人と怪物を隔てるものを問う奇想の旅路、ストーンオーシャン第21話である。
徐倫とアナスイが”ヨーヨーマッ”を退け緑色の赤ん坊を追う中、F・Fは”ホワイト・スネイク”の本体……DIOの遺志を継ぐプッチ神父と対峙する。
激闘の中消えていく命と心で、人ならざるものは何を思うか……という局面である。
絶体絶命の強敵を前にして、F・Fは遺言のように己の人生を探り、生きる意味を心の中に噛みしめる。
それは強い決意を込めた美しい顔をしていて、まばゆい意志の光をプランクトン人間に届けてくれる。
驚異的な再生能力を持つF・Fが、常人なら百回死んでるようなダメージを乗り越え……むしろそれを武器に変えてD&Gをぶっ殺し、遠くで闘う徐倫を助ける道を選ぶ今回。
現実として起こっていることは常識離れ、人間離れしているけども、そこに宿る想いは何よりも熱く激しい。
このまま死んでしまってもいいと、生きている意味はここにしかないのだと思えるような、魂が燃え盛る一瞬。
確かに自分の命か、果たすべき使命か問われて悩む瞬間はあっても、その葛藤を乗り越えて自分のすべてを投げ出し、未来に賭けれる鮮烈な生き様。
そういうモノを、F・Fは彼女に力と命と意思を与えた造物主(ある意味、彼女のDIO)たる神父に問われながら、激しく燃やしていく。
F・Fは”知性”という、ともすればそんな命の炎とは遠い場所にありそうな冷たい言葉を、自分が人間である証に選ぶ。
それは思い出を魂に刻むことであり、生きている実感を心に焼き付けることだ。
客観的で冷静な、たった一度の人生からどこか隔たった賢い言葉ではなく、奇っ怪な怪物として生み出され、DISCを守る使命には生きている実感がなく、しかしそこにこもる真実の遺志を徐倫に見出されて人の形を取った後、全てを覚えてられるような……そしてその全てを捨てられるような、熱い脈動だ。
それはDISCが物質化し、奪い去る記憶や能力には焼き付かない。
プッチ神父には奪えない、時間稼ぎをされる危険があっても聞き出すしかなかった『印象』こそが、F・Fにとっての”知性”だ。
それがスタンド能力者だけが飛び込める異能の戦いよりむしろ、ひどくありふれた刑務所の日常に深く食い込んでいるのが、美しくも寂しい。
キャッチボールして、常識を教えてもらって、笑って怒って戦って。
『私がお前の作り主、生き方を決める神だ』とふんぞり返る神父が押し付けた、機械のような日々では得られなかった充実がF・Fの希望となり、戦う意味となり、死んでなお残る思い出になっていく。
生死を分かつ非日常的瞬間に、最後に閃光のように瞬くのはあまりに当たり前の日々で、それをF・Fが得れたこと、もう徐倫たちと共有できないことが誇らしくも寂しい。
神父は過去に出逢った彼の邪悪なるDIOを追い求め、数多の悪行を重ね他人を利用し遠ざけ、思い出の中知り得なかった”天国”を探している。
彼は邪悪で孤独で、死せる吸血鬼の思い出を追いかけることでしか生の実感を得られない。
思い出こそが活きる道標になっているという意味では、F・F(彼女の光である徐倫)と同じだが、全てが満たされるべき一瞬へ進んでいく道は凶暴で身勝手で、一人寂しい。
神父には命懸けで使命を助けてくれる親友はいないし、なまじっか”ホワイト・スネイク”で力や記憶を物質家できる分、F・Fをこの死地で突き動かしているモノの価値が分からない。
プランクトンに力を与え、人間様にしてやったのはあくまでこの俺で、行き方も死に方も俺が決めるのだ。
そんな傲慢が臭う。
徐倫は激闘の果てに、F・Fに鋼のような意思を感じ取り水を分け与えた。
自分で生き方を決めて、隣に立つ仲間でいる自由を認めた。
その気高い在り方を間近に受け取って、F・Fは真実”F・F”となった。
時間だけ長いDICK防衛の思い出が灰色に薄く、短かったはずの日々が黄金に思えるのも、出会いと自由が豊かに入り混じった人間の証明が、そこに宿っているからだ。
