イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

機動戦士ガンダム 水星の魔女:第18話『空っぽな私たち 』感想

 愛の鎖で繋がれた、獣が虚空に泣き叫ぶ。
 胎児よ胎児よ、何故踊る。
 母親の心がわかって、おそろしいのか。
 機動戦士ガンダム水星の魔女、第18話である。

 何しろ驚異的なスピードで状況が回っていくアニメなので、とっとと総裁戦にツッコんでいくのかと思いきや、各勢力ごとに情報を均衡化したり、スレッタを愛する人達が愛ゆえにさらに突き放したり、状況整理に一話使ってきた。
 負け組部屋の三人とか、オモシロ懺悔室経由でマルタンからセセリアとか、上手く繋いでおくと後々楽しい発芽をしそうなネタが随所に蒔かれて、今後に生きそうな話数である。
 同時にかわいいかわいい水星たぬきを、関係者全員がビシバシ遠ざけすれ違い、幼子がようやくスタート地点に立った。
 呪いの道具であることを止め、へその緒を引きちぎられ、自分を繋ぎ止める祝福を全て剥奪されて手に入れた自由は、幸福を意味しない。
 その痛さと悲しさを受け止めてなお立てるのなら、そこからが本当の始まりなのだろう。
 ハッピーバースデー、スレッタ・マーキュリー。

 

 

 

画像は”機動戦士ガンダム 水星の魔女”第18話より引用

 決闘に敗れホルダーでなくなったスレッタは、メモに書かれた充実の夢を次々叶えていって、泣きじゃくるよりも遥かに痛ましい。
 捨てられてなお健気な彼女の人生をどーにかしてくれよ! という視聴者の願望に応えられるのは、家督の重さやら血塗られた因縁やらを背負っていない気楽な学生のみであり、つまりはチュアチュリー・パンランチ大先生が気合の入った踏み込みを見せることとなる。
 ここ一番の起爆剤となることで、粗暴だった過去を乗り越え持ち前の優しさの使い方を学んだ成長すら教えてくれる、まっこと頼もしいモフモフ爆弾である。
 冒頭の講義で、パーメット粒子の特質が通信と制御にあることが語られていたが、これはサイバネティクスの本領でもあって、やっぱりサイボーグの話なんだなぁ……などという手応えを再確認もする。
 機械と生物、中心と末端を繋ぎ合わせ一体化する技術が、真意を隠して相手を遠ざけるディスコミュニケーションの物語と深く繋がっているのは皮肉であるし、納得もする。
 子どもを呪い殺すガンド技術は明らかに人に過ぎたる技術で、しかしそこにこそ可能性を見出したヴァナディースの祈りは戦場で裏切られて、血みどろの制裁を果たしたデリングもまた、分断と闘争のないパーメット制御の究極系を、世界に夢見る。
 何もかもが半端に繋がって、断ち切られて上手く行かない場所で、真実思いを結び合うのに必要なのはなにか。
 問は決闘が終わった後も、まだまだ続く。

 いつものことながらサブタイトルの活かし方は多義的で、ミオリネに捨てられたスレッタはやりたいことノートで空っぽを埋めようとして、結局彼女に託された温室に帰ってくる。
 そこに閉じこもって、思い出に慰められていても何も起きないことを、ラウダも薄々感づいているのだろう、『いつまでそこにいるんだ』という言葉は重たい。
 後に彼が、颯爽たる機関を果たし全てを取り戻した(ように、何もないことを自覚する学生からは見える)異母兄のまばゆさに立ち止まる時に、その言葉は鋭く反射してくる。
 残酷な父母から空約束だけ与えられ奪われ、夢の跡地だけが空っぽに広がる私たちがどこに行くのか。
 空っぽだからこそ、そこにたっぷり何かを詰め込める可能性に胸を張れるほど、子どもたちの傷は浅くはない。

