イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

映画『君たちはどう生きるか』感想

 巨匠・宮崎駿10年ぶりの新作であり、おそらく最終長編作となるだろう映画『君たちはどう生きるか』を見てきましたので、感想を書きます。
 事前プロモーションを一切せず、謎のアオサギがエケエケッ鳴いてるだけという異形の宣伝体制で見に行ったアニメですが、僕は大変に面白かったです。
 どんな話なのかすら輪郭を掴めず、これだけの大作(であり間違いなく怪作であり、僕は快作だと思った)に映画館で裸一貫ぶち当たることが出来るチャンスは滅多にないので、是非今このタイミングで映画館に足を運んでいただきたいな、と思います。
 映像的にも音響的にもスペクタクルに満ちたお話なので、リッチな環境で見る意味もとても大きいですし、何よりかにより極めてハチャメチャで面白い映画なので。
 オススメです!

 

 

 

 

 

 というわけでおそらく宮崎駿体制のジブリ最終作であり、最も”ジブリ映画”らしくない稀代の怪作を見ました。
 ストーリーラインだけを追いかけると、天から降り立った謎の塔に義母を追いかけ迷い込むことで、母の死や自分の負い目や義母とのわだかまりを飲み込み、生と死、宿命と驚異に満ちた世界を少年が受け入れられるようになるまでの、大変オーソドックスな幻想冒険譚であり、胎内回帰の物語であり、冥府下りの神話となります。
 しかしそこに宮崎駿が作家として経営者としてアニメーターとして、かつて少年であり今年経て老人となった人間として脳髄に溜め込んだ何もかもを、成分無調整でぶっ放した結果異様な映像と展開がワンサワンサと襲いかかり、一体何がどうして起こっているのか飲み込む間もなく、強制的に絵と展開のパワーで飲み込まされてしまう、不親切で強引でパワフルな映像体験となっております。
 15~16世紀のヨーロッパには”驚異の部屋”と呼ばれる施設がありまして、部屋の持ち主が興味をそそられる古今東西の珍品を所狭しと並べ、その人なりの世界観を物理的空間として具体化させ体験してもらうという、大変ゴシックな代物であります。
 美醜取り混ぜて様々なモチーフが入り乱れ、幻想と現実が複雑怪奇に絡み合い、時間も空間もぶっ飛ばして独自のルールで物語が展開していくこのお話は、宮崎駿という人間が何を見て何を愛し、何に惹かれていたかを棚晒しにした、ニ時間数分の”驚異の部屋”なのかなと、僕は思いました。
 それは人類が自分たちの精神世界をたどる伝統的な足取り……現実なるものより真実が先に立ち、時系列や因果関係、空間の繋がりは心の在り方によって自在に変化し、秘められたルールによって世界の在り方が規定されている、夢や想像、あるいは魔術の領域に作品の在り方を極限まで近づけた、説明を置き去りにした速度でぶっ飛んでいく広大なパビリオンです。
 良くわからないのは当然至極。
 その不可思議にこそ困難や理不尽に立ち向かいうる、幻想が幻想であるがゆえの力が宿るのだから、世間一般に流布する道理が立って飲み込みやすい物語の形は、意識してぶん投げられてる物語に、僕らは潜っていくことになります。