それをなにより尊いと思える気持ちこそが”知性”なのだと、F・Fはいう。
現実的な道理や冷たい因果関係ではなく、自分の隣に立つ女の子から受け取った”印象”こそが世界の真実で、何もかもを投げ出して未来に飛び出す理由なのだと。
それはDIOに呪われ神を気取る神父には、けして到達できない光だ。
DISCを叩き込んで破滅の力を与え、その意志を砕こうと襲いかかる強大な邪悪には、けして受け取れない柔らかな思いだ。
邪悪な神達が、どれだけ圧倒的なパワーで思い出や意思や運命を踏みにじってもたどり着けず、理解も出来ない生きる光が、異形をむき出しにただ一つのメッセージを届けようと叫ぶF・Fからは強く放たれている。
それはこのままボコボコと沸騰して消えていってしまうのか、それとも何かを遺すのか。
思い出のためにすべてを託したF・Fの生き様は、また誰かの思い出になって何かを変えて、灰色の世界に生きている誰かに届くのだろうか。
生きるに足りる……つまりは死ぬに足りる理由となった徐倫は、F・Fの死に何を思うのだろうか。
原作を既に読んでいる僕は知っていて、アニメでもう一度出会い直す。
多分今まで幾度もそうしていたように、泣いてしまうだろう。
やっぱ六部は、ここが一番好きだ。(他にも”一番好き”な場面が山盛り合って、困ってしまうのだけども)
F・Fが魂の死闘を繰り広げる裏側で、徐倫とアナスイもまた”奇妙な冒険”を繰り広げていた。
ゼノンのパラドックスを地で行く、永遠と無限分割の奇っ怪なバトル。
サイズ感が瞬間瞬間で切り替わるので、見てる側の認識が揺さぶられめまいしてくるのは、スペキュラティブ・ホラーとして鮮烈な体験だ。
見てるこっちが頭おかしくなりそうなのに、凄みと気合で異様な状況に怯まずツッコむスタンスは、タフで眩しい。
けしてたどり着けない永遠に、それでもしがみつき追いつこうとする徐倫の歩みは、F・Fいうところの”知性”に……父へ一心不乱な愛に突き動かされている。
そのガムシャラだけでは過酷なルールに叩き潰されて終わるところを、アナスイのあくまでクレバーな対応が上手く補助して、しかし決着は奇妙にあっけない。
興味。
追いつけないのなら追いつかせればいいと、極大と極小が激しいダンスを踊る渦中で掴んだ真実は、緑色の指で徐倫の背中を押す。
不気味で、奇妙に美しい光景だ。
闇の中にこそ輝くかそけき星の光を、ジョナサンの首から下……ジョースターの血脈を則ったDIOの骨から生まれたものも刻まれ、追い求める。
それが太陽ではない所に”吸血鬼”の象徴性を感じるし、その由来を徐倫が知らぬまま、DIOの奇妙な息子に血脈の証が求められている状況にも、不思議な因縁を見つけられる。
何しろ不気味な超存在なので、色んな犠牲とグロテスクな超越を経て生まれたこの赤ん坊が何を考えているのか……生きるに足りる”知性”と”印象”が何に宿るのか、読みきれないところがある。
愛に狂うアナスイは横恋慕混じりで、DIOの末裔に宿る邪悪さを感じ取り、慈しむよりも殺すことを第一選択肢とする。
奇妙に繋がれてきた血と思いは、果たして時を超えて同じ邪悪さで燃えるのか。
……ここら辺、”DIOの息子”を主役とし、人生の裏街道を走るギャングスタを扱った第5部で扱ったネタでもあるか。
徐倫はF・Fに水を与えたその掌で、すがる赤ん坊を抱きしめる。
その優しさが危機を呼ぶことがあっても、色んな人に生きる意味を与える眩さを消すことは出来ない。
一心不乱の集中力、それが生み出す強さを柔らかな意思で包みながら、永遠に遠い使命へひた走る徐倫の歩みは続く。
たとえその旅路から、戦友がいなくなったとしても。
それでも、遺るものがあるのなら。
次回、ニュー神父。
『ノリノリだなサブタイ……』などと思いつつ、戦いの行方をアニメがどう描くのか、大変楽しみだ。