イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

『劇場版Fate/stay night [Heaven's Feel] 第三章 spring song』感想

UFOTABLEと須藤監督が送る渾身の三部作、劇場版HFの完結編を見てきた。
(第一章と第二章の感想は、以下のページとなります。
第1章 http://lastbreath.hatenablog.com/entry/2017/10/18/173950
第2章 http://lastbreath.hatenablog.com/entry/2019/01/17/072931


本来ならばまさに満開の桜が劇場の外にも咲き乱れ、士郎と桜がたどり着いた結末を物語の外側が祝福するような”仕掛け”が為されていた物語は、大きな時流に押し流される形でこの真夏に公開となった。
期せずして我々を襲った苦難の波が、果たして映画とのシンクロを強めるのか、弱めるのか。
それは人それぞれの感慨であると思うが、僕としては”今”この映画を見ることになった僥倖に、少しの感慨があった。

第一章で描かれた、小さな幸福と巨大すぎる運命の衝突。その余波を受け、甘やかな退廃と狂える崩壊が入り混じった第二章。物語は三部作ごとに完結しつつ、細やかな必然を積み重ね、咲き誇る瞬間の準備をしてきた。
その苦しみも業も希望も美しさも、全てが必然だったと言い切れる第三章はとても素晴らしかった。クライマックスに相応しい圧倒的なアクションの嵐と、これまで内面を書かれることの少なかったキャラクターの掘り下げ。それを可能にする精緻で内向的な筆は、これまでもHF映画を支えてきた微細な予兆に満ち……この物語が終わることを許された今回、全ての兆しは結実していく。
人間もどき達が必死に掴もうとした、人らしい幸福。そのために積み重ねた嘘と偽りが、どのような軋みと血しぶきを生み出すのか。それを越えて心の奥底を暴くために、どれだけの犠牲が払われるのか。
『”Fate/Heaven's Feel”とは、どのような物語であったか』という問いに、渾身の答えが15年後し出されたような衝撃と喜びを持って、僕は陽炎が立ち上る劇場の外へと出た。
いい映画であるので、皆さん是非、劇場で見てください。
以下、バリバリにネタバレしていきます。

 

 というわけで、須藤HF完結である。最初にお疲れ様と、ありがとうを。
くされTYPE-MOONファンとしての感想を最初に書いておくと、この三部作でようやく、HFが判った、という感じもある。おぼろげに認識していた作品のコアを、シリーズ構成の鉈、アニメーション制作の斧でかち割り再構築することで、伝わりにくい原典の奥にあった宝石のようなものが、顕になった感覚がある。
それは見事な映像作家であり日本一のHFオタク(ともう、この三部作を仕上げた時点で断言していいだろう)須藤監督の情熱と力量が作り上げた再解釈であり、カッティングを経て光を放つ宝石のような、新たな魅力なのだとも思う。

HFはSN、UBWで描かれた英雄主義を、主役である衛宮士郎自身が裏切っていく(とも取れる)物語だ。ヒロインである桜はどうしようもなく人殺しであり、エゴにまみれた醜い女であり、世界を食らう怪物でもある。英雄が殺すべき、殺すことで英雄たりうる反・英雄そのものと言える。
しかし士郎は『誰かのための闘い』に背中を向け、ヒーローたる義父とは違う己を認め、憧れたエミヤの背中を追い抜いて、たった一人愛した女を救うためだけに、前に進み続ける。それはとても身勝手で、英雄譚にまとめられることなどない、泥に塗れた個人的な闘いである。
同時にそのような戦いを最後に経験させることでしか、衛宮士郎という歪みきった人間もどきは”人間”になることは出来ず、Fateという物語も危険すぎる欠落を抱えていただろうということは、原作をプレイした大昔から判っていた……気がしていた。
それを決定的な形で映像化し、まとめ上げていくのがこの三部作であり、士郎が鋼鉄の瞳で前を向き、己を刃に変えながらなお、たった一人の女を手に抱くために進んでいく最終章なのだ。

