イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

映画”アイカツ! 10th STORY ~未来へのSTARWAY~”感想

 アイカツ十周年記念映画であり、確実に一つの終わりである映画”アイカツ! 10th STORY ~未来へのSTARWAY~”を見てきたので感想を書きます。
 正直自分と”アイカツ!”との関係は気づけば複雑に拗れて、客観的で率直な感想というのは書けない状態です。
 なので思いついたままを書きなぐっていく、捻くれて個人的な文章になることを最初にお断りしておきます。
 そういう状態だと文章を書かずに終えてしまうことも多いわけですが、この状況にこの映画を10年分の物語、一つの答えとして叩きつけられて何も言わないのは、アイカツ! にもアイカツが好きな自分にも嘘つきだと考え、書いていくことにします。

 この映画を”お勧め”出来るか。
 もはやそういう立場になってしまった自分からは、作品を見る眼鏡に色が付きすぎてて何とも言えないし、ありったけの思いを全力の本気で叩きつけた結果ある種の”鏡”のようになったこのお話は、見た人の好きだったアイカツ、求めていたアイカツが強く反射して、否応なく個人的な映画にならざるをえないようなうねりが、作品の内側と10年分色んなモノが積み上がってきた外側に、うず高く積まれている気もします。
 そういう前提を踏まえた上で、ネタバレにならない感想を書き記しておくと、見て良かったです。
 10年前に始まった物語が何であり、どのように時を過ごし時空を越えて僕の手元に届いたかを、この最後になるだろうアイカツ映画が全力で削り出し、嘘のない輝きで思い出の中の未来を描いてくれたことに、強く感謝しています。
 かつて”アイカツ!”に出逢った人たち、未だ心の中で”アイカツ!”が終わってくれてない人ほど、今見たほうが良い映画だと思います。

 

 

 

 というわけで、さんざん言い訳を重ねた上で本文に入る。
 難しい。
 それは80分の謎掛けのように、三年半のTV放送全域……を更に超えて、作り手の内側と受け取る側の心にぶっ刺さってしまった”アイカツ”に言及し、解釈し、解体し、再構築していく映画自体の難しさであり、そういうモノを今ここに叩きつけなければならなかった製作者たちに向き合う難しさであり、この渾身の遺言状であり挑戦状を受け取って自分がどうなっているのか、言葉で切開していく難しさでもある。
 それなり以上の長さでオタクをやってきて、コンテンツとの向き合い方がこうも拗れているのは”アイカツ!”だけであり、かつて触れた奇跡の片鱗を追い求めて身勝手な稀代を勝手に膨らませ、裏切られたと思い込んで距離を取って沈み込み、あるいは未だ何も終わってはいないのだと顔を上げて、現実に追い抜かれてここに至ってしまった自分を思うと、なんとも厄介でやりきれない。
 そういうドブ色のエゴを拭って、客観的に作品を語れれば良いのだろうけども、今回ばかりはその手法では何も書ききれないと思うので、『アイカツ! と僕』という形でここから書いていく。

 去年夏にアイプラ映画と抱き合わせで上映された冒頭30分は、定番ネタをぎっしりギフトボックスに詰め込んだような展開に、学園という揺り籠を出て自分の足で未来に進み別れていくかつての一年生の勇姿と、本編最終話で一つの到達点として描写されたCosmosが実際に活動している様子を足し、卒業ライブへの一歩を踏み出して終わる映画だった。
 10年の歩みが終わり、筐体が撤去される現状最後の棺の釘として打ち込むには、後ろを向いた展開だな……と感じ、憤ったことを覚えている。
 かつてキレイだった思い出を、永遠に終わらない黄金期をノスタルジックに描き切り、『ああ、昔はよかったね』で収まる同窓会を来年開くのかと思うと、かなりガックリ肩を落とした。
 そういう終わり方、ファンへの報い方は当然あろうけども、僕は”アイカツ!”に野心的な現在進行系の物語であり続けてほしくて、その高望みが叶わず勝手に失望する体験に既に疲れ果てて、ひどく暑い帰り道にうなだれていた。

 かくして年が明け、今度はひどく寒い空気を切り裂くように映画館に向かった。
 何がどうあれ、オフィシャルに打ち下ろされる最後の一撃を見届けないことには僕の中の”アイカツ!”は終わってくれないし、それはガッカリしたり『まぁ、こんなもんだよね』と吐き気を飲み込んで、大人びた表情で唇を引きつらせるよりも厳しい体験だったから、この映画は見なければならなかった。
 そうして愛しさと不安と憎悪と……10年分腐り果てた感情を抱えて映画館に入って、殴りつけられてフラフラと外に出た。
 もう、寒くはなかった。