 それでも、チュアチュリー・パンランチは境界線を超えて踏み込む。
 未練がましく約束の名残を、なんにもならないと自重しつつも捨てられない友達の胸ぐらを掴んで、行くべき場所へと行くのだと吠える。
 その獰猛さには賢さと優しさが足されていて、何にでも噛みつくだけが生き残り方ではないことを、この最悪な学園の青春が彼女に教えていた。

 何もかも無くなったように思えて、でも確かにそこに在った小さな成長と友情。
 仕組まれた出生や、愛を奪われる悲しさや、嘘で固めた鎖の重さや、天地に引き裂かれた世界の分断や……。
 とにかく多くのものが、スレッタと彼女を愛する人達にはのしかかっているし、それが地球寮の人たちとの触れ合いで生まれたモノでひっくり返るとは、かぎらないのだけども。
 それでも確かに、スレッタを鋼鉄の安らかな揺りかごから引っ張り出して、語り合うべき相手が今そこにいる現場に引っ張り出してくれる力が、確かにそこにはある。
 狭く閉ざされた秘密に侵入することを許す特別さが、子どもであることを許してくれない世界の残酷に叩き起こされた後で、物語はそこから進み出していく方向へと舵を切っていく。
 そうさせてくれる誰かがスレッタを放っておけないのは、呪いの子だろうと仕組まれた道具だろうと、彼女が選んで進んで手を伸ばした、ちっぽけな思いが帰ってきているからだ。
 それは嘘ではない。
 嘘にしてはいけない。

 

 

画像は”機動戦士ガンダム 水星の魔女”第18話より引用

 そう思えばこそ、学生服を脱ぎ捨てたミオリネはグエルを戦友として、手段を選んでなお勝てる細い道を、必死に手繰り寄せようとする。
 ガンド技術をあくまでサイバネ医療として活用する、学友と作り上げた株式会社ガンダムの理念(それは義母たるプロスペラが、炎の中で奪われてしまったものだと思う)を手放さない決意は、総裁戦を勝ち残って権力構造を破壊する夢(誰かにとっての悪夢)のために手段を選ばないシャディクと、愉快な好対照を為す。
 骨組みしか無いジェタークのガンダムも、燃え盛る地球の怒りと痛みも、未だミオリネから遠い場所にあるわけだが、その瞳に反射している現実……見据えようとする意思は、けして嘘ではない。
 この惨状と欺瞞を当然と成立していた、懐かしくも呪わしき我が家たる企業宮廷で戦う中で、選び取った手段は果たして、崇高な目的を裏切り、制御を失わせていくのか。
 かつて第1話、地球の実情も知らぬままそこに逃げ出そうとしていた女の子は、グエルが一足先に喉まで浸かった(そして這い上がった)現実の泥に、その身を浸そうとしている。
 それはコロニーという大きな家の、外側にある風景だ。

 複雑怪奇な高度資本主義社会を、(ペイル的な疑似家族含めた)血縁主義で運用される大きな”家”としてパッケージするとこで、理解と共感を強める。
 このお話はそういう語り口を選んだが、その結果”家”の外側で勝手に働き、企業体に支えられて生きている人たちの顔なき顔がなかなか見えなくもなっている。
 こういう公的側面を取り込むと、話全体が制御不能なスケールに膨らんで面白みがなくなっていくからこそ、血と家というノミを選び取ってサイバーパンク世界を削り出していく手法を、このお話も選んだのだとは思うけど。
 家の内側であれば、愛すればこそ遠ざけ押し付ける愛情は”不器用”ですむけども、その結果が莫大な人間の生活、人生の岐路、ダイレクトに人命を左右する状況下では、内心の美しさは行いを正当化し得ない。(と、僕は感じる)
 一個人の内面としての善良と、それが身近な誰かに触れ合う時の不器用と、公的空間に拡大した時の暴力性は、全て併存出来てしまうのだ。

