イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

映画”デッドデッドデーモンズ デデデデデストラクション 後章”感想

 前章公開から二ヶ月……アニメオリジナルの結末を引っ提げ、完結編となるデデデデ映画後編が公開されましたので、見てきました。
 雑多で猥雑な戯画化された現代批評群像劇という色合いを抑え、狂った世界でなお続く少女二人の友情物語として太くまとめ上げられた前編の、総決算となる今回。
 なるほどこう終わるのであれば、アレを描いてコレを描かぬわけだ……と、極めて納得の行く決着にしっかりまとまっていく、映画独自の……そして原作のエッセンスを見事に前後編に絞り出した”デデデデ”でした。
 物議を醸した原作最終巻と大胆に決別し、アニメ独特の決着を選んだ作品でありますが、この終わりも確実に”デデデデ”に内包されていた可能性を、必死に形にしてくれた一つの物語として、自分は楽しく辛く、飲み干すことが出来ました。

 総勢12巻、極めて混沌として魅力的な原作をどう、四時間の映画にしていくのか。
 良く考え形にした末の作品であったと、改変されたドラマだけでなく、原作通り……あるいは原作以上の迫力と切実さ、泥まみれの誠実でえぐり出されたキャラたちの感情が、鮮烈な暴力と死、それと隣接しながら遠い日常の美しさにしっかり練り込まれて、大変良かったです。
 クライマックスを飾る破局の意味合いも、最終盤の展開が変化している以上原作と意味合いを変えているわけですが、しかしアニメだからこその異様な迫力と美麗でもって、原作に示された最悪で最高のカタルシスが轟音と極彩色を伴い暴れまわる姿は、とても良かったです。
 後章を見終わってみて、前章を見て感じた違和感や期待がピタリとハマる場面も多く、大変良い前後編だと思いました。
 とんでもない原作と決死に向き合って、自分なりのアニメを、”デデデデ”のアニメを、削り出しきって生まれた勇姿を、是非映画館で見届けてあげてください。
 オススメです。

 

 

 

 

 というわけで、デデデデ映画完結である。
 いやー……なるほど、こう来たかという原作改変終わらない夏休みエンドであり、大葉くんと侵略者に相当フォーカスを絞った後編であった。

 前半が門出とおんたんの友情がどう育まれ破綻し、世界を巻き添えに再生してダラダラ終わりかけの世界で眩しく尊いかを描いた”デデデデ少女編”であったとするなら、今回はそんなおんたんの恋のお相手であり、人間と侵略者両方の言葉を作中唯一語り得る大葉くんが、どう生まれどこに流れ着いて何を選ぶのか……彼の影となる小比類巻くんと合わせて”デデデデ少年編”であったように思う。
 前回非常に抑えた筆致でその影をのみ描かれ、ラストカットで生物としての実在性を一気に突き上げてきた侵略者たちは、後編で一気に血を流し言葉を持つ存在として、話の真ん中に躍り出てくる。
 彼らを仮想的とすることで狂った軍国主義に邁進してきた、僕らの日常の戯画……と片付けるにはあまりに生臭い”日本”で、けして理解されることのない隣人。
 家族の情も同族の絆も確かに持ちつつ、狩り立てられる動物のように一方的に殺戮されていく彼らの哀れさを追い風に背負って、大葉くんは後章の主人公として人間に触れ合い、おんたんと恋をしていく。

 シフトマシーンがなかったことにして、門出一人の命よりもっと多くの不幸と悲劇を巻き起こすとしても、お兄ちゃんの強い言葉に助けられておんたんが選んだ、先遣隊が人類に絶望してしまった世界。
 そこには侵略者の声を聞けない、聞こうとしない、聞かないことでなんとか壊れかけの日常を成立させている人達で満ちていて、しかし確かに、侵略者を巡る事件で人は死んでいる。
 そんな世界の狂ったリアリティに、自ら瞳の見えぬ長髪の単眼鬼として順応することで、狂った世界の暗い救世主として”世界の真ん中”に立ってしまった(が、最後の最後でそこから滑り落ちる)小比類巻くん。
 彼を影にする形で、大葉くんは生身のおんたんと一緒に暮らし、ゲームし、抱き合い、キスして、世界を救いきれずに戻って来る。
 何もかもが上手くいく幸せな結末はないけども、あまりに渋い声した議長の助けなど借りつつ、色んな人の思いに突き動かされて最悪の破局は免れる結末を、掴み取るのはおんたんではなく大葉くんだ。