最初にクライマックスの話をしてしまうと、崩壊の始まった士郎は戻るべき家の鍵をライダーに預け、『そうしなければいけないから』黒い聖杯に向き合う。義父がすべてを失った第4次聖杯戦争で果たしたのと同じ場所に立ち、同じように言峰綺礼に対峙し……イリヤが代理の犠牲となることで、(文字通り)新しい形の生へと漕ぎ出していく。
『死にたくない。生きていたい』
黒い泥の本流を生き残ってしまった衛宮士郎が、ずっと言えなかった本音。サバイバーズ・ギルトの鎖に縛り付けられ、だからこそ綺麗なものに憧れ、誰かのために死ねる英雄的な生を渇望した少年の根源を、イリヤは姉として、願望機たる聖杯として引き出していく。

なにしろ桜が超絶悪い子になってしまったので、ヒロインポジションはイリヤが一心に引き受ける。囚われのお姫様になることで皆の命を守り、士郎の想いを引き受け受け止める。可憐な瞳、桜貝のような指先を強調されながら守られるべきか弱さをブン回す勇姿には、一章で『首を刎ねてから犯しなさい!』と吠えた凶相はもはやない。
ここら辺、過去に

正直桜に寄せて『ヒロインとしてのイリヤ』に切り込む尺はないかな、などと侮っていたが、相手は世界最強の強火HFオタク、須藤友徳である。

『劇場版Fate/stay night [Heaven's Feel] 第二章 lost butterfly』感想 - イマワノキワ

 と書いた期待感を更に強化され、有効活用された感じがある。士郎が桜と連れ立って、生きることの喜びと恐怖を乗り越え前に進む結末に説得力を持たせるためには、姉でありながら幼子であり、当たり前の人間でありつつ一族の祈りを背負う願望機であり、ヒロインでありながら全てを決着させもするイリヤを、桜並のヒロインに一気に引っ張り上げる必要があった。
そのためにフル動員される可憐さと靭やかな精神の描写は、ともすれば圧倒的なアクションよりも印象的であり、幻のイリヤルートを内包したHFのアニメ化として、必須にして重要な演出をしっかりやりきった、と言えるだろう。

あくまで人間であると強調され、しかし人理を超えた祈りの結晶体として『生きたい』という叫びを叶える白い少女。それは大聖杯にすり潰されたユスティーツァ、あるいは失われた母たるアイリスフィール達、アインツベルンの女の悲願をその身で叶える……と同時に、彼女たちに焦がれ狂っていった切嗣やゾォルケンもまた救済する、作中唯一正しい聖杯であったのだと思う。
しかし彼女はあくまで、『衛宮士郎の姉であるイリヤスフィール』として、『兄貴は妹を守るんだ!』と、一旦覚悟した死から自分をすくいあげてくれた男の子のために、為すべき役目を果たしていく。
そこに第三魔法の奇跡があるからこそ、士郎は魂を物質化し、世界で最も精巧な生き人形に宿ることで再生していく。(ここらへんの理屈を『うるせーな……細かい理屈は原作やれ! 俺も長語りしてぇけどアクションと情感表現優先してたら尺なくなったから、理屈飛ばして結果だけ焼き付けていくぞッ!』と、全力で蹴り飛ばした須藤監督の英断を、僕は第一章冒頭の早回しと同じく全面的に支持する。正しい)
しかし最大の奇跡は、言峰綺礼という自分の(そして義父・切嗣の)影を討ち果たし、あの時のセイバーのように為すべき勤めを英雄的に成し遂げて消えていくはずだった少年に、『生きたい』と叫ばせたことであり。
ライダーの名前を思い出せないほどに壊れた少年に、己の名前、己の思い出、己の生きた証を蘇らせて、(例えば臓硯や慎二やサーヴァントと同じく)聖杯戦争を必死に生き抜こうとした記憶を蘇らせたことにあると思う。

