押しの子アニメ第六話は悪意マシマシ容赦なし!
リアルとフィクションの境目を曖昧にすることで成立している物語が、焦る演者を噛み砕くさまをどっぷりとお届けする。
虚実の境界線がどこにあるのか、作品内部で体感する側にもそれを俯瞰で見ている側にもあやふやにしていく演出が冴えていて、鋭い重たさと抜き身の危うさがあるエピソードだった。
スキャンダラスなインパクトが何かと注目される話題作だけど、相当繊細に画面作って印象編んで……という、アニメのベーシックで大事な部分を頑張り続けているのは、やっぱ凄いことだと思う。
今回は鏡面が演出ツールとして見事に活用されていて、画面越しに作り上げた虚像と、現場で息をしている生身の実体の境目が、どれだけ薄くて危ういかを可視化していく。
窓ガラスの中で涙を流すゆきは実感を誇張し、ウケを狙って演じられた虚像であり、同時にアクアいわく『思ったよりヤラセが少ない』リアリティショーを成立させるための、生身の感情を(必要なだけ)伴っている。
観客と顧客が求めるイメージを適切に感覚し、感得し、実現する才能は世間相手に攻めていく武器であると同時に、『これは演じているだけだから』と自分を守り、観客を舞台へと上がりこませないための防壁にもなりうる。
アイドルだった虚像と母という実像のバランスが崩され、私生活の領域に侵入してきたストーカーに母をぶっ殺されているアクアにとって、嘘と現実、その善悪の境界線は世間がいうほど確かではない。
芸事続ける真の目的も、その裏にある家庭事情も、転生者としての精神的成熟も、なんもかんも嘘に包んで危うく立っている青年が、俯瞰で見据える鏡の向こう。
そこには、鏡だけがあるわけではない。
サブタイトルの”エゴサーチ”は『ネット上の自己検索』という一般的な意味合いと同時に、EgoをSearchする……つまりは自分を探すあかねの生真面目な歩みを含んでいると思う。
メモという鏡面に他人の言葉を延々書き続け、それに踊らされる/食らいつく形で爪痕を残そうとあがいた彼女は、悪い鏡に騙されるメルヘンの魔女のように、ネット上でその評判を浮遊させ、地獄に落とされていく。
鏡よ鏡、なりたい私はどこにいるの?
必死に探った結果の暴走は、なまじっかゆきのセルフプロデュース(鏡の中の自分を実像へとリアルブートしていく技法)が的確だっただけに焦りを生み、少女を追い込んでいく。
ネットという鏡に真摯に向き合えば、自分の真の姿がそこに反射してくれると考える生真面目さは、匿名無名の鎧と悪口雑言の槍で武装した無敵の存在に届くことはなく、人々は自分が見たい物語を演者に投影し、加熱させ、憎悪に溺れていく。
所詮は仮想の流言飛語、気にすることなどありゃしない。
そういうリアル至上主義はかなちゃんの指摘する通り大昔の話で、相互侵犯を加速させながら莫大なマネーとアテンションを巻き込み、肥大していくネットは現実の延長線上……あるいは現実なるものを飲み込んでさらに肥え太るもう一つの事実として、巨大すぎる存在感を持つ。
携帯電話の画面に閉じ込められていたはずの憎悪が、ねっとりと黒川あかねの身体にまとわりつく演出は、そういう実在の手触りをおぞましく、ある種のエロティシズムを宿しながら見事にエグッてくる。
それは邪神の不気味な触腕のように、生贄を求めて現実に這い出してくるのだ。
制作の現場においては●RECがしっかり刻まれ、編集された現実、意図のある虚構なのだとわきまえられているリアリティーショー。
それが観客のもとに届く時、『これは現実を元にしたフィクションであり、どれだけもっともらしくても虚構性を孕み、演者はそれでいながら生身の人間で、アンタラが安全圏から垂れ流す悪意消費で死ぬこともあります』という、過剰な注意書きはない。
『そんな興ざめ張り付けて、売れるとでも思ってんのか』という本音を巧妙にかき消して、目の前にあるのは本物のリアルなのだと、知らず夢中にされるプロの技前。
それに支えられたキマった画作りは、カメラが常時監視する現実から使える絵とドラマを引っこ抜いて、まとめ上げて提出する、『良いものを作る』職人根性によって、ウケて金を生み、暴走していく。
危うい境界面の上で踊っているのは、制御する側である作り手と、消費するばかりの視聴者という構図も同じだ。
フィクションの奥には汗まみれの努力があり、生臭い事務所のハラスメント(『5:5うらやましー! ウチ2:8だよ~』という何気ない会話が、地獄の前駆になってるのは巧妙)があり、それを真っ青な空と美しい夕日で覆うことで、恋愛リアリティショーは成立している。
客観と主観、虚構と現実に明瞭な線を引いて、嘘で安全を作るからこそ成り立つはずの、一方通行のフィクション。
