イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

BanG Dream! It's MyGO!!!!!:第11話『それでも』感想

 ステージに炸裂した思いが繋がり、バンドがもう一度動き出す。
 どんなに難しくても痛くても、一生動かし続けたい。
 一難去ってまた一難、ドッタンバッタン大騒ぎの青春ガールズバンドライフをゆったり高解像度で描く、嵐の後のMyGo第11話である。

 9話分までパンパンに張り詰め、10話で一気に炸裂したエネルギー。
 その後始末というか、クライマックスを駆け抜けてなお続いていく物語の準備というか、ゆったり微笑ましく進みつつ、確かな変化を感じ取れる回だった。
 第7話で印象的だったドキュメンタリー的な視点が時折盛り込まれ、あまり物語的ではないテンポやタイミングで会話が転がっていく様子や、そんな肩の力が抜けた日常の中確かに、人間と人間がぶつかって繋がる手応えがあるのが良かった。
 バンドリアニメ第一期の、生っぽく混線するダイアログを思い出したりもしたが、脚本は小川ひとみであって綾奈ゆにこじゃないんだよな……。
 第10話を後藤みどりが書いていることといい、シリーズ構成当人が出張らなくても芯の太い統一感が作品にやどり続けているの、なかなかのレアケースだと感じる。
 凄まじいステージが決定的に何かを変えたとしても、相変わらずそれぞれの欠点や間違いは残っていて、そのまんまで繋がり直したり、ちょっとずつ何かが変わったり……あるいはそういう成果がないとしても、共に過ごす時間が楽しいと思える。
 ベタベタ青春ど真ん中、感動の嵐が吹き荒れるわけではないヤサグレ自然体だからこそ、伝わるものの多い回、多いアニメだと思いました。
 やっぱこの調子と拍子、俺は好きだな。

 

 

 

 

画像は”BanG Dream! It's MyGO!!!!!”第11話より引用

 というわけで、燃え盛る思いそのままに駆け抜けた号泣ライブが終わった後の風景から、物語は始まる。
 どっしりカメラを据えて流れていく時間全部を、そこに埋め込まれたリアクションを切り取ってくる視点は、このアニメ独特の武器だと感じているのだけども、未だ名前のないバンドがお互いの顔ばっかり見て生み出した舞台が、当惑と感動を観客席に引き起こしている感じが見て取れて、ここはとても良かった。
 今のMyGO!!!!!は燈のメンタリティに引っ張られる形で、凄く内向きで個人的な五角形でしかないんだけども、同時に燈のパーソナルから溢れ出す異様な迫力が誰かを惹きつけ、飲み込んでしまっているのも事実で。
 刺さる人には刺さるバンドとして、未完成もいいところなこの段階である程度の反響を引き起こしてしまえているのは、ロックスターとしての燈、彼女を”真ん中”に据えるバンドの強みだと思う。
 激情に押し流され客の顔を見ないメンバーの中唯一、観客席の他人に顔向けしているのが愛音なのは個性出てて面白いね。

 この勢いは楽奈ちゃんにも何かを引き起こしていて、気まぐれな野良猫が特別な居場所として自分のバンドにいつくための、接着剤として必要な感動を彼女は素直に言葉にする。
 とにかくとらえどころなく、自分の気持ちよさ最優勢のエピキュリアンだと思っていた女の子が、自分の外側に価値を見出している様子は、号泣お姉さんたちにも意外な衝撃だったろう。
 睦もそうだと思うんだけど、何考えているのか分からない人は何も考えていないわけではなく、思考と感動の回路が独特に汲まれていて、心震わす衝撃が外部に出力されるやり方が特殊になるだけだ。
 暗号のような歪な個性を誰かに受け止めてもらい、誰かに届く形に変えていく喜びはそれこそ主役のメインテーマでもあり、分かりにくく付き合いにくい人の中にある、柔らかく普遍的なものをどう引き出し受け止めていくかは、お話の大事な要素だと感じる。
 誤解……というにはあまりに自由すぎる振る舞いから、真心と熱量のあるメッセージを引き出して仲間に届けれたのは、楽奈ちゃんにとっても良いことだと思うので、彼女がMyGO!!!!!好きになった様子は大変良かった。

 

