじれた間合いが生まれてくるくらいには、終わった後でもダリフラのことが気になっている、ということだろう。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年7月22日
それが良いことか、悪いことかは判らない。何となく、良いことなのではないかなと感じてはいる。もうしばらく、このヘンテコなアニメと付き合ったほうが、多分良いのだろう。