イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

好きな子がめがねを忘れた:第9話『好きな子と校外学習に行った』感想

 私と貴方の心の真ん中に、合い出す恋の焦点。
 校外学習を経て二人の距離感が、決定的な変化を迎える好きめが第9話である。
 考えてみれば残り数話、イグニッションを踏み込むにはいいタイミングであるけども、緩やかな日常オムニバスを続け幸せに終わって行っても良いムードから、このお話はあえて踏み込んで最終コーナーに突入していく。
 校外学習というイベントを生かして、小村くんと三重さん二人きりの満たされた……だからこそ変化のない関係に揺らぎが生じ、フォーカスされていなかった感情が浮き彫りにされて、自分たちがどういう繋がり方をしているのか、もう一度見つめ直すことになる。
 今まで三重さんには見えていなかったもの、小村くんが見ようとしなかったものが表に立ってきて、今までの自分たちに足踏みし続けることは許されなく……なるのか?
 幸福な聖域が崩れる不安感と、何かが確かに変わっていく充実感が手を繋いで、お話を一つの終わりへと導いていく手応えがある、力強いエピソードでした。
 物語がこういう風に、顔立ちを変えて進み出す瞬間が、やっぱり僕は好きだ。

 

 というわけで校外学習を軸にした、一本繋ぎの今回。
 小村くんも三重さんも、友達の中でどういう存在なのかを削り出されていく。
 結局は二人だけの特別な関係に回帰するわけだが、寄り道的に『小村くん以外が見た三重さん/三重さん以外が見た小村くん』が描かれることで、グッと社会的動物としての彼らが彫りを深めていく。
 抜けてて子供っぽくて、しかし放っておけなくて愛しい女友達としての三重さんが描かれることで、今まで作品が保留していた『出来ない子』としての三重さんの顔が際立ち、そうであることの惨めさや後ろめたさがヒロイン面の奥にたまり続けていた事実が、感情の決壊とともに顕にもなる。
 『出来ない』という現状は『出来るようになりたい』という願いと常に裏腹で、小村くんにとって永遠に続いて欲しいメガネ無しの至近距離ケアは、思いの外暗い感情と背中合わせに進行していた。
 めがねを忘れない自分、小村くんにケアされなくても生きていける自分になりたいと、三重さんは(ある意味当然に)思ってきたし思っているわけだが、作品の内在律は彼女が常時めがねをして、自分の面倒を自分で見られる三重あいであることを許してくれない。
 小村くんの激情迸る初恋が成り立っているのは、三重さんがめがねを忘れ続け、そんな自分を変えたいと願っても許されない、ある種の犠牲である限りにおいてだ。

 小村くんは三重さんの涙に混じっている、より善く変わっていきたいという当たり前の成長願望を、しっかり飲み込まない。
 小村くんがめがねを忘れた三重さんの世話をし、近すぎる距離にドギマギし、一方通行でありながら何より親密な矛盾した距離感を……このお話を支えている根底を疑わない限り、三重さんは彼の優しい檻から出て、望むような存在にはなれない。
 愛されお世話され、無辜の献身を捧げることでその純情を延々と証明し続けられる立場に固定されている限り、三重さんが涙に込めた願いは叶わないし、小村くんはそういう構造の中で自分が、三重さんの成長を阻害するある種の加害者であると自覚できない。
 好きという熱くて強い気持ちは、一滴の濁りもない真っ直ぐな思いは、それだけでなくほど切実な誰かの願いをせき止める資格を、果たして有するのか?
 三重さんが涙ながらに発した本音は、(意図してか無自覚かはわからないけど)青春ラブコメが見た目ほど無邪気ではなく、純情少年の無垢なる加害性と構造への無自覚を顕にしていく。

 

 小村くんは『ずっと三重さんの面倒を見ていたい。そんな自分でいたい。だからめがねを忘れ続け、幼く手のかかる三重さんでいてほしい』というエゴが、彼女を抱きしめ肯定する指先に宿っていることに、現状無自覚だ。
 これを自覚してしまえばお話は、無邪気に同じ状況を繰り返す段階から変貌を遂げて、何かまた別のものへと移って行ってしまうわけで、今後(アニメ化の範囲で)触る危うさなのか、いまいち確言できない。
 しかし今回のエピソードは三重さんが結構強く、今のままの自分≒今のままの物語構造に安住していたくないという願いを描き、小村くんの認識がそこに反している現状を切り取った。
 自分のことがしっかりケアできる、三重さんがなりたいと望んでいる自己像が現在の距離感を、そこで満たされている小村楓を壊すとして、我らが主人公はそんな変化を許容できるのか?
 そうして何かが壊れてしまった後に、それでも三重さんを好きな自分、そんな自分が生み出す繋がりと行いを信じて、新たな関係と自己像と愛を確立できるのか?
 今回暴かれたものに本気で突っ込んでいくと、こういう所を描かざるを得なくなっていって、なかなか本腰の語り口が必要になってくるだろう。

