イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

機動戦士ガンダム 水星の魔女:第16話『罪過の輪』感想

※お知らせ
 TwitterAPIの仕様変更に伴い、ツイートをまとめて掲載する形で感想を書くのが難しくなりました。
 今後”機動戦士ガンダム 水星の魔女”の感想は、ブログへの直書きへと移行させていただきます。

 



※本文
 かくして子ども達は我が家へと戻り、罪業は出口なく円環を成す。
 地球の魔女たちが加速させた運命は学園を飛び出し、総裁戦という新たな決闘へと繋がり……あるいはPROLOGUEに刻まれた罪の原点へと立ち戻っていく。
 蛇の仮面を外さぬ魔女の、囁きが様々な人の心を揺らす水星の魔女、第16話である。
 

 一話でいろんなことが起こる”水星の魔女”だが今回は特に色んなことが暴かれ、真実は次なる事実へと繋がって歩みを止めず、さらなる惨劇が待ち構えてもいそうだ。
 エアリアルの秘密はPROLOGUE……あるいは一期OPの原作となった小説”ゆりかごの星”で既にほのめかされていたが、関わる者たちの罪を魔女が暴き立てながら知らされると、火力が更に上る。

 強化人士四号の母親ッ面して、呪われた真実に吐き気をもよおしていたベルメリアは、プロスペラや五号に『お前も大概人非人だろ』という事実を突きつけられて、見て見ぬふりをし続けていた己の罪に突き刺される。
 デリングから引き継ぐミオリネの血塗られた罪、あるいは己の成すべき道を見定めて戻ってきたグエル。
 ぐるりと弧を書いて、過去から血縁から己自身の行いから、円環の呪いと祝福を受ける者たちで、物語が満たされてきた。
 思えば、宇宙にまで生活圏を伸ばしておきながら古臭い宮廷謀略劇を、全世界に拡大した経済圏をブースターに積んで、より最悪な形で演じ直している作品世界それ自体が、罪の円環から逃れられない閉じた舞台なのかもしれない。
 愛ゆえに呪いを生み出し、誰かを思って誰かを殺す人の愚かさは、果たして乗り越えられ得るものなのか。
 そんな大きな問いかけに、キャラクター各員必死のもがきが上手く絡んで、何とも魅力的な地獄である。

 

 

 

画像は”機動戦士ガンダム 水星の魔女”第16話より引用

 今回のお話は学園から遠く離れ、残酷な真実を思い知ってなお前に進むことを諦めないグエルとミオリネが、”我が家”に戻ってくるお話である。
 同時にその扉をプロスペラが叩き、過去を暴いてかき乱す回でもある。
 グエルは髪の毛おっ立てていた時代よりも家族の痛みを、家業の重さを、人を踏みにじり殺す意味を実地で思い知って、なお逃げ出さず前に進むべく、弟たちの元へと帰還した。
 ミオリネはショッキングな離別に傷ついたままで自分を終えず、聞ける限りの真実を聞き届け、どこへ戻って誰とともに進みたいのか、考えた上で彼女の会社へと戻った。
 短くはない不在を経て、様々な経験をした二人は学園という揺りかごに揺られていたときよりも逞しく、クリアに自分が置かれている場所を見据え、罪科の鎖にがんじがらめなこのお話をどこか開けた場所へと連れて行ってくれそうな、期待を背負っている。
 そんな微かな光を、人間のカルマを凝縮した存在感で飲み込もうとするのが、呪いをささやきながらも奇妙な可愛げを持ち、正義の復讐者でありながら犠牲を増やし、理想を夢見ながら現世を噛み砕く、複雑怪奇な暗黒星……プロスペラ、あるいはエルノラ・サマヤである。

