イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

ぷにるはかわいスライム:第2巻感想

 週間コロコロ連載、ホビーと思春期に真摯に向き合うドタバタラブコメディ、待望の第二巻である。
 今回はぷにるとの甘酸っぱく騒々しい距離感から少し距離を取り、成長……とされるものとホビーの関係をさぐる御金賀アリス編に、結構な紙幅が割かれている。
 アリスは自分だけのお友達だったルンルーンも、間違いなくホビーであり(だからこそさまざまな”かわいい”に形を変えられる)ながら意志を持ち、言葉を返してくれるぷにるとコタローを羨んで、人型で喋るルンルーンを作り上げる。
 しかしそれは人造物の範疇を出ず、定められたルーチーンを空気を読まずに繰り返し、アリスが望む可能性に満ちた対話を実現はしてくれない。
 なまじっか人の形をしていればこそ、アリスは自分を愛する宝代が作り出したルンルーンを『ベツモノ』と遠ざけ、認めようとしない。

 そんな対応をされても、機械でホビーでしかないルンルーンは悲しまないはずなのに、コタロー達アリスのクラスメイトはアリスとルンルーンの関係を修復しようと、さんざん駆けずり回る。
 それが人の形をして、人が返す反応を模しているから生まれるものなのか……外形から生まれる印象は、本質を乗り越えて何かを生み出してしまうものなのか、思春期に差し掛かったキッズたちは結構シリアスに思い悩み、それはそれとしてワイワイ賑やかに、他人のために骨を折る。
 ヒロインであるぷにるが『女の形を選んだ人造生物』である以上、”そう見えること”と”そうであること”の差異と接続はこのお話の大事なテーマだし、コタローとぷにるがそこに向き合った時、物語の終わりが始まる大事なスイッチでもある。
 アリスとルンルーンの関係、そこに生まれた断絶になにかモヤモヤする思いを抱く子どもたちのストーリーは、いつかこのお話の主役たちが向き合うことになる核を先取りし、同時に神様に選ばれず意志が芽生えななかった『ただのホビー』とその友達に、幸せな結末を探していくまた別のお話でもある。

 

 人間として成長途中の少年として、ぷにるの特別性を結構クレバーに把握しているコタローが、アリスが表に出さない羨ましさ、切なさをしっかり把握してぷにるに伝えようとして、伝わりきらない描写が好きだ。
 偶然生まれてしまった人造生命として、コタローの望みを無垢に受信して”異”性の形を選んだ存在として、ぷにるは自分の特別さを自覚しないし、その無邪気さが時にコタローを惑わし、あるいは救っていたりもする。
 人間ではないのだから人間の心の機微ってのにアンテナ低いのは当然で、ぷにるの教官はむしろ同じホビーであり人造物であるルンルーンへと向いている。
 異質だがそれはたしかに”共感”で、コタローが文句たれつつアリスとルンルーンの関係を修復しようと骨を折るのと、同じ場所から出ているものだ……と、ヒューマニズムに毒された読者としては信じたくなる。

 大騒動の果てに、AIが偶然選びとった『ごめんなさい』を心に届けて、アリスは形や対話可能性にとらわれるのを止めて、ホビーでしかなくホビーであってくれる、自分だけのルンルーンと向き合い直す。
 あの『ごめんなさい』はバラバラの歯車が偶然噛み合ってしまったような、意思のない機械のよろめきでしかないのだけども、そこに共感を引っ張り出され、自分が何を見落としていたのか考え直せてしまうのが、人というものなのだろう。
 騒がしく過ぎていく日々の中で、ぷにるとの距離感や雲母先輩との恋模様に悩むコタローだけでなく、無邪気で無垢なはずのぷにるもまた、確かに変わっていく世界と自分を立ち止まって見つめ、かみ合わせを探す視線。
 それと同じものが、アリスと(沢山の現れ方がある)ルンルーンの間にも繋がって、アリスは『私のルンルーン』といるだけで満たされていた幼い日々を思い出し、そこに立ち返っていく。
 ベツモノはルンルと言う新たな名前をぷにるによって与えられ、教室備え付けのホビーとして、人間に似た形をした隣人として、クラスに居場所を得ることになる。
 ルンルに意志はなく、それはそれがあって欲しいと望むエゴが生んだ幻影だから、アリスとルンルーン(達)を巡る騒動は色々ややこしかったわけだが、しかしそんな幻を見つめられることは、無邪気な子どもにとっても、そこからはみ出して身悶えする思春期の少年少女にも、とても大事なことなのではないか。
 そんな事を感じさせてくれる、良い漫画である。