 シフトマシーンに乗って新たな世界に飛び込み、引っ込み思案な自分を狂ったパブリック・エネミーに書き換えて門出を抱きしめた時点で、おんたんがセカイの真ん中に立ってた物語は終わってた……という味方もできよう。
 遠い何処かで残響する罪と罰と願いを、飲み屋でウーロンハイに狂わされて『私を憎め!』と高らかに叫びながら滲ませる少女の、もはやどこにもない夏休みの冒険。
 その続きを背負って、大葉くんはタケコプターっぽい秘密道具で破滅の東京へと駆けつけ、原作ではたどり着けなかったUFOの最深部に『トモダチ』を刻んで、東京を壊して世界を救う。
 何もかもがぶっ壊れているからこそ、イカれた爽快感がどっかにズクズク疼く原作12巻を軒並みぶっ飛ばして、色んな人の大事な人をスゲェ作画と演出でぶっ殺してなお続く、永遠の8/32を独自に刻んで、少年と少女の物語は終わっていく。

 

 もう一つのセカイで、門出の墜落を止め得なかった、エイリアンとの交流。
 その主役だったおんたんが大葉くんという、新しいエイリアンとの交流を成功させた結果、原作でたどり着いた侵略者のいないセカイでの救済ではなく、地獄の続きだけど大葉くんがいる、おんたんの罪が真実問われるべきセカイが残った、この映画の結末。
 この終わり方になってみると、マジ最悪なことになった先遣隊との交流も、やっぱ何かを生み出していたのかも……という気になった。
 宇宙人の奇妙な道具は門出の正義を/門出を正義に狂わせ、門出含めた色んな人を殺したけども、ここで人間の性善なりと、『トモダチ』はいい言葉だと先遣隊が思ったから、こちらのセカイにUFOは来ない。
 地獄に過適応した鬼どもが凶悪に徘徊する世界に、地獄への道連れを呼び込むのが唯一可能な復讐だと、おんたん達に出会わない世界で絶望してしまったから、あのセカイは終わらない夏休みに飲み込まれていった。

 トモダチ一人死んででセカイが救われる未来と、トモダチが絶対としてい続けてくれるけどセカイは狂ってしまう未来と。
 先遣隊が門出とおんたんの悲劇から、人間なんぞと出会わないほうが幸せだったと学んでつけ日常が守られるセカイと、彼と出会わずその呪いに飲み込まれ爆散するセカイと。
 どっちがいいのかをおんたんは選んで、他ならぬおんたんが選んだことだから、お兄ちゃんはその全てを肯定し、祝福する。
 オタク業界でも有数の『あり得たかもしれない未来に押しつぶされ、信念と愛を呪いに変えてなお闘い続ける執念の男』を演じてきた諏訪部順一が、ひろし君を演じるのはまー必然だよなぁ……。

 

 UFOがあるセカイにたどり着いてしまっている時点で、おんたんはいそべやん≒先遣隊ではなく門出を選んでしまっていて、そういう意味では真夏の異種間コミュニケーションは失敗している。
 その記憶がかき消え、しかし奇妙な罪悪感を背負ったまま流れ着いた、もう終わりきってるのに終わらない夏休みで、おんたんはもう一度侵略者と出会い直す。
 彼は地球人にも数多の犠牲者(と、門出のようにその遺族)を出した”8.31”の犠牲者であり、人間の遺体を乗っ取ったインベーダーであり、さっぱり良くわからない人間のことを、どうにかわかろうと歩み寄る、第二の先遣隊である。
 かつて夏休みには、門出との友情がセカイのすべてであり、それをぶっ殺してでももう一度会える未来を選んだおんたんは、大葉君と触れ合う中で恋を知り、大変可愛らしく距離を縮め、そんな微笑ましさを全部ぶっ壊すように、UFOが爆裂して東京が消えてなくなる。
 先生やお兄ちゃんや弟たちや、ド下らないアホ大学生の終わらない日常に愛しく寄り添ってくれた人達を生々しく消し飛ばして、それでも生き延びてしまった少女たちの前に、大葉くんは戻って来る。
 それが、この映画が選んだ決着だ。
 大葉くんと出会えたセカイが消えず、そこで死んでしまった色んな人の思い出も痛みも消えてはくれない、異様な夏休みが続く物語だ。