 ミオリネはクソ親父の分かりにくい愛情を、血しぶき混じりに身近に感じたからこそ自分を宮廷闘争の現場に縛り付け、その最悪な副産物たる弾圧の現場へ、己を運ぼうとしている。
 グエルはヴィムの命を奪ってなお、生きたいと願う自分と願いつつ死んでいく誰かの体温を強く握りしめて、地上から宇宙へともう一度這い上がり、家を背負って戦う道を選んだ。
 それは企業と家庭が癒着した暖かく陰湿な構造から、総裁戦の勝利を通じて産業構造と自分(に繋がった家)を開放していく道に……果たしてなりうるのか。
 己を見出し育んでくれたサリウスを攫い、その不在をテコに状況を進めているシャディクが、ゼネリという家をどう見ているのか。
 血の鎖を無価値と切り捨てたからこそ、ミオリネと作る新しい”家”に最後の希望を載せていたと考えるのは、ちとロマンティシズムが過ぎるか。

 どちらにしても資産売却と総裁戦向けの点数稼ぎは順調に進み、決闘の構造は学園を飛び出してなお、企業統治下世界全体の未来を、定めようとしている。
 ……『勝ったもんが全部取り』というわかりやすさを、『企業≒家族』という構図と同じくMS決闘は作品に引っ張り込んでいたと思うが、それが狭いアジール内部の命運だけでなく、猛烈な搾取を前提とする世界全体に拡大していくヤバさをどう、志ある若人たちが制御していくか。
 その試金石として、ミオリネとグエルとエアリアルの地球旅は思いの外、デカい仕事をしそうである。
 グエルくんの地球放浪修行が地ならしになって、ミオリネが理想を見据える危うさを上手く着陸させてくれそうな予感があるのは、ちょっとありがたいね。

 

 

 

 

画像は”機動戦士ガンダム 水星の魔女”第18話より引用

 一足先に学園を出た者たちを追いかけるように、学園に残る者たちもお互いの因果を絡めあわせていく。
 五号の軽すぎる口が結果的に、ノレアの膿んだ傷跡を切開して本心に近づいていったり、企業とガンダムが生み出す呪いの実態を子どもたちに共有させたり、何もかも企業体の大きな手のひらの上で弄ばれている現状を、ニカに享受していったりする。
 ここら辺の情報開示は作中のキャラクターだけでなく、結構複雑な物語を高速で摂取させられている視聴者にも重要な、一つの補助線だ。
 スレッタを主役に据えていた時は表に出にくかった、『ガンドの呪いは、企業の鎖は、子どもを食い殺す』というルールから必死で逃げても良いのだと、生き汚い五号は奇妙な同志に告げていく。
 運命に選ばれて(選ばれてしまって)特別な適合者となったスレッタからは見えにくい、この世界のスタンダードな犠牲者であり、物語からの落伍者でもある三人が何処に己を持っていくのか。
 『コイツら見てると面白ぇ』って地力一本勝負で、こういう側道を魅力的に機能させてお話の横幅拡げに行ってるの、凄い手筋だなと感じる。

 んでそこを更にガバっと拡げうる、まさかまさかのマルタン-セセリア情報ハイウェイ開通!
 『お、懺悔室という閉じた空間でもって、新たに隠微な関係性が成立していくんだな……モチーフの重ね合わせ最高ッ!』とか思ってたら、なんかゲーミングなビカビカとともに閉鎖空間が一気に開放されて、極めてイイ表情したクソアマが全てをぼっかり爆破していった。
 メチャクチャ剛腕でマルタンの重荷を降ろさせ、本当に必要な思いを乗せるための”空っぽ”を作らせる手際でもあって、これも面白いから許されてる展開圧縮だよなぁ……。
 地球料でのやり取りを通じて、ミカがチュチュに及ぼした良い影響(に救われる、かわいそうなスレッタ)を強調しておいたから、ここでミカとシャディクを巡るややこしい重荷を下ろす価値も上がって見えるつうのが、また巧妙ですわ。

