イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

プロセカイベスト ”Knowing the Unseen”感想ツイートまとめ

 プロセカイベスト”Knowing the Unseen”を読む。

 新章になっていらい初の絵名イベであるが、承認欲求モンスターから泥まみれの旅路を経て、一歩ずつ夢へ真の自分へと進み出してきた彼女の新たな一歩が、夜闇に眩しいエピソードとなった。
 絵名はプロセカ全キャラで一番、嫌に思えたり耐えられなかったりするものこそが、自分を磨き上げて本当に生きたい場所へと近づけてくれる、人間の矛盾と向き合ってるキャラだと思う。
 安楽で心地よいものに身を預けているだけでは、辿り着けない場所が確かにあるのなら、苦しかろうが行くしかない。
 まふゆが母の繰糸に身を預け、窒息しかかって引きちぎったように、絵名もネットの安くて危うい承認に溺れかけていた所を、魂の奥底に燃えるクリエーター根性ボーボー燃やし、自分の空疎を埋めてくれた仲間と並び立てる自分であるために、あるいは真実自分なのだと思える自分であるために、甘い毒より苦い薬を選んできた。

 それは自己否定と再構築を繰り返す、とても苦しい新生の歩みであり、『これが自分だ』という思い込みをベリベリ引っ剥がし、その奥に何があるのか見つめ直して、必要だと思えるものを痛かろうが辛かろうが新たにつけ直す、極めてストイックな道だ。
 この厳しい道を己に貸した彼女が、身近な誰かにとても優しい自分をどんどん見つけれているのが、俺にはとても嬉しかったりする。
 キッツい指導ばっかりする雪平先生にムカついてばかりだった絵名は、自分がまだまだ未熟である事実を真正面から見据えた結果、彼が指摘する事実を受け入れられる素直なタフを自分のものにして、上手くなるための最短の回り道を進んでいる。
 自分に何が足りないのか、見据えて正し間違えて改める。
 それは言い訳が効かないストレートな道で、そういう所を突っ走った先にしか、アートを仕事として一生やっていく生き方はない。

 

 このシビアさは、他ユニットが(色々凸凹はありつつ)”学生”の次の生き方として、アイドルなりパフォーマンスユニットなりバンドなり、アートを生業とする職業へ着実に近づいているのと結構異なる。
 絵名の物語において、まだまだ絵に値段がつく段階は遥かに遠く、それを叶えるための事前準備…の事前準備として、美大入学を目指して今回、本格的に進路を定めることになる。
 この地道な難しさはニーゴ特有のもので、華やかさの少ないモノトーンで描けばこそ生まれるリアリティを、プロセカ全体に担保してくれている感じで好きだ。

 人生灰色、甘くはない。
 それでも暗闇の中に確かな光があって、自分がそこにいて良いのだと思える音楽との出会いがあって、敬意と友愛を心の底から手渡し受け取りたくなる友達がいて、消えたい死にたい以外なかった暗闇から、ズルズル自分の体を光の方へと引っ張っていくことが出来る。
 そういう事を色んなキャラ、色んな物語で積み上げてきたお話において、かつて絵名のプライドや夢をぶっ壊した父もまた、同じでこぼこ道を進む同志だったと解るのが、今回の物語だ。
 憧れたからこそ憎んだ身近な誰かが、実は自分と同じ塗炭の苦しみにいて、自分とは無縁の高みを浮遊しているようでいて、同じ闇を見ていた。
 その闇に一個だけ輝く眩い牡丹の花が己であり、自分が憧れ焼かれた光はまさに、東雲絵名自身の反射光であったのだと思い知るのが、今回のエピソードである。

 

 それは許せなかったはずの父を許し、神様の位置から対等な人間、尊敬できる先輩へとポジションを変える、家庭内融和の物語でもある。

 父はかつて絵名をズタズタにしたときと同じく、言葉少なく不器用であるが、絵名の方がニーゴの仲間と進んだ旅路の中で己を育て、かつて見えなかったものを解れるようになっている。
 身近な友達の苦しさと、それを救いたいと思える自分の優しさや強さと、ちゃんと向き合った結果、闇の中の花が何を示しているのか、読み直す眼を手に入れている。