 それはマコトが真実を知って叫んだ、『世界を殺した罪を償うなら、このセカイでやるのがスジだろ!』という言葉の延長線上にある。
 一度はなかったことにした、たった一人かけがえない人が死ぬ決着をシフトすることで生まれた、いろんなことが狂ってて色んな人が死んでいく世界を、おんたんは大葉君と生きていく。
 そこには門出も相変わらず、おんたんを”絶対”としてキスしたいほどの愛しさで生きていて、思っていたよりマトモだった元担当教師との恋路に足を取られて転がっている間に、イカレて初心だったはずの親友に追い抜かれている。
 一緒に笑ってバカやって、大事な人が消えてしまった世界でもまだ残ってる希望を拾い集めて、当たり前に生き続ける。
 そんな未来をグダグダ自堕落で楽しい学生生活の中で、小田原外れの港町の合宿で、ワーワー騒ぎながら積み上げたから、たどり着いた決着だ。

 

 原作通り、人間社会を軒並み消し飛ばす大災厄が訪れるためには、映画には描かれなかったおんたんの外側の難しく愚かしい世界を描かなきゃダメだったろうし、あの話の実質的な主役となるマコトの存在感を、もうちょい分厚くしないとキツかったと思う。
 前後編四時間の映画が選べる結末に、必要な要素を可能な限り詰め込んで駆け抜けた結果、必然として選ばれた原作改変……と言うことも出来るし、生まれでてしまった物語の舞台に、背中を向けない決着を選んだとも言えるだろう。
 後半急に出てきてフォーカスがあたる大葉くんは、小比類巻くんの凶行に体を張って守ろうとしたおじさんとか、自分と似通った立場にいて同じ女の子から学んだ『トモダチ』への希望を託してきた先遣隊とか、地獄でも生きろと呪い/祝福をかけたおじさんとか、いろんなエイリアンと言葉をかわし、思いを受け取る。
 軒並み緑色の血をしぶかせた、大変エゲツない末期を迎えていく彼らの、前半聞き届けることが出来なかった言葉を、大葉君は人間の皮を被っているからこそ聞き届け、おんたん達に届け、それに背中を押されて行動する。

 そんな彼のヒロイズムを一番熱く燃やしているのは、なんだかんだおんたんとのピュアな恋であり、友情が”絶対”だった小学生のおんたんが大学生になって、それ以外の人との愛とセカイを天秤にかけてもいいかなと、自分を育てた結果かなとも思えた。
 おんたんが狂って優しく賢く強い人であり続けるための”絶対”は門出との”唯一絶対”である必要がなくて、沢山の大事な人を大事にして、沢山の”絶対”とキスしてもいいんだと思えるまでの、終わったセカイで確かに眩しい成長譚。
 渡良瀬くんとの甘酸っぱい恋が、見た目より狂ってなかった彼のマトモさで座礁してしまった門出は、前編で築いたリードをあっという間に追い抜かされて、妹のようだったおんたんのキスをひとり見届ける立場になる。
 それは衝撃であると同時に綺麗で幸せな……終わっていくセカイには不釣り合いな情景として描かれていて、とても良かった。
 あそこに光っていた眩さは、セカイとトモダチ天秤にかけて後者を選んでしまった……それで自分主役の物語から降りた主人公が、そんな場所でも確かに、当たり前に少女として恋と愛を知っていく、ちっぽけで大事な幸せに満ちていたと思う。
 たとえ世界が壊れても、大事な人が死んでも、それはなくならないのだ。

