イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

映画『グッバイ、ドングリーズ!』感想

いしづかあつこ監督の劇場版オリジナル新作、”グッバイ、ドングリーズ!”を見てきましたので、感想を書きます。
なにかと”よりもい”にからめてポロモーションされがちな作品ですが、ドングリーズの三人独自の旅路、独自の青春、独自の物語としてしっかり描かれていて、一本の映画として確かな面白さのある作品でした。
プロモーションで表に出ている部分はあくまで氷山の一角、その奥にある部分、実際に味わって始めてわかる味わいにこそ強さがある作品だと思うので、是非劇場にて自分の目で、この映画と出逢ってくれると嬉しいな、と思います。
旅の物語であり、日本最強の背景美術集団”草薙”が総力を結集した超絶背景がそれを猛烈に下支えしているので、いい景色をたっぷり浴びたい人には特におすすめです。
以下、バリバリのネタバレ感想。

 

 

 

というわけで、いしづか監督の最新作であります。
あんまりにもよりもい推しで売ってくるので、『ほ~ん、手癖の再生産だったらぶっ殺してやんからヨ……』と身構えて劇場に入ったのですが、映画ならではの魅せ方、面白さ、ドングリーズだからこそのまばゆい輝きにたっぷり瞳を焼かれ、ダバダバ泣きながらMAD HOUSEの方角を拝んで、映画館を後にしました。
”旅”、”友情”、”青春”そして”死”というテーマは、(大きなモチーフでもあろうスティーヴン・キングの”The body”と同じく)”よりもい”と共通なんですが、TVシリーズと映画、少女と少年、あの四人とこの三人という違いをしっかり生かし、当然ながら全く別の物語として、しっかり自分の足で立ってる作品でした。
ドロップの死を分水嶺に、二度の旅が描かれる構造は事前に全く予期していなかったのですが、この折返しの構成が少年たちが旅で得たもの、旅を終えた後も続いていく旅、その中で時間も生死も越えてもう一度出会える奇跡を強く作品に焼き付けていて、嬉しい不意打ちでした。
『いしづか作品』つうことで期待していたポップで楽しい青春表現、軽妙洒脱な語り口、美しい情景に宿る叙情、そして本気のど真ん中で感動をぶん殴る豪腕も、余すことなく堪能できて、彼女のファンとして嬉しい限りでした。
やっぱ光の捕らえ方、描き方にセンスと独自性があり、ただピカピカしてるだけでなく闇と混ざり合って重厚なあの黄金、満点を埋め尽くす輝きの開放感と、この映画、この作家たちでなければ見れないものを、しっかり味あわせてくれました。ありがたい。

 

見終わって一番いいな、と思ったのは、短いことで。
105分っていうちょい少なめの尺が、軽妙に物語が転がっていく小気味よさ、触らなくてもいい部分を大胆にかっ飛ばす気持ちよさ、要点にギュッと力を入れるメリハリに繋がっていて、とても映画的なアニメだったと思います。
フツーならドロップがドングリーズになる過程とか、クソみてーな田舎のクソみてーないじめとか、結構べっとり書いちゃうところだと思うんですが。
何しろ旅が二回あるので、105分を無駄遣いしてる余裕が一切なく、その結果もう解ってるのに手続き的に描かれるシーンとか、見ててあんま面白くもねぇ湿度の高さとかが、スパッと切り落とされる形に。
同時に色んな設定や考えをたっぷり煮込んだ上で、あえて表に出さず伏流水として作品を下支えしてる話作りでもあるので、選びぬかれて実際の映像に飛び出したシーンは、全体的に濃厚で、有機的に繋がっていました。

