イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

映画”シン・仮面ライダー”感想

 庵野秀明監督脚本映画、”シン・仮面ライダー”を見てきたので感想を書きます。
 ネタバレにならない範囲で言うと、とても面白かったしいい映画だと思いました。
 極めてトンチキで感性に訴えかける見せ方も多いのですが、自分は凄く波長が合ったし、凶暴なほどに真っ直ぐヒロイズムと愛と哀しみに向き合った、変身ヒーローの物語だったと思います。
 自分は”仮面ライダー”の知識も視聴経験も少なく、わりとぼんやり庵野監督のアニメ、”シン”シリーズ最新作を見に行く心持ちで映画館に入ったんですが、『なるほど、これが”仮面ライダー”なんだな』みたいなゴリッとした感触を、『いやどう考えてもこんな奇作、ジャンルのど真ん中に立ってはいないだろ』と冷静に突っ込んでくる自分と同居させながら、確かに受け取ることが出来ました。
 俺は好きだなこの映画……”シン”シリーズだと一番好きかも。
 あまりにも真っ直ぐすぎる問いかけが、見ているものの内側から色んなものを引き出し広げてくれる作品だと思いますので、未見の方は映画館に足を運んで、自分の目でその衝撃を確かめることをオススメします。

 

 

 

 というわけで、”シン・仮面ライダー”見てまいりました。
 いやー、面白かったな! 変な映画だったけど!!
 一般的な過程や段取りを蹴っ飛ばし、描きたいもの、描くべきものをドンドンつなげて叩きつけてくる手法は、どこか昔の前衛日本映画みたいな味わいがあって、ライダー分解酵素が体内に少ない自分としては、それを足がかりに作品を食べていく感じでした。
 コウモリオーグ相手には前衛演劇になったり、その後のハチオーグには怪奇特撮とヤクザ映画の合わせ技が飛び出してきたり、チョウオーグが中の人のコンテンポラリーダンス力を妖しくも美しく披露したり、場面場面でガラッとジャンルを切り替え多彩な表現が詰め込まれている感じは、『何を見せられているのかわからんが、とにかく凄いことはわかる』という心地よいめまいを生み出してくれました。
 同時に優しすぎる男が約束と愛のために拳を握り、返り血と涙にずぶ濡れ震えながら闘い続けるお話として、等身大の家族愛を求めていた人間計算機とのふれあいの物語として、お話のコアは凄く分かりやすく真っ直ぐで、その真っ直ぐすぎて危うい感じが僕にはとても心地よかった。
 ライダー暴力が真っ赤に暴れるぶっ飛ばした冒頭から、『正義を背負って人を殺すお話を、本気で作ってんだなぁ……』と全身の毛穴で受け止めさせられる作りだったのは、早めに覚悟が決まってありがたかったです。
 余計なことを喋ってる余裕はないと話運びが即座に告げてくるあの感じ、ここから二時間強奇っ怪な映像を浴び続けるハラを素早くキメさせてくれて、困惑を上回る期待感が湧いて出た。
 俺は、変な映画が好きだから……。

 

 お話としては常に震え続けるナイーブで優しい本郷猛が、セル画からそのまま浮かび上がってきたような二次元美少女感溢れる緑川ルリに手を引かれる形で、孤独なエゴイストがその絶望を世界に叩きつけて、自分も含めてみんな不幸せにしていく愛の秘密結社と戦う感じである。
 とにかく浜辺美波さんの存在感が凄くて、改造人間だの人間計算機だの悪の秘密結社だの、ガキのお遊びをド真顔で叩きつけるお話のリアリティを、見事にフィルムに着地させていたと思う。
 凄い乱雑な角度で運命捻じ曲げられ、過酷で壮絶な闘いに投げ込まれた本郷から溢れる優しさと賢さ、それが支える強さを繊細に形にしてくれた、池松壮亮さんも凄く良い。
 この二人だと風通しが湿るところを、孤独耐性が強く自分の道を自分で定められる好漢・一文字隼人が上手くバランスを取って、主役の三角形は大変良かったと思う。
 大型犬のようにトボトボ優しく改造人間達に付き従い、戦場では常識外のスーパーマシーンっぷりを存分に発揮して頼りになる、サイクロンの萌えキャラっぷりも良かった。

