イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

映画”デッドデッドデーモンズ デデデデデストラクション 前章”感想

 浅野いにお作品初のアニメ化であり、Production +h2つ目の劇場作品、デッドデッドデーモンズ デデデデデストラクション二部作の前編を見てきたので、感想を書きます。
 自分は原作完結まで既読、好きだけど引っかかる部分も多々あり……という距離感で劇場に飛び込んだわけですが、大変に面白かったです。
 2014年から2022年まで、8年間単行本12巻の長きにわたり時事ネタをこすり世情をフィクションに盛り込みつつ続いた原作が、どうあがいてもとっ散らかってしまう部分を、二時間映画×2という箱にギュウギュウに押し込む無茶な試みが、逆に作品の一番強い部分を凝縮し、ぶん回す感じになっておりました。
 作中の言葉を借りれば『いつか懐メロのようになってしまう』大災害の記憶をアポカリプスSFテイストに再演し、もはや十年以上前の『ああ、あったね……』になってしまいそうな部分に、ともすれば色物キャストに思える幾田りら&あのW主演がズバッとハマり、新たに”今”な風がしっかり入っていました。
 マンガ表現の限界に挑戦する限界の凄みをアニメなりに解釈し、むしろ手堅くしっかりまとめ上げた作りが、日常と破滅、狂気と正義の間を不気味に愛しく反復横とびし続ける作品に、独自の味を与えていました。
 映画独特の再構築に挑まなければいけなかった事情が、静かに壊れゆく世界の中で少女二人、セカイ全部と天秤に乗っけれるくらい重たい気持ちにフォーカスを当てて描き切る構成を生んでてて、そこも良かったです。
 『いにおにあのちゃんに幾田りらしょ~~? 令和サブカル最前線じゃん!』と、反発混じりの半笑いを決め込んでいる人(つまり俺)にこそ、ぶっ刺さるパワフルな映画でした。
 大変にオススメです……今直ぐ劇場にレッツゴー!



 

 

 つーわけで何回聞いても正式名称覚えきれない、デデデデ映画の前編を見てきました。
 ぶっちゃけかなりナメて劇場入ったが、想定していた以上の百合力とロクデナシ黙示録力にぶん殴られて、気持ちいいフラフラ感を伴って視聴を終えることが出来た。
 原作は露骨に、震災以降の日本の空気感を強めに盛り込み、時事ネタ濃いめで連載を積み重ねてきた部分があるわけだが、”すずめの戸締まり”が150億稼ぎきった後、衝撃の原作完結を果たした後だからこそ形になった、軽薄さに溺れていない独自の味わいで、デデデデを再構築してくる作品となった。
 2時間×2という尺に収める関係上、門出とおんたん二人の関係性にガッチリフォーカスし、枝葉を打ち払いながら、あるいは原作においては終盤で明かされる衝撃の真実を早出しし。
 ケツから眺め直したからこそ描けるオフィシャルな『デデデデってこういうお話』を、UFOと下町、世界と個人、愚かさと尊さが同居する奇妙な手応えの映像として、噛みしめるような映画となった。

 アニメ映画としてはバキバキに超絶決まった、アヴァンギャルドな映像表現に挑みかかっている……というわけではなく、むしろ手堅くスタンダードな表現をじっくり積み上げながら、原作由来の攻めたケレンをスパイスに落ち着いてまとめた感じが、自分的には心地よかった。
 門出とおんたんの視界の外側、国の舵取り担ってる偉い人たちの愚行も、コミュニケーション不能なインベーダーが秘めた人間味もあんまり取り合わず、主役二人の狭く満ち足りた幸福を、”サブカルの聖地”下北沢に確かにある埃っぽいノスタルジーを背景に宿して刻みつけていく画風と、この落ち着きは良く噛み合っていたように思う。
 もちろん最高にキレたフォント芸なんかは要所要所に差し込んで、『デデデでのアニメ』としての面白さをしっかり取り込む工夫はしていたが、同時にそういうエキセントリックさを前に出しすぎない配慮が、色んなところに見えた気がする。
 原作が浅野いにおのスーパーセンスでガンガン前に押し出していた強みを、あえて後ろに引っ込めて門出達等身大の、下らない悩みと幸せに軸足を置いたことで、破滅に向かって凄まじい速度で突っ走っていく世界が遠くに遠くに……刺激的な終わりを望まれるほどに遠くに置かれている状況を、見ているものに近づけてくれたと感じた。
 そのハンディな手触りが、終盤戦から大胆に前倒しされた真実の一端を回想したり、ぶっ壊されたUFOから、宇宙服着込んだ生命がボロボロ落ちる衝撃的な絵面で終わる場面で揺さぶられる衝撃を突き刺す意味でも、僕はこの描き方良かったなと思う。 