 僕は、それをこそ見たいなと願っている。
 三重さんがめがねを忘れる自分、小村くんにケアされ続けている自分を泣くほど辛く感じていて、そこから変わっていきたいと願う叫びを上げた以上、これを無かったことにして永遠の至近距離に帰還していくのは、自作に対し不誠実だろう。
 変わりたいと願っている想い人と、それをそこまで望まない自分に直面してなお、三重あいを好きでいる小村楓を維持……あるいは新生できるのか。
 1クールアニメのクライマックスとして挑むには十分な課題だし、そういうモノに向き合うべき季節に彼らがいることを、このヘンテコなアニメは一見同じ場所での足踏みに見える歩みの中、結構ちゃんと描いてきたと思う。
 作品構造に潜む歪さを物語自体が批評し、解体して再構築する歩みは、お話がより良く、面白くなっていくためには必須でもあるし、自分たちを成り立たせている心臓をえぐり出して新たに動かし直す営みには、猛烈なエネルギーが宿る。
 残りの話数でそこに挑むのならば、”好きな子がめがねを忘れた”のアニメは結構しっかりした口ぶりで、自分たちが何を描いてきたかを刻みつけて終われる気がする。

 

 そうして新たな地平に進み出す時、足場を支えるのはずっと作品が描いてきたモノしかない。
 このお話は小村くんの異常で過剰で誠実な愛情と、それを間近に受け取りつつピントがボケてる三重さんの可愛さを、幾重にも塗り重ねてきた。
 学校という繰り返す日常の檻から出て、自分自身の願い、自分たちの関係を裸眼で見つめ直した三重さんは、恋をすることの意味を友達との触れ合いの中で、新たに学び取っていく。
 誰かが特別に好きになった人の顔を、小村くん以外の表情を見つめることで感覚して、思い出の中ずっと同じ顔をしている小村くんを思い出す。
 そんな比較検討は物語の視野を少し広げて、”いつもの二人”以外の人間が彼らの周りにいるのだと……結構開けた世界で物語が展開していたのだと、校外学習という契機に描きなおしたからこそ可能だ。

 三重さんを幼く可愛いヒロインという立場に押し込め、その結果彼女に恋する自分を確立するズルさが、小村くんの偽りなきプロファイルであるのと同じくらい。
 その幸せな檻から、泣くほど出たいと見えさんが思っているのと同じくらい。
 小村くんが三重さんのことを本当に好きで、脳みその中が過剰な妄言でパンパンになるほどに思い続けてきて、それに突き動かされて”出来ない”彼女を助けてきたことも、けして嘘ではない。
 そんな小村くんから溢れ出す特別を、今更ながら見つめ直して照れも屈折もなく、『私も同じ顔をしたいな』と三重さんが思っていることも、また嘘ではないのだ。
 そう素直に思える物語を、二人が積み上げてきたのは嘘ではないのだ。

 だから二人の愛が上手くピントを合わせて、幸せな今ともっと幸せな未来に二人で進み出していくために、今回三重さんが見つけた喜びの居場所を、二人で探っていってくれると良いなと思う。
 めがねを忘れる三重さんも、めがねを忘れない三重さんも、どちらも小村くんは心から愛していて、その過剰な愛情と上手く間合いが取れないまま進んできて、ようやく三重さんに気づかれてしまった。
 それはとても幸せな発見で、出来ることならその大事さに釣り合った足取りでもって、残りの話数を使って行って欲しい。

 

 こういう人間の一番柔らかいところに触れ合い、人間が自分を一歩前に進める時の歩みを切り取る筆として、このアニメのビカビカ過剰な表現力は良く機能するのだと、改めて感じる回でもあった。
 三重さんが間近に小村くんの頬を感じ、そのかんばせを見つめる時世界を満たしている、玄妙な色合い。
 それは若い二人の心の中の色で、それが触れ合って生まれる奇妙で愛しい絆の色だ。
 それにまだ二人が名前をつけられなくても、めがねを忘れる女の子とそのお世話をする少年の関係が曖昧なまま続くとしても、そこには嘘のない答えが既に宿っている。

 感情と関係にラベルを貼り付け、愛しい曖昧さを斬り殺すことだけが正解ではないから、三重さんと小村くんの関係は、そこに投射され影響される彼らの自己像は、どういう終わり方にたどり着いてもいいな、と思っている。
 なんともヘンテコで歪んでいて、すれ違っていながら繋がっている、彼らだけの……このお話だけの繋がり方に、主役たちが”恋”という名前を自分から付ける。
 そういうスタンダードなロマンスのまとまり方をしても、またそうでなくても、畢竟落ち着いたところがこのアニメなりの決着になるだろう。
 どういう形になるにせよ、楽しく見届けられる確信を僕は今回得れたし、それはアニメを見る体験において、得難いほど幸せなことだ。
 次回も楽しみだ。