 戦中を舞台にしつつ戦火の描写、それに苦しめられれやせ細っていく日常の描写は大変少なく(あったとしても、そこから距離を取って特権的な安然を感受できる真人の、後ろめたさを照らす鏡としての側面が強い)、物語はとても幻想的な、現実的繋がりを超越した風景を主に描いていきます。
 真人が居心地悪く迷い込む母方の実家は、一応彼を包囲する現実ということになっていますが、そのサイズもスケールも山中異界の様相を呈しており、塔の冒険が始まる前から現実の法則性をぶっ飛ばし心がそれを追い抜いていく世界観が、力強く前景化していきます。
 このお話は七人の老婆に庇護される眠り姫が、一瞬の幻想にまどろみながら自分が生きる意味を見つける……『君たちはどう生きるか』という問いかけ(その書物が亡母から送られている以上、遺言でもある)に答える物語であり、とすれば重要なのは現実的な行動に先立つ心のあり方、世界と自分を認識する視点の確立となる。
 こちらの理解を置き去りにパワフルにぶっ飛んでいく展開や場面は、人の精神がどのように自分と世界を認識し、それによって構築される世界がどれほど混乱と脅威に満ちて、危うくも美しく冒険にあふれているか、猛烈に訴えかけるための手法と感じました。
 しかし作中最も幻想的で心理主義的なのは、母が焼け死ぬ瞬間に真人が追いつくまでの疾走であり、一見現実から幻想に、屋敷から塔へと迷い込んで展開するように思える物語は、致死性の危険と美しすぎるゆらめきを同居させ、母を死の国へ奪っていった(と開始時の真人は認識するが、塔のなかで若き母と出会い直す中で本来の居場所、火の姫としての故郷に戻っていったのだと納得していく)炎を最初に捉える。
 この段階から、既に幻想と現実の境界線はあやふやになり、真人は母の遺骸……死の実態をその目と掌で確認できないまま、宙ぶらりんに置き去りにされることになります。
 母とともに過ごした時間がまるで夢のようにあやふやに、郷愁と哀惜を置き去りに現実は手前勝手に進んでいってしまって、”戦争”という人間の行いで最も現実的な行為に国が飛び込んでいく中、真人は母との離別という、個人的で切実な問題と上手く付き合えないまま浮遊している。
 真人の冒険を全力疾走で追いかけるこの物語は、現実を飲み込む処方箋として幻想が提示されるのでも、現実が幻想を駆逐するのでもなく、母の死によって実体のない幻想に飲み込まれてしまった真人の生が、圧倒的にファンタジックなスペクタクルの真ん中に誘い込まれ飛び込むことで、義母とその腹に宿る弟との現実的生を選び取って、等の中で美しい世界を維持していた幻想の欠片を現実に持ち帰る形で、自分を位置づけていく旅なのです。

 

 長きに渡って当代随一の幻想の語り部だった宮崎駿が、幻想/現実というシンプルな対比を選ばないことには納得がいきますが、その語り口はいかにもジブリらしいファミリー向けの飲み干しやすさや、ファンシーな可愛げや、明瞭なドラマと鮮明な語り口を(ゴリッとした質感でしっかり内包しつつ)置き去りにして、暴力的で不愉快なファンタジーの本分に、しっかり腰を据えて向き合っています。
 可愛くキレイなもの達、商業的にウケの良いマスコットだけが幻想……あるいはそれを生み出し飲み込まれる人間の精神にはあるわけではなく、血みどろなインコの屠殺場であるとか、もはや別個の生命としての迫力を有する群体であるとか、理不尽なタブーとルールであるとか、人にとって有害で危険なものも内包している。
 しかしそのように危うく悍ましい存在も確かに、幻想の住人としてそこに存在してしまっている以上否定はし得ないし、輝かしき幻想の国を侵す俗物として描かれている鳥たちは、他人の肉を喰らい生まれうる可能性を食いつぶして、糞便を垂れ流しながらそれでも生き続けているわけです。
 そこに善悪可否の区別はなく、確かにそこにあってしまう以上逃げる訳にはいかないと、真人の冒険を追いかけるカメラは悍ましいもの、汚らしいもの、醜いものを沢山追いかけ、それが美しいものに変質したり、彼らなりの必死さや輝きと同居していたり、嘘つきでがめついままに友だちになったりしながら、綺麗で望ましいファンタジーと切り離せない様相が描かれていきます。
 ガマや魚、ペリカンやインコがうぞうぞおぞましく寄り集まって真人を取り巻く情景は、そこに生理的嫌悪と生物的力強さをしっかり宿しつつ、幾度も繰り返されてお話の主軸として、ずずずっとお話の真ん中に立ち続ける。
 そのおぞましさを排除するべき敵として描くことも出来るのに、宮崎駿は今回そうしないし、ずっとそうしてこなかった。
 王蟲や崩れ行く巨神兵ゴリアテを襲うロボット兵やカオナシに焼き付いていた、存在の泥に見苦しく塗れつつ、それでも必死にあがいて何かを掴み取ろうとする異形たちへの視線を、このお話はより力強く、カメラの真ん中に持ってきた感じがある。
 真人の同行者として七婆の中でも意地の悪いキリコと、嘘ばっかりついて身勝手なアオサギが選ばれるのも、表面的な美醜、社会的に良しとされているかよりもっと深く、もっとドロドロな場所に近いキャラクターを、旅の仲間としてそばに置きたかったからなのではないかと思います。