女装リベンジのシーンでは笑いのタネだった”カツラ”が、それに親しまざるを得ないドロップの病状が顕になり、彼が去って残された二人がヘアドネーションのためにダセェ長髪(宇宙一かっこいい)を伸ばし、ダセェ短髪(宇宙一かっこいい)にケジメ付けて、仲間の故郷へと、あの時は夢でしかなかったアイスランドへと旅立っていく。
そんな感じで、一要素を活用して複数の意味をもたせる、映像の中で強調し活かす使い方が、スマートかつ適切なんですよね。
熊よけの鈴を落として『あ、フラグだ。いつ回収されるかな?』って考える暇もなく、クマが出てきてワチャワチャ騒いで、マンダムで前髪立って爆笑して……みたいな、気持ちよく飛ばす所のセンスが、ボンクラ高校生共が必死に走る物語に、良いスピードを与えてもいます。

そのくせ腰を落としてどっしり見せるところは、ちゃんとスピードを緩め美しい風景の力も借りて、油の乗り切った声優達のアンサンブルも生かして、コクのある伝え方をしてくる。
そこで炸裂する微細な感情を、アップテンポなコメディの合間にすっと差し込んで、ちゃんと予感を作った上で爆裂させるところとかも、大変スマートでした。
複雑な思いを抱えてダチんとこ戻ってきたら、よく知らねぇヤツがそいつの隣を占拠してて、でも一緒にいると楽しくて、でもなんか追い詰められてガンガン進むから、ついていけなくてキツくもあって。
そんなトトの視線と、自分がけして共有できない時間を当たり前に顕にしてくる二人に、もう時間がないドロップが向ける視線…そして田舎の息苦しさに置いてけぼりにされたロウマが、ショッボイ秘密基地にしがみつかなきゃ生きていけない苦しさとが、陽気な青春絵巻に巧く散らされている。
ああいう事前準備が巧妙だからこそ、青春の爆弾が旅の中で破裂して、衝突が生まれ本音が飛び出す時の重たさを、他人事と突き放すのではなく、自分に引き寄せて見守ることも出来る。
『コイツラは体温のある人間で、笑いもすれば泣きたい気持ちもちゃんと持ってて、今ダチと楽しそうにしてる奥に滅茶苦茶アツい脈動を、確かに宿してるんだぞ!』と、短い手順でしっかり伝えてくる力強さは、やっぱり凄い。

クソボンクラ共がワイワイ騒ぎつつ、転がっていく状況にかぶりついて旅に漕ぎ出していく序盤。
そこへの導線となる女装リベンジは、彼らがチャーミングで力強く、ただ抑圧された弱者などではない、お話開始前から彼らを苛むものにある意味、既に勝ってる存在なのだと印象づけてくれます。
クソみてーなハブぶっこんでくるクソみてーな同級生が、どうしようもなく縛られてる狭い世界。
ロウマ達は旅を通じてそこから出ていくわけですが、お話の早い段階で、彼らを取り巻くものに焦点がないんですよね。
彼らは地べたを這いずる凡俗から排除されているけど、それは”当たり前”って泥をかぶらない自由で清廉な立ち位置でもあって、小学生時代の秘密基地にいまだしがみついてるガキっぽさは、人間に本当に大事なものを”当たり前”だからって踏みつけにはしたくない、生真面目な気性を守ってもくれてる。
そんな彼らが、ドロップの悪戯な提案をジャンプボードに、ぽーんっと軽やかにクズどもの頭を飛び越えていく場面が早く来るのは、この映画を象徴する話運びだと思います。
なにしろドロップは死んじゃうので、そんなくだらねぇところで足を止めてる余裕がないんですよね、話全体に。
そんなことよりもっと素敵な、自分たちを包囲し閉じ込めているように思えた”山”の本当の姿に飛び込んで、河に遊び森に走り、星を見上げて人生でいちばん大事なものを一緒に掴むことに、時間を使いたい。
同時に短い描画でも、ユウマを捕らえている田舎のじっとりした空気……の中にある、彼を結構優しく見守ってくれてる地域や家の描画も、優れた美術でしっかり冴えていました。