 それは作家に必要な審美眼でもあり、自分が何を描くのか見据えたうえで絵筆を取る、画家としてのコンセプトが鍛えられている証拠でもある。
 愛されたい、チヤホヤされたい、何者かでありたい。
 絵を通じて絵以外の何かを求めていた、幼く切実な時代から、東雲絵名は確かに変わっている

 今回雪平先生や父の助けを借りて辿り着いた、絵を描く以外無い己への確信。
 それは父の側で父に憧れた、血と思いを確かに引き継いでいる自分の肯定でもある。
 傷つけられたしムカついたけど、確かに自分はこの絵に憧れ、この人に愛され、この人の娘であり他ならぬ自分自身として、今ここにあるのだ。

 そうして過去と現在の先にある、苦しみを超えて絵をやり続ける未来へと、自分を投げかけるしか無い自分を、絵名は震えながら誇りに思う。
 それは憧れと憎しみが相反しながら同居していた、父への思いを真っ直ぐ見つめたからこそ立てる地平であり、そういう決断だけがモノクロの世界で夢を照らすのだ。

 

 『絵画を読む』という高度な批評行為を、チヤホヤされる以上の切実さで絵を描く必要がある絵名は己のものにする必要があり、今回雪平先生が用意した課外授業の中で、適切に補助線を引きながらそれを果たしていく。
 画家本人の家族である絵名は闇の中の花が何を示しているのか、何しろ自分自身がモチーフなのだから”正解”に一番近い位置にあり、己を絵以外で語れない不器用な父が、どんな歴史を経てその絵を書いたのか、雪平先生経由で教えてもらえる立場にある。

 この文脈的アドバンテージがない”読者”が、己の感性のみを頼りにあの絵をどう読むのか、奏のサイドストーリーで提示されているのも面白い
 作者の家族であること、モチーフそのものであること、同じ絵画という表現を身に着けていること。
 絵名は絵画の読解者としてより精密に”読む”ヒントを多数持っていて、それを適切に使うことで父の苦悩を、その中で己が果たした意味を読み解き、コンプレックスの先へ進んでいく。

 その家族的な物語の外側に奏はいて、ただただアーティストとして卓越した感性(これが何も見えなくなっていた絵名の灯明として、心に届く歌をかつて作ったのは面白い共鳴だが)のみで、素直に絵画を読む。
 娘を守る父として、画家ではなく裸の人間として生きるための遺書。
 そこに在る愛という名の個人的執着を、知らず見抜いてらしからぬ曲を作る。
 よりにもよって望まぬ父殺しを果たし、メサイア・コンプレックスに呪われた奏の曲は、誰かに執着してはいけない透明な広範さを持っている。
 それは誰より救われたいはずの奏のエゴを脱臭し、罪人にして救世主として誰かを救い続ける責務が、必要とする普遍性だ。
 苦悩の中の透明な光へと、己を変じるための音楽は確かにウェッブを通じて一人の少女に届き、救った。
 その絆があればこそ、今回奏は夜闇の牡丹を見て曲を作る。

 巨大すぎるエゴが凶器になって、誰より愛する娘を引き裂いてしまった父は、そういう透明さを絵に込めない。
 あらゆる色合いが混じった黒を夜闇に宿し、一番身近な救いを花に託して刻みつける。
 同じように救済を夢見つつ、奏と父は透明と漆黒、真逆の色合いで己を描く。
 しかしその根っこにあるものは同じ花…痛みと愛であり、その共鳴が家族の個人的な秘密をひょいと飛び超えて、奏に絵画の真実を直感させ、創作させる。
 そこには奏が持つ卓越した直感と共感…アーティストとしての才能と業が垣間見えて、なかなか面白かった。

 