 もはや懐メロ用語になってしまった、品のないかつての流行語をこすって言うのなら、顔をゴーグルで覆った”A線脳”な母にうんざり追い詰められ、大人がオトナの責任を果たしてくれない最悪状況でなんとか、青春をサバイブしている主役の横顔を描く冒頭の場面。
 一度も門出と母を同じ画角に入れず、ゴーグルとマスクの下どんな顔をしているのかも描かず、門出から見えている『良く分からない母』の解り得なさを映像的に強調してくる演出とか、極めて折り目正しい映像文法に基づいているからこそ、エキセントリックな題材の奥にある人間味を伝えてきたかなぁ、と感じた。
 高畠さんの絶妙な『悪い人じゃないんだろうけど、ヤベーしウゼーな……』感と合わせて、あそこで醸造されているいかさまいたたまれないザラつきがこちらに迫ってくるからこそ、トンチキな頭飾りをピープー言わせて、自分なりの狂い方で親友を慰めようとするおんたんの優しさも、親身に迫る。
 一般的には泣くところじゃないんだろうけどこの場面、『おんたんは……優しい子です!』と、一番デデデデの映画で聞きたかったメッセージ序盤で届けてもらえた感じがあって、オイオイ泣いてしまった。

 

 国の中枢でのグダグダ最悪黙示録とか、正常性バイアスでやりすぎなくらい衆愚ぶっこむアクの強い描写とか、ビシバシ枝葉を切り飛ばした結果、この映画はおんたんと門出がどう、終わりに向かって突き進むセカイで悩み苦しみ、幸せであるかに注力していく。
 真相が明かされるにつれ話のスケールが膨れ上がり、圧倒的なカタストロフとぶっ飛んだSF設定が暴れ狂った原作で、その風速ゆえに見えにくくなっていた作品の芯が、結局少女二人の友情にあることを、『終わってから作る』からこそ改めて感じ取れるような構成だ。
 これに助けられ、あるいはこれを成り立たせるために、肥大した自意識を持て余しつつ青春している門出と、イカれてる風で極めて優しくおんたんは魅力的な必要がある。
 作品の特色とも言えるエキセントリックでヒネた姿勢を、チャーミングに体現する主役をどうおっ立て、見るものを作品に引きずりこむか。
 この難問に、あのと幾田りらという令和のポップアイコンを起用した、一見話題作りの奇策はありえないほど見事にハマっていた。

 声質や演者のキャラが役柄にマッチしていた……という以上の、戯画化されているようでいて生々しい、可愛らしくて奇妙な実在感があったし、衝撃の過去回想で明かされるあり得たかも知れない二面性も、見事に演じていてくれた。
 大葉くんとの邂逅において、唐突に開示されるもう一つの物語で門出が背負った『タクシードライバー(あるいは作品全体を貫通する藤子F文脈に寄せるなら『ウルトラ・スーパー・デラックスマン』)』めいた凶暴性も、それに相反するような過去おんたんのオドオドした引っ込み思案も、そこまでありふれて特別な青春を走ってきた少女たちの、あり得る顔の一つだと思える手応えが確かにあった。
 この二面性はキャラクター単位で収まるわけではなく、極めてSF的な仕掛けを施して反転する物語のギミックとも、救われていると思われていた側が実は救っていた感情の因果とも、深く関わって作品を支えている。
 ここをやや生硬な実在感を宿してしっかり背負い、『ああ、こういうキャラでこういう話ね……』と落ち着きそうなタイミングで殴りつけてくる、大変良い感じの演技的奇襲でやりきってくれたのは、凄く良かった。