 

 楽曲の数を絞り、往年の名曲で約束されたエモーションを回収することよりも、この映画は22歳になった少女たちの今を、どっしり腰を下ろして描く方向に舵を切った。
 それはかつてカレンダーガールで歌われた『”なんてことない毎日がかけがえない”という大人』になってしまった少女たちが、それでもかつて少女だったからこそ今を突き進むための燃料を黄金の季節から受け取り、あるいはそれを永遠にするために自発的に、せき止め得ない時の定めを後ろ向きなマイナスではなく、前向きなプラスへと捻じ曲げていくための静かな決意を描く、異様で奇妙で真摯な力みに溢れていた。
 例えばあかりジェネレーションへのブリッジという意味合いも濃くあった劇場版第一作は、キャッチーなフックにあふれステージを皆で作り上げていくやり甲斐に満ち、そこからアイカツ! に入っていく道をしっかり整備した、独立性の高い映画であったように思う。
 しかしこの映画が真実心に刺さるのは、やっぱり無印アイカツ全178話を見続けて、心の中にあの子達が住んでしまった特別な(あるいはイカれた)ファンであろうし、描かれない様々なウィンクの先に思いを馳せるべく、本筋は徹底してタイトなのに不親切なファンサービスが多い、かなり歪な作品であろう。
 そういう異様なフォームを取らなければいけない理由が、”アイカツ!”からのラストメッセージとなる今回には当然あったんだろうし、それは作品の外側と同時に、ここにいたるまで積み上げられた物語と、それを受け取って人の心の中に生まれた音楽の、豊かで恐ろしくすらある合奏の結果なのだと思う。

 卒業ライブを作り上げていく過程はモンタージュで手早く済まされ、あおいがLAに旅立つ時いちごと蘭はなかない。
 それらは既に描かれたシーンであり、18歳のいちごは”大スター宮いちご祭り”を成功させた星宮いちごであり、”カレンダーガール”をバックに涙ながら見送られた星宮いちごだからだ。
 既に描かれたものにかまっている暇はなく、しかし確かに積み上げたものだけが可能にする未来向きの今を、必死に紡ぐ。
 幾度も繰り返される、終わり離れていくからこそ何もかもが始まり、そこには輝く思い出が導きとなって未来を照らすというメッセージは、今回の映画で初めて出てきたわけではない。
 1stEDである”カレンダーガール”、あるいは4thOPである”SHINING LINE*”。
 作中で再演され引用される名曲たちが既に語っていた”あの時”の、その先を具体的に描く意味と意義をこの映画に見出したからこそ、22歳のいちご達は同窓会的ノスタルジーの尺を追い出すかのように、執拗かつ重厚なリアリティで”今”を積み上げていく。
 思い出が未来の中にあるように、未来は思い出の中にしか無いのなら、新たに進み出すこの時(それはつまり、氷の森に全てが美しく封じられていく終わりの瞬間でもある)に言うべきことは、かつて幾度も言い続け、しかしその実像を描かれなかったばしょにこそあるはずで、あるべきだ。
 この映画は、そういうモノを追う。

 

 22歳の”今”と思い出の中の時間は、かなりシームレスに描写されている。
 4年分大人び髪型が変わり、思い通りに行かない仕事のストレスを燃料にBMWを爆走させたり、トマトジュースではなくワインで泥酔したり、超サラッとタクシー使いこなしたり、『どう仕事をするか』ではなく『どう”星宮いちごであるか”』を追求する段階にまで自分を高めていたり、少女たちは大きく……ショッキングなほどに変化している。
 しかしそれはまだ幼さを残し得た最後の季節と確かに繋がっていて、待受に切り取られた永遠の一瞬はあおいが四年前の約束をたしかに果たしに来る瞬間を待って、再び動き出していく。
 過ぎ去った時間はいつでも”今”の中確かに息をしていて、区別も分断もなくスルリと時を飛び越えていく。
 それは22歳の……その立ち姿と仕事ぶり、仕事の疲れのふっとばし加減を見るだに+10歳は余裕でしていい星宮いちご達の時間間隔を、強く反映した表現なのだと思う。

