どろろ を見る。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2019年5月8日
父よ、問うなかれ生きる意味を。
母よ、嘆くなかれ死地の最果てを。
運命が引き裂いた二人の兄弟、百鬼丸と多宝丸。それぞれの故地で、血に濡れ、泥に塗れ問いかける己の在り処。
あやかしの異形に歪みつつ、突きつけられる親子の情。子を育むため、子を殺す。修羅道、未だ遥かなり。
そんな感じの兄弟親子地獄絵図、重要な休符と言えるエピソードである。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2019年5月8日
ずーっと一緒だったどろろと百鬼丸を、あえて引き剥がす物語の流れ。
どろろが先週イタチと歩んだことで見えてきたものが、今回寿海と再開した百鬼丸にも向けられる。
暖かな洞の中、殺さずとも生きていられる幼い安寧。
かつて寿海に保護された少年時代に与えられたものを、百鬼丸は拒絶する。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2019年5月8日
もう、フーフーしてもらえなくてもご飯は食べられる。自分の足で歩み、連れ合いと世界をめぐり、身体も少し取り戻した。
百鬼丸には、百鬼丸の世界がある。
そんな子供の自立を静かに受け止め、そこに滲む情と殺伐を睨む。
”問答”のサブタイトル通り、寿海はよく問いかけ、百鬼丸も無視しない。取り戻した喉を使い、自分の言葉で、気持ちで答える。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2019年5月8日
かつてどろろ(あるいは万代、あるいは鯖目)が問い、届かなかった人の言葉。それを受け止め、返す能力が、百鬼丸にも育っていた。
己の周囲にあるものを見る。そのことで、己の中にあるものを見る。己だけの内面が、実は他者が存在する世界に強く接合していて、一人で生きているわけではないと知る。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2019年5月8日
ここまでどろろと歩いた物語は、たしかに百鬼丸を変えていた。それ以前しか知らぬ父は、そこに驚きと喜びを見る。
その事が、全てを諦め無為を過ごしていた寿海を生き返させる。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2019年5月8日
怪物には死人と認識され、食い殺す意味すら無いと無視されていた寿海は、どろろから百鬼丸が学び取った『おっかちゃん』の言葉で、息を吹き返す。
死人に義肢を繋ぎ、すぐ奪われる無為。自己満足の善行。
それ以外の生き方を、百鬼丸を旅立たせた寿海は見つけ直すことが出来るのか。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2019年5月8日
息子よりもひと足早く、己の問答にケリを付けた寿海には、是非に新しい光を生きて欲しいと思う…んだ、が。(原作紀読者特有の沈黙)
全ては次回、運命の交錯点で描かれるのだろう。エグいよ~。
もともと”どろろ”というアニメがそういう構造を強くもっているが、百鬼丸と多宝丸の物語が同時進行する今回、様々な要素が照応している。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2019年5月8日
百鬼丸は寿海の顔を撫で、寿海も百鬼丸の顔を撫でる。それはまだ二人が同居していた時、そこから別れた時の仕草でもある
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呼応は目の前の人物(あるいは人とアヤカシ)だけでなく、時間を飛び越えて過去と現在、空間を飛び越えて兄と弟の間に鳴り響く。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2019年5月8日
複雑怪奇な因業で繋がり、それぞれ譲れないもののために殺し合う世間。その只中に、全ての人(あるいはアヤカシ)がある。
曼荼羅の如き、人間模様だ。
寿海と百鬼丸が満ち足りた洞穴(幼年期、あるいは子宮)に『閉じ込められる』のに対し、多宝丸は拓けたところから薄暗い庄屋の家、その天井裏に『踏み込む』
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2019年5月8日
閉鎖と侵入。それは社会からはじき出された無法と、社会を背負う国主に別れた、兄弟の道そのものだ。
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飯もある、屋根もある。死ぬこともなければ殺さなくてもすむ。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2019年5月8日
寿海が我が子を守る(縛り付ける)べく用意した穴ぐらから、百鬼丸は出たいと叫ぶ。
奪われたものを取り返し、己を全き存在にする。