 家族と将来に悩み、教師に恋し青春に悶える、門出のありふれた難しさ。
 そんな普通から自由に逸脱し、全力で突っ走っているように見えるおんたん。
 普通と奇人、地べたを這いずる側と見上げられる星で安定しそうな関係性が、実はセカイ全部を巻き込んで真逆だったと教えてくるサプライズは、後半へと興味を引っ張る大きなエンジンでもある。
 しかし謎めいた時空の彼方でだけ、主役二人の感情はメビウスの輪のように捻れているわけではなく、おんたんとバカやってる内に自滅的な怜悧さが削がれた門出にも、友の死に涙を見せず戯けて戯けて叫ぶおんたんにも……崩れているとすら気付かぬまま没入する、愛しき最後の日常にも、少女たちはその顔に複雑な奥行きを持っている。

 誰もが狂い得て、というか陰謀論に収納されてしまいそうな狂気こそが世界の真実であるような終末の中で、少女たちは当たり前の青春を過ごし、当たり前に死の重たさに向かい合い、当たり前に未来に悩んで一緒に大人になっていく。
 狂っているからこそ真実を射抜く、世界のあり方に適応していくことで、愛しい人を剥奪された痛みへのワクチン接種をすませた(結果、最悪の病に侵されていく)小比類巻くんが、進み出す場所から幸運にも、主役たちは距離を取る。
 おんたんを先頭に掲げ、必死に”五人目”がいない日常を謳歌して生き延びようとする少女たちに対して、彼はキホちゃんの死を契機に真実に目覚め、凶暴な戦士として完成されていく。
 その血まみれでのっぺりとした、マスクに覆われた凶相が、あり得たかも知れない主役のもう一つの顔だと前編で示しておくために、幻覚とも妄想とも、もう一つのセカイからの混線ともつかない過去が挿入され、ボタン一つかけ違えたら門出がどういう顔をして(自分を含む)人を殺すのか、描いておく必要があったのだろう。
 こうして順番を入れ替えて、正義と力に呪われていく人たちの姿を、それが極めてありふれた人間的疾患なのだと見せることで、煩雑で軽薄で騒々しいからこそパワフルだった原作が、それで何を書こうとしたかは分かりやすく、もしかすると過剰なくらいシンプルに可視化されていく。

 

 ”現実”の時間軸としては、主役が大葉くんやマコトとの出会いを果たす前まで終えた結果、前編は恋の物語としての手応えを切り離し、戦争ゲームこそが楽しみの全てな、それに一緒に夢中になってくれる柔らかな幼年期にフォーカスした話となっている。
 ちょっとぶっ飛んでいるおんたんが、思いの外必死こいてしがみついている純粋な幼年期を、身近な男性教師につまんねー恋している門出は一足先に巣立とうとして、友情の引力が強すぎて飛び立てない。
 『中川さん』呼びのよそよそしい距離感からお互いの”絶対”になるまでの、人格形成期だからこその特別な繋がりを、イソベやん大好きな幼さから抜け出せないまま、セカイ全部と比べられるくらい重たく、お互い抱えている少女たち。
 親友が自分とは違う道に進むのを、イカれたテンションの奥で極めてナイーブに哀しみつつ、それでもガーガーやかましい騒々しさで後押しし、自分のもとに戻ってきちゃったバカを詰り、冬の冷たさに凍える手のひらを温めてくれる喜びを、心底嬉しく思うおんたん。
 ガーガーガーガー、衆目もはばからずセックスセックスがなり立てながら、その実恋する自分はリアルに想像できなくて、だからなおさらワイワイ戯けて距離を取る姿には、UFOが天と未来を塞いでいようと、確かにそこにある思春期の手触りを感じられた。