 ステージ表現の最前線を最高速で走り続けている”星宮いちご”への信頼と憧れは分厚く、いちごちゃんはそれを一切裏切ることなく、憧れ頼られるに相応しいアイドルとしての態度で、自分の理想をどう形にしたものか悩む。
 蘭も途中参加になった演技という領域で、評価されるに足りる自分を粘り強く作り上げ、その土台を壊して新たに飛び立つ重圧に武者震いしている。
 そんなハードコアで充実した彼女たちの人生にはお酒と温泉が付き従い、増えた力量と影響力だけ高まるプレッシャーに負けないよう、楽しく前に進んでいく方法を身に着けてもいる。
 どう聞いても全然大丈夫じゃないけど、自分に言い聞かせるように『大丈夫なのよ!』を繰り返すユリカの酔態も、かえでが支えてくれるのならば目的地へと必ずたどり着けるだろう。
 そういう大人で、当たり前な人生の重たさと面白さに満ちた”今”の手触りは、おそらく世界で一番”アイカツ!”のこと考え続けてきたスタッフの手による、オフィシャルな未来として描かれるからこその破壊力を持っている。

 それが語るのは時は確かに先に進み、始まったものは必ず終わるという、あまりにも当たり前でつまらなくすらある必然だ。
 あまりにもまばゆい青春の只中で、永遠に思える青春をかけていた少女たちの時計はたしかに進んで、スターライト学園を裁縫するのはまばゆい太陽の時間ではなく、何かが確かに終わってそれでもなお瞬き続けている、人気のない夜になる。
 あの子達が生きて変わっていて、それでも消えない何かが確かにずっと残り続けている(あるいは残るものがあるからこそ、より良く変わり続けていられる)という描写は、あかりちゃんに主役が移り変わり、かつての主役たちの出番が減って『いい先輩』『いい先生』になっていった、3rdシーズン以降の歩みに既に宿っていたものでもある。
 ここでも未来は思い出の中にしか無いわけだが、しかし制服を着込み学園に守られていた時代と、そこを巣立って自分だけの衣装で一人立つ(つまり、一人ではないからこそ立てる)”今”とは、なにか決定的な変化がある。
 しかしそれは致命的ではないのだと、22歳になった彼女たちの横顔は良く語ってもくれる。
 みな自分たちが選んだ戦場の中で、揺らぎ悩みながらも自分の中から答えを絞り出すようにして前に進み、確かに己が足跡を刻みながら先に進んできた自分にプライドをもって、立派に強い風の中立っていた。
 それはあの楽園の中で育まれた、けして何かを恨まず輝きに満ちていた楽土の空気とは違っていて、しかし繋がってもいて、描いているものの全部が、描きたいものにつながっているような表現だったと思う。

 

 流れ変わっていく時間の中で、その最後にソレイユは強く語りかける。
 ここまでとこれからをいちごが語る時、あまりにもダイレクトに”きみ”に語りかけてくるのは、一種暴力的でもあるメッセージ性だと感じた。
 それは架空世界の観客に向けてと同時に、あるいはそれ以上に10年分の荷物を担いで激情の闇に身を潜めている俺の、あるいは隣りにいる貴方の、この文章を見ている貴方のための言葉だった。
 たとえ自分がそうと認められない状況にいるとしても、確かに頑張った分だけ遠くに来ている。
 そしてその歩みはよろめきつつも止まることなく、振り返ってみれば何も出来ていない未熟に苦笑いし、叶うかわからない約束をそれでも未来に向かって投げかけて、必死に確かに一歩ずつ進んでいけるものなのだと、三人は”キミ”に告げてくる。
 ここで終わっていく(意識がなければ、あまりにも美しい夢を氷に閉ざし妖精たちが踊る”氷の森”をEDにはしないだろう)アイカツ! が10年編み上げたもの、それを心の何処かに刻みながら”キミ”が手に入れたものを、私たちは肯定する。
 世界はそんな約束に満ちていないことを、この物語を包囲する文脈それ自体が既に語っていながら、永遠などどこにもないのだとわかりつつ、永遠に刷新され続ける無限に目を向ける。
 その約束を4年間、バーテンの役が染み込むほど演技に努力したり、幾度も最高を更新しただろうステージを積み重ねてきたり、ハードな勉学に日夜励んでもう一度フアンに向き合える自分に近づいていったりして、彼女たちは叶えた。
 そんな風に綺麗な祈りは現実になって、それを追い抜いてまた約束が積み上がっていくのだという証明ツォいて、22歳の肖像画は分厚く、かなりの力を込めて叩きつけられなければいけなかったのだと思う。