ドロップが死ぬってのは結構な隠し玉なんですが、登場すぐぐらいに『あー……そういうことか……』って納得するほのめかしが連続でぶっこまれて、早い段階からハラ決めれたのはフェアでありがたかったです。
カツラの下りもそうですし、『”佐久間雫”でドロップ』ていうやり取りでもって”星屑のように儚い存在”っていう本意に煙幕かける所とか、『あー……死んじゃうんだ……』って確信が、結構早い段階から作れた。
でも明言しないことで、冒険活劇が”難病もの”に湿るタイミングを遅らせて、クソガキ共がわーわーはしゃぎながら、美しい山野を駆けていく面白さを純粋に食べさせてもくれたんで、いい情報の出し方だったと思います。
もうジジイなんで、ドロップがちょっと周り見ていないように見える強引さの奥に、どんな気持ちを抱えているか推察すると、なんでもねーやり取りが涙腺を全力でぶん殴ってきて『ズルい映画だな……』と思って見てました。

 

畑に並べた打ち上げ花火のように、ショボくて湿気てて、田舎のスタンダードから外れた三人の青春。
でもそこにこそ、ヤッたのヤラないの、凄く俗で相手の顔を見てない”成長”から離れて、自分がどんな存在で、どうなりたいのかずっと考えている子供たちのナイーブさが、しっかり焼き付いている。
それは無罪の証明にはなってくれないドローンを追うたびの果てに、地面で当たり前に見上げてたんじゃぁ一生見れない、スペクタクルな花火のど真ん中を見つめる立場にも繋がっていく。
ドロップとの縁をつないだ”間違い電話”にしても、寄り道に見えるものにこそいちばん大事な答えがあって、足踏みに思えるものは目指すべき場所をちゃんと考えているからこそだという、人間の誠実さに対して茶化しがない、腰の落ちた優しさがある映画だと思います。

人数の少ない物語、主演三人のアンサンブルがとにかく大事なんですが、地元に残り鬱屈した日々を送っているロウマと、彼を置いて東京に出たようでまた別の鎖に縛られているトト、突然の乱入者、ドングリーズのわがままな末っ子に見えて一番成熟もしているドロップが、それぞれ背負えるもの、縛られるものの棲み分けと掛け合いが、そこをしっかり支えていました。
ロウマは凄く等身大に何処にもいけないボンクラで、内心自分を蔑む周囲と同じように”大人”にならなきゃ、と考えつつ、トトのいなくなったアジトに足を運んでしまう、足踏みの少年です。
原宿のサロンで前髪バッチリキメたトトも、大きな世界に先んじて飛び出したように見えて、その広さに立ち竦み、地元に置き去りにしたダチが自分を信じてくれるからこそ、涙が出るほどつらい気持ちを必死に戯けて隠している、ナイーブな少年でもある。
そんな二人の間に割り込み、あるいは先に行って置いていかれる自由因子として、田舎からはけして見えない、外国の血を引いたドロップがいる。

彼は否応なく死んでしまう自分の運命に既に向き合い、一回目の旅をアイスランドで終えた上で、その終わりに”間違い電話”を受け取って、クソ田舎(と、ロウマが思い込んでいる場所)へと自分を進みだした。
ロウマが想像もできなかった、人間があっさり死んでしまう現実というのを先んじて、自分の体で持って思い知らされてるドロップは、友達が足踏みする所で先に進み、でもそれは永遠に続く歩みではない。
だからこそ立ち止まりたくない、諦めたくないし憐れまれたくないという強い気持ちをキックボードに込めて、彼は15才最後の輝きを”間違い”が連れてきてくれた友達に見届けさせるために、必死に進んでいく。
一番年下なのに、一番大人びるしかなく、旅を先導するものなのに、その先にある新たな旅には、一緒に進んでいけない。
ドロップの抱える魅力的な矛盾が、足踏みを続ける平凡な少年と、つよがりな優しい優等生の間を繋ぎ、表にならなかった気持ちを暴き、摩擦熱で燃え上がらせ、それを背中に受けて先に進ませていく。