 この当たり前の尊さが、おんたん達が預かり知らぬところで人間の愚かさと業にもみくちゃにされ、普通に大人になれる幸せな日常が唐突に終わっていってしまう様子と、併走して走る。
 民衆を置き去りに軍事国家として加速していく日本の在り方は、やはり原作よりもエグみ少なく描かれているが、時経て記憶も微かになった”懐メロ”を新たに変奏するように、インベーダー殺しのエコ兵器が都内の日常を停電させる様子を、濃いめに入れ込んでいるのは面白い。
 UFO災害被災地として、終わった扱いされてる東京がその実しぶとく日本の加熱した中心として存在感を高めていく様子を、激甚災害の後にも戻ってきた日常と、それを揺るがす新たな激変と、それをもなお飲み込んでマスクつけてるのが当たり前の風景になっていった、戯画化された作中現実を取り巻く、僕らの今。
 戦争の足音はあの頃よりも遥かにリアルな今、インベーダーの流す緑色の血が薬莢に遮らえている絵面は鮮烈にショッキングであるが、戯画はあくまで戯画であり、戯画だからこそ暴けるものを良いバランスで、この映画は捉えている感じがした。

 終わったようでいて終わらない、90年代サブカルの『終わらない日常と、終わるセカイ』的幻影を蜃気楼のように刻みつつ、おんたん達はチホちゃんの災害死によって人が死ぬことの意味を改めて受け取る。
 そこでおんたんが見せた『知ってるよッ!』の気高い強がりと悲痛は、極めて普遍的な青春の景色として、痛みを伴わなければ学べない人生の難問を照らす。
 そういう、苛まれている最中はあまりに苦しくて、未来が欠片も見えないようでいてなんとか生き延びてみれば思い出に変わって、厳しいながらも貴重な体験だったと思い返せるような、青春の大事な教訓を、日常に溶かしていく贅沢を終わるセカイの少女たちは、もう許されていない。
 目の前にそびえ立つ狂気に見て見ぬふりをして、昨日に似た明日が繰り返されるのだと信じ微睡んでいた時代が崩れる中にも、確かにありきたりでありながら特別な青春があり、恋を知る年頃の成長痛があり、幼さと友情の引力に甘える日々がある。
 そういう事を描くことを、やはり主眼に据えた前編であった気がする。

 

 特別な非日常に、不可逆的に日常が破壊され回帰できない残酷さは、バリッバリにメインモチーフとして選んでいる”ドラえもん”が描いている冒険の、悪辣なさかしまにも見える。
 ただ人間の本質を観察しているだけの異世界人から、譲り受けた特別な力に狂わされて、メガネかけたボンクラが罪を重ねて引き返せず、タケコプターなしの飛翔に追い詰められる、ここではないどこかの物語。
 それは未だ秘密道具に出会っていない、当たり前でつまらねぇ青春を謳歌しているおんたん達には遠い陰画であり、複雑怪奇な感情と業の絡まりが、後半ではを物語の核心と引き寄せていくだろう。
 降って湧いたセンス・オブ・ワンダーとの最悪の出会いで、狂いきってしまったセカイを変えていける特別な主役から遠く、ありふれた青春物語の小さな主役となることで、何かを守った少女たち。
 その立ち姿は、毎年一回必ずスケールのデカい特別な冒険へと漕ぎ出し、必ず当たり前の日常へと帰ってこれるのび太とは、真逆な存在のように見える。
 F先生が少年少女に夢を届けた、優しいワクワクに満ちた出会いと冒険がどういう結末に終わったのか、未だ意味を与えてられていない回想はその残酷さを、鮮明に見るものに付きたて宙ぶらりんだ。

 しかし作品全体に漂うシニカルでブラックな視点は、F先生の膨大な作品は暗黒の太陽のようにギラギラ輝いているものであり、パブリックイメージの”F”よりもドス黒いものが、かの”ドラえもん”にも長く伸びている。
 ”海底鬼岩城”や”鉄人兵団”に見られた破滅のイメージを正統に引き継いで、このイカれて騒がしい青年誌掲載のアポカリプスSFがある……ということも出来るし、残酷で狂った現実にそれでも、勇気と愛と友情が何事か成し得る事があるのだという、メチャクチャF的なコアを共有していることを、映画が選んだ描き方はしっかり見せてもいるだろう。
 人間の友だちになりうるロボットへの夢が、インベーダー虐殺の悪夢へと転化されてしまう狂ったセカイの中で、DEMONとOURAN……二人合わせてDORAEMONな主役たちは、少女の外装で武装したのび太の裔として、運命と取っ組み合いしている。
 それが不思議道具に助けられた特別な冒険であってもなくても、平凡で愛しい日常に帰れても帰れなくても、弾む心と優しい友情は常にそこにあり続けて、どんな形で終わるにしても、眩しい輝きを宿し続ける。
 おそらくかなり画角を変え、終わっていくセカイの愚かしさとどうしようもなさ、そこに芽生える恋を削り出していくだろう後編において、相当なひねりを入れつつその実メチャクチャド直球に、”F”に捧げられた愛を映画がどう描いていくのかは、少女ジュブナイルとしての切れ味が前半とても鋭かったからこそ、個人的に注目するポイントだ。