その境界線はそもそもにおいて危ういものであったし、力を抜いて適当にはやれないあかねの””本当”と摩擦し発火する中で、火だるまの地獄に飛び込んでいく。
バランスを崩して前のめりにさせればこそ、人は事象にのめりこむ。
まともな判断力というやつを搾取するべく数多の手法が生み出され、それを両手に握り込んだプロたちが作り出す嘘は、演者の”本当”に鍵(あるいは防具)を付けないからこそ特別性の火力を生む。
顔の良い特別な人達の特別な日常を、砂かぶりで観戦し窃視しているという心地よさを、後ろめたくないパッケージで叩きつけるからこそ、大いにウケる危うい仕事。
それがかなり危うい場所に立っている現場を、演者の中でも特に大人びた二人が遠目に見ている構図は、コトが起こるまでそこに手が伸びないもどかしさを、現場に巻き込まれていればこそ止め得ない構造の危うさを、静かに語ってもいる。
自己演出の手腕が問われる現場で、ゆきは巧妙に自分を形作り、ウケる己を視聴者に届けていく。
その時必要な計算高さと野心は、巧妙に作られた”リアル”に溺れて脳の温度上げたくてしょうがない観客に見えることはなく、見えないからこそ彼女は儚げなヒロインとして輝いていく。
その眩く嘘っぽい青さに手を伸ばして、自分の指を飾ってくれたフェイクストーンを凶器に変えて、あかねは危険な嫉妬キャラこそ自分の居場所だと思い込み/吹き込まれて……その計算は赤く狂う。
商売道具に傷をつける暴挙に、慌てず騒がず抱きしめる優しさと余裕もまたゆきの”本当”で、そういうモノが計算と裏腹に息をしているのがこの現場で、だがその手触りは見ているものに伝わらないし、鏡の迷宮にとらわれていくあかねを捕まえもしない。
自己演出、自己責任。
リアリティを燃料にするショーは火種も嘘で覆い隠すことなく画面の向こう側に投げつけ、個人が向き合うにはあんまりに大きすぎる炎が舞い上がっても、PVに貴賤なしということでゴーを告げる。
それが実際に起ったから、客にウケる本当なんだから。
ゆきの赤い血を観客に晒す判断は、実際に批判を浴びる演者に相談されることなく世に流され、その責は魔女に祭り上げられたあかねの肩に、延々のしかかることになる。
ここには製作者・雇用主/演者・被雇用者という境界線がそびえ立っていて、10代の子どもを過酷で危うい現場において稼いでいる境目の危うさが、その不当を加速させてもいる。
自分がどう見られるのか、どう見られたいのか。
決めて選ぶのはお前らだよ、と、カメラに吸い上げられた”現実”を見栄えの良い絵面に、ショッキングな爆弾に編集し放送するモノたちは告げる。
目立たずやり過ごすことを選んでいるアクアやMEMちょや、前のめりに体重を乗せて楽しみ勝ちに行くゆきや、影に追いやられて焦り飾った爪で傷をつけたあかねは、確かに”選んだ”のだろう。
だがそれはネット世論との共犯やら、売れることを至上命題とする業界の吠え声やら、使う/使われるの間に引かれた不可侵の勾配やら、不可視化された様々な構造の中で”選ばされた”ものでもあって、そういう見えない強制力が自由で手前まかせな選択権に、深く食い込んでいる。
赤い血を画面に映すと”選んだ”制作現場の上流も、そういう見えない、抗えない流れの中で火種を投げつけた……というと、擁護がすぎるか。
加速していくバッシングの中で、あかねを取り巻く世界は憂鬱なモノトーンに滲んでいく。
キラキラ眩しいアオハル恋愛ショーがけして描かない、お母さんにご飯を用意してもらって、それを飲み下せないまま便所で吐き出すあかねの生身を、知るものはいない。
ネットワークに浮遊する顔のない怪物に、生身の自分を追いつかせて夢を叶える。
かつて鏡の前微笑んで、演じるべき役柄を的確に掴んでもいた少女を、制御不能な影が悪魔のように踊っている、白と黒しかない地獄が包囲していく。
最初はネットに書き込む人間が、顔は見えないながらその身体を描かれていたのに、バッシングが加速しあかねの精神が追い込まれるに従って、名前すらない不定形の毒になっていくのは、なかなか鮮烈な表現だ。
形がないから向き合えない、殺しきれない濁流は、良く作られた嘘の内側に何があるかを見ようとしない。
見なくて良い無責任が消費を……『推しを応援する尊い行為』を加速させ、生身の存在感を忘れさせていく。
『それでいいんで、アナリティクスの数字は上げてくださいね』と言ってきたのは作り手側だし、かなちゃんが現実とネット、供給者と需要者の関係性がもはや相互共犯的だ(だから強くて、支配的だ)と見きったのはまさに慧眼である。
誰かを叩いて憂さ晴らし、悪役作って金儲け。
お互い様な地獄絵図に、巻き込まれたあかねの世界は暴力的な闇と、より暴力的な白の二分法しかなくなってしまって、そこから開放される選択肢に踏み出す前、一瞬美しい夢が彼女を演出する。