ロウマが自分なりの応えを、どん詰まりのダム湖で叫びながら見つける時、滅茶苦茶怒ってるのが僕は好きなんです。
あんだけ自分たちに特別なものを見せてくれた友達が、なぜか謝っている現実に。
そんな彼が死んでしまう運命に、何かを諦めさせてくる形のないものに、怒っても良いんだと彼が気づくことで、一度目の旅は宝物を見つけ、先に進んでいく。
この怒りは、ドングリーズの仲間にだけは限られた自分の命を”可哀想”と思ってほしくない、自分も思いたくないからこそ、足を止めず前に進みたかったドロップ自身の誇りが、どん詰まりで膝を曲げてしまった時真っ直ぐに伸ばさせる仕事もしている。
自分自身が凄く辛くて折れ曲がってしまった時に、他ならぬドロップが仲間に見せた命の煌きを、死ぬからこそのプライドをドロップだけには踏みつけにしてほしくなくて、ロウマはここで、ようやく怒れた。
そうして思いを燃やすことで、ボンヤリしていた世界の形が鮮明になった。
ロウマが大事だからこそ、かっこいい所しか見せたくねぇトトの健気を、少し離れた所でトランシーバー(ドロップと仲間たちを繋いでいた、子供の玩具)越しに聞くシーンも、山野の特別な美しさが軋轢を爆破して、虚飾を引っ剥がすシーンとして最高に良い。

ドングリーズは、とにかく仲間たちが好きなんですよね。
その純粋な気持ちは、高校一年生にはちょっと幼くて、でもそこに背伸びしきれないから(あるいは”当たり前”に背伸びした所で、もう残り少ない命に誇れる結果にはならないと知ってるから)こそ、彼らはとても高くて美しい景色を、みんなで見ることが出来る。
”ひと夏の冒険”つう、高1がやるにはちょいズレてるネタのミスマッチこそが、彼らがどんな人物であり、このお話がどんな事を語りたいかの真芯を射抜く、凄く大事な要点だと思います。
他人を踏みつけ、そんな自分の惨めさを顧みない”当たり前”に順応することが、果たして”成長”なのか。
誰かが用意したレールの上を、ふらつきながら進むことが”真っ当”なのか。
そんな周回遅れの悩みに囚われつつ、でも子供の純粋さを捨てきれない彼らは3人、お互いを本気で思いながら全力で回り道することで、自分たちだけの答えにたどり着く。
そして死の悲しみを超えてもう一度旅に出ることで、あの時見えた答えのもっと先にある、でも同じな応えを掴み直して、もう一度旅に出ていく。
今度の目的地はNY、あの時掴めなかった恋が待ってる場所へ。

一つの旅の終わり、一人の青年の死がそこで完結するのではなく、死んでなお燃え盛る愛を燃料に、新しい旅へと幾度も続いていく『終わらない旅の物語』として、この短めの映画がしっかり成立しているのは、凄く良いことだと思います。
子供たちが彼らなり、戯けたり頭を下げたりして表に出ないようにしてる純粋な気持ちを、けして譲らず諦めず生きる道が、ちゃんとあるんだと、それが”旅”なんだと、創作者達が作中のキャラクターにしっかり手渡ししてあげているのは、俺は凄く偉いと思う。

人が死んでしまう事実の重さ、それに対し自分に何が出来るかを短に考えるようになったロウマとトトは、あんだけ問題だった噂を何処か遠くに置いて、でも完全に無視はしないまま、ドロップのようながん患者のために髪を伸ばす。
クズどもは色々揶揄するけど、それはチクチク心に爪を立てるけど、でもそんなことより大事な宝物を見つけてしまった二人は、長髪を……”当たり前”ではない自分であることを恥はしない。
そうやって世界の真実に対し誠実に、”当たり前”から浮かび上がることで見えてくるものは、たしかにあったんだから。
ドロップの死を電話越し受け取り、幼年期の象徴だったアジトをぶっ壊して荼毘に付すユウマの心の嵐に、トトが音速で駆けつけて後ろから抱きしめてくれるの、マジでありがたいな、と思って見てました。(携帯が悲しい報せだけを届けるわけではなく、遠い世界の夢だと思ってたチボリとの繋がりとか、未来を切り開いていく地図アプリとか、色んな可能性の窓としても使われているのは、技術表現としてかなり好きなポイント)