 こんな人達が織りなすお話は、あくまで闇の中行われる正義の暗闘であり、隠蔽しきれないサイズで暴れることはない。
 ウルトラマンのように巨大化することも、ゴジラのように生まれついて隠匿不可能な災害でもなく、等身大の人間が世界の理不尽に引き裂かれ、虫と機械とオカルトのキメラとして、拳一つで人間を砕けるほどの力を手に入れてしまった、涙を流す怪物。
 そういう”仮面ライダー”の孤独な薄暗さが、血みどろの戦場と怪物なりの日常を独特のつなげ方で見せながら転がって、隣に誰かがいてくれるからこそ進める(その”誰か”がいないからショッカーは孤独で不幸になってしまう)ロードムービーとして、綺麗な切なさがあった。
 人殺しの質感に震えながら、仮面をかぶりライダーになる”ことにした”本郷の生き方が、見知った顔が満載のショッカーを滅ぼす機械と自分を規定し、父の死にも動じない強さを演じていたルリ子と鏡像をなすのが、死が二人を分かっても繋ぐ信頼の描き方として、かなり好きだ。

 

 繋がりの物語としてみると、モノを間において段々と本郷とルリ子の関係が変化し、その断絶が近づいていく様子が印象的に描かれてもいた。
 最初は仮面の縁を遠くに持って手渡し、次はコート、そして新たに仮面を闘い続けるために不可欠な相棒として手渡す。
 クールな利害関係に感情を挟まず、”改造人間”らしく機械的に利用しようと動き出した関係は、人間の全部を問われる闘いの中でその虚飾を引っ剥がして、より魂の温もりに近くつながっていく。
 せっかく優しすぎる本郷がルリ子の真意を組んで仮面を外してくれたのに、ハチオーグは国家の銃弾に倒れて、ルリ子はショッカーを滅ぼす正義の人間計算機であることに耐えられなくなってしまう。
 その時、モノを通じてつながっていた二人は改造されてなお生身が残る”わたし”を直接触れ合わせて、崩れそうになる魂をお互いに支え合う。
 それは己のエゴを隠さず肥大化させ、対外的ペルソナを被らず他人を食い物にするショッカーの怪人たちには選べない、外面や嘘や強がりがあればこそ成立する関係だ。

 そういう温もりと涙の外装を預けた後、ルリ子はサイクロンにタンデムして、本郷の匂いを嗅ぐ。
 もうメシを食うことも出来ず、人を殺す後ろめたさすら仮面に宿ったテクノロジーに制御されるようになった本郷だが、汗も流せば震えもする。
 その生きた質感を間近に感じることで、優しく強いサイクロンが二人を載せて自由に風の中を書けてくれることで、ルリ子は改造されてなお人間でしかない自分と、それが生きている世界への頑なさを解除する。
 仮面を外したのだとも言えるし、新たな仮面を付け直したのだとも言えるこの変化は、圧倒的な萌えっぷりでワガママを吠え本郷に甘えるルリ子の再生、壊れ失われてしまった”家族”を取り戻す営為として、バキバキに決まった当初の衣装を着替える形で描かれる。
 あんま冴えないフツーの服装は、ルリ子がアニメ調の人間計算機であると同時に、(彼女が愛し殺していくオーグたちと同じく)どうしようもなく等身大の人間だという事実を、上手く可視化してくれる。
 そうして新しい自分を、付けるべき仮面を手に入れたルリ子が素顔で書いたのが”遺言”だというのはとても悲しいし、仮面ライダーたちが身を置く闘いがどれほど苛烈なのかを、失って描かれ直してもう一度噛みしめる、良い描き方だったと思う。

 仮面は人殺しをいとう人間らしさ(本郷の父を殺し彼を孤独にした弱さでもある)をかき消す悪魔の装置として始まり、震える素顔を押し殺して涙を隠してくれるからこそ戦える兵器になり、最後は失われていく魂を保存する優しさと希望の器になっていく。
 最初は怪物に成り果てた証明だった『体から鳴り響く風の音』は、凶悪で不幸で孤独な怪物(に成り果てた、人間以外の何物でもないオーグ)と戦うための力を、引き出す助けになっていく。
 全てが終わり新たに始まる時、本郷の霊が宿った仮面は一文字に継がれ、マフラーを外し孤独な一人になろうとした彼を”仮面ライダー”につなぎとめる。
 身体のない本郷は一文字を通じて風を感じ、魂と世界の振動を感じ、それを心地よいと受け取る。
 生身の本郷猛から仮面ライダーへ、そして仮面それ自体へと幾度も”改造”されていく自分と、それを包む誰かと世界をそう感じるためには、理不尽と悲しみに満ちてなお拳を握って闘い続けたこの物語が必要であり、そんな変化を刻み込む象徴として、物言わぬモノたちが活用されている所が、僕はとても好きだ。

 