 この愛しき醜悪さへの眼差しを一番受けているのは、異様な生命力と現実対応能力を有した、真人のお父さんかなと思います。
 母亡き現実を『どう生きるか』を上手く見つけられない真人を置き去りに、父は戦争需要に取り憑く形で現金を稼ぎ、新しい妻をめとり、セックスをして子どもを作る。
 300円の寄付金で学校を黙らせ、日本刀とチョコレートと蝋燭で武装して幻想の塔に殴り込みをかけ、息子の傷を気にかけつつもそこに寄り添うことはなく、それ自体が幻想の城である新居にはあまり寄り付かない。
 子供と大人の狭間、思春期というファンタジーのただ中にいる真人が、父とナツコの接吻……その先にあるセックスを目撃してしまう場面は結構重要だと思え、そこでむき出しになっている現実的活力と向き合うだけの強さも答えも、真人は上手く手に入れてられていないわけです。
 母を思って眠れる真人が涙を流す場面の切なさは、現実との対象法を良く知っている(からこそ、幻想との対処法を忘れて塔には入れない)お父さんには上手く見込まないもので、そのパワフルな生き様を遠巻きに敬慕しつつ、真人は強く恐れてもいる。

 このお話は頭から尻尾まで幻想の物語なので、現実の武力は問題解決の手助けにはなりません。(これが戦中の話であることを考えると、まー凄い世界律の立て方だ)
 お父さんが持ち出した抜身の日本刀よりも、真人がひっつかんだ木刀……あるいは手作りの弓のほうが物語的推進力を有しているし、それよりも館にすくう水妖に魅入られかけた真人をすくうべく、ナツコがうちはなった鏑矢のほうが状況を大きく変える。
 あれは矢じりで実際の肉を裂くのではなく、その風切り音が邪を払う鳴弦の儀としての射であり、古い古い血脈である母方の一族は昭和になってなお、そういう備えと智慧をついできた家系なわけです。
 真人は目の前で展開される異様な事態に驚くことも戸惑うこともなく、素直に異界のルールや風景を受け入れ、目の前の魔術的現実に適応していくわけですが、その一端は現実の武器ではなく魔術的兵装を扱うのに長けている、その血筋にある気はします。
 お陰でとっつきにくい主役にもなっているのだが、同時に母を思う哀切や率直で勇気ある人柄、そんな子どもが健気に奮闘する姿への愛ある視線に後押しされて、良くわかんねぇんだけど妙に好きなキャラになっているのも、このお話独特の魅力でしょう。

 この映画での、現実の武器の最も悪しき使い方は、新しい環境に馴染めず暴力を振るわれ、それを一大事にするべく道端の石で自分を殴る行為でしょう。
 世界を去る前に、その真実を言葉にし告解する場面が含まれていることが、そんなことが人生の一大事になってしまう真人の幼さと真っ直ぐさを示していてとても好きなのですが、そこで損なわれているのは生身の血肉だけではない。
 思いを押し殺して暴力を装い、父の政治力をいいように使ってイジメに復讐するという、凄くありふれて宜しくない心意気に、真人は誘惑され自分を害してしまう。
 戦中を舞台にしながら現実的戦争(あるいは戦争敵現実)が遠巻きにしか描かれないこのお話の中で、あの殴打と嘘はもしかすると一番現実的な場面かもしれません。
 それはとても身近でちっぽけな悪で、しかしそういうモノとちゃんと向き合うことが人生の一大事となる瞬間は確かにあって、だからこそベットに寝そべって傷を覆っている間は、その内側に隠しているものを顕にしたり、向き合ったりは出来ない。
 幻想と混ざりあった居心地の悪い現実を突破し、混じりっけなしの幻想の中を驚異に脅かされながら、死者や超自然的存在に助けられながら駆け抜けていく果てにこそ、真人が硬い石で自分の体と心を傷つけた始末が付く。