あの時三人で駆けた森と空を、受け止めてくれるのはもう世界で二人きりしかいなくて。
旅で背丈が伸び、世界の外側が見えてしまったユウマ達に見えているものを、自分たちの魂を田舎の地べたに貼り付けてしまっている連中は、けして共有できない。
人があっさり死んだり、それでもなお心の奥に残っているというリアリティを、尊重することが出来ないまま、背丈だけどが伸びていく子供たちとはもう違う場所にいるから、ドロップの葬式は二人きりでやるし、彼の遺志が宿ったコーラを導きに、二度目の旅にも歩を進めていく。

そういう場所に子供らを押し出したのが、一見自分たちを閉じ込める壁にしか思えなかった山々の自然、そこに息づく美しい景色たちなのが、僕は好きです。
これも全然、事前情報では予期してなかった部分なんですが、このお話無茶苦茶アウトドアな、大自然満喫アクション巨編で。
こんなに自然に生身で体当たり、散々迷って試されて、でも山と空が全部包み込んで教えてくれる話だと思ってなかったんですが、草薙のぶっちぎった表現力がその当惑を、不意打ちの面白さにしっかり変えてもくれました。
どことは明言されないからこそ、山野のユートピアとしてキレイなもの、スゲェものしか存在してないいい具合の山中、滅茶苦茶ワクワクするんですよね。
『いいな~』って素直に思う。
身近にあったのに全然見えていなかっただろうその感覚を、ドングリーズとシンクロしながら追体験できるのは、メッチャ映画らしい体験だったと思います。
なにしろ最高に綺麗な景色しか存在しねぇので、アニメに落とし込まれた美麗な世界を胸いっぱい吸い込みたい人(僕とか)には、最高の映画でした。

 

二度目の旅で、あの時はヘンテコなガキのファンタジーでしかなかった場所に、ドロップ亡き世界に取り残されたロウマとトトが向かっていく旅なわけですが。
アイスランドでも草薙の美術は唸り、あの山の中で出逢った空とか滝とか岩とかトンネルとかの、また別の……でも何処か懐かしい顔が彫り込まれていきます。
あんまりにも漠然とした宝の地図に臆すことなく、回り道にこそ答えがあるともう知っている二人は、あの山の中よりもタフに世界を切り分けて、どっしり力強く異郷を進んでいく。
その果てにある黄金の滝の美しさ、巨大さには圧倒的な説得力があって、三人で見上げた星空とか、ドローンが捉えていた花火大会の真実の姿と同じく、彼らの旅がどんなものであったか、どれだけ眩しく輝いているかを、”絵”を用いて説得してくれます。

世界の果てにそびえる赤い電話ボックスはファンタジックな美しさでありながら圧倒的に実在の存在で、それがそこにあったからこそ、三人が三人としてあの夏旅立てた事が、最後の最後で種明かしされていく。
この作品、冒頭未来時間軸の記述があり、旅とドロップの死を折り返し点にしてそこからさらなる未来へと旅立ち、たどり着いた所で更に先へと旅立っていく、旅の次に旅が続き、時が行ったり来たりする構造なわけですが。
冒頭イメージシーンのように描かれたドロップの心象風景が、実はあの街の外側に実在する景色であり、時間を飛び越えて二人が生身の目でその現実を確かめる中で、一体何が運命を動かしていたか、その真実が顕になる。
その時旅と友情は確かな現実であり、だからこそ涙ながらに荼毘に付し受け止めなきゃいけなったドロップの死を巻き戻して、彼がどんな気持ちで”ドングリーズ”になったかを、子供たちに痛感させる。