 蘭もあおいも前半かなり早い段階で進路を決め、いちごも未来の大筋は(過去成し遂げてきた、あまりにも眩しい栄光に照らされながら)見定めつつ、ではどんな”アイドル”になるかを探し続ける。
 もう一度会いに来てもらえるような、そのための元気を日常に持っていけるようなアイドル。
 結局そんな答えを自分に定めて、星宮いちごは22歳になっても最強無敵のオリジナルスターとして、眩しく輝き続けている。
 それは劇中のキャラクターとしての星宮いちごが、どういう人生を選んだかというだけで終わらず、彼女がアイコンを務める(務めざるを得なかったから10年で終わる)”アイカツ!”を、どんな作品として胸にとどめて欲しいのかという、ある種の注意書きのようにも感じた。
 この映画を見てしまった後では、僕の人生がぐにゃっとねじ曲がった時、心の何処かで”アイカツ!”のことを思い出すと思う。
 プレイリストからお気に入りの楽曲を選んで、ベッコベコに凹んだ心に栄養をもらって、『もうちょっと、頑張るか!』と立ち上がる体験は、既に幾度かしている。
 ずっと向かい合いで物語との対話を続けられる時間は6年すこし前に終わっていて、あの最終回から既にそういう、思い出し向き合い直し立ち去っていく非日常として、”アイカツ!”はあったのかもしれないけど。
 それでも新たに、星宮いちごは思い出の先でずっと待っていてくれることを、そこで僕が忘れかけた何かを差し出し思い出させてくれることを、この映画の中で約束し、体現してくれた。

 彼女自身、4年前に大きく叫んだ決意に、あるいはそれ以前様々なステージで成し遂げ作り上げてきた思い出に支えられて、あの忙しくやり甲斐ある時間を走っている。
 私の(私たちの、キミとの)アツいアイドル活動は確かにそこにあって、それがあるからこそ”今”とその先に向けて進んでいける。
 そういう、よろめき変化していく生物としての星宮いちごの顔を眩しく描き、それが本当にたくさんの人たちとの出会いと結びつきによって支えられ、磨き上げられていたのだと確認して、映画は新たな旅立ちへと突き進んでいく。
 酒に酔いもすれば、迷って答えを探しもする星宮いちご達を描いたことで、僕たちが”アイカツ!”に身勝手に求めた”癒やしと救い”ってのが、当人たちも大事にすがる必須栄養素なのだと告げる形にもなっている。
 それはより真に迫って、このラストメッセージを僕らの側に引き寄せて、”アイカツ!”が生んできたものを呪いに変えず、祈りのままにするために必要な物語であったと思う。

 この前進変化主義が跳ね除ける、静止した美しい永遠への魅惑を確かに”アイカツ!”が生み出していた事実を製作者たちも理解しているからこそ、EDテーマは妖精たちが踊る”氷の森”の幕引きであり、暴力的に”答え”を叩きつけるダメ押しの”SHINING LINE*”なのだと思う。
 綺麗な思い出だけを積み上げ、終わらない青春の果てにあるものなど紡がずに、物語を終えることは可能だったと思う。
 しかしドリアカやらりさののやらその他色んなアイドルたちを(多分血が滲むような思いで)バッサリ切り捨て、作った時間をいちご達の”今”に当てる作りは、手渡しの希望が切り開いていく連続体を、その活きた息吹を届けるため選ばれた表現だったと思う。
 閉じた幕が再び開いて、いつかの約束を取り戻すように運命が動き出す時は、来るかもしれないし来ないかもしれない。
 その時まで眩しくて目を背けることを許されない、確かにそこにあった思い出を美しく保存してくれる氷の棺としても、この映画は機能すると思う。
 そしてその優しい静止は、いつでも動き直して前へ転がっていけるという約束と、常にセットだ。
 実際にそういう奇跡が、綺麗ごとに聞こえる夢を現実にしていってしまう事実は、22歳の星宮いちごがその生き方で体現しているのだから。

 

