イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

プロジェクトセカイ カラフルステージ感想:願いは、いつか朝をこえて

 界隈に激震走る、まふゆと絵名の青春がっぷり四つイベントである。
 片や絵画表現を巡る自意識との取っ組み合い、片や自由を縛る母性の鎖に雁字搦めと、ニーゴらしい難しさの中で生きている二人が雨の中出会い、とても近い距離で触れ合って、『またね』と約束を交わして離れていくお話だった。
 ”満たされぬペイルカラー””空のキャンバスに、描く私は”に続く描くからこそ苦しく尊い絵名の歩みとして、”囚われのマリオネット””灯のミラージュ””迷い子の子を引く、その先は”と続いてきたまふゆの暗く重い思春期のいちページとして、ニーゴらしく深い闇の中に確かに温もりと希望が宿るエピソードとなった。

 

 なによりもまず、東雲絵名のお話である。
 今回モノローグ特権は絵名にあり、彼女は言いたいことをいいやりたい事をやる自分……それを育んでくれた家族に足場を置きつつ、そうではなかった親友の環境は心情に、妙にプンプン憤りつつ近づいていく。
 『なんで怒んないの!?』と苛立ちながらも、まふゆの態度や言葉、表情を手がかりに色んなモノを想像し、自分に引き寄せながら他者に近づいていく歩みには、『人間はわかり会えない』という作品の前提が滲む。
 わかり会えないからこそ真摯に、わかることが出来ない自分の限界を見定め、それでもわかりたいと願う欲望を見据えて、どういう歩み寄り方で他人の心に近づいていけば良いのか、自分なりに選び取っていく。
 その意味を、絵名自身が学び取る過程が丁寧に描かれていて、そういう風に強く優しくなれている絵名の現状が、善く滲む話だったと思う。

 物語の最初と最後に挟み込まれている、雪平先生との授業。
 そこで絵名は至らない自分と自分の作品を客観的に見据えて、より上手くなろうと他者の言葉に、冷静に見据える。
 心が揺れないわけではないが、そこで波立つ感情を優先した所で望んでいるような絵はかけないし、ニーゴの皆に並び立つような自分でいるためには、耳に痛い言葉を噛み砕いて飲み干したほうが、薬になる。
 そう考えられるようになった絵名は、絵から離れた人間関係においても、自分と世界、自分と他人の距離を過剰に密着させず、適度に離して観察する視力を手に入れている。
 一度挫折した絵の道に、それでも戻ってきた絵名のクリエイティビティが。どんな温度と色合いで脈を打っているのか。
 彼女が絵画を通じた自己表現の何に悩み、どんな手応えを持っているのか。
 そこにかなり深いメスが入ったのが、プロセカらしい筆で好きである。

 同時に情に厚く行動をためらわない心の熱さも死んでおらず、胸の奥が冷え切って死にそうなまふゆを家に引き込み、母からの電話にまふゆが言えない嘘を並べ、書きたいと思った心に素直に、まふゆ自身が気づいていない思いをスケッチする。
 その有り様は、母を愛するがゆえにその願いに縛られ、殻を破って羽化する自然の流れを殺してしまっているまふゆとは、大きく違う。
 東雲家の母は、我が子の可能性を信じるからこそ余計な口出しをセず、望むままの未来へたどり着けるよう見守る。
 朝比奈家の母は『あなたのため』という呪いで縛りつつ、まふゆが何も出来ない子どもだと思い込んだまま、自分の望む未来を押し付けている。
 絵名はまふゆを間近に見つめることで、少なくとも母には恵まれていた自分を見つめ直すし、まふゆは言葉にできない心地よい差異を東雲家の食卓に感じながら、殺しきれない心のうねりを見つめることになる。

 

 自分の願いや在り方は、思いの外自分では見えない。
 外側から自分を見つめてくれる特別なあなたがいてくれるからこそ、自分が見据えるよりも真実な自画像が見えてくる事は、多々あるだろう。
 まゆふが気づいていない、大好きな母に反してでも叶えたい願い、魂を生かしてくれる喜びが、思わず溢れ出した瞬間を絵名の目は見落とさず、それをスケッチしたことで彼女の表現はより的確な、こう有りたいと願う形に近づいていく。
 まふゆもまた、絵名が寒い雨の中自分を見つけてくれたこと、自分のとは違っていて……でも心地よい食卓を同じく出来たこと、間近に作業工程を重ねたことで見えてきた思いを、自分に引き寄せる。

 まふゆは人当たりの良い仮面を外した時、幾度も『解らない』という。
 自分の気持ちや感覚を押し殺し、母の望む人形であり続けた時間が長すぎた結果、見えなくなってしまったもの。
 それは一朝一夕に蘇ることではないし、意思ある人間として一歩を進めることは、母との関係を壊すという怯えもある。
 それでも、分からないものを分かろうとして、そのヒントをくれるかけがえのないあなたと大事な時間を共有しながら、おずおずと『解らない』に近づいていく。
 そんな子どもじみた、切実で必至な歩みに絵名が寄り添っていてくれることに、かけがえなさとありがたさを感じた。