 仮面と同じくらい、風にたなびく正義の印たる赤いマフラーも、作品を貫通する静物フェティシズムを心地よく反射していた。
 後に可愛らしい家族の思い出なのだと解る、ルリ子が押し付けたライダーの象徴。
 それは血縁と流血の色に染まっていて、その両方を否定しようとしたチョウオーグが”白いマフラー”を選んでいるのは、凄く納得がいく。
 父をミドリカワと言い続け距離を取る彼が、家族への複雑な愛憎こそが肉体を捨てむき出しの魂だけが浮遊する救済を選んだのは、孤独になれば他人を食う怪物になるしかない人間を、なんとか現世に繋ぎ止めている赤い縁を否定するためだろう。
 それは母の返り血でねじり狂った自分(たち家族)の人生を、弥勒菩薩のごとく結跏趺坐しても消えてくれない個人的な愛を、拭い捨てて世界を……つまりは自分一人を透明に染め上げたい、イチロー涙の色だ。

 血の赤こそが人を人たらしめるのだと、最初にマフラーを結んだルリ子自身も気づかず、本郷とともに学びながら、旅は進んで第2バッタオーグと対峙する瞬間がやってくる。
 洗脳されながらも仮面の下から滲む、飄々と強い一文字の風を肌で感じて、ルリ子は自分の異能を封じられていた哀しみを暴き、ショッカーの怪人を人間に戻すために使う。
 それはハチオーグとの離別、それで流れた涙を本郷に受け止めてもらった体験を経て、ルリ子が人間計算機としてではなく緑川ルリ子として生きようと、選び取った闘いだ。

 そうして暴かれた……だろう一文字のオリジンが、世界が砕けるほどの強い哀しみが、観客には開示されないのが僕は好きだ。
 大の男が、一撃で人体を砕く剛力の持ち主が、身も世もないほど泣きじゃくり立ち尽くす魂の原風景は、人間ならば隠しておきたい繊細なものだと思う。
 そこに踏み込まず、しかし逃げ出さずに向き合う姿に手を寄せる適正距離は、チョウオーグが願う白い世界では許されない。

 嫌いなものが嫌いなままで、好きなものを求めて何もかも歪んでしまう、あまりにもまっすぐで嘘のない在り方。
 純粋すぎる機械に間違った使命を与えた結果、駆動してしまったショッカーという自動機構。
 幹部であり犠牲者でもあるオーグたちが皆たどり着いてしまう、仮面のない場所。
 そこでは許されない悲哀と矜持に、本郷の体に触れたルリ子は隣り合うことを選んで、同じ場所に一文字がタチ直すことを祈って、赤いマフラーを巻いたのだろう。

 全てが終わった後、それを投げ捨てようとする一文字はもしかしたら、最強最悪のオーグになりうる可能性を秘めている。
 それでも好きにはなれない正義の使命に身を寄せて、仮面をかぶり直して新たな戦いに挑めたのは、彼が自分の道をたった一人自分で選べる、自分が何が好きで何か嫌いかをちゃんと考えれる、善き人だったからだと思う。
 それをルリ子が取り戻してくれたから、一文字は最後の決戦に自分の意志で踏み込み、同じ悲哀と決意を背負った本郷を魂の友として、共に突き進んでいく。
 その歩みは完全に重なることはないけども、血と決意で赤く染まった導きを体に巻きつけて、死んでなお途絶えないものを受け継いで、隣りにいる人の匂いと息吹を、怒りと哀しみに震える空気を感じることは出来る。
 それが、仮面ライダー達が選んだ闘いの意味と価値だ。

 

 優しすぎる本郷は自分が命をつなぐためのプラーナを使い切っても、コンテンポラリーな身体文脈でもって華麗に踊る蝶を、泥臭い人間の地平に引きずり込む。
 ラストバトルにはふさわしくないドッタンバッタンだったけど、あの闘いに疲れ果てた二人のもつれ合いで何を書きたいかは、僕には深く刺さった。
 最初の闘いで、ヒーローの闘いは血みどろで全く娯楽的ではなくリアルであると描き、最後の戦いではそこに宿る肉体労働的な質感を削り出してくる手付きは、闘いを扱う娯楽作品に必要な内省が、凶暴なむき出しで牙を研いでいる。
メチャクチャ過酷な運命を強制的に背負わされ(緑川博士はマジでちゃんと反省した方がいい)、それでも”人間”であること、人でなしになってしまうことの意味をちゃんと考えて朴訥と体現し続けた本郷が風に揺らされないと変身できず、自由であるがゆえに危うさも秘めている一文字が体内から湧き上がるもので変身できる所とか、面白い対比だと思う。
 誰かを必要とするからこそ一人で立たない男と、自由な孤高を愛しつつ誰かを好きになって、それをテコに自分を変えていける男で、Wライダーだ。