 

 冒険と不思議を日常に手渡してくれる猫型ロボットはいなくとも、おんたんと門出には最高の保護者が諏訪部の声帯つけていてくれる。
 ニートでデブでアフィカスで、色々間違えているコミカルなまこと君は、しかしあらゆる場面でおんたんの味方であり続け、狂ったセカイで何が一番大事か、何を手放してはいけないのか、極めて真っ直ぐ言い続ける。
 門出が足をくじいたらおぶってくれる、とても幼くて真実な優しさを、人生のレールからドロップアウトしてなお失わずに、ちっぽけな正しさを大事に生きてる、ヘンテコで不格好な騎士だ。
 正義の危うさ、真実の強さを語る口調はあまりにかっこよすぎて半分ギャグだが、ギャグにしなきゃ語れねぇ世界の本当をお兄ちゃんに背負わせてくれているのは、作中誰よりも愛と正義の人である彼が好きな僕にとって、とてもありがたい配役だ。

 人知れず、あるいは知らないことにして遠ざけた場所でグチャグチャになっていく日常で、あっという間に蔑ろにされていく人間の証明を、主役の一番身近な家族が言い続けている手応えは、作中の権力者達が軒並み間違えまくり、軍人が暴力の最悪の使い方をぶち込みまくるのと、おそらく意識的な対比だ。
 何もかもが最悪になっていってしまう、破滅を約束された地獄の中では、気高さは社会の底辺に蠢くニートデブにしかなく、お金と権力を握った偉い人はガンッガンに、何もかもを間違えていく。
 おんたんがセカイを閉ざすUFOを睨みつけながら、自分を悪役にセカイに正気を取り戻させ、武器を捨てた戦いで愛と平和を生み出そうとする決意も、なにか大きいものを動かすわけではなく、小さく燃えて瞬くだけだ。
 主役たちの預かり知らぬところで終わっていくセカイの中で、それでも確かに尊い光が、社会全体を揺るがす大きな命運に一切突き刺さることなく、当たり前に何も出来ないまま終りが近づいていく。
 この、物語内部の立ち位置と影響力の反比例が見た目ほどシンプルな構図ではなく、実はちっぽけに見えた二人こそがやっぱりセカイの真ん中にいるのだという反転を、その匂いだけ描いて前半は終わったわけだが、さて後半でどう物語を導いて、主役の罪と罰を描いていくのか。
 おんたんがセカイの主役として果たした決断とその先を、かなり独特に成らざるを得ない映画版の筆致で、どう描いてくるのか(あるいは、どんな要素をあえて描かないのか)。
 そこにも、僕は大きな期待を抱いている。

 

 過去回想に描かれた、幼い時代のおんたんが高校生の彼女とは似ても似つかぬ(ように一見思える)、臆病でナイーブな少女であることが、俺は好きだ。
 世界の悪意を過剰に受信しすぎてしまうおんたんの優しさが、イカレJKとなった今でも全然元気であり、あのアッパーテンションが不思議興奮剤で捏造されたもう一つの顔ではなくて、おんたん自身が選んだ生き様だということは、過去の全てを描かれていないこの段階でも感じ取れる。
 バリバリ暴れる狂ったテンションの奥で、様々な不安や哀しみに震えながら、おんたんは涙をなせない無敵なボクを必死に作り上げて、狂った世界と闘う。
 その闘争が世界の命運とあまりに遠い場所にあって、滅びゆく世界を変ええない事実は、門出との絆を身近に愛しく描く映画の画角と、表裏一体でもあろう。
 それでも、おんたんはお兄ちゃんが教えてくれたもの、何を差し置いても守ってくれているものを受け継いで、ハイテンションで狂った優しさで必死に、青春を生きている。