イリヤがいることで、士郎は英雄的に死ぬことを許されず、その身体的構成要素も人間ではなくなった人間もどきとして、罪悪まみれの世界に生き続けることになる。
そこに、物語の端緒である生存者の後悔は、多分ある。桜と同じものを抱えた共犯者として、しかしまるで初々しい恋人たちのように照れながら、手を取って満開の花に進んでいく。その色合いには、第二章で妖しく咲いた隠花の艶めかしさはもうない。空は青く高く、風は爽やかに吹き抜けて、初恋はようやく、あるべき色彩を取り戻していく。
そういう、当たり前の人達は何も悩まず身を置くような時間を、衛宮士郎間桐桜に取り戻させるための物語が、”Heaven’s Feel”であったのだろうと、見終わって思った。そこにたどり着くためには、士郎を当たり前の世界に生み出す産婆としてのイリヤに、圧倒的な可憐さを切なさを宿す必要があり……憎らしいほどに成功している。

 

三章開始時、士郎は桜が持つ圧倒的な生殺与奪の権限に震え、冷や汗を流す。それは『死にたくない』という想いがあればこそで、クライマックスの反(あるいは超)英雄的展開の予兆でもあるのだが。
それでも、士郎は言峰の助けを借りてイリヤを救出し、彼女を助けたいという自分の願望、当たり前に生きていたいというイリヤの願いを背負い、引き受けていく。それはいつかどこかにあっただろう英雄願望ではなく、血の通った一人間としての決断であり、第2章で桜を抱き、殺せなかったことで顕在化した、弱く情けない衛宮士郎の”生身”であると感じる。
それはあまりにも超越的な闘いを生き延びるための代価として、力を宿したエミヤの腕を使うごとに削れ、体は剣に変わっていく。桜との甘く腐り果てた恋がそうであったように、男の子らしく雄々しく戦うこともまた、過大な犠牲を要求していく。

そんな士郎の変化と決意を顕にするために、キャラクターは非常に沢山の問いかけを、適切に士郎に投げる。イリヤ最後の問いかけが最も印象的であるが、敵たる臓硯の露悪、仇敵でありながら導師でもある言峰、士郎がたどり着けない圧倒的な”正しさ”を体現する凛と、様々な人があり方を問うてくる。
それを黙って飲み下し、あるいは強く反駁することで、士郎は自分だけのヒロイズムをつかみ取り、物語の結末に向かって駆け抜けていく。
凛が『刺さない』ことで倒してしまった、自分が全く見えなくなっている錯乱した怪物が、残滓と吠える『殺してください!』に、断固としてNOを吠え。
あるいは『付いてこれるか?』と挑発する自分自身の可能性を、力強く乗り越えることで戦う力を手に入れ。
そして無言で道を塞ぐ、聖杯戦争に自分を導いた美しい星(ヒロイン)を、鉄の表情で突き殺すことで答えとしていた。
問いかけとその返答が士朗を中心に、幾重にも積み重なることで、人間もどきのいびつな人形でありながら、だからこそ人の有り様を色濃く写せる複雑な主人公の姿はクリアになり、彼を中心軸の描かれるカルマの物語も、複雑さをそのままに明朗な輪郭を描けたのだと思う。
やはりクエリーは、英雄物語を支える大事な鍵である。

ライダーとの超絶限界バトルが印象的な最強の敵、セイバー・オルタ。SNのヒロインでありヒーロでもある彼女を『桜のために殺す』というルート選択こそが、HFの自己破壊(そして自己再生)の真骨頂とも言えよう。
間桐桜”のサーヴァントであったライダーは、彼女が望んだ『衛宮士郎を守れ』という祈りを叶えるべく、そして『桜を活かす』という己の願いを掴み取るべく、黒い桜に敵対していく。泥に飲まれたセイバーはしかし、あくまで忠臣(サーヴァント)として狂った桜の望みに付き従い、闇の騎士としての誇りを携え、戦って死んでいく。
それは”ヒロイン”であったSNでは果たし得なかった、騎士王としての誉れある姿なのかもしれないなと、氷のように動かない白皙に見とれながら僕は思った。主と定めたもの、生き様と決めたものを揺るがさず、ただただ圧倒的な力を奮って狂った願いを守る。そんな在り方を、アルトリアは墜ちることで叶えたのかもしれない、と。
無論、それは歪み反転してしまった願いだ。こういうところも桜の鏡になっているのだから、なかなか良く出来た話であるけども。黒い聖杯に願ってもブリトンの栄光は戻らず、叶わずとも駆け抜けた生涯への誇りも掴み直せない。第1章ラストで泥に沈んだ時点で、セイバーの物語は終わったのだ。というか、そうやってヒロインを殺す所から、HFが始まるのだ。
黒く染まった聖剣は、泥に沈んでどこともなく消えていく。それはベティヴィアによる聖杯返却のさり気ないオマージュであり、『アーサー王はたとえ歪んだとしても、アーサー王として死んでいくのだ』という、強火Fateオタクのメッセージでもあるように感じた。アルトリアが大好きな人間としては、ありがたい描写であった。