 子ども達の”我が家”はもはや血縁の狭い檻にはとどまっておらず、親殺しの烙印やら血縁の鎖やらに縛られつつも、グエルもミオリネも血筋よりもうちょい広いものを見据えている。
 それは『お前のためだ』を盾に子ども達を縛ってきた、親世代よりも自由で幸福……に見える。
 それが親になっていないからこそ可能な、未成年のヌルい理想なのか、大人が子どもを縛り、あるいは自分たちを縛っている限界を越えていくための、大事な足場なのか。
 それは総裁戦に向けて加熱していくだろう情勢を、今後彼らがどう乗りこなしていくかによって、暴かれていく真実だろう。
 フェルシーから弟の苦境を聞くグエルも、自分の会社のピンチを救うミオリネも、人としてあるべき正しさと、心地よい公平さをしっかり身に着けているように思う。
 それが広く伝播して、例えば気弱なだけに思えたマルタンが体を張って仲間を庇ったり、思慮の足らないフェルシーが弱く瑞々しい感情を表に出したり、良い影響が広がっている手応えもある。
 そしてそこから一番遠い場所に、スレッタは立っている。
 この”遠さ”は後に、作中最も象徴的な場所として描かれている温室の中で、そこから飛び出した無重力の領域で、より深く抉られていくことになる。

 

 

 

画像は”機動戦士ガンダム 水星の魔女”第16話より引用

 グエルとミオリネが繰り返す時代を先に進めうる”よい子ども”として学園に帰還したのに対し、シャディク(とその一派……理想という我が家を同じくする家族)とエランは既にある檻から抜け出せず、あるいは新たな檻を作る”わるい子ども”として描かれている感じもある。
 ボコ殴りされて逆に吹っ切れたミカを、同志として誘うサビーナには微か、何かが繋がって何処かへ広がっていく希望が持てるが、ミオリネへの思いを断ち切った(ことにした)シャディクは、分厚い面の皮で謀略を隠して、素知らぬ顔で総裁戦へと進みだしていく。
 彼がグループの頂点に君臨した時、何を解体して再分配するか……その先にどんな世界が広がっているかは既に語られており、そうなっていない現状学園の外側がどうだったかは、先週血のインクで濃く刻まれた。
 そこになにかに呪われず誰かを呪わない、人が人として人らしくあれる未来は無いように思えるが、しかし地球と宇宙、企業と企業以外(”政府と民間”はもはや、この超高度資本主義社会においては存在しないのだろう)の秩序化された不均衡に目を向ければ、愚かで残酷だろうと天秤をひっくり返す必要は、否定しきれないとも感じる。

 企業体ヒエラルキーの最下層に位置し、顔も名前も奪われた強化人士五号は、自分をすり潰す巨大な圧力の間を不敵に泳ぎながら、エアリアル奪取のためにコックピットに潜る。
 今までもスレッタの内心を物質化した場所として、様々な人を迎い入れ、あるいは拒んできた鋼鉄の子宮は、それが比喩ではなく具象として、失われたはずのエリクトを宿す器だと示す。
 人間がそこに誰かを入れる/入れないと判断する、従属的な物言わぬ物質であったはずのモビルスーツが、それ自体の意志と価値観を持って誰かを拒む時、モノとヒトの境界線は不気味にブレる。
 選択権は、意志持つ物質の方にあるのだ。
 (これはエアリアル=エリクトの記述であると同時に、人類定義を書き換えるパーメットにも適応できる可能性がある。
 ヒトを否応なく新しいステージに進ませる選択は、一見ヒトによって選ばれているように思えるが、それを可能にする技術側に意思決定権がある可能性は、悍ましくとももはや絵空事ではないだろう。
 人間と同じ形でなくとも、無形で従属的なはずの技術もまた、主体として時代とか社会とか歴史とかを、変貌させてしまえる力を持つ。
 入れる/入れないの選択肢は、ヒトだけの独占物ではなくモノにも……モノ化してしまった社会や技術にも、否応なくへばりつくのだ)

 復讐の道具として、母の意思をそのまま自分に引き受けてしまっている道具的人間……スレッタ・マーキューリーと、パーメットに刻まれた生体コードに変質しつつ、妹でありパイロットでもあるスレッタに誰が近づくべきか判別する、意志を残したエリクト・サマヤ。
 エアリアルの真実が表面化するにつれて、モノ的なヒトとヒト的なモノの境目がどんどん薄くなってきて、このお話をサイボーグ=ポストヒューマンSFとして楽しんでいる自分としては、なかなか興味深い展開である。