 群像一つ一つの粒が立っていて異様に面白いのはこのお話の強みだが、ラウダくんとジェターク寮の面々にも、いい塩梅にコクが出ている。
 主役周りが苛烈さを増すほど、”まとも”である彼らの関係性に見ている側の体重が乗っかってきて、ある種の癒やしと安心を担保する立ち位置にもなってきているが、兄へのコンプレックスと、凡才が背伸びして企業体に挑む難しさが噛み合って、かなり複雑な陰影が乗っかってもいる。
 何処まで言っても空っぽだと自分を蔑むのは、眩すぎる光が隣りにあるから。
 でもさー、憧れのお兄様だって血泥塗れの人生最底辺を這いずり回ったからこそ、輝く舞台に帰ってこれたわけで、ラウダくんもそういうどす黒い旅路に挑むタイミングなんじゃないの!?
 ……ってことは自分でも良く解っていて、それでもなお踏み出す強さを見つけられないから、光と影の境目で足踏みする様子が切り取られるのだろう。
 色んな子どもたちが、それぞれの重荷を背負いきれない空っぽを抱えて、まだ道を探している。

 

 

画像は”機動戦士ガンダム 水星の魔女”第18話より引用

 その孤独で残酷な自由に主役を放り出して、今回の物語は終わる。
 ガンドの呪いをモノともしない異常な特別さを、主役の証と背負ってきたスレッタは、操縦される機械でしかなかったはずのガンダムが身体の制御を取り戻し、パイロットを排除する逆撃に振り落とされる。
 最後に『母に愛されていた自分』にすがろうとしても、ぽっかりと開いたコックピットには仮面の魔女が居座って、用済みの自分の居場所はない。
 強化人士や地球の魔女たちと同じく、赤く発熱する呪いに苦しむ平凡を手に入れて、決闘の勝者でありガンダムに選ばれた子どもだったスレッタの物語は、残酷に終わっていく。
 それは優しい嘘で自分を保護し束縛していた子宮から、涙ながら切り離されていく出生の必然が、ようやく幼いスレッタに追いついた瞬間だ。
 一足先に残酷な世界に産み落とされ、必死にあらがって進んできた他人と同じ場所に、同じ痛みと呪いに、ようやく立った刹那だ。

 人間個人の優しさや思いやりを、システムがゴリゴリすり潰して無化していく、高度資本主義社会。
 人間が良リよく生きるためのメディアであるはずの貨幣経済が、人間を支配しコントロールしている本末転倒は、パイロットがガンダムと一体となり、制御権限を握る構図の逆転という形で、ここでも牙を剥く。
 スレッタこそがエアリアルの端末であり、身体なきガンドの子どもが現世に繋ぎ止められ、あらたな自由を手に入れるための鍵でしかなかった。
 鍵として選ばれ、復讐の扉にふさわしい形へと歪められていくことは優しい保護でもあって、エアリアルから”見捨てられた”スレッタはもう、呪いをなかったコトにできる特権を失う。
 泣かずに立っていられる自尊の補助具、優しく裏切らない機械の友達だったはずのエアリアルは、機体と人生の制御をスレッタから奪い……あるいは取り戻し、母とともに念願の復讐へと、ようやく進み出していく。
 部品だったはずのものが中枢としての素顔を顕にし、主役だったはずの存在が用済みと打ち捨てられて、平和で安全な外野に置き去りにされていく。

 

 その逆転を、仮面を外して母は言祝ぐ。
 嘘と残酷で便利に子どもを使ってきた事実と、それでもなお我が子が己の幸せを学園に掴んできた日々を甘く思い返しながら、別れはあくまで仮面を付けたままに。
 それでテメーの気持ちはすむかもしれねぇが、へその緒も切らず母子共犯の甘い夢の中、アンタだけを頼りになんとか前に進んできたガキの心は、一体どうすんだよッ!
 まぁ、そういう感じでもある。
 エリーがスレッタに依存した人機共存のサイボーグであることを止めて、自律機械としての己を確立してようやく、その鋼鉄の子宮に母を迎い入れ地獄の共犯関係に戻っていけるの、あんまりにもどす黒く眩い光で最高。