 そういう観点で見ると、弓を作る手を止めて、母の遺品である”君たちはどう生きるか”を読んで涙する場面は、現実的な武器を作る行為が、言葉と智慧の集積に道を譲る、とてもファンタジックな場面といえます。
 あの場面は一見題名に借りちゃった落とし前をつけるというか、『コペルくんノルマ』を果たすようにも見えるけども、その実ずっと何かを溜め込み張り詰めていた真人が母の遺した優しさがまだ現実にあることを確認し、そこに刻まれた思いを受け取ってようやく目覚めながらにして泣ける、かなり大事な場面だと思います。
 ”君たちはどう生きるか”が戦争になだれ込んでいく世相の中で、少年少女に自由で進歩的な文化を伝えるために企画された日本少国民文庫の最終巻であることも考えると、面白くもねぇ戦争に否応なく雪崩込んでいく現実のなかで、言葉や思いといった形にならない幻想を最後に手渡そうと、母が選んでくれた戦いの道具の意味を、真人はかなりストレートに受け取ったように思う。
 身重であることが解っていながら、車夫が持ち上げるのも苦労する大きな荷物をそのまま持たせて、黙りこくって新しい母に優しく出来ない物語開始時の真人にとって、ナツコは自分から遠い、どうなってもいい存在だったはずです。
 しかし彼女が森の奥深くに消えていくのを見て、それを追いかけ危険な塔へと進んでいく決断をすることで、彼は最初入ることが出来なかった幻想の中核へとその身を勧めていく。
 その間に”君たちはどう生きるか”の読書が挟まっていることを考えると、母が託してくれたものを噛み砕いて涙を流す中で真人の何かが変わり、家族になりきれない遠い存在から、身を乗り出してすくうべき大事な人へと、心持ちを変える契機となっています。
 真人が作り上げた弓はアオサギを射抜き、取引を持ちかけ、それで開けた穴を癒やすことで共に進んでいくきっかけを作っていきますが、物語の最後まで彼とともにあるわけではない。
 むしろそれを作り上げる手を一回止めて、形にならない祈りや夢を誰かから受け取って、自分の心におさめ人生を切り開く刃としていく体験こそが、彼を支える一番の武器であったように思います。
 幻想と重なり合いつつ描かれる真人の客観的現実を追いかけていくと、”君たちはどう生きるか”の発見と読了が一番のターニングポイントになっているように思え、むしろその存在が大きく表に出てこないからこそ、ファンタジーと不可分であるリアルの中で生きる中、一番強い武器がどこにあるかはひっそりと語られている。
 ”君たちはどう生きるか”原作と全くかけ離れた、奇想天外な幻想の旅路がひろがる足場は、そこに翻弄されそれでも帰ってくるための道糸は、あのひっそりとした描写にこそあるように僕には思えるのです。

 

 

 かくのごとく魔術的武器を携えて挑んでいく塔の旅は、真人に様々なもの……現実に身を置いていては答えが出なかった問題への向き合い方を教えていきます。
 炎の中に死んでいった母がどんな存在であり、それを愛しく涙する自分はどんな存在なのか。
 今新しい命が宿っているのだと解りつつ、そこに手を差し伸べられない自分は本当は何をしたいのか。
 野ざらしの石で自分を傷つけ、その傷に膿んだ嘘を隠したままの己は、何処へいくべきなのか。
 どれもこれも人生にありふれた問いかけであり、しかし現実に立つことは真人の道行に、そこまで力を貸しません。
 というよりも思い込みや恐怖に眼を隠されて、あるべき真の姿を見据えられない邪魔になってすらいる。
 その死に様を確認できないまま炎に消えていった母が、自分に助けを求め(つまりは助けられない自分の非力を思い知らされ)苦しむ幻影を夢の中、真人は彼なりの真実として幻視します。
 しかし旅路の果て出会った若き母は、待ち受ける炎の中の死を自分がいるべき場所(≒幻想の中の真実)として寿ぎ、笑いながら彼女の生へと帰っていく。
 そういう答えを得て、自分もドアの向こう側にひろがる自分だけの生に進み出すためには、現実と入り混じって己を苦しめる半端な夢想ではなく、深い森を超えた先にある圧倒的幻想へと身を沈め、帰ってくる必要があった。

 最初に塔に入る場面は露骨な胎内回帰として描かれていますが、既に出産を済ませてしまった死せる子宮に大きくなってしまった真人の頭は通らず、彼は母がいる場所へ戻ることが出来ない。
 おぞましくも温かい故郷への扉が開くのは、そこにかどわかされたもう一人の母を取り戻す戦いに、母が遺した”君たちはどう生きるか”へのイマージュを携えて踏み出す決意が、決定的な鍵になる。
 死んだはずの人が生きて歩き、老婆が若かりし頃の姿を取り戻し、扉を開けた先は全く別の世界へと繋がっている、現実的条理を何もかも蹴っ飛ばした領域に迷い込むことで、真人は母の死を受け入れ、その生が自分とたしかに繋がって一緒に冒険している実感を得て、もう母がいない場所でも泣かずに新たな家族と進んでいく力を得ていく。
 下卑たオウムが肉を喰むおぞましさと同じくらい、そういう特別でありふれた成長を手渡してくれる強さと、とても美しく愛おしい景色に出会わせてくれる特別さが幻想の中にはあって、しかしそれは外側から見つめているだけでは手にはいらない。
 危険を承知で飛び込み、様々な体験をその身に浴び、そうして学んだり心動かされたことを14個目の石として外界に持ち帰ることで、ようやく何かしら意味を持つかもしれない体験なわけです。