 んでまー、戦いすんでも日は続く。
 学校で見る夢と、ステージで感じたリアルのどちらが燈と燈たちの本当であり、本当になっていくかは、とても不確かな問題だ。
 トンチキ少女青春日記のOPとして、”胡蝶の夢”の逸話が奏でられているのは、このお話が好きな自分としてはとても印象的だった。
 蝶になった夢を見ている自分と、夢の中で蝶になっている自分の間に違いはあるのか。
 中国古典の問いかけは、ライブをしている時間とこうして学校に身を置いている時間、祝祭と日常の間にも投げかけられているように思う。
 ステージ上に個人的人間関係を堂々持ち込み、それがぶつかって発火する五角形をパフォーマンスとして差し出してしまっているMyGO!!!!!は、良くも悪くも舞台裏が演奏に出る。
 そのダイレクトな繋がりが演奏集団としての特色でもあろうし、そういう不器用で真っ直ぐな在り方以外高松燈のバンドは選べないわけで、夢に舞う蝶であり面倒くさい現実を生きる人間でもある迷子として、今後も詩は奏られていく。

 そういう場所にたどり着くために、便利に利用されて色々助けてくれた友達に、椎名立希は報いろっていってんのッ!
 海鈴ちゃん、椎名立希が好きすぎて見てて不安になってくるよマジ……。
 後にそよには言える『ごめん、ありがとう』がここで出てこないあたり、立希もまだまだ自分の優しさを便利に使える位置にはたどり着いていないわけだが、海鈴ちゃん的にはそういう不器用引っくるめで、彼女が好きなのかもしれない。
 当人同士がOKならば外野がとやかくいうことではないが、自分と他人の想いにまっすぐ向き合えなかった結果色々ややこしくなったわけで、バンドメンバーとだけ真っ向勝負しててもなかなか大変だぞ! とは思う。
 ……逆に言うと立希がバンド仲間に向けるほどの熱量が、海鈴ちゃんには(まだ)向いていないわけで、それは燈と立希のアンバランスな距離感と同じように、どっしりじっくり形を変えていくものなのだろう。

 

 

 

画像は”BanG Dream! It's MyGO!!!!!”第11話より引用

 一回奇跡を引き寄せたからって全てが上手くいくわけではなく、ライブ至上主義の楽奈と仲間の歩調はなかなかあわず、あんだけ爆弾投げつけて長崎そよ、どの面下げて戻ってくるのかという話でもある。
 気まずかろうが上手く噛み合わなかろうが、とにかく一歩ずつ進んでいくしかないわけで、そこらへんの足取りともつれ方を、今回のお話はどっしりと追いかける。
 人間集団の空気感をどっしり切り取り伝えるのが上手いアニメだが、そよのいまいち打ち解けていない感じ、持ち前の器用な仮面がもう機能しなくなっている様子が感じ取れ、大変良かった。
 日常的なコミュニケーションを全部ぶっ飛ばし、心の奥底で通じあえてしまえる特別な一瞬にたどり着いてしまった以上、そよは学校や家で使ってるペルソナを纏えないし、纏う必要もない。
 口が悪く冷静な素の自分で他人と触れ合うのは、そよにとっても初めてな体験だ。
 ここら辺のギクシャク感は、生まれたての子鹿がプルプル震えながら立ち上がろうとする様子を見守る気持ちで、なんだか温かい。

 なんもかんもは救ってくれないとしても、頑固な燈が思いのまま突っ走ってみんなの手を取り、魂のライブをやりきったことは色んなところに波紋を生み出す。
 立希が燈以外の顔をちゃんと見て、居心地悪そうに距離を測りつつ言うべきことを言い、見るべきものを見ていたと伝えれていたのも、暖かな描写だった。
 それは燈のために(という題目で自分のために)バンドという形を整えて、海鈴ちゃんを便利に使おうとして失敗して、愛音にも言いたくなかったこと言って傷つけて、散々迷って間違えたからたどり着ける場所だ。
 そういうありふれた失敗が全部の終わりにならない、なんか特別な破壊力が本物のロックンロールにあるから、あのステージの後立希は変わってきている。
 でもそれは、今まで狂犬の毛皮の奥で確かに抱えてきた柔らかな思いが、怯えながらおずおず頭を出しているだけだろう。
 愛音の指先に巻かれた絆創膏、彼女の努力と痛みの証しが、どこか自分と同じだと感じながら寄り添えなかった立希は、ようやくそういう目の良さと思いやりを、愛音に届く形で使い始める。
 いきなり優しく正しい人になれるわけじゃないが、段々と近づいていく。

 