 あるいは。
 思いでに”アイカツ”を凍らせて綺麗に終わっていくのではなく、今この末期にあえて新たなものを描き、見ているものの顔面をはっ倒すようなショックで殴りかかってきた作りは、製作者サイドからの猛烈な抗議なのかもしれない。
 10年前に始まった”アイカツ!”はここで終わるが、しかし未だなお、今だからこそ野心に満ちた希望をドラマの中で強く描き、チャーミングでイキイキとした少女の立ち姿に反射させる腕力を、確かに有しているんだ。
 そういう証明を、しっかり果たして幕を閉じたかったのかもしれない。
  もしそうだとしたら、確かに猛烈で強烈なパンチだったと、フラフラ分けのわからぬままここまで文章を書いてきた僕が、被害を証言する。
 ずっと”アイカツ!”に殴られてきて、もう一度殴られたかった自分を思い出せる映画であったことに、強い感謝があります。
 そういう一発をずっとブチ込んできたし、ずっと作り続けるんだという思いが映画から滲んでいるように思えて、奇妙に愛おしく、その刻印をなぜるような映画でした。

 ここまで書いて、やっぱりあくまでとても個人的な、『僕とアイカツ!』にしかならなかったと思います。
 でもそれを書かせてくれる映画だったのは間違いがなく、そんな個人的で密接で、けして客観に引き剥がされることが出来ない痛みとぬくもりに満ちた距離感が、『僕とアイカツ!』には確かにあったのだと。
 その足跡を後ろに見つめて、まだこの先も一緒に歩いていいのだと、思わせてくれる映画でした。

 ありがとう、さようなら。
 いつか、煌く星の道の果てでまた会おう。

 

 

 ・1/25追記

 22歳、学園を出て生っぽい現実の中自分なりの道を真っ直ぐすsんでいる星宮いちごの分厚い描写は、このアニメのメインターゲットがかつて”アイカツ!”を見て心に突き刺さったまま、もはや子どもではない厳しさをそれぞれ生きている”キミ”であることを示していると思う。
 いちごがスターライト学園で六年の思春期を駆け抜け、それとともに己の幼年期を幸せに(あるいは当たり前に、そこまで幸せでもなく)歩いていた少女たちの周りと内面を、過ぎ去っていった10年間。
 その個別の痛みと喜びを包括するように、星宮いちごが”キミ”に語りかけ、”キミ”と全く違っていて全てが同じな当たり前の日々を、”キミ”も確かに見つめたあの日々を支えにして進んでいると見せることは、”アイカツ!”と出会ってしまったかつての少女たちがここから先の10年を、あるいはそれ以上を生きるために戻ってくる場所、元気をもらう場所として、この映画が作られてる証明な気がする。
 かつて自分たちが作り出した、一つの世代にムーヴメント(あるいはモニュメント)たりうる作品がたどり着いてしまった場所から、それお受け取った”キミ”のこれまでとこれからを肯定し、続けていきための物語。

 既にSLQCとCosmosでもって、あかりちゃんが輝くバトンをいちご世代から受け取ったものを作中に示してたこのタイミングで、あえて”SHINING LINE*”をエンドマークに置くのは、それを受け取るべき”キミ”のストーリーは映画館を出たあとも……アイカツ!が終わった後も続き、そこにキミと同じような苦しさと楽しさで一緒に、星宮いちご達が生きているという祈りを、画面のの中から届けるためだったように思う。
 それを真っ先に受け取るべきは、人格が形成される最も多感な時期に”アイカツ!”に出会い、否応なく何かを得てしまった世代……もはやかつてアイカツ! がメインターゲットにしていた世代から巣立ち、アニメ本編ではあえて排除されていた生っぽい悩みや矛盾や答えの出ない難しさに向き合っていく、かつての少女たちなのだ。
 そういう責任感でもって、あの長い四年後は描かれていたように思う。
 それは児童に向けた作品をかつて編み、編み続けることが出来なかったからこそこの映画がこういう形になっている”アイカツ!”という物語に、誠実な描線だった。

 ただ希望に満ち溢れていた光の園から進みだして、見えた世界は楽しいからこその難しさに満ちている。
 それでも、だからこそ、大丈夫だよと大きな声で叫んで、枯れない氷の花束を手渡して幕を閉じる。
 それはなにもかもが終わりっていく宿命を飲み込みつつ、自分たちに出来る抗いを確かに作品に塗り込める、執念と祈りの結晶体だと感じた。
 それをかつてアイドル活動に励んでいた元少女たちに届けることを、第一義として最後の映画を編んだこと。
 それは間違いなく、讃えられるべき偉業だと思う。