 本郷はルリ子が自分と一文字を繋げてくれたもの、赤いマフラーの先にある当たり前の人間の苦しみと哀しみと喜びを、蝶の仮面を割って伝えようとあがいた。
 グロテスクで生々しい人殺しのリアルを、赤い血しぶきから逃げることなく受け止めてきた仮面ライダーが、結局(優しすぎる本郷自身含めた)誰かのメッセージを届けるために闘い続けているのは、悲愴なまでに正しい。
  身を裂くような哀しみにも、過酷すぎる闘いにもけして砕けない、不滅のメッセンジャーとしてヒーローを描く視線は、自分的にはかなり新鮮で、この映画で一番好きなのはそこかもしれない。
 メッセージは送信者と受信者、そして媒介者がいなければ成立しないわけで、私と貴方の境目が解けるハビタット空間に立ち向かうお話として、その全てを備える本郷が主役になるのは、自分的に凄く納得できた。

 

 父が死に様に己に届けたメッセージの意味を考え続け、それが『正しさと優しさの両天秤に自分の命が乗った時、家族への優しさを選んで殺して生き延びる道を選べなかった父と、選ばれなかった僕』という哀しみを孕んでいても、全て噛み締めて飲み込めた男が、とても寂しい立ち姿をしていること。
 異形の仮面に宿る非人間的ヒロイズムを維持しつつ、そこからはみ出る後れ毛をしっかり描き、どこか日常着込む服装のテイストを残して、強化服をリファインすること。
 ”改造人間”に二文字残った”人間”から奪われ、それでも取り戻そうと必死にしがみつくものの体臭を、服飾を通じて体現すること。
 この上映にたどり着くまで幾度も映画館で見た予告編で、一番気にかかっていた新たなヴィジュアルが、映画が描こうとするものをしっかり体現し、ドラマを背負って生き生きしているのが、モノへの愛(偏愛ではなく)が溢れていて、とても好きな部分だ。
 当たり前の服装を身にまとって、当たり前にメシを食って誰かを好きになれる当たり前の日常を、理不尽に”改造”されても滲み出してしまうモノに、寄り添い包み込むモノ達を、大事にした映画だと思う。

 ここに惹かれるのは僕自身がモノと人間、モノとしての人間に強い興味があって、そういう個々人が内側に大事にしているものをキラリと反射して、強く引っ張り出す力がある映画だと、僕は感じた。
 ハチオーグのルリ子への感情と、その歪な発露と末路とかも大変好きだけども、自分の命も他人の尊厳も全部燃やしてルリに泣きじゃくって欲しかったのは、ショッカーの人間計算機である友達を彼女も”友達”と思ってて、大事だから”人間”であって欲しくて、自分の能力の奴隷になるような存在でなくて隣に対等に立って殺し合いすら出来るようなたった一人を、強く求めていたからなのかなとか。
 色々考えてしまうのは、僕が人間と人間の大きな環状のうねりも、とても好きだからだ。(急にポン刀超高速バトルがぶっこまれるのも、漂うヤクザムードも、そういうの好きだから噎せつつ飲み込めてしまう。相性良かったんだな、多分……)
 それは思いの反射板となる”誰か”がいて、それを時に拒絶して弾き返し、あるいは受け入れて柔らかな己と混ざり合わせる仮面を、それぞれが被るからこそ生まれる波だ。
 そういう愛しい混濁と、それを人の形にとどめてくれる善きペルソナを皆求めているはずなのに、選んだ仮面は瞳を塞ぎ、孤独を加速もさせていく。
 それでも誰かを好きであることと、誰かを好きになることは善いことで、善いことでなければいけないのだ。

 やるせなく悲しい人の定めにかすか、赤く優しく吹き付ける希望の風。
 それを書きたかった映画なのかなと僕は思って、だからこの映画が好きだ。
 世界に満ちている哀しさや苦しさを真ん中に据えているようでいて、それが本当に大嫌いでどうにか乗り越えたいと祈るからこそ、こういう映画が形になったのだと思う。
 それを伝える表現は時にあまりに独特で、あるいは不格好に率直で、当惑と前のめりなツッコミを思わず生むけども、それくらいむき出しなものを選ぶしかなかった本気が作品の随所に滲んでいる映画で、僕はすごく好きだ。
 本気だからこそのチャーミングも元気で、色んなところが萌え萌えなのも良いな、と思う。
 好きになれる映画で、とても良かったです。
 お疲れ様でした、ありがとう。