イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

プロジェクトセカイ カラフルステージ感想:イミシブルディスコード

 グツグツ生々しい方向に煮詰まってきたニーゴのお話が、その爆心地に遂に触れていくイベストである。
 今まで顔と声のない怪物だったまふゆの母に、立ち絵とボイスが付いて対応可能な”人間”になった……というには、奏が出会ったものが対話不可能な独善の魔物過ぎて、そしてそう形容するにはあんまりにもありふれた親の形をし過ぎていて、まだまだグツグツ煮込まれていく手触りに震える。
 『勝手にPCを探られ、趣味と友達に口を出される』という生っぽい最悪をぶん回し、家庭事情に手出しができない10代のリアリティを乗せて、加速していく朝比奈家の憂鬱。
 父を壊した罪悪感に突き動かされ、不定形の救済とその道具としての音楽に呪われてきた奏が、大事な友達、まふゆが大好きな自分達を必死に考え、今ここにあるちっぽけな自分を震えながら支えて、一番苦手だろう大人との生身の対峙に挑んだ勇気が、今よりいい場所の扉を開くのか。
 さっぱりわからない所が、ニーゴテイストで大変良い。

 今回はあくまでニーゴ新章開始にあたって奏の覚悟を新たにしていく感じの話で、軸足は救われるべきヒロイン(であり、自分を救う権利を唯一有する勇者でもある)mなふゆにはない。
 今回のエピソードに一番深く関わっているのは”カーネーション・リコネクション”かなと個人的には思っていて、あそこで自分が愛された子供であったこと、失われた母の顔を思い出せたことが、まふゆが追い込まれている冷たい場所、”親”だからといって無条件の温もりを与えてはくれない事実を、自分に引き寄せ立ち向かう足場になっていた。
 弱々しい天才引きこもりなりにWebで出会ったダチとか、心優しい家事手伝いさんとか、なんか流れで知り合ったアイドルとか、長い黒髪が素敵な女の子とか、色んな人と触れ合って色んな景色を見たことで、思い出せた愛。
 その揺るがなさを鏡にすることで、奏はまふゆの母が振り回すものが猛烈なエゴであり、その自覚がないからこそ厄介だという現実を、かなり冷静に見据える。
 学校も普通に通ってねー受験もしねー、世の中に”正しい”とされる成功のレール(つまり、その世評に背骨を支えてもらいたいまふゆ母が押し付けるもの)から外れている夜の住人だからこそ、見えてくる『貴方のため』という毒の色合い。
 それこそがまふゆを殺しつつあるのだという確信は、今は失われてしまった(しかし永遠であることを、既に思い出している)母の愛が、自分を抱きしめてくれた無私の手触りによって、強く支えられている。
 自分が望む成功の形に魂を押し込むのではなく、望みのままに伸びていく心を見守り、手助けしてあげる。
 まふゆに届く救済を歌に探りつつも、『これが救いだよ』と殴りつけることはせずずーっと友達の言い分を、わかりにくいその表情を見つめている奏だからこそ、まふゆが認めたくない母の怪物性を見据え、戦うことを選べたのだと思う。

 ここでたった一人、今言うべきことを魂の奥底から引っ張り上げ、友達のために叫べる強さを奏が掴み取れている事実は頼もしく、嬉しいものだ。
 だが彼女自身認識しているように、10代の少女たちに”家”はあまりに分厚い牢獄で、だからこそまふゆは苦しく出口がない。
 それでも友達のために出来ることを必死に探りながら、なんでもない顔でファミレスで楽しい話をしたり、セカイで逢引したり、必死に青春のレジスタンスを続けているニーゴの質感は、相変わらずオリジナルで魅力的だ。
 最高の友達が出来て、自分が自分でいられる場所を手に入れても、なお追いかけてくる憂鬱な現実。
 その重たさが全然消し飛ばず、むしろ逃げずに引き受けれる自分を段々と育て、あるいは仲間に半分背負ってもらうことで向き合えるようになる遅々とした歩みこそが、ニーゴのBPMなのだと思う。
 ”現実の苦悩”なるものが優しく解けていくにはあまりに時間がかかり、だからこそ結論を焦らず自分にできることを誠実に探り当てて待てる事、そうして手を差し伸べたい相手をしっかり見ることは、何より大事だ。
 ニーゴの子ども達はそういう忍耐と誠実を大事にお互い向き合ってきたし、そんな姿勢が弱っちくもタフな尊さを、お互いの中に結晶化させつつもある。
 ここで奏が怪物の素顔を、その揺るぎない独善の愛を見据えたことが、今後どう生きるのかは楽しみだ。

 

