イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

プロジェクトセカイ カラフルステージ感想:あの日、奏でた音色を

 新章開幕以来、通常スタイルでは初のニーゴイベントである。
 まふゆが母の元を離れ、愛されず弱い自分と素手で取っ組み合うという、後退にも思える前進を果たした結果、彼女の停滞に引きずられていたニーゴがどこに行くのか。
 奏が彼女自身の未来を考えることで、一つの指針を出すようなイベントだった。

 一回死んじゃってるまふゆをどうにか生き返させる長い旅を、真実走りきるためにはニーゴの連中もそれぞれ大人になり、幸せになっていく必要があるわけで、奏自身が何をしたいのか、どうなりたいのか、考える一歩目に踏み出したのは結構大きい気がする。
 自分の曲が父を殺したと、サバイバーズ・ギルトに苛まれている奏の活動原理は奉仕と救済と義務であり、自分を幸せになってはいけない存在だと抑え込むことで、そんな自分がまふゆを救うのだと意気込むことで、なんとか生きてる部分があった。
 しかし今回、おばあちゃんと絵名の言葉をトリガーにして自分の幸せがどこにあるのか、過去に戻り未来を思いつつ考えることで、メサイア・コンプレックスに呪われた奏の人生が、解体・再構築される一手目が打ち込まれた感じがあった。

 

 敬愛するK、大事な友だちの奏が誰より幸せじゃなきゃいけないんだと、自分の思いを押し付ける絵名はそれがエゴでしかないことを重々承知の上で、『あなたのため』なんておためごかしは言わない。
 奏が好きな自分、Kの音楽に救われた自分を足場にして、勝手に正しいことをするのが大変たくましくも公平で、ここら辺まふゆ母と大違い棚と改めて思う。
 あの人は自分が誰かを犠牲にして生きるしかないエゴイストである事実を、受け止めるだけの強さがないからなんもかんも『あなたのため』という包み紙で覆って、毒入りエゴイズムを娘に食わせていたきらいがある。
 それが行くところまで行ってまふゆはダチの家でバブバブしとるわけだが、一応大人で親である存在をとうに追い越して、絵名は自分の身勝手さ、それを越えて届く優しさと正しさを、素直に見れる人になってんだなと感じた。

 まふゆがようやっと完璧じゃない自分、幼く脆い自分と向き合うところまで流れ着く中で、瑞希は友達にも(友達だからこそ)言えない秘密に相変わらず縛られていて、奏が自分の幸せを見つめる手助けができるのは、承認欲求と惨めさに徒手空拳で挑んで成長した、東雲絵名にそらーなる。
 やりたいことと出来ること、求められることのバランスとアンバランスに誰より早く向き合ってきた彼女が、ダチが青春の轍に足取られる状況で人生の先輩ポジションに収まるのは、結構強めの納得があった。

 

 他ユニットが一年目で既に果たしてきた、社会の中で何者かである自分……音楽を職業にしている自分への、周回遅れの一歩目を奏は今回踏み出す。
 それは凄く一般的な思春期の歩き方で、表現活動のプロとしての道をそれぞれのペースで驀進している、他ユニットが突っ走りだって感じもまたある。
 誰かのためではなく、自分の望みにようやく立ち返る環境が整ってきた奏は、もう取り返せない父母との幸せを思い返し、時間と死を音楽で超越することを夢見ている自分を、恐る恐る直視する。
 どんだけ救われてはいけないと否定しても、苦しすぎる日々の中で奏は救いを求めているし、例えば承認欲求と虚しさと惨めさに窒息しそうになってた一人の少女を、既にKの音楽は勝手に救っている。
 そうして縁ができた絵名は弱くてなんも出来ない自分に夢を追う中強制的に向き合わされ、逃げずに取っ組み合った結果タフな自分を掴んで、迷いの中にいる恩人で友人に、大事な言葉を手渡すことが出来るようになった。
 そういう風に、身勝手な救済は不確かな未来への道を開けるよう、幾重にも連なっていく。

 奏が自分の未来を思う時、一番の足場が自分ではない人との失われてしまった幸せ……家族の景色の再生にあるのが、メチャクチャニーゴっぽいなと思う。
 自分のわがままを父母に甘えて預けれる、幼い時間は母の死と父の崩壊で壊れてしまって、もうそのままの形では戻らない。
 しかしそれでも、失われたはずのものを取り戻したいという極めて人間らしい祈りが自分の中にあって、音楽が強くその中核と結び合っている事実を、今回奏は認識する。
 呪いのように、祈りのように、音楽を作り続けるしかない自分を見つめてみると、その果てに一瞬時が巻き戻り死人が蘇る奇跡が、蜃気楼のように立ち上る。
 それを追いかけ続ける自分でいて良いのだと、そんな自分を間近に愛してくれる人がいるのだと、今の奏とニーゴは薄らぼんやり、確かに感じられる状況にある。
 そういう事を、新たに物語が動いていくこのタイミングで確認するお話だった。

 とにかく不確かに揺れる内面へと、深く静かに沈降してきたニーゴニ年目の初手が”進路”になったのは、自分たちの外側に広がっているものへと目を向ける余裕と必要が、彼女たちにもやってきた証拠と感じた。
 それは痛みを込めて母の乳房から自分を引っ剥がしたまふゆが、仲間たちを自分の停滞に巻き込んで沈めていく時間が、終わりつつある証拠でもあろう。
 ニーゴの物語も、ゆっくり静かにだが形を変えていく。
 この体現として、世界が広がり変化していく様子を先に描いてあるのは、なかなかに面白い物語的仕掛けと言える。
 次なる物語では誰の、どんな変化と深化が描かれるのか。
 楽しみだ。