イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

デリシャスパーティ♡プリキュア:第44話『シェアリンエナジー!ありがとうを重ねて』感想

 作画ゲージフル開放ッ! 最後の花火だド派手に挙げろッッ!! とばかりに、異様なテンションのアクション作画が暴れ倒す、デパプリ最終決戦回である。
 不敵な力強さを溢れさせるステゴロ、圧倒的な力で蹂躙する気弾バトル、絶望と孤独を背負っての巨大化と、色んな見せ場を背負ったゴーダッツ様は、ラスボスに相応しい存在感でクライマックスを盛り上げてくれました。
 ぶっちゃけポッと出の師匠恋しさ拗らせた小物なので、こういうブースター積まないと”格”が足んないんだよなぁ……そういう意味で、大変的確な作画力ブッコミタイミングだと思います。

 最終話一個前ってことで、殴り合いながらお話をまとめていく感じにもなった。
 ボコリ合いの直前に不思議なシケヅラでもぐもぐおにぎり食べてる(ちゃんとごちそうさまも言う)主役勢と、一人孤独なエゴ燃え上がらせて悪逆に盛り上がってるフェンネルの対比は、メチャクチャこのお話らしい。
 光と闇との果てしないバトルとか、世界開闢から続く宿命の戦いとか、そういうデカい話ではなく一個人が独占欲拗らせて世界巻き込んでるこの状況、あんまデカい話に接合してこなかったデパプリの最終決戦として、似合いの構図だろう。
 同時にフェンネルが拗らせちゃった愛憎はショボいからこそ身近なものでもあって、誰もが泣きじゃくる怪物になって世界をぶっ壊し他人の頭を踏む怖さを、ちゃんと身にまとった悪役だと感じる。
 ラスボスにも漂うこのコンパクトな身の丈感、俺はデパプリの強みだと思ってます。

 ジンジャーを深く愛していたがゆえにその独占を望み、喪失に耐えられなかったから歪んだフェンネルは、祖母の葬式から全てを始めて、その遺志を歪むことなく継承し、色んな人にメシ食わせて笑顔を与え、身体張って守って言葉を差し出してきた、ゆいちゃんのシャドウである。
 主人公が正しく歩めた道を、宿敵が間違えて相対する構図は基本的、かつ強力でもあって、ゆいちゃんがお祖母ちゃんの言葉を鵜呑みにする危うさとか、夢だけ語って現実に殴り飛ばされる経験とか噛み締めた上で、自分だけの言葉を憧れと思い出の上に積み上げた今、しっかり機能していると思う。
 半歩間違えると『ゆいちゃんは暖かな人に見守られ健やかに想いを付いだが、フェンネルは周りが手助けしなかったから歪んだ』みたいな構図にもなりかねないが、これは次回シナモンとマリちゃんが頑張るところでもあろう。
 ここら辺のやるせなさ、切なさを強く感じ取っていたから、マリちゃんは泣きじゃくる怪物を前に泣き崩れていたんだろうしね……。
 大人であることの最善を常に背負い続け、同時に大人であることの難しさも忘れなかったマリちゃんがこの最終決戦、圧倒的な力の前に諦めてしまう大人の脆さと、何も現実知らねぇからこそ理想を吠える子供の強さ……それに背中を押されて再度立ち上がる気高さを体現していたのは、とても良かったです。

 

 今回の決戦はジンジャーの遺産とシナモンの海外招き猫布教活動、お祖母ちゃんの人間力が良く効いた戦いで、プリキュアは物理的暴力でフィニッシュキメてるだけ感もある。
 しかし共有と伝播を話しの主題に定めてきた物語、その最後の戦いが、既に死んでしまった人含めて沢山の人の助けを借りて終わっていくのは、僕としてはむしろ納得のほうが強かった。
 世界の命運を背負った特別な戦士が、全ての運命を決着させる唯一性は削れてしまっているけども、当たり前の中学生の当たり前の生活を大事に書いてきたこのお話、プリキュアだけで全部が決着してしまう閉鎖性よりも、色んな人が支えてくれた土台に乗っかって、結末にようやく手が届く運びのほうが嘘がないな、と思った。

 猫師匠に焦がれるあまり猫の怪物になってしまったフェンネルが、師匠の霊が宿った巨大招き猫を殴り倒す構図は、遺志を正しく継げず、同じ思いを抱いた傷追い人にも優しく出来ず、とにかく孤独に落ち続けた彼の行き着く先を、悲しく照らす。
 独善と独占が行き着く先の荒野に、それでも彼を救いと思えたセクレトルーが新たな出で立ちでやってきて、自分なりの『そんなことない!』を告げて解決の道を示すの、クソ身勝手な悪党がそれでも何か、確かに希望を生み出していた事実を拾い上げる描写で、かなり好きだった。
 これはナル公がツンデレ装いつつ、機械しか自分の手先に出来なかったゴーダッツに一撃食らわし、世界を救う決め手を担当した流れとも重なるか。
 フェンネルの愛以外いらなくて、それが独占できなかったから悪に染まった男には、確かに色んな縁やら愛やらがあったのだ。
 ……思い返すと、幹部二人とも拾ったのは最終的にあまねだったな。さすがの人間力