そうなりたかった、なるべきだった私(Ego)を照らす街は、一服の絵画のようにキラキラ眩しく、冷たい雨はその虚飾を剥ぐ。
迷い苦しんで、夢に溺れてそのまま落ちていけないのは、メモ魔のあかねがどれだけ生真面目に、自分を包囲する現状を睨んでしまうのかをよく語っているように思う。
あかねを執拗に追い込み、無明の悪意が彼女を黒白に包囲していく描き方も、また精妙に演出されたものだ。
悲哀と同情を、僕ら『黒川あかねを見ているものを見ている側』から引っ張り出すために強調され、演出されたこの絵面も、例えばゆきの抱擁のように確かな本当が足元にある。
それは作中荒れ狂っているバッシングの実態、そこで傷ついていくあかねの魂であり、元ネタにしたリアリティーショーが実際、燃え広がる炎を制御できぬまま人を殺している事実でもある。
このアニメが事実に取材したフィクションであり、第一義が見るものを楽しませること(その対価としてガッポリ稼ぐこと)にある以上、一番やりたい事もやるべきことも、制御不能で無責任なネットとメディアの共犯糾弾ではないだろう。
それでもリアリティーショーの潜在的なヤバさが発火する瞬間を描かなければいけなかった必然が物語の中にあり、それが人を殺す過程をずっしり伝える筆を研ぎ澄ませる意味が、ここにはある。
虚構に真実を見て、本当を作り話に宿せるのが……今目の前にぐぐっと前のめりにさせるアニメがあることが、人の為しうる善き奇跡だとしたら、それが削り出しているこの闇夜の舞台は、その悪しき影だ。
そういうモンが一話の中で乱反射して、色んな境界線があやふやに捻じれている手応えが、僕はとても面白いと思う。
あかねちゃんを死地に追い込むことで、観客席と舞台の境目もネット時代にはもはや崩壊していて、見る側は無責任かつ無力に演じられる嘘を見守るだけではないし、凶器を握った当事者として刃の振るい先を考えるべきだと示してくるのも、なかなか面白い反転だよね。
グロテスクな色あいながら確かに、あかねの世界に宿っていた光は死を覚悟(すら出来ず、フラフラと終わりに近づいていく)する中、降りしきる雨に飲まれていく。
自分をヒロインに押し上げるセルフ・プロデュースの舞台がライトを失い、幕を閉じようとした時ガッツリ掴んで地面に引き下ろすのは、青い瞳を輝かせる我らが主人公だ。
ごろりと転がるあかねの視界を一人称で描き、闇を切り裂く強い光を画面に切り取ってくるのが、アクアが果たし得た仕事の大きさ、追い込まれた少女唯一の輝きとして、とてもいいと思う。
アイの真実を知るための腰掛けで、目立たぬようにやり過ごして終わらせる。
そう嘯いていた男は、『マジあかねちゃんどうにかしてやってくれよッ!』という視聴者の期待を裏切ることなく、人間のなすべきことを土壇場でしっかりやり届けた。
復讐のために人殺しになることを覚悟している、大嘘つきの犯罪者候補が”大事な仲間”を助けてるとか、転生と”推し”の死で投げうったはずの、医者としての前世が蘇ってる手応えとか、境目が拗じくれる気持ちよさがここにもあるなぁ……。
惨劇の直前で舞台をひっくり返したアクアの思惑は次回語られるところとして、あかねちゃんを追い込む筆致に容赦がなかった分、救世主めいた力強さでアクアがかけつける気持ちよさ、ありがたさは濃い。
借り物の人生を復讐のために使う、達観し離人したクールガイ。
アクア自身が多分かぶりたいと思っている外面は、これ以上ないほど強烈で正しい”余計なお世話”でもって、彼を裏切る。
そうやって人間一人、虚実の境目が凶暴に破れてしまった地獄から引っ張り上げたことで、何が揺れて変わっていくのか。
どう揺らして変わっていくのか。
二度目の人生という舞台の主演として、星野アクアが己をどうセルフプロデューすするのかを、このアニメは次回、鮮烈に描いてくれるだろう。
楽しみだ。
それにしたって重苦しい話なので、息抜きタイミングはかなちゃんとルビーちゃんがキャッキャしてる場面くらいしかなかったね……。
兄貴が超ブラコンなのに感情表現が下手くそ極まるので、ルビーちゃんを率直にかわいいかわいいしてくれる人が現状かなちゃん先輩くらいしかいなくて、一個下で隙が多いルビーちゃんの面倒見ることでかなちゃんの良さみが濃厚に出るの、ホントありがたい。
俺はこのお話のテンポと風通しが良い笑いは結構好きなので、笑える場面がたくさんあって欲しいけども、明暗半ばし混ざり合う複雑さで持って独自性を作ってる話でもあるので、キャッキャだけでは済まないんだけどさ。
でもなー……良いだろ芸能界にいようが夢売る立場にあろうが、ガキがガキらしく何も考えずにワイワイ楽しく過ごせる時間があってもよー!!
そしてそれは嘘まみれの”今ガチ”の現場にも確かにあっただろーがよー! って叫び声を、ちゃんと拾い上げる話運びしてくれる所が、俺は好きだよ。