 さてはたして東雲絵名に、敬愛するKと同じ程の芸術的視力があるのか?
 ない、と彼女は自分を評価しているし、確かに家族として特権的に与えられた補助線なしなら、あの絵を奏と同等以上に読み込み、人生を前に進めていく起爆剤にすることは困難だ。
 しかし、事実として絵名はあの絵を読んだ。
 タイトルにあるように、通常見えない絵のタッチ、作家史的変遷、数ある作品の中での卓越性を読み切って、言葉少ない父が本当に言いたかったことを、自分が憧れの人の最愛であるという確信を、確かに読み取ったのだ。
 そう出来るまでに物語の開始から、ここまでの話数が必要だった…という話でもあろう。

 例えば最初のエピソードで父との桎梏をある程度乗り越えてしまった冬弥などに比べると、回り道の多い歩みであったけども、東雲絵名の旅路が無駄だったとは、誰にも言わせない。
 それぞれのユニット、それぞれの人間に個別の道のりがあり、歩み方があり、暗さも険しさも違う道のりの中で、確かにたどり着く境地がある。
 そのカラフルな多彩さを描くために、プロセカには多数のユニットとキャラクターがいるのだろうし、絵を”描く”ことに呪われていた彼女が絵筆を一旦手放し、絵を”読む”行為を通じて画家として、人間として、娘として大きな一歩を踏み出した今回のイベストは、その豊かさをとても良く奏じていると感じた。

 

 絵名が主役になる話は彼女のセルフイメージを反射して、弱くて惨めな自分を呪いながら歯を食いしばって進む、泥だらけの話になりがちだ。
 しかし彼女の主観では大したことも出来てねぇ、何者でもねぇ情けない女の子がどれだけ、違う色合いの闇に沈みかかっている友達の手を引き、支え、静かに見守れてきたのか、既に描かれている。
 絵名がなかなか認められない東雲絵名の凄さを、多角的に客観的に読めるのもまた、色んな人がいて色んな物語が積み重なる、プロセカの良いところかなと思う。
 自分自身の影にあって見えない光を、ちょっと離れた場所から確認し直す。
 ”描く”から”読む”へと立場を変えさせることで、画家としての絵名を羽化させた雪平先生の名指導と同じ作用が、プロセカが己を語るシステムと構造自体に組み込まれているのが、なかなか面白いところだ。

 

 今回重要なモチーフとなる牡丹が、花言葉としては全然ストーリーにハマっていないのが、俺はすごく好きだ。
 富貴、壮麗、恥じらい、王者の風格。
 どれも、芯を得ていない。

 それはつまり今回描かれた牡丹は、花言葉というロゴスの額縁に閉じ込められた死花ではなく、ただただある父親の目の前に咲いた生きた花、生きればこそ眩いたった一つの花であった、ということなのだろう。
 花は、そこに宿る生命は、言語的必然を超越してただただ底にあり、その存在に圧倒され共鳴したからこそ、父は画業最後に己の全てを刻み込む題材として、それを選んだ。
 選んでやり切ったからこそ、絵を捨てられない自分が見えた。

 彼もまた花であると、己が描いた花に教えられる。
 その構図は彼の娘が、己の存在をモチーフとした絵画を通じて、己と父の関係性を再構築し、自分自身を見つけ直した歩みと重なる。
 そうやって乱反射する闇の中の光を、誰かの中の自分に、何かの中の共鳴に見つけながら、人間は一歩一歩、そうなるしかない未来へと己を進み出していく。

 この切実さと祈りは、ニーゴの物語を貫通する一つの柱であり、今回絵名が見えざるものを読み取ったことが、彼女の仲間たちの未来を、また助けていくだろう。
 あれだけ憎んだ父こそが、己を育み作り上げていた事実に、率直に力強く向き合う姿勢は、遠い遠い朝比奈家や宵崎家の家族史の落着へ、確かな光を伸ばすだろう。
 そういう、優しく強く賢い存在へと東雲絵名がどんどん近づいていく姿が、俺は何より眩しい。
 とても良いお話で、凄く面白かったです。