 歪みきって閉ざされた視界の中でもそれが見えているから、ゆいちゃんがお祖母ちゃんから引き継いで生み出した、自分だけの言葉が鎧をこじ開けて刺さる。
 身勝手に間違えきった大人の姿は醜いが、そんな浅ましさにも手を差し伸べ、みんなでメシ食って笑顔になれる道を探し続けるのが、一回現実に強めの横殴り食らったゆいちゃんが選んだ答えだ。
 そこに品田拓海という青年が、けして揺るがせないほど深く突き刺さっていて、いろいろあった終盤戦、未だ恋の形にまとまらない強い感情をゆいちゃんが自覚して決戦に立ったのは、僕としてはありがたい。
 仁愛の方向では異様な成熟度を見せてるゆいちゃんが、自分の個人的な恋心に向き合う準備があまり出来ておらず、それでもなお暖かく育まれたものの意味をちゃんと理解して結末にたどり着けるのは、かなり好きな運びだ。
 べつに恋の自覚と成就だけがあるべき終わりじゃないし、ゴーダッツ殴っても続いていく彼女たちの物語の中で、何かが芽吹く瞬間はかならず来るだろう。
 この”まだまだ続く”豊かな情感は、らんらんの物語の収め方にも通じるもので、やっぱ思春期の女の子が何に道を塞がれて、どう乗り越えて一歩ずつ進んでいくかというハンディな確かさは、デパプリの強さだったと思う。

 

 満を持して起動した魔導招き猫の上から、ジンジャーの幻影は自分の意志を継いだ(だろう)光の戦士に、エールを送る。
 その横幅の広さが気に食わなくて、ゴーダッツは他人を排斥するための暴力をぶん回す。
 一番強くジンジャーと繋がっていたはずのフェンネルが、気づけば遺された言葉を全く聞き取れず、それが戦うべき”敵”になってしまっている構図は、ゆいちゃんが死せる祖母から受け取ったものを考えると、残酷でもある。
 しかしゆいちゃんはそうして無明の迷いに落ちたバカモンを、上から叩き潰すことはしない。
 ゴーダッツがぶん回す問答無用の理不尽は、確かにこの世界にあって自分の身に届くと思い知らされたからこそ、加害者のはた迷惑な身動ぎは和実ゆいにとって、他人事ではもうないのだ。
 聖女が持つ綺麗さは現実の泥から遠ざけられているから生まれるわけではなく、泥の中でなお咲く蓮の色合いであるべきだ。
 間違えきって勝手で孤独な、あまりに人間的過ぎる(つまりはデパプリらしい)ラスボスの悲しさに寄り添うためには、やっぱ終盤戦をゆいちゃん個別回に回した判断は正しかったように思う。

 あと浄化技届かせるための超絶暴力が、最終回特製のスペシャルフェイバリットとして叩きつけられるの、身体的超人でもある和実ゆいらしくて最高に良かった。
 『結局最後に頼れるのは、この拳って話よ……』て暴力主義ではけしてないのだが、フィジカルなものだけが押し通れる状況は文明人が想定しているよりも多いという事実を、理解し体現してきた主人公らしいフィナーレだったと思う。
 どんな状況でも腹が減り、メシを食うフィジカルな存在としての人間に、一年間向き合ってきた話でもあるしね。

 

 というわけで、バキバキに暴れ倒す作画パワーにも支えられ、ここまで積み上げてきた物語の総決算として、激しい戦いの中自作を語り切る良いクライマックスでした。
 予期せぬアクシデントにより一ヶ月分話数が縮まり、本当に大変な状況の中ここまで持ってこれたのは、俺は凄く偉ことだと思ってます。
 やや……以上に強引なところもあって、失われた四話分があればそこも埋まったんだろうけど、使える材料でゆいちゃんに欠けているものを掘り下げ、祖母から受け継いだものの先にある自分だけの輝きを背負って、しっかりラスボスと対峙できる状況まで持ってきたのは、とても素晴らしい。
 そういう『頑張ったね』以上に、メシくって生きていく人間にどっしり向き合ったこの”ヘン”なプリキュアらしく、ちゃんと嘘のないお話を最後に積み上げてくれたのが、僕には嬉しいです。
 次回最終回、どんな物語をかきあげてくれるのか。
 とても楽しみです。