 決闘に負けた程度でジュッと燃やされた四号の末路を思うと、五号が四人の”母”から押し付けられた任務は重たく、ベルメリアに共犯を持ちかけるのも生存のため、当然だとはいえる。
 人倫を盾に協力を拒んだベルメリアを、五号は強烈に痛罵し、彼女が目を背けたかったものに直面させる。
 個人を識別する要素を財力と暴力で剥ぎ取って、経済戦争の道具に変える悪魔の技術を、それと知りつつヒエラルキーの最下層、弱者であり被害者である子どもに押し付けてきた事実。
 ヘルメットの反射は冷酷に的確に、善人気取りの人非人が何を踏みにじってきたかを描き出す。(鏡面はこれまでも重要な演出モチーフだったが、おそらく京田知己がコンテを切っているBパート、特に冴えた使われ方をしている)
 倫理を抱えて死ぬ道を選べず、企業宮廷の支配者のように残酷を当然視も出来ず、半端な善意と半端な悪行の間で揺れながら、なんとか生き延びてきた歩み。
 それがどう決着するかはまだ解らないが、ミオリネが温室でスレッタに突きつけようとして失敗した人間の当然が、重たい鎖になって彼女を縛っている様子は、どこかホッとするような、テキトーに罪悪棚上げして生きてきた報いのような、なかなか複雑な感覚だ。
 企業体の巨大な圧力が彼女とエランをどこに押し流し、その濁流で彼らが何を選び取るかも、目を離せないポイントである。

 

 

 

画像は”機動戦士ガンダム 水星の魔女”第16話より引用

 目覚めぬ父のそばで自分なり歩みを進め、魂を成熟させたミオリネは赤い実を。
 問いただしてなお、出口なき母の鎖に縛られていると改めて描かれるスレッタは未熟な緑を、それぞれ鏡にして暴かれていく、二人の断絶。
 『死を前に笑うな』というミオリネの倫理はたいへん真っ当で、その当たり前が全く機能してない様子を陰謀渦巻く企業宮廷とか、その代理闘争の現場に選ばれてる地球とか、さんざん見せられた後だと、思わずすがりつきたくなる真っ当さがある。
 そしてプロスペラとのへその緒が断ち切れておらず、その人形になることで自由からの逃走を果たしているスレッタには、そんな”人間らしさ”が届かない。
 友達が欲しくて、やりたい事が沢山あって、水星に学校を建てる夢を持っていた、当たり前に悩める少女。
 その奥にある個人としての血潮と成熟を信じて、ミオリネは必死に言葉を投げかけるが、それは届かないし、追いかけても来ない。

 物語が加速するにつれ強化されていったスレッタの気持ち悪さは、常人がガンダムの呪いに食い殺されるなか一人無傷という、異様な清潔感と合わせておそらくは、意図されたものなのだろう。
 人間らしい生まれをせず、人間らしい環境で育たず、人間らしい倫理を持たず、人間離れした力を有して、誰かの復讐の道具として便利に使われる、サイボーグらしいサイボーグ。
 その気持ち悪さもひっくるめて、”人間”なのだと受け止められる視座を手に入れなければ……あるいはサイボーグ自体を自己決定の現場に引きずり込まなければ、モノが意思を持って加速し続ける未来(あるいは現代)を制御し、人が人の幸せを探れる時代を作れはしないだろう。
 だがミオリネはその方策を(まだ?)見つけていないし、スレッタ一人を母の鎖から解き放って、ずっと父に反抗し続けてきた自分と同じ地平に引っ張り上げることすら、出来ていない。

 だから逃げるし、スレッタは追わない。
 あるいは追えない。
 ”追う”という発想も決断も、自律して行えない倫理的子宮の中に、未だ彼女は閉じ込められ閉じこもっている。
 閉塞と停滞は不自由と安息を同時にもたらし、動き出さなくても許される子どもの……というか胎児の免責を与えてくれる。
(これは母に全ての判断を預けているスレッタと同じくらい、現状の不均衡と悲惨を『世の中こういうもんだ』で是認した大人たちにも、適応できる行動基準だと思う。
 へその緒をテロルで乱雑にぶっちぎって、現状を逆しまにひっくり返そうとしているシャディクの”成長”が、それで肯定されるわけでもないが)
 母との思い出の場所である温室から出て、過酷な外界へと自分の足で突っ走っていくのがミオリネで、そこに留まり外に己を産出出来ないのがスレッタなのは、今までの物語で描かれたものを思い出すとと、なかなかおもしろい転倒だ。