 わからないからこそわかろうとして、わかろうとしてもわからないモノの難しさと尊さを描く回なので、絵名以外の一人称は意識して省かれ、まふゆの渦巻く内心はその現れを通じてしか、絵名にも僕らにも見えない。
 人が他人を覗き込む時は、そういう不自由さが常につきまとい、だからこそ他者の思いを尊重し、おずおずと近づいて柔らかに触れる事が大事にある。
 まふゆの母は、この不可能性に鈍感なのか気づいていないのか、娘を完全に理解しコントロールできる前提で自己像と世界認識とコミュニケーションを作り上げて、そんなエゴイズムで娘を殺しかけている。
 他人を理解する難しさ、自分を把握する困難に思いが及ばないと、身勝手に完結した『あなたのため』で娘という他人を突き刺し、自分が定めたレールからはみ出せば鋳型にはめて殺しにかかる、無邪気で残酷な生き方をしてしまう。
 その固着した怪物性は、わからないからこそわかろうする子どもたちの歩みと真逆で、多分とても近い。

 

 子どもたちのおずおずとした接近姿勢は、普段とは逆にセカイから世界へと踏み出してきたレンくんにも通じている。
 彼の幼く真っ直ぐな”心配”があんまりにも優しくて、なにか言う度瞳が潤んだが、ここでまふゆに一番近しいニゴミクではなく、ニゴレンが前に立つのがちょっと面白かった。
 ミクもレンに負けぬほどまふゆを心配しているわけだが、しかし彼女は大事な友だちの強さを信じて、セカイで待つ。
 そこはナイトコードと同じく、いつか必ずまた合うことが出来る約束の場所で、まふゆは迷いつつもこれまで何度も、そこにちゃんと戻ってきたからだ。
 ミクはそのように、いつか帰る雛鳥の自由を尊重して待つことを選ぶが、幼さと純粋を体現するレンがまふゆを心配し、近づこうとする意思を挫いたりはしない。
 それもまた大切な自由で、わかり得ない誰かをそれでも大事にする心には、色んな現れ方があって良いのだと思えるくらいには、ニゴミクさんも己を育てている。
 それはすなわち、セカイの主であるまふゆの成長と重なっているのだろう。

 そんな孵化の気配を認められないからこそ、まふゆの母は娘のPCを勝手に覗き込み、交友関係を縛り、未来を鋳型にはめる。
 そこには『まふゆちゃんのママ』ではなくなっていくこと……何も出来ない幼子を世話することで、自己のアイデンティティを補強(あるいは窃盗)していた関係の破壊を、恐れる気持ちがあるのかもしれない。
 んなモンあろうがなかろうが、人間ひとりを死にたい消えたい以外無い気持ちに追い込むことが正当化されるわけではないが、まふゆの母が持つ一見怪物的な支配の構図は、凄く人間的な弱さから立ち上がっているものだと思う。
 この生々しい弱さを認めて、『お母さんも人間だ』と認めて万能の神様でなくすことへの怖さも、まふゆの冷たい従順の裏には、ある気がする。
 まこと、愛ゆえに人はお互いを縛り、その美名で誰かを殺す動物なのだ。

 同時にそうして縛られることへの恐怖や嫌悪感はまふゆにあって、しかし明瞭な形を取らない。
 本当は母の過干渉をはねのけたいまふゆの代わりに、『嘘つきの悪い子』になってあげる東雲絵名はあまりにも名誉”姉”過ぎて、弟と食卓で見せたイチャイチャと合わせて、あまりに優しく頼もしかった。
 あそこで携帯奪い取って、まふゆが言えなかった思いを小狡い立ち回りで叩きつけたのは『お姉ちゃんが代わりに行ってあげるからッ!』過ぎて、軽く涙が出た。
 わがままで身勝手な”悪い子”であることが、従順な”良い子”であることよりも魂を守る瞬間は確かにあって、しかしまふゆは”良い子”以外の生き様を知らない。
 それが自分の望みないと分かりつつ、幼年期のまま凍りついた母と自分の在り方を壊せず、身じろぎの仕方がわからなかった少女を見てられずに、鞘走った絵名の身勝手。
 それこそが、寒空よりもなお冷たい、母の待つ家に帰りたくなかったまふゆの心を救って、お互いにとって大事なものを守り、より深く解っていく特別な夜を生み出していく。
 その一歩一歩を丁寧に切り取る筆は、やっぱニーゴ特有の暗さと重さ、嘘のない温もりがしっかりあって、とても良かった。

 

 瑞希との向き合い方を見ても、絵名は直情的で感情主導の生き方をしている少女が、そういう自分らしさを維持したまま、信じて待つことの意味、足を止めて考えて得られる強さを、一つの主題にしているように思う。
 雪平先生の批評をどう受け止め、自分の糧にしていくかの変化もそうだし、自分と真逆に思えるまふゆの事情や気持ちを慮り、わからない存在をちょっとずつわかっていく歩みにも、そんな道程が滲む。
 パッション重点で安易に自己承認欲求を満たそうとしていた少女が、物語の蓄積を通じて手に入れたのは、慎重にわからないものの内側を覗き込む賢さと、己と異なる存在に怯えず糧に……あるいは祈りや願いに変えていく強さだ。
 それを絵筆に込めて、より自分らしくいられる可能性を求めてもがいている東雲絵名と彼女の家族……そして不定形の願いを追い求め続ける、彼女の親友の”今”をいきいきと描く、見事なスケッチでした。
 この一夜をこえてあしたにたどり着くには、まだまだ長い道が続いていくと思います。
 それでも、お互いをかけがえない鏡として自分の形を確かめながら、皆が進んでいく。
 その行く先が自由で、幸福であることを祈りつつ、次回を楽しみに待ちます。