 こういう足取りはそよにも同じで、外面取っ払ったぶっきらぼうで仲間とふれあいつつ、燈がどんな人物であり、その近くにいることで何が起こるのかをじっと見つめている。
 こういう荒っぽい中身を表に出さない/出せない軋みが、長崎そよという人間をイヤーな人にしてきたわけで、都合のいい外装ひっぺがして思う存分ガキでいられる場所があるのは、とてもいいことだと思う。
 彼女がCRYCHICを再生させようとして、暗い屋上睨み続けてきた理想像は、何もかも計算づくで冷静に事を運び、欲しい結果を引き寄せる力の持ち主だ。
 皆さんご存知のとおり、この女の子そんな器量も才能もぜーんぜんなく、ただただ大好きだと思えた光を取り戻すために必死こいて何かを演じ、誰かを利用しようとあがいて失敗し、仲間に引きずり込まれてこの体たらくである。
 能力的にも性格的にも陰謀家向いてなかった少女が、ようやく生の自分を出して居場所を切り開いても許される場所へと、仲間と自分が踏み出した。
 その事実をそよは、腕組みで自分を守りながら、横目でしっかり見る。

 気弱で流されるままに見えて、燈のこだわりと意思は強い。
 ライブと自己表現限定で徹底的に我を通す、アーティスト気質に引きずり込まれ振り回される形で、MyGO!!!!!はライブをすることになる。
 なんもかんも最悪に終わりかけ、偽物の星空の下出会った人に詩を認められて進み出し、思う存分やり切って、一つの結果にたどり着いた。
 この体験は燈にとってとても大切で、この先人生のでこぼこ道を進んでいくための、かけがえない杖になりつつあるのだろう。
 ライブを演る。
 この一点において楽奈と燈は強く繋がっていて、短い準備期間だとか整ってない人間関係だとか、当たり前に気にかけなきゃいけない要素は全部余計だ。
 それを”余計”と言い切れてしまうハチャメチャがないからこそ、ハチャメチャされつつ仲間たちは燈に惹かれ、バンドを演るのだろう。
 そういう気持ちになってしまった自分との付き合い方を、長崎そよは当惑しながら探している。
 その手探りは少女たちにとって、たぶん何より尊く大事だ。

 

 

 

 

 

画像は”BanG Dream! It's MyGO!!!!!”第11話より引用

 そよは計算高く身勝手で、そうやって他人を便利に使って生ききれない自分の本音に戸惑っている。
 そういうむき出しを叩きつけてなお、バンドを演るのだと手を取ってくれる仲間にも。
 衣装もバンド名も愛称も、思いつく何もかもがダサいピンク髪にソリのあわなさ感じつつ、しかし『辞めんなよ!』の一言に、晴れやかな笑顔に、自分を導く眩い輝きを感じてしまう自分にも、戸惑いつつ光の方へと進み出している。
 楽奈ちゃんを同類(猫)とのじゃれ合いから引っ剥がし、バンド活動に連れてくる携帯電話の灯り、あるいは駐車場の電灯と同じく、光はバンドであるから、バンドを続けるから灯り続け、それぞれ影の中から少女たちを引っ張り出す。
 この明暗と走光性は物語が始まったときから描かれ続ける、このアニメの基本的な演出であり、前回一つの区切りにたどり着いてなお続く物語の中でも、幾度も顔を見せる。
 皆で音楽を演ること、ロックンロールであり続けることが、こうして明確な答えとして映像のなか示されられ続けると、このお話がどういう価値観で組み上がっていて、何を目指し肯定して進んでいるか迷わずに済むので、見ていてありがたい。
 ここら辺の映像演出を通じた誘導の上手さが、間違いだらけの迷子たちが青春の泥濘をのたくり続ける話を見てて、感情の置所に迷わない大きな理由だと思う。

 後ろめたさと軽蔑の入り混じった、飾りのない感情を叩きつけてなお笑う愛音の言葉を受け取って、そよはずっと遠ざけていた自室へと仲間を入れていく。
 ここら辺、他メンバーがどのタイミングで誰を家に上げたか、私的領域を開けっ広げに出来る信頼関係を預けたかを思い出すと、なかなか面白い。
 CRYCHIC解散以来、自宅に誰も上がらせてない祥子の頑なさとか含めてね。