 

士朗と桜が山盛りの罪悪と正しくなさを抱え込んだまま、此岸へと帰還していくこのお話。凛は第2章で己に定めたように、人と魔の境界線を定める”魔術師”として動き、硬い表情を崩さない。
士朗が正しくない正しさを抱えて突き進むこのお話、真っ当なヒロイズムは(それに憧れ、過去でも現在でも未来でも失敗し続けるエミヤをサーヴァントとした)遠坂凛にこそある。私情を殺し、為すべきことを果たす。本来(例えばマキリ・ゾォルケンがそうあるべきだった)”正しい魔術師”として、より大きな人類幸福のために宝石剣を振るっていく。
そのあまりに輝かしい勇姿(黒く染まったセイバー・オルタが果たし得ないもの)は眩しすぎる鏡として、桜を激しく揺さぶり、その根底を吐露させていく。殺したいほどに愛し、抱き潰したいほどに憎んだ姉をたったひとり呼び寄せることで、桜に溜まったエゴは臨界を迎え、爆発していく。
言峰の心霊的切開でアンリマユを孕んだ桜は命をつないだが、凛はアンリマユに飲まれかけた桜を縛る胎盤を切り離し、圧倒的に人間らしい泥まみれの桜を、もう一度こちらに引き直す仕事をしている、とも言えるだろう。

最後の宝石剣を開放する時、凛はマフラーを外す。それは士朗が聖骸布を外しエミヤの腕にアクセスする仕草に似た、力へのアプローチ……であると同時に、HFでずっとかぶってきた”正しい魔術師”の仮面を引っ剥がす予備動作とも言える。
そう、凛ちゃんはあまりに善人かつ真っ当な人格をしているので、TYPE-MOON世界の”正しい魔術師”なんぞ務まるはずもないのだ。憧れるクソ親父からしてクソの塊だったわけで、超越へと向かう意志は人間サイズの倫理を超越し、善き願いは凄まじい速度で歪んでいく定めにある。凛ちゃんは、その濁流には流されてくれない。
それでも己のプライドと遠坂の誇り、世界を天秤にかけた責務でもって妹殺しを果たしかけて、遠坂は妹を刺せない。土壇場ギリギリに追い込まれないと本音が出ない、というのは、イリヤに最後の最後で生存の意志を引っ張り出された士郎と重なるところであるが、彼女は”刺さない”ことで桜を助け、アンリマユを殺す。その後の始末は、陸上部助っ人としてのフィジカルを最大限発揮し、溶岩地獄を猛スピードで駆け抜けた士朗が”刺す”ことでやってくれるのだ。

生死を賭けた限界の状況に自分も踏み込むことでしか、桜が追い込まれた極限を踏破出来ないのなら、鉄の仮面に情を閉じ込め、まっすぐに進もう。そう意を固めたりんちゃんに、問いかけてくれる仲間(あるいは敵)はいない。己で考え、己で定める自己完結性は、正しくヒロイックだと感じる。
間違えるにしても、あまりに正しすぎるから間違える遠坂凛の超越性は、エピローグをハッピーエンドへと繋げる道糸ともなって、静かに彩っている。立派な姉が隣りにいてくれたからこそ、桜は罪悪感に逃げるでなく、押しつぶされるでもなく、人間サイズの両足で踏みとどまり、帰り来た士朗と当たり前に幸福へと、戸惑いつつ踏み出せたのだろう。……士朗におけるイリヤと同じ仕事をしてて、”姉”を巡る話だなぁ、などと思ったりもする。