 ヴィムにしろデリングにしろ、愛があったから子どもたちへの仕打ちが肯定されるわけではないし、彼らが絶大な権力を持つ世界の支配者である以上、その”不器用”は家の外に深く傷を残している。
 許されるはずもない虐殺を、必要な魔女狩りだったと正義に塗り固められて、この世の果てで憎悪を巡らし、新しい愛を呪いの道具に整えて、今自分の物語へと進み出すプロスペラ。
 思うがまま自分らしく復讐に突き動かされているように見えて、その先には彼女個人では収まらない悲劇……あるいは人間という形の変貌が待っているだろうし、見た目ほど充足もしていないだろう。
 家族も理念も奪われ、復讐で己を満たすしか無いプロスペラこそが、一番”空っぽ”なのだろうと納得もするし、その切なさが泣きじゃくるスレッタの孤独を、手を差し伸べておいて振り払う無惨を、許しもしないだろう。

 コイツさえぶっ殺せば正しさが担保される、悪魔のように純粋で平板な存在に”親”を押し止めない筆先は、家と親が果たすべき正しさを全く狙い撃てない不出来と、家族を思ってなお止まらない野心や暴虐、復讐心を同時に描く。
 度し難いクズでありながら確かに誰かを思う人間でもあり、その”人間らしさ”が自分の人生と複雑な世界を制御する助けに、全くならない難儀な現世。
 そこにこの物語の大人たちは生きているし、子どもたちも学園を出て、そういうド厄介な場所で自分に何が出来るか、何をするべきかを探っている。

 大人世代が延々繰り返している業のレールを、捻じ曲げて新たに敷き直そうとしてるシャディクと、まだ見えない出口を必死に探るミオリネ&グエル、ようやくその残酷さの前に放り出され産声を上げたスレッタ……という構図か。
 シャディクは仮にホルダー戦に勝ってミオリネを側においていたら、企業支配の構図をそのまま飲み込んで、アーシアンではなくスペーシアンである自分を受け入れて生きていったのだろう。
 それに頓挫した結果、今地球と宇宙のヒエラルキーを超暴力的にひっくり返して、暴力的均衡の先に新しい差別と不自由が生み出されようとしている。
 純血のジェタークであるグエルが親の敷いたレールに反発した結果大クラッシュを生き延び、現行のシステムに血の通った疑念を抱いて進もうとしているのとは面白い対比で、地球産の野良犬として厳しすぎる後継者レースを勝ち上がったからこそ、その大きな構造に程よく、手段を選んで何かを成し遂げられるバランスの実感が、シャディクにはないのかもしれない。
 ここらへんもある種の”空っぽ”と”不器用”で、そこに人間存在の湿り気がたっぷりあるからといって、既に果たした行いと選択の先にある惨劇が、肯定されるわけもないんだけどね。

 

 ともあれ、懇切丁寧にスレッタを世界へと出産するお話でした。
 生まれちまったからには自分の足で、自分の人生を突き進んでいくしか道も残されていねぇわけだが、それでも断絶と孤独の痛みに赤子は泣く。
 一人で立てと突き放すにはスレッタはあまりに幼く、だからこそ彼女を突き放した人たちは真実を受け止めてもらって一緒に進むより、何も伝えず突き放す道を選んだんだろう。
 でもそれってよぉ……スレッタをバブちゃんじゃなくす手間を惜しみ、教えて傷つく自分可愛さの選択肢じゃねーの?
 そんな疑念を感じつつ、ここから始まるスレッタの旅路が、どこにたどり着くのか。
 次回も大変楽しみです。

 

 

・追記 魔女狩りの荒野を越えていく、杖としての呪言