 愛音曰く『高級すぎて生活感がない』長崎邸で、少女たちはギャーギャーわめき勝手な妄想を広げ、てんでバラバラな食事を取る。
 水族館での対話以来、ナリを潜めていた愛音の軽薄さもいい感じに調子を取り戻し、やれバンド名だやれ衣装だ、どーでもいいネタにしがみつく。
 高松燈という圧倒的な”真ん中”に巻き込まれて、なお自分がセンターに立つキラキラ妄想に浸れるの、凄いよホント……。
 愛音が軽薄にしがみつくものは、確かに”私たち”の輪郭を縁取る大事なもので、彼女の見栄と外側への意識の高さは、何かと湿り気濃い場所に閉じこもりたがる青春ダンゴムシが、社会的存在であるためには大事なのだろう。
 それが完璧な正解にはならず、チャーミングな凸凹として愛音の個性と身勝手に混ざり合っていて、彼女らしさを形成しているのが僕は好きだ。
 ハイレベルな充実を目指して色々余計なことをして、そのどれもがキマりきらないピンボケ加減は、そういう領域ではピシッとキメれるのに生身の自分を扱う時、弱っちぃへなちょこになってしまうそよと、面白い対称をなす。

 

 今回そよは不機嫌で尖った自分を隠そうともせず、バチバチ文句たれて空気を悪くする。
 学校でも家庭でも、共同体のバランスを取って”上手く演る”ことばかり考えていて、それが自分の役割で望みなのだと目を塞いできた女の子が、ザラついた地金むき出しで仲間の間に立っていることが、僕には嬉しい。
 そんな自分でいても弾き出されないなのだと、二度目の”春日影”では思えず”詩超絆”で思えたから、今そよは飾り気のない自分で、MyGO!!!!!の中に立っている。
 それは自分を愛してこんだけデカいお城を手渡してくれた母を、癒やし守るために選んだ立場から自分を出して、家庭以外に自分が自分で要られる場所を見つける、成長の一端なのだと思う。
 ツンツンつまんねー顔を隠さず、クソボケバカにギャーギャー文句言いながらも隣り合って、必死に走る自分を今、長崎そよは掴もうとしている。

 この身じろぎに立希が近づいて、『自分も最悪だった』と率直に告げてでも諦めず、最悪同志でもう一回進みだそうとしているのも、喜ばしい変化だろう。
 姉へのコンプレックスの反動か、立希は自分を正しいと思い込みたい願望が強くて、目の前にいる大切なはずの人の顔も、自分自身の願いも覆い隠して突っ走る傾向がある。
 それは人生優等生の集まりじゃないMyGO!!!!!全員に言えることだが、だからこそ鎧を外して率直に、今の自分を認める意味は大きい。
 狂犬の毛皮も微笑みの仮面も、少女たちが選んだペルソナは自己防衛のための武器でもあって、生身の傷つきやすい自分をさらけ出しても大丈夫な相手を、頑なに暴れながらも必死に求めている。
 そよの家で自分の最悪を見つめ直し、言葉にして届けようと立希が思えたのは、地を出してきたそよや感動を言葉にしだした楽奈と同じく、五人でいる”今”が自分の鎧を外しても大丈夫な居場所だと、真実感じられるようになったからだ。
 これを燈一人への独占と献身だと思いこんじゃってたところに、立希ちゃんのねじれがあったわけだが、ドタバタとバンド続ける中で一歩ずつ、ジワジワ『あ、コイツラ最悪だけどイイかもな……』と実感して、周りを見れるようになると嬉しい。
 元々なんでもかんでも真面目に頑張って、コツコツ準備したり調整したり出来る資質がある人なので、優しさの使い道を覚えると凄く大きな事を、自分に対しても仲間に対しても成し遂げれんじゃないかな。
 ここら辺の美徳を、なんだかんだ仲間たちもしっかり解っている……『解っとるよ!』と伝えだしてる所が、また良い。

 

 

 

 

 

画像は”BanG Dream! It's MyGO!!!!!”第11話より引用

 そんな不器用生真面目人間のことが……八幡海鈴は好きすぎッ!
 バンドの形にだけこだわって、気持ちのこもらないまま自分に声かけたときよりも、自分のバンドのために授業サポって猛ダッシュしていく姿にこそ微笑むその姿には、純情が溢れて少し切ない。
 既に示される未来において、変態仮面バンドこそが”彼女のバンド”になるようだけども、立希を独占的に所有するより少し遠い場所で、彼女にとっての眩い星を見続ける距離感をこうして描かれると、その選択に納得も生まれる。
 立希の生き方も燈一本気に寄りすぎず、横目を振って他人大事にしたほうが楽なのが既に示されているので、はよう海鈴ちゃんが自分を見つめる熱量に感づいて、向き直って鏡として欲しいもんだ。
 しかしこのガン無視一方通行のままならぬ疾走感こそが、生っぽい人間の感触を強くしている部分でもあるので、もうちょい完璧でも完全でもない時間を大事にして欲しい気持ちもあるな……。
 世に欠陥と切り捨てられそうなものにこそ、チャーミングな個性とままならぬ人間味が宿っているのだと、キャラの数だけ魅力的に描いているのは、このアニメのとても良いところだろう。