 劇中に描かれるこのファンタジックな旅路が、そのまま映画館の暗がりに頭を突っ込み、とんでもないイマジネーションに翻弄されつつ何かを手渡され、それを今持ち帰ってキーボードを叩いている僕の(もしかしたらあなたの)現実と重なるところが、僕はこの映画のとても素晴らしい部分だと思っています。
 ファンタジーは世知辛い現実を生きるためのキラキラな麻酔薬ではなく、暴力的な相互侵犯性、生々しいおぞましさ、何処にもありえない美しさが入り混じった生の体験であり、忘却の果てに飲み込まれていってしまうかもしれないけども、確かに何かを変えうる武器だ。
 そこでは死んだ人が蘇って言葉を交わしたり、いつまでも答えが出なかった悩みに奮戦の果て真実が与えられたりするけども、そこへの度は気楽なハイキングではありえず、生きるか死ぬかの冒険活劇でなければいけない。
 宇宙から降り注いだ圧倒的なイマジネーションに魅入られ、沢山の犠牲を出しながら幻想を覆う城を現実の中に打ち立て、それに食われて現実から姿を消した大おじのように、ファンタジーの犠牲となる人がいくらでもいて、真人やナツコのように神隠しに消えかける危うさが、確かにあるけども。
 それでも、幻想は素晴らしい。
 そう叫ぶ映画だったと思います。

 

 真人が実母の若き姿であるヒミと出会う前、継母的立ち位置で彼に色んなことを教えるキリコの存在も、なかなかに面白い。
 墓の主の呪いに飲まれぬよう、円形の結界を貼る時炎の鞭を振るっていることが、炎が母の命を奪った危うく憎らしいだけでなく、何かを守り育む優しさを宿している予言ともなっていて、とても好きです。
 真人は唐突に出会った強い女性の導きに従順に従い、死地を乗り越えて魚を解体し、婆人形の結界に見守られながら眠り、腹を満たしてこれから生まれていく可能性のために戦う。
 自ら刃を握って大きな魚を解体すること、それを上手く成し遂げられずハラワタを溢れあせてしまう体験は、彼が”男”になるメタファーを色濃く滲ませつつ、母を奪った”死”なるものがどんな感触なのか、自分の殺生がわらわら達が空へと無事に旅立つ糧になる輪廻の意味を、しっかり教えます。
 おぞましい”敵”だったはずのペリカンが何に苦しみ、どんな宿命と痛みを背負って死んでいくかを目の当たりにして、わざわざ墓穴を掘る体験も、生きることと死ぬことの意味(母が炎の中に没して以来、ずっと分からなくなっていたもの)を諭す。
 そういう体験を本来与えるべきなのは父なんでしょうけども、お父さんはお金を稼いで現実に適応するのに忙しく、心の領域に深く繋がった問いかけを答えに導いてあげる力が弱い。
 地獄から旅立つことは現世に生まれることであり、魚を殺してわらわらの餌を手に入れることが、これから生まれてくる弟の可能性を生まれる前に殺さないための責務にも繋がっている。
 そういう、一見解りやすいロジックで動く現実が覆い隠している裏腹な真実を実地で学ぶ意味でも、真人は父ではなく無数の母たちと幻想を旅する必要があったのだと思います。

 ナツコの産褥に踏み込んだり、世界継承の儀式を拒んだり、罰せられるべきタブーを(文化英雄にふさわしく)真人は多数冒していきます。
 世界がその駆動原理を顕にしないまま、当然と押し付けてくる不可思議なルールに従順に生きていくのではなく、『一緒に帰ろう。一緒に生きよう。お母さん』という本当の願いにまっすぐに突き進む道を、真人は選び取っていく。
 このタブーとの対峙こそが真人の”君たちはどう生きるか”なんだと思いますが、それはタブーがあればこそ問われ、試され、表面化して対応可能になった、真人の中の真実だと思います。
 身重の義母に手助けもしないまま、頑なに口を閉ざして命の意味が分からなかった時代から、実母が託した”君たちはどう生きるか”に涙してナツコの喪失を追いかけて、たどり着いた禁忌の産褥に堂々踏み込んで手を伸ばすこと。
 自分を恐れさせ逃げ帰らせることで生きる道を開こうと投げつけられた『あなたなんて大嫌い!』に押し出されず、危険あふれるインコの住処をくぐり抜けて、帰るべき場所へと帰ること。
 それが自分の選択であり、これを選ぶ自分なのだと確信するためにも幻想の中の激しい冒険と、世界のおぞましくも美しい在り方を見つめる体験が、魔術の子である真人には必要だった。
 まぁ、そういう話なのだと。