彼を荒野に連れ出す衝動は、悲惨な運命で魂を削られたとはいえ、己は五体満足な寿海には理解しきれぬ。
寿海の垂訓を百鬼丸は受け止めつつも、穴ぐらを掘る手を止めない。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2019年5月8日
より人らしく生きるべく用意した医療義肢は、誰かを殺すための武器でしかない。寿海が苛まれる矛盾を、百鬼丸は最初見ない。
欲しい、欲しい。
餓鬼にも似た執着を、寿海は鉈で一閃する。
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そんなことを言われても、足が動かなければ不自由だし、失ったものは取り戻したい。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2019年5月8日
そのあまりに動物的、あるいは人間的な衝動から、寿海は距離を取っている。何かを押しのけても生きようとする衝動が、生存の証明なら。
確かにこの段階の樹海は生きていない。だから、怪物も牙を立てない。
植物のように全てを諦めて生きていけるなら…否、今回の妖怪が”樹”出会ったことを思えば、草木すらも欲を持つ。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2019年5月8日
生き残りたい。子供には幸せになってほしい。
そんな願いは、人もアヤカシも同じだ。情が欲を呼び、戦火を強める。
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化鼠は子を養うために、薄暗がりで人を食った。伊勢が弓手を止める壮絶な情念に、多宝丸の刃は鈍らない。鈍らないと、己を定めている。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2019年5月8日
手を切り、足を切り、縫い止める。幼い百鬼丸を襲った収奪を再演するように、多宝丸は為政者として正しい選択をする。情を奥歯で噛み殺しつつ。
離れた場所で起きる兄弟のアヤカシ退治が、共に”母”を殺すことで集結するのは残酷だ。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2019年5月8日
暗い私室で目覚めた母は、己の愚かさを噛みしめる。もう部屋に、顔なしの観音はいない。あるのは虚無。親の想いが、子に地獄を連れてくる無常。
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そんな母の世界を、子は空いた目で捉えつつ、そこに踏み込もうとはしない。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2019年5月8日
顔を見れば、情が鈍る。確かに情が存在していることを認識しつつも、大義のため目を閉じなければならない苦しさは、寿海が驚いた百鬼丸の成長の、歪んだ双子であろう。
見えているのに目を閉じる。目を閉じているのに見える。
醍醐の家と国に正式に向かい入れられた多宝丸は、社会を背負って”大人”
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2019年5月8日
であろうとする。
社会からはじき出された百鬼丸は、ただただ欲しい欲しいと”子供(あるいは餓鬼)”のようにねだる。それは理不尽ではなく、むしろその当然を押さえつける社会こそ不条理なのだが、それが無ければ人は死ぬのだ。
個人と社会。寿海はその不思議で残酷なつながりを、閉じた世界で静かに問う。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2019年5月8日
かつてあって、今はいない。
自分に隣り合ってくれた”誰か”を思い出しながら、百鬼丸は孤独ではない自分、全てを斬り殺し孤独になる未来以外の道を、細く見据える。
ならば、取り戻さなければいけない。
子のため人肉を食らう、異形の鬼子母神を斬り殺し、若武者達は岬を目指す。兄は海、弟は陸。乱世の海彦山彦は、いかな恵みを…あるいは残酷な真実を宝島に見つけるのか。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2019年5月8日
次週、全ての運命が衝突する岬。恐ろしいが、見なければなるまい。
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百鬼丸が人の体を取り戻す度、失われていった人の心。鬼神を殺す度再獲得されたものは何で、失われたものは何なのか。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2019年5月8日
今回の問答は、それも掘り下げていく。身体が人を定義するのか、それとも精神の在り方か、はたまた社会との接合か。
人を構成する要素を、鬼子たる百鬼丸はほぼ持っていない。