第2章まで積み上がった重たい葛藤、どうにもならない泥と花を背負い、桜は狂い咲く。支離滅裂に錯乱し、自己と他者の境界線を失った影として、肥大化し暴走し続ける。ここらへんの不気味さを、凛の部屋での対話は上手く切り取っていたな、と思う。
凛が向き合えない桜の実態と、士朗が障子越し(第1章でのVSアサシンもそうだったなぁ、などと思い返す)に始め、『殺すのではなく救う』と決意を込めてライダーの実像を掴んだ、中盤の対比。その”遠さ”を踏まえて、全員が全力を積み重ねた結果解放される、生身の桜(妙に可愛く描かれた影クンも、裸体を大公開してR-18になるのを救ってくれる。いい仕事であった)
”破戒すべき全ての符”が文字通り聖杯戦争ルールをぶち壊して、救済を生み出すロジックはUBW見てねぇとわっかんねぇ気もするけども、まぁこの映画は(特に三章)そういうの多い。エピローグはマージツメツメであったが、先程も言ったように僕はこの決断全肯定である……てのも、原作をプレイして以来どっぷり”Fate”に使ってた立場ゆえ、。かなぁ?

さておき、殺人鬼であり淫売であり犠牲者であり狂人でもある、分裂し錯乱した桜は周囲の助けを得て、生身の”間桐桜”であることを選び取れることとなる。そこにたどり着くまでに、人間も英雄も沢山死んでいく。間違いは山程あり、取り返せないもので人生は埋まっている。
それでも。一線の向こうに花は咲き、幸せになる意志と権利は誰もに開かれていると語るべく、HFはあったのだろう。
だから最後のシーンで士郎と桜は、まるで出会ったばかりの恋人のようにはにかみながら、新たな生へと進んでいく。ドロドロの淫蕩に身を落としたし、殺し合いもした。そういう順番破りを経ないと、こんな当たり前のロマンスすら体現できないところに、歪みきった人間もどきを主役とした、全く正しくないこのお話の厄介さがある。

しかし、十分にたどり着けた。
士朗がどれだけ綺麗なものに憧れ、その奥にあるシンプルな叫びを開放するまでには、長い時間と苦闘が必要だった。桜がいかにもヒロイン然とした仮面を引き剥がし、己を苛む苦痛と憎悪を吐き出すためには、沢山の業が欠かせなかった。
第2章で色濃く塗り重ねられた、暗く重たい”水”の情景があったからこそ、大聖杯のマグマを超えて青空に踏み出していく結末は、立体感のある真実として作品世界に存立する。影を無視して綺麗なものだけを描いた所で、それは大事なものを取りこぼした光の影絵でしかなくなってしまうから、徹底的に人間のハラワタを引き裂き、腐臭と淫薫の入り混じった闇と、その奥にかすかに蠢く光を切り取らなければならない。
この話がその取り返しのつかなさと裏腹に、奇っ怪ですらある爽快感と充実感をもって終わるのは、やはり二章の冷たい陰鬱さがあってこそだと思う。
そういう、悪趣味で悲惨な物語が幸福にたどり着くための必要経費をしっかり払いながら、物語は進んでいった。とても美しく鮮烈な映像が宿すもの、見せるものは、キャラクターとドラマがどんな状況に置かれ、何を乗り越えるべきかを、一個ずつ積んで説得力に変えていったと思う。
派手なアクション、センセーショナルな性と肉塊は、確かに鋭く眼に刺さる。それは彼らの物語の大事な側面で……しかし、それだけではない。
当たり前でいたいと願いつつ、その宿命と魂の在り方がどうしても、人間性を取りこぼしてしまういびつな存在の、いびつな物語。それが突破されるために必要な、過酷極まるどす黒い泥海への航海に必要だから、淫靡も残酷も選び取られた。
そういうことを再確認するために、とても美しいこの参照の物語は、いい仕事をしてくれたなぁ、と思う。