 

 後半は夏休みを舞台に、ぷにるとコタローの楽しい日々が描かれる。
 母性という怪物をコミカルにブン回す雲母先輩が、避暑地ぷにるが見事に体現する甘酸っぱくかけがえない夏感を背景に、ただのコミック・リリーフではない複雑な内面をちょっと覗かしてきているのが、なかなかに面白い。
 グラマラスな肉体、それが成長して着れる水着がないことに悩む彼女は、ブラックコーヒーを飲めない。
 コタローからは大人びた憧れに見える彼女も、自身のうちで息づく子どもっぽさと、それを噛み破って育つ心身の途中にたつ、一人の青年である。
 そんな彼女が見据えている世界は、大きな身の丈に相応しくコタローよりちょっと高みにあって、あらゆる幼子を抱き潰す凶暴な母性も、理由なき記号の貼付けではないな、という感じがする。

 かっこよく、男らしく、大人っぽく。
 身の丈に合わないイメージに振り回され、背伸びを続けるコタローにとって、『雲母先輩に憧れている自分』はガキっぽい過去とは違う、為りたい自分なのだという、証明のスタンプなのかもしれない。
 そういう他人へのイメージの押しつけと、根っから善良でそんな自分にも素直になれない年頃の心が入り混じったコタローの視線は、やっぱり雲母先輩のそれとはズレている。
 ズレていても繋がれるのが人の良い所で、ズレてしまっていては色々厄介が起こることも、このお話は既に描いている。
 夏の太陽に照らされた思いは、今後どんな進展を見せるのか。
 なかなか楽しみである。

 コタローがぷにるを餌に雲母先輩と距離を詰めようとするので、ぷにると先輩が抱き潰す以上の親密さで繋がってきちゃってるのは、微笑ましくも興味深い。
 ”男”であるコタローはカワイイを堂々語ることを許されず、そんな社会的判断を自分に引き受けて、コタローはカワイイが好きな自分を表にすることを許さない。
 そんな彼の秘密をゼロ距離で確認し、無防備な姿を常時見据えているのも、またぷにるである。
 ぷにるは女の形をしているのでカワイイを堂々吠えれるし、それを追求した結果(コタローが封じている願いを引き受ける形で)女の形になってもいる。
 その特権が、コタローよりもむしろぷにるをこそ、憧れの先輩と近づける皮肉な理由になっているのは、チャーミングな複雑怪奇だ。

 ここら辺、ジメジメぷにるを巡る博士の研究でひっそり言及されていた、『構成物質がぷにるのあり方を決めるのではなく、形而上的な精神の核……ナイーブな言い回しを選べば”魂”の在り方でぷにるの形が変わる』という描写と、面白い呼応だと思う。
 スライムというホビーが持つ可塑性を、発想と欲望次第で何にでもなれ、何ものにも成りえてしまう自由さとして、”らしさ”の鎖でがんじがらめになってる思春期のコタローと対比する作劇は、ぷにるにカワイイ自由を与える。
 しかし様々に姿を変え毎話僕を楽しませてくれる彼女のカワイイ志向は、大事な友だちであり唯一絶対の創造主でもあるコタローの、自分に向くのか他人に向くのか世界に向くのか、それすらも無分化で純粋な願いを反射したものではないのか。
 『かわいく在りたいスライムのぷにる』という、タイトルを堂々占拠しているアイデンティティは、果たしてどこから来るのか。
 その願いは、ぷにるとコタローをどこに運んでいくのか。
 ぼくとコタローは、俺とぷにるは、一体何なのか。
 いかにもコロコロらしい(ことを、プライドを込めて選び取っている)喧騒の合間、例えば第16話78ページ、第17話84ページに、フッと降り立つ青春の凪。
 その穏やかな思弁性が、圧倒的にジュブナイルで好きだ。

 物語は暑い夏を超えて、文化祭へと進んでいく。
 続刊も、大変楽しみだ。