 大学生になったおんたんは前編以上に、騒がしい狂騒の奥にかなりシビアな現実感覚と、揺るがぬ厳しさ……それに裏打ちされた優しさを持っていることを示す。
 そんなおんたんの大人びた顔を照らす鏡として、ふたばは激ヤバ市民活動に身を投じ、日常から逸脱していく。
 セカイの真実を誰より知っているとうそぶく彼らが、当たり前の日常の中で大葉くんを通じて、侵略者の人間味を理解していくおんたん達より、全く全然”真実”から遠い存在であるのは、なかなか良く出来た皮肉だ。
 かつての小比類巻くんのように、ネットに蔓延する高い意識の形骸ぶん回しているより、アホみたいに戦争ゲームに興じてくだらねぇ青春に埋没したほうが、話が通じないからこそ殺し合う相手の顔は、実際良く見えたのだ。
 それをおんたんのアホ面通じて見届けたからこそ、先遣隊は悲劇しか産まない接触を防ぎ、大葉君は命がけで炉心停止に挑み、お兄ちゃんはバカイヌ引き取って妹への愛を、最期の言葉として残す。
 ひろしくん……リセットが起きないこの映画版、ガチのマジで東京壊滅の犠牲になってアンタが戻ってこないこの結末、ありえんくらい辛いけど、でもアンタが望み守ろうとしたものは、アンタの妹とその彼氏が色々頑張ってくれたから、地獄でも続いていきそうだよ……。

 

 そしてきほちゃんの死によって”真実”に目覚めた小比類巻くんは、後半もう一人の主役と言っていい、血みどろの暗い存在感を有していた。
 大葉くんが現在進行系でおんたんとキャッキャして、お互いの顔を見て体温を感じて愛を深めていく物語に、きほちゃん殺されちゃってる小比類巻くんはどうあがいても戻れない。
 生きてる間もちゃんと顔を見れなかった、ありきたりの別れを乗り越えてもう一度向き合う直すことも出来たはずの、当たり前の高校生としての人生……おんたんが世界の命運捻じ曲げてなお、オカルトサークルで堪能している日常を、小比類巻くんは願い下げと蹴り飛ばして、狂った世界に順応していく。
 国家が国家の、大人が大人の責務を果たさない狂った世界の中で、日常に目をくらませて正気でいることこそが狂気であると、あの世界のスタンダードである悪意と憎悪と独善に見を染めながら、小比類巻くんはつぶやく。
 つぶやくだけで終わらず、ナイフを握って侵略者も人間も殺し、不思議な道具を奪って、自分が救世主になれる未来を覗き込む。
 きほちゃんへの愛が捻くれての凶行なら、狂って最悪だけどまぁ……って感じであったけども、最終的には力と正義に溺れ、終わった世界唯一のの主人公となる愉悦に飲まれていたのは、まぁまぁ哀しい。
 それは最後まで、色んな人から受け取った愛を覚えて戦い抜いた、大葉君との違いなんだろうなぁ……。

 UFOが東京の真ん中に鎮座ましまして、国立競技場が宇宙までぶっ飛び、不和と欺瞞が世界ぶっ壊すまで止まらない、負の方向に加速された地獄のような世界。
 そこでノンキに平和な大学生やれてるほうがイカれてて、血みどろの殺意とエゴイズムと愛に耽溺するほうがマトモ。
 そういう気持ちもないわけじゃないから、小比類巻くんのことをただの”悪役”だとは、正直僕には思いきれない。
 侵略者の声を聞き届けず、その道具を奪って殺しに使い、愛は歪んで呪いになってしまって、狂いきった活劇の主人公になった。
 主役ポジションにいながら、加速していく破滅の部外者でしかないおんたんとは何もかも真逆の立場にいながら、きほちゃんの死を心に深く刻んでいるのは同じだ。

 同じ場所から出発して、おんたんは世界の中心に立つより寂れた港町で、もう誰もどこにも行かないことを願う。
 それは一部では叶い一部では裏切られ、その全部を飲み込んで残酷に当たり前に世界は続いていくのだけども、侵略者に狂わされた世界と戦いながら、小比類巻くんは何を願ったのだろうか?
 世界を揺るがす物語の主役であることから降りて以来、自分が本当は何を望んでいるのか、何を大事にすればいいのか、響くお兄ちゃんの声に助けられて忘れなかったおんたんがずっと見ていたものを、小比類巻くんは携帯の待受にしながら、忘れてしまったと思う。
 その忘却の差異点が、どんだけ大きいのかを相当大事にして、この映画は漫画と違う決着に行き着いたのかなぁ……などと感じた。