 

 そんな純情を後景に置き去りにして、締切は迫る迷子は奔るッ!
 寝るの寝ないの衣装作るの、みんな好き勝手絶頂色々ぶっ込んでる有様は時間切れ寸前まで変わらず、これこそがあのライブを超えたMyGO!!!!!の現在地なのだろう。
 今回の筆致はその凸凹を余すところなく捉え、凸凹すれ違っているようで妙に噛み合い出した彼女たちの”今”を、ライブ前によく教えてくれる。
 あまりに圧倒的な第10話のあと、それを超える断絶とドラマを用意するよりも二話分、長めのエピローグの中で現状をスケッチし、爆発の後の変化を描く。
 そういう筆致もまたいいな、と思う。
 あの”詩超絆”がMyGO!!!!!の最高でも最後でもなく、燈を中心にライブし続ける限り、また新たな爆発が生まれていくだろう。
 その度何かが変わって何も変わらなくて、彼女たちはバンドであり続ける。
 友達でいつづける。

 そのことの難しさを燈も自覚しだして、それでもなお永遠を求めて苦労する覚悟を、だんだん固めつつある。
 優しい優しい立希の『燈ごめん、起きて』より、楽奈ちゃんが好き勝手絶頂にかき鳴らすギターこそが彼女のまどろみを覚ますの、残酷で適切な描写だなと思った。
 結局彼女の魂は、自分と同等の楽才か底抜けに自分を受け止めてくれる人間力にしか反応せず、椎名立希にはその両方が無い。
 それが現状であり、同時にいつか変わっていく一瞬でしかないことが、色んな人が変わったと解る今回から、じんわりと伝わってくる。
 バンドさえあれば一生安心なのだと、思い込もうとして果たせなかった燈は、立ち止まって奇跡を待つのではなく自分の思うまま、叫び進み出し手を伸ばすことで、このワイワイ騒がしい時間を掴み取った。
 うまく生きられず伝わらない諦めと怯えを、踏み越えて歌い続けることで、ギザギザ自分を傷つける人生をそれでも愛しく抱きしめられる、キッカケを掴めるとすこし思えた。
 だから、ライブは演る。
 演り続ける。

 楽奈ちゃんが今は亡き”SPACE”のピックを愛音に手渡し、そこが永遠だったと皆に教えることも、とても大きな変化だと思う。
 それは彼女も永遠と安心と居場所を求める、ごくごく普通の心を持っていて、勝手にベッド使うわ衣装は切り裂くわ、好き勝手絶頂ぶっこむ自分を求めてくれる”ここ”を、愛しているという宣言だ。
 そういう弱々しく震える柔らかい部分は、掴みどころのねぇ猫ちゃんでしかなかった時代にも楽奈ちゃんの中にあって、二度のライブを通じてそういうモノをこの連中に預けていいのだと、彼女が思えたから表に出てきた。
 そう思えたのはブーブー文句たれつつ、親身に野良猫の面倒見てきた立希のおかげであるし、ウジウジ足踏みするのを止めてロックンロールに突っ走りだした燈が『おもしれー女の子』だからだろう。

 

 バチバチぶつかって、ヨロヨロ逃げ出して、迷いに迷って生まれた全部が、今あるなにかに繋がっていく。
 その足取り全部を追いかけるように、このアニメは進んできた。
 そんな彼女たちの個性は棘だらけヘコミだけで、世の中が求める正解から程遠く個性的だ。
 他人を便利に使う最悪をどう取り返して、あるいは最悪と認めた上で進み直すのか。
 そういう自分たちを顕に共有した上で、お互いの出っ張りとヘコミがどんな形でハマり、あるいは痛みを伴ってすれ違うのか。
 そんな青春をどっしり描いてきた物語は、ライブを終えてもまだまだ続くだろう。

 しかし一つの区切りが近づく中、確かに彼女たちが選び進みだした”今”を……そこに響く過去と未来をスポットライトの眩しさに確かめられるのは、ありがたいことだ。
 問題山積の迷子のまま、私たちは進む。
 そんな決意に相応しい戦化粧として、引き裂かれた衣装を整え直し、新しい名前を背負って進み出す、今一度のライブ。
 とても楽しみです。