 

全てのキャラクターがお互いの鏡となり、どこか似通った部分と、譲れず異なっている部分を強調しながら進んでいくのは、このお話のいいところである。
士郎と桜の共鳴。凛の正しさが跳ね返す人間もどきたちの影。万華鏡のごとくきらめく、イリヤの百の顔。色んな所に、キャラクターは己のシャドウを見出し、ドラマは陰影を深めていく。
その最大が言峰綺礼であり、間桐臓硯であったと、三章を見終わって再確認した。

彼らの物語が炸裂するのはあくまで第三章であり、そのための布石を丁寧に配置しつつ、ここで去る者たちの舞台を邪魔しない程度の立ち回りになっていた。

『劇場版Fate/stay night [Heaven's Feel] 第二章 lost butterfly』感想 - イマワノキワ

 とかつて書いたけども、ここでの期待感の通り(いくらあっても足りない尺の中で)適切に彫り込まれ、悪の華として咲き誇り散っていった彼らは、非常に良かった。退場タイミングから逆算して、見せ場を適切に配置できた構成は、今思い返すとHF映画の強い武器なのだなぁ……。
ノローグ込みでかなり分厚く内面と過去を彫り込まれ、地面に足をつけた殴り合い最終決戦で正面から『私はお前の影、宿命の敵対者である』と語れた言峰は、よく目立つ『恵まれた悪役』であろう。英霊すらぶっ飛ばす武技の冴え、洗礼詠唱のキメっぷり……やっぱ美味しい立ち位置だよなぁ、あの神父。
加えて臓硯も、憎んでも憎んでも足りないクソ外道でありつつ、500年前に抱いた美しい祈りを歪めた”鏡”として、悪行の限りを尽くすことで士郎の正義を鮮烈にする問いかけ役として、元気に暴れてくれた。
『死にとうない』と哀れに吠えつつ、ユスティーツァの面影を残すイリヤに問われて、一瞬だけ時間を巻き戻し歪みを正して死んでいく有様は、やっぱ士郎のシャドウなんだなーと思いました。やっぱ長生きしすぎるのは良くねーな。

 

かくして、

この物語の結末が、『衛宮亭に帰ってくる』ことを約束されていることも考えると、第一章の終わりはHF全体の終わりとも呼応している。

『劇場版Fate/stay night [Heaven's Feel] 第一章 presage flower』感想 - イマワノキワ

 とかつて書いた物語は終わります。

 

不器用に壊れた人間が、それでも人間のふりをして、人間のような温もりで暖まれたような、うっすらとした夢の風景が、この映画の冒頭(と来るべき結末)にはある。

『劇場版Fate/stay night [Heaven's Feel] 第一章 presage flower』感想 - イマワノキワ

 という期待を高めた冒頭は、死地に赴いてなお帰還を願う士郎に見える、かけがえのない残影として、良い演出をしてくれた。
あえて共通ルートをすっ飛ばしてでも刻み込んだ、最初のオリジナルな30分。あれを描いたことで深まった、嘘にまみれた歪んだ平穏を取り戻す物語は、ただの再獲得を超え、傷を切開し泥を吐き出すことでたどり着いた、新しく美しい景色で終わっていきます。
それは三年前に書いたように、不器用に壊れた人間もどきが、それでも人でありたいと願いたどり着いた岸辺に沢山のものを喪いながら帰還し、喪失の重さを抱えながらなお両足で、手をつないで進んでいく結末を、その過程を、見事に刻んだエンディングでした。

見終わってみると、『生きていて良いのか?』と悩み続けた少年と、『生きていたくはない』と絶望した少女が、嘘の中で出会い、苦しみに切り裂かれ、それでも花咲く真実を掴んで、お互いを抱きしめる物語だったのだと思います。
あまりに身勝手で残酷で、ひどく真摯なジュブナイル・ロマンス。
そうHFをしっかり再定義できる三部作であり、立派なアニメ映画でした。非常に面白かったです。

完結お疲れさまでした。この映画が見れて、とても良かったです。