だが無縁ではない。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2019年5月8日
醍醐という生家を表す家紋。生きたいと、取り戻したいと願う衝動。ミオと出会い、聞いた歌声。母の祈り、父の呪い。地面を掴む義肢、生身の体。
様々なものが、異様なる運命の少年に突き刺さり、その肖像を人足らしめている。それを、僕らは見てきた。
だから、百鬼丸の心の中にどろろがちゃんといて、その大事さを失ったからこそ自覚できた時。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2019年5月8日
どろろから受け取った『おっかちゃん』という言葉を、とても大事な人に名付けた時。
それが寿海の停まった時間を、暴力的に動かしてしまった時。
僕らは涙するのだろう。いやマジ…今回は無理だった…。
百鬼丸は醍醐を憎む。当然だとも思う。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2019年5月8日
だがその憎悪で縁を切ってしまうことは、哀しいことなのではないか。取り落ちた家紋を、寿海は繋ぎ、預ける。
幼いお前には見えなくとも、これは大事なものなんだよ。親の情である。
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”公”との繋がりを繋ぎ直す寿海、人の在り方を問う寿海、かつて義肢を与え今は与えてくれなかった寿海。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2019年5月8日
百鬼丸は、別れを前に手を伸ばす。盲た視界の中、魂の色が見せる真実だけでなく、自分だけの実感を木の指で触り直す。
自分は、一人ではない。あなたがいる。
殺戮の孤独を案じる、父への答えだ。
そしてもう一人、己の隣りにいた人。人を切る悪鬼に落ちかけた時、抱きしめて止めてくれた人。『おっかちゃん』を教えてくれた人。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2019年5月8日
雨は止み、岬へ向かう道は微かながら光に満ちている。
その裏側で、燃える情、死に絶える家族。
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光と炎、情と理が交錯する岬に、何を持っていくのか。それを問い、静かに答えるエピソードであったと思う。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2019年5月8日
『親がいれば、子も逃げまい。まとめて殺せる』
多宝丸の冷たい答えは、しかし人食いの怪物を駆除し、民に安寧をもたらす国主としては正解である。非情以外に、国を養う答えはないか。
それは子で終わらず、鬼神に国を安堵してもらった醍醐にも伸びる問いだ。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2019年5月8日
然り。そう答えて、醍醐は我が子を鬼に食わせた。その復讐が、今まさに家と国を焼こうとしている。
百鬼丸も、そんなことをしたい訳ではない。ただ、己を取り戻したい。だがそれは、強く”国”と癒着している。
個人と社会が、鬼神という超常の縁でベッタリ張り付いてしまっている極限状況に、百鬼丸は置かれている。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2019年5月8日
それは特殊なファンタジーだが、多かれ少なかれ我々も、そのアンビバレンツの中にいる。
大事なのは”わたし”か”みんな”か。社会的動物たる人が、常に問い、答えてきた難問に、このアニメも挑む。
つまり”どろろ”が描き出す照応は、作品の内側で展開する過去の幻想と、僕らを取り巻く現実にも伸びているのだ。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2019年5月8日
たかがアニメから、何を引き出すか。感じ入り、見て取り、改めるか。
それは個人の決めることで、自由に受け取ればいい。そういう尊厳を守るべく、このアニメは簡単に答えは出さない。
作中問われる対立の描き方もそうだし、奥行きのある描写で答えをダイレクトに言わない演出もそうだ。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2019年5月8日
そこに切り込んで、作品世界にどっぷり体を浸して、色々考える。それは、やっぱり豊かで楽しいことだと思う。俺このアニメ好きだな。
かくして、問いには答えが返り、それ自体が問いともなる。路は長く続き、その先にはまず、岬がある。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2019年5月8日
家族のためなら、誰でも殺す。血に狂った陸の鮫が待つ海の果てで、醍醐の兄弟は、その道連れたる少女は、なにを見るのか。
次回がとても楽しみである。