 ロックスターにも似たその激しさが、ぶっ壊れきった正義に壊された門出を前にした時に溢れ出て、決定的に道が分かれてしまった、手が届かなかった悲しさとして描かれるのは、とても辛い。
 つまんねー日常を、彼女の”絶対”であるおんたんの傍にいることでなんとか生き延びている、UFOがある世界の門出とは違う繋がり方……極めて残酷な断ち切られ方へ、幼い二人は追い込まれていった。
 人の身の丈を遥かに越えた非日常の力は、賢く正しいはずの門出すら狂わせて、『もっと悩めよ! 勝手に答えだすなよ!!』と吠えてくれる友達と、一緒に生きていく未来を殺す。
 特別すぎる力が生み出した、巻き戻せない過ちの重さがなければ、当たり前に殴り合って生き方を変えて、一緒に笑える未来だってあったかも知れないけど、あの眩暈の中にそういう優しさはない。
 イソベやんは”ドラえもん”ではないし、門出はのび太ではないのだ。

 歪んだ正義の執行者となった門出の過ちをより大規模に、凶悪に駆動させた結果、高校生になれた門出達の未来をむちゃくちゃにぶっ飛ばす決断が、彼女たちの預かり知らぬ場所で積み重なってもいく。
 狂えぬまま不自由に、セカイに大事なものを殺される臆病者でいるのをやめた先にあるのが、世界の大きな舵取りと無縁に、唐突に誰かに終わらされていく小さな幸せだとすれば、おんたんが門出に差し出し続ける愛と救いも、それで幸せに笑えている門出の青春も、何もかも無意味なのだろうか?
 終わりに向かって突き進む後編、全てを描くにはあまりに短く思える二時間に何を刻んで、この問いに答えるつもりなのか、僕はワクワクと五月を待っている。
 そこにこそ作品の心臓があるのだと、この映画が描くと選んだもの、描かないと諦めたものは告げている。
 そう、僕は思うのだ。

 

 

 という感じの、パワフルな前篇でした。
 まだまだ描かなきゃいけないものは山盛り残っている中で、この映画が描くと選んだものは自分には、作品のいちばん大事なものだと確かに感じられました。
 それをしっかり見据えて、適切に表現を積み上げてニ時間の映画を編み上げてきたアニメ制作者達の手腕と視座を、僕は信じる。
 多分、凄くいい後編が来るんじゃないかなと思います。
 とても楽しみです。

 


・補記 追悼

 事前に情報を入れずに映画館に足を運んだので、デベ子役のTARAKOさんが作中作、素晴らしい演技を見せてくれた時、不意打ちの衝撃を受けました。
 ずっと隣りにいてくれるのだと、勝手に思い込んで甘えていた大切がいきなりなくなってしまう、チホちゃんの子を通じておんたん達が思い知らされた世界の真実に、僕も劇場の中殴りつけられたような気分で、とても辛かった。
 それは作品とのシンクロ率を上げてくれる僥倖と言うには、あんまりにも取り返しがつかないもので、しかしその重たさと痛さはおそらく、狂って壊れていくあの世界でそれでも必死に生きようともがいている、あの子達の感覚と似通っているのでしょう。

 望むならこの特別な映画体験とやらを、得ずにもう一度TARAKOさんの声を聞きたかった。
 ”TRIGUN STAMPEDE”完結編で、最高に素敵なザジの演技を聞きたかった。
 空と未来がUFOで塞がれていなくても、人は死んでしまうものだし、そうなっても消えない眩しさがあるのだと、作中に描かれているものとその外側の僕の現実が繋がり得たのは、なんだかとても不思議な体験でした。
 多分後半でも、デベ子の声が聞けると思います。
 僕は、それも楽しみです。

 

 

・4/1追記 ”理解った気”で凝り固まっていたアタマのハチを、ぶっ壊してもらえる強烈な批評としての創作に出会える瞬間は、いつだって最高だ。

 

・4/4追記 『俺は……正真正銘のFフリークで、大好きだからこういう話にしか出来ませんッ!』といういにおの叫びを、早取りして前編でぶちかます構成だとも言える。