 

 

 

画像は”機動戦士ガンダム 水星の魔女”第16話より引用

 駆け出した先、義母であり仇でもあるプロスペラの襟首をつかんだミオリネの手は、PROLOGUEに綴られた虐殺の罪を投げ返されて、鎖のように繋ぎ止められる。
 鏡像は未来に進むための内省、他人の中に自分を見る公平さと同じくらい、あるがままの現実ではなくあって欲しい世界を夢見る空疎な妄念を、強く反射もする。
 あるいはその虚しさを現実に焼き付けるべく、体内でうずまき続ける呪いを世界に広げるべく、生き残ってしまったエルノラは仮面をかぶり、魔女になったのか。
 あれだけ必死に、人間としての真実をスレッタに問いただし届かなかったミオリネが、父がひた隠しにしてきた真実にぶっ刺されて、プロスペラに揺らぐのはなかなか皮肉だ。
 それはスレッタとの出会い以来、衝突しながらちょっとずつ接近した心理的距離を……解らないけど解りたくて、解ってもらいたい当たり前の思いを、再び引き裂くのに十分な衝撃力だ。

 プロスペラが何もかんも完全に計算し尽くしているわけではなく、結構な綱渡りと場当たりを経て、それでも奪われた娘との再会を叶えるべく世界と自分に呪いを撒き続けているのが、なかなか面白いなと思う。
 人間を超越した魔王として彼女を造作することも出来たと思うけど、このお話はあくまで”魔女”として……自分一人では何かを判断することも、前に進むことも出来ない胎児として娘たちを取り込む、我が母なる暗黒として、プロスペラを描く。
 クワイエット・ゼロを通して娘と再開し、死と理不尽の条理を覆して人間存在を書き換えようとするプロスペラは、しかし他の親たちと同じく神様ではない。
 ひどく狭く尖った愛だけを携えて、それで自由な一個人であるはずの子ども達を縛り付けたり、身内と見定めた連中以外を冷酷に殺したり、その結果新しい呪いを生んだりする、ひどく不自由な人間そのものだ。
 だから、彼女は水星の魔女なのだろう。

 その体熱を間近に浴び、それが自分と父を繋ぐ血の呪縛と否応なく共鳴するのだと理解できてしまうからこそ、ミオリネは強く動揺する。
 他人の生き血を燃料に、”人間らしさ”なるものを全て投げ捨てて加速しきった、超高度資本主義社会。
 その玉座に座っていた男が血に汚れていないはずもなく、その罪が我が身にも流れているとしたら、振りほどこうとしても魔女の手のひらは少女たちを、幾度も捕らえるだろう。
 そうして生まれる輪の中で、同じ悲劇の繰り返し。
 どうしようもないリフレインが、このまま呪いを再生産していくのか。
 おぞましい地母神の腹から、どれだけ技術と経済が発達しても、むしろだからこそ人間という存在は、抜け出すことが出来ないのか。
 そういうデカい問いかけに、目を離せない人間ドラマの強い魅力をともなって、お話とキャラクターが触れつつある手応えが、おぞましいほどに心地いいエピソードでした。

 

 グエルとミオリネ不在のまま地球の魔女の悲劇が踊り、彼らさえ帰ってくればどうにかなるような錯覚が、的確に醸造されていた物語。
 望まれていた帰還は微かで確かな希望と、それを飲み込む大きなうねりを呼び覚まして、総裁戦の幕が開く。
 逃れ得ぬ罪を突きつけられ、暖かな絆こそが己を捕らえる鉄輪だと解ってなお、その引力を引きちぎって何処かへと、少女は進みうるのか。
 出しみ惜しみなく作劇の推進剤をぶっ放しながら、物語はドンドン加速していってくれて、付いていくのもなかなか大変ですが……このフラフラが、また気持ちいい。
 いいアニメだな、と思います。
 次回も楽しみですね。