それはロウマの古ぼけたカメラの中に残っていた、青の中の赤がどんな意味をもっていたか、本人が見つけるよりも早く気付けた……クソみたいないじめに屈することなく、正しく為すべきことを為すべきだと強く主張していた、一番年下なのに一番成熟していた(成熟せざるを得なかった)友達の視線に、ロウマたちが追いついた瞬間だったと思います。
ドロップが死に否応なく接しながら見つめた、アイスランドの絶景。
世界の果てで運命が終わる絶望と、それを越えて鳴り響く”間違い電話”を経たからこそ、彼はあの街に来て、ドングリーズになった。
その思いを間近に感じつつ、でもその真実を知らなかったからこそアイスランドまで来た少年たちは、旅をしたからこそもう一度ドロップの存在を強く感じ、あの夏知った『人間はあっさり死んでしまう』という事実を越えた、永遠の愛に出会い直すことも出来る。
それを知ることが、高校一年生にしては幼い大冒険に漕ぎ出したドングリーズの、二度目の成長なのだと思います。
それはあの田舎で”当たり前”になってしまっていたような、面白くもねぇ塵に汚れたオートマティックな成熟ではなく、本物の汗と涙と笑い声を三人で共有して、ボンクラ共がボンクラなり必死に走って、人生で大事に思えるものを腹の底から引っ張り出して見上げた旅の、先にある物語です。
やっぱ『二度の旅』という構造と、それを可能にするようにやや早めのBPMで展開する物語が薄味に、駆け足にならず、むしろ早いからこそ勢い良く、15才最後の冒険を活写していることが、このお話の強さだと思う。

ロウマは旅を終えて、次なる目的地としてNYを見定める。
そこにはドングリーズと一度も一緒に旅をしなかったチボリちゃんがいて、ロウマは恋も知らぬまま旅立っていたドロップが知らない世界へ、彼の魂を背負って飛び込んでいける。
彼があの田舎を出て、自分たちを取り巻く『壁』がどれだけ美しいものに溢れていたかを知ったからこそ、あの時ドロップがいたからこそ、そんな風により良い方向へと、ロウマ達は進んでいける。
トトが悩んでいた進路を、一度奪われたものを二度奪われないための闘いとして選び直し、自分だけの天職として”医師”を掴む歩みと、それはよく似ている。

チボリちゃんが遠い女で有り続けるのが、僕は好きです。
それはボンクラ男子三人組の”純度”が、異性と色恋を中心軸から遠ざけることで確保されているってだけでなく、いつか追いかけるべきとても綺麗なもの、遠くに置き去りにされながらどうしても目を離せない、花火や星に似た存在として、ロウマとこの物語を見事に牽引しているからです。
ロウマがNYに飛び立っていったチボリちゃんに追いついた時、一体何が始まってどんな言葉を交わすかは、描かれざる三度目の旅であり、しかしそこに様々な祝福が、生きることの喜びがあることは、映画に描かれた二度の旅でよく解っている。
そういう、少年があやふやででも確かな恋を追う物語……追っても良い自分になるまでの物語は、チボリちゃんが身近にいないからこそ成立するとも思います。
ロウマから見た彼女は浮世離れしたスーパーマンなんだけど、彼女なり震えながら中学時代をあの街で過ごし、ドングリーズと同じく揺れる心を持ってる少女なのだと、美しい花畑の会話から微かに伝わってくるのは、上品で誠実な描画だと思います。

 

未踏の森に旅立ち、死体を見つけて帰る。
やっぱ話の座組としてはスティーブン・キングの”The body”を思い出さざるを得ない物語ですが、ロウマとトトが見つける”Body”はさっきまで一緒に笑っていて、一緒にとても大事なものを語り合ったドロップの身体/死体です。
生身と亡霊を切り分ける/が、思いの外薄いことを思い知らされ、秘密基地に秘めた子供時代……止まった時計をぶっ壊して先に進む彼らは、二度目、三度目の旅へと進んでいく。
冒頭で示された結末をさらに越えて、実は街の側にいくらでも空いていた広い世界への扉を開けて、失われてしまった友達が何をみたのかを追体験し、世界の果てでもう一度出会い直す。
行って、戻ってくる。
物語の基本構造を丁寧に踏まえつつ、それをさらに越えて旅を続けていく貪欲な広がりを、短い尺の中でシャープに描ききったことで、非常に鮮烈に、ドングリーズの青春が……そこが終わりだったものの永遠と、そこを超えて進んでいける者たちへの祝福が、力強く優しく、息をしてる映画になったと思います。

とてもいい映画でした。
面白かったです、ありがとう。