ヒーローの歪な鏡として、悪辣である役目を終えたヴィランに待つ日常とは。
洒落にならない悪事を働いていたゴミクズが、洒落まみれのコミカルな日常へとゆっくり下っていく様子を描く、ひろプリ第34話である。
赤ん坊をさらったり国家規模のテロに勤しんだり、ひろプリの描く”悪”は重たく暗く描かれてきた。
そんな悪党がひとしきりの仕事を終えた後、一体どういう風に物語に食い込んでくるのか……敵の事情にあんまり尺を使ってこなかったひろプリとしては、結構挑戦的なエピソードである。
それだけにどういう手付きで描かれるのか気になっていたのだが、東映アニメーション随一のコメディの名手、土田SDの軽妙な筆さばきと、人間の醜さもおかしみもやりきるKENNの快演が噛み合って、大変良い手応えだった。
浄化技食らってキレイになったわけでもないバッタモンダーが、生来の臆病と裏腹の加害性自体は消し去ることなく、それを笑いの種、ましろさんが前に進む足がかりに出来ている様子が、可笑しくも前向きに描けていたと思う。
夜勤に勤しむカバトン含め、”悪役”という居場所からこぼれ落ちた後にも続いているどうしようもない悪人の人生を、重くなりすぎない筆で描いたのは、ホッと一息良い救いだった。
つーわけで過去の所業が所業なんで、かなり警戒度上げて挑んだ話数だったのですが、大変良かったです。
思い込みが大暴走してどんどん追い込まれていくバッタモンダーの一人芝居ももちろん良いのですが、その戯けた仕草の奥に一体何があるのか、硬い芯がしっかりあったのが好みの味付け。
悪役やってた時代から、バッタモンダーが自分の弱さを直視しないために他人を傷つけ、威張り散らして踏みつけにする生き方をしているとは描かれてきたんだけど、今回洒落にならない暴力から遠い位置に置かれることで、その業も救いがある所に転がってきた印象だ。
彼は目に映るもの全てが自分を加害すると、逆恨みと深読みを重ねて心休まるところがないわけだが、この心根はましろさんと微かに響き合っていて、まったく真逆である。
ましろさんはたった二人、読み聞かせよりお外で遊びたい子どもが自分の創作に向き合ってくれないことに意識が行って、他の子達が絵本を楽しんでくれた事実を見落とす。
10冊、執筆だけではなく製本までしっかりやり遂げている、創作者としての着実な歩みを経てなお、実際に起きていることよりも、掴み取れなかったなにかの方に心が残るわけだ。
このとてもちっぽけな、だからこそあらゆる人に起こりそうな描写をましろさんが引き受けているのは、思春期の少女としての解像度をあげるだけでなく、強く正しいヒロインが迷う業と、どうしようもない悪党の成れの果てのどうしようもなさが、確かに通じ合ってる感覚を与える。
悪役をやめた悪人が、日常の中で己を掴み直すその端緒を描く上で、尊敬に値するスーパーヒロインの人間味とどこか響き合う形で描いたのは、平等で良かったと思う。
ましろさんは悪意満載なバッタモンダーの接触を、迷妄から抜け出し夢へ進むための導きへと変えて、背筋を伸ばして歩き直す。
こういう事ができてしまうから、虹ヶ丘ましろは虹ヶ丘ましろなわけだが、この素直さははたして、彼女の専売特許であるべきなのか。
ましろさんが悪意と歪みに気づかぬまま、バッタモンダーの両手を握ってお礼を言ったことが、捻じくれきったどうしようもない男がちったぁマシな道へ、自分を進め直す手助けになっていくと描いて、今回の物語は終わる。
ヒーローとヴィランとして、暴力の現場に立っていた時には響き合わなかったものが、闘争のステージから降りたコメディの中でゆっくり、生活の足取りでもって動き出すのは、なかなか良い手応えだった。
そういう良き影響力を、ましろさんが与えうることも良かったし、ニチアサナイズされた『殺す』では逆恨みを強めるだけだった触れ合いが、闘いから離れた場所でようやく素直に届いていく気配を感じれたのも、また良かった。
エルちゃんがましろさんの絵本を覚えていて、『ぶらんこ、なかよし』と言ってくれるように、思いは正しい媒体を通じて誰かに届く。
届き得て欲しい、という祈りがあるからこそ、このアニメは重要なアイテムとして”筆”を選んでノートや手紙に思いを書き残し、戦士へと変貌する鍵に選んだのだろう。
バッタモンダーはもはや絵本に感化される年でもないが、しかしそこに込められた思いの源泉……虹ヶ丘ましろという少女に(ようやく)ダイレクトに触れ合うことで、確かに感じ入るものがあった。
自分の心が動き、変わっていける可能性を素直に受け止める強さもまた、ネジ曲がった悪党からは遠いものだが、消え去ってはいない。
この話数で一気にバッタモンダーが”改心”するわけではなく、どうしようもなくしかし可笑しみのある一人の人間として、ちょっとずつ誰かと触れ合って心が動き、自分を変えていける強さが動きだす塩梅にまとめていたのは、ひろプリらしくて凄く良かったと思う。
こういう話がじわじわ染み込む下地は、やっぱり今回がコメディとして優れた仕上がりだったのと切り離せない。
マジ顔で『それは蛾だよ!』と告げる場面のテンポと呼吸、キャラが一切含み笑いしないからこそのおかしさに満ちていて、最高に良かった。
エルちゃんを中心にのったりのったり、平和な日々を過ごしている描写が分厚いので、ああいう精妙に素朴さを生かした笑いが刺さるよなー、ひろプリ……。
同じく真顔で『ちょうちょですよ!』と間違えてるソラちゃん、あんまりにもソラ・ハレワタールだったな。
笑いってのは不思議な薬で、とても飲み込めないような苦さや重たさを包み込んでくれる。
洒落にならないモノに真正面から向き合うシリアスさも大事だけど、元気に笑い飛ばすことで噛み砕けるサイズと硬さに料理して、どうにもならなさに勝っていくやり口も、また大事だと思う。
バッタモンダーが抱え込み、振り回していた対話不可能性、自己完結性は、彼が闘いの相手役である間には解体できなかった。
日常のレイヤーに降りてきて、カップ麺すすって銭金に悩む俗っけ……あるいはバトルが始まったら草むらに逃げてしまう弱さを素直に出せるようになって、ようやく対話の土俵に立てた感じがあった。
それはひろプリがヒーローを扱いつつ、あんまりにも敵役の内情に尺を割り振らない歪さを、そろそろ仕舞いが見えてくるタイミングでしかし、なんとか正そうとしている、良い試みでもあろう。
こういう話、こういう試みがあってくれることで、悪しき敵役が欠点を抱えたまま愉快な日常の一員となり、隣人として共存できる可能性に向かって、お話が開かれていく希望を感じられた。
悪辣であることでヒーローの在り方を問う仕事は、結構シャープに出来ていた連中が”悪役”を終えた後、普段着のヒーローには何が出来るのか。
そんな問いかけを積み上げていくことは、大きな意味があると思う。
こういう当たり前の光景の中で、ましろさんに何が出来るか書いてくれると、彼女のファンである自分としてはメッチャ嬉しいしね……。
彼女が虹ヶ丘邸の家族に向けていたポジティブな影響力が、狭い”家”で収まらず自分を妬むものにすら届いていると書いてくれることで、話の風通し良くなるからな。
こっから最終盤、どういう話数の使い方で物語を編んでいくかは分からないけども、もう一二話、悪役をやめた悪党の余生を描いてくれると、嬉しいなと思える回でした。
大変良かったです。
次回も楽しみ!