 その相棒となるアオサギ男は、でっけーイチゴ鼻とニチャニチャした歯並び、小憎らしい嘘とやかましい煽りに満ちた、なんとも可愛くない相棒です。
 友達でもなんでもない、お互い傷つけ利用するだけの間柄から始まって、契約で縛り付けられそれを破壊し、キリコに諭されて共に旅立ち、傷を癒やして窮地に手を握り合うようになっていく。
 血縁でもなく、異性でもない異形の存在が、人間のもつ醜さや生汚さ(物分りが良すぎる真人に欠けているもの)を隠すことなく真人の旅路に隣り合い、『じゃあな、友達』と告げて現実に去っていく道のりは、とても良かったです。
 彼がいたことで、ともすれば猛烈なマザーコンプレックス一本槍で終わってしまいかねない物語に心地よい異質性が生まれ、真人が真人である限り手放せない異物を間近において、そこから学ぶことが可能になっていた。
 あまりに圧倒的な現実的活力を有するお父さんからは、素直に学び取れないものをアオサギ男は敵対者として、同行者として、なにより悪友として真人に手渡せる、作中唯一の存在だったのだと感じました。
 ああいうキャラが相棒ポジションなのは、商業的なウケはよくない(のに、現状そこ一本に販路絞ってるの挑戦的すぎると思うけども)んだろうけども、宮崎駿がそういうお話に踏み込んだという意外な喜びと合わせて、メチャクチャ良かったです。
 美しくも正しくもないけども、魅力と活力に満ちて頼もしい、僕の友達。
 そういうやつも、幻想の旅にはもちろんいていいし、いて欲しいし、実際いたのです。

 

 という感じで、幻想文学を読み解く目線でもって、この物語を僕がどう感じたかを語りました。
 宮崎駿という実在の人間がどう生きて、どういう仕事をしてきて、スタジオジブリという塔を築き様々な導き手と敵対者と戦ってきた歴史を、この物語に重ねて読む目線も当然、この私小説には有効だと思います。
 宮崎駿が冥土の土産に、自分の脳みそ掻っ捌いて全部さらけ出すようなこのお話には、否応なくそういう現実での奮戦と冒険、それに伴う感慨と慨嘆が野放図に溢れているだろうし、それは生臭く現実的であると同時に、稀代の語り部の資質を反射して幻想的にならざるを得ない。
 骨の髄までファンタジー、吐く息全てにイマジネーションが宿る生き方を選んできた男が全部を作品に焼き付けるのであれば、その足跡も当然嘘っぱちの中に刻まれていて、その切実な殺気がこの幻想譚に、非常に奇妙な熱量を宿しているのだとも思います。
 ただそっちの角度からこの話を読み解くには調査も覚悟も僕に足りていないし、生半な調べ方だと只の誹謗になりそうだし、今の僕には手に余るので、現実と重ね合わせた語り口からは距離を取りました。
 どっかでそういう読み解きを見てみたい気持ちもありますが、最新鋭の冥府下りとしてこのお話を読めた今の自分に結構満足もしていて、まぁそのうち……という感じです。

 過去ジブリ作品に印象的なあんな動き、あんな風景、あんなメシが山ほど出てきて、『俺はこう生きた』があらゆる瞬間ににじみ続けているこのお話は、やっぱり宮崎駿の遺言なのかなと思います。
 それが終わって突き放す形ではなく、現実に戻って未だ進む選択と決意、そこに幻想の欠片を持ち帰らせてくれる優しさが(『お前ら、映画館でたらどうせ忘れんだろ』という意地の悪い留保付きで)あるのが、僕はとても好きです。
 宮崎駿という人は、僕が想像してたよりも僕ら観客を、彼のファンタジーを受け取って現実を生き延びている連中のことを、好きでいてくれたんだなと思いました。
 そういう手応えを誤読でも語回でも、何の情報もないまま物語に飛び込んで一番最初に感じられる映画だったのは、凄くいいことだと思います。
 とても面白い、素晴らしい映画でした。
 ありがとう。