 答えよりも問いを投げるエピソードなので、セカイでのふれあいがなにかの出口を生み出すこともないわけだが、代わりに遂にKAITOが来た!
 荒っぽく怒り続けている彼は、優しく見守る傍観者たるMEIKO,変化を望む接触者たるルカがあえて触れなかった患部に、荒々しくメスを入れて問題を切開させていく。
 心が殺されようとする時に怒ること、もはや子供でない自分としてNOを吠えること。
 思春期に必要な処方箋が、新たな段階に入ったことを感じさせる。

 ニーゴのバチャシン達は何もない所から、セカイの主であるまふゆが必要とするタイミングで、セカイに立ち現れている感じがある。
 純朴な弱さ、幼い愛を体現したレンが”迷い子の手を引く、そのさきは”で形になったように、まふゆが正しい怒りを必要とするタイミングだからこそ、そのアヴァターラがKAITOの形で現臨した印象だ。
 まふゆは本当にお母さんが好きで、お母さんに愛されている自分も好きだから、反発も反抗も形になるのは難しい。
 母(に抱かれている、愛されている自分のイマージュ)を殺すくらいなら自分が死ぬのだと、消えていく瀬戸際で友達にせき止められた事実を、母に伝えても届かなかった。
 自分が娘を殺すのだと毛ほども想像できないからこそ、ガッツリ善意の刃を振り下ろして魂を傷つけれる構造は、なかなかに残酷である。

 この刃に強く抵抗して生き残っていく手段を、まふゆが掴み取れる機が熟したからこそ、KAITOはあの荒ぶる形相でもって誰もいないセカイにタチ現れたのかな、と思ったりもする。
 多かれ少なかれセカイはそういう色合いを宿しているけども、まふゆのセカイは特に彼女を形成する人格モジュールの具体化、”朝比奈まふゆ”が生きていくためのツールボックスとしての側面が、かなり濃い。
 だれもいない所から一人ずつ、バーチャル・シンガーが増えてきたのはやっぱり、個性豊かでアクが強いダチと触れ合いながら、凍って何も感じないはずの心が確かに脈を打っているのだと、ゆっくり魂を蘇らせてきた結果なのだろう。

 今の自分を優しく見守ったり、一緒に遊んだり、時に強く否定したりする、混和性(miscible)の不協和音(Discord)たち。
 ときに激しくぶつかり合う、本音を引きずり出され隠せない相手だからこそ、見えてきた知らない自分や、置き去りにしてきた思い出達。
 世間の正しさからすればノイズと切り捨てられてしまうかもしれない、色んな生きづらさを抱えた音符が集って生まれる、私達だけの音楽。
 それが奏でる調べに救われ、求め、愛するまふゆとニーゴにとって、自分を疑わない母は不混和(Immiscible)な存在だ。

 傷つきたくないから否定し、その奥底で救われたいと願う人間の矛盾が生み出す大きな嵐と、必死こいて向き合ってきたからこそ、自分の願いと他人の祈りを混同せず、分をわきまえて見守る選択もできる子ども達と、正しさの奴隷になって無自覚に子どもを窒息させる母のメロディは、けして混ざらない。
 それが永遠の決別に繋がっているのか、いつか豊かな音楽を奏でていくことになるのか。
 未だ、未来は見えない。
 だからこそ、今回奏が震えながら選び取った対峙の決意と、怒りを宿してKAITOがセカイに来たことが、明日に続く兆しであってほしいなと、ニーゴが好きな僕は思うのだ。

・追記 Colorful Stage

 朝比奈家をじっくりコトコト地獄で煮込む手触りは、同レベルの激ヤバ質量を父親との間に抱えていた冬弥が、ファーストエピソードで一気にその不混和に区切りをつけて、関係性を新しい段階に引っ張り上げて自分の話を進めているのと、面白い対比だと思う。
 ユニットごとキャラクターごとに、似通った問題に向き合う角度と深度、歩みのペースは違っていて、それが人間にあるべきグラデーションなのだと寿ぐために、複数ユニットの話をやっているのだと思う。
 他のユニットが音楽を仕事にするお話にかなりの速度で突っ込んでいる中、ドロドロねとねと生っぽい青春のアレソレと取っ組み合いしているニーゴがいるから、担保されるリアリティもあるだろう。
 そしてニーゴが闘っている地上戦からちょっと遠い高みで、一足先に希望を見つけてきた仲間が、ひょいと差し伸べた手が助けになることだって、きっとある。
 というか既にあったからこそ、奏は今回現実の真っ只中で、友達と自分のために足を踏ん張って戦うことを選べたのだ。
 そういう”カラフル”な歩みが一つの物語としてパッケージされているのが、僕がプロセカが好きなたくさんの理由、その一つである。