 

 主役サイドが構えたガジェットが、全然役に立たないのが印象的な映画だった。
 3Dプリンターで作り出した、一発こっきりのおもちゃみたいな拳銃は、結局発射されることなくバラバラにされて、おんたんを(小比類巻くんのような)暴力の行使者にするのをせき止めた衝撃装置は、小比類巻くんに放たれることなく虚しく落ちる。
 幸せな結末にセカイを導く/積み上げてきた物語をなかったことにしてセカイを殺すシフト・マシーンは二度使われないし、不思議なチートよりも形のない約束や愛のほうが、お話を大きく動かす。
 ドライでハチャメチャなようでいて、ロマンティックな色合いの強い映画で……そこが好きだ。

 超越的な道具が生み出すダイレクトな救済みたいなのが、のきなみ映画では削り取られていて、東京のみならずセカイ全部が終わり果ててしまう結末を、ひっくり返す二度目のシフトとか、侵略者が死後たどり着き愛した人に出会える電子の涅槃とかは、綺麗さっぱり描かれない。
 それは『描けないから描かない』という極めて現実的な判断の元、原作から切り離された枝葉であり、この映画で何を描くのか、何を描かないのか結構な覚悟を持って切除された描写だったのかな、と個人的には思う。
 極めて露悪的に描写された終わりきってるセカイの有り様だとか、人殺しの軍人なりの葛藤と決意と救済だとか。
 物語の始まりに死んでたはずなのに唐突に主役ヅラで蘇り、親大失格の生き様の果てに娘が幸せでいられるもう一つの結末を、凄まじく強引にページに焼き付けた男だとか。
 それがないと大ネタが成立しないなら、大ネタ自体をひっくり返す決断が制作陣のどこから生まれ結晶化したのか、いち観客である僕には分かり得ないけど、でも原作より色んなモノ背負って大葉くんが飛んで、全部は救えなくても何かは守れて、映画の中ずっと描かれてきた終わらない夏休みが未だ続いてしまうこの決着は、凄く”デデデデ”だなと感じた。
 ともすれば、原作以上に。

 愛と勇気と友情が、なかなか上手くハッピーエンドを連れてきてはくれない世界の中でも、明日地球がこなごなになっても、アホヅラした少年少女は生きて恋をして、泣いたり笑ったりする。
 そんな人間当たり前の強さと弱さが、マシーンの救いに頼らなくてもビターで悪くない決着を連れてくるこの終わり方は、完全な滅びも救いも与えないまま、8.31が終わってくれない世界に、おんたん達を置き去りにする。
 そこでは『勝手にいなくならないで』という祈りが叶うことはなくて、狂気と無理解はなかなかひどい感じに加速されていって、でもみんな生きていたし、笑ってもいた。
 殺したり殺されたり、酷いことが本当にたくさん起るけど、それは確かにそこにあったのだ。
 そんな悲惨と奇跡が入り混じった日常の中で、おんたんと門出と大葉君はまだまだ生きていくってことに、人間がどうしようもなく人間だってことに、メチャクチャ胸を張った結末で、俺はとても好きです。

 

 というわけで、前後編合わせて大変面白い映画でした。
 少女たちをお互いの”絶対”にしうるほどの、ありふれた幸福と運命にフォーカスして描いた前編と、そこからはじき出されていた侵略者と少年の血飛沫に注目して、世界を巻き込んで流れ着く先を抉った後編。
 両方合わせて、女の子がちょっとだけ大人になって、でも大事な友だちをはじき出すわけでもなくて、地獄を必死に生きて運命を変えた素敵な男の子と、みんな一緒に荒野へ進み出していくまでを描く映画でした。
 あくまで荒野に……おんたんが世界の真ん中から押し出されたの先の流刑地であるこのセカイにとどまる決着は、原作が選んだのとはまた違った角度からこのお話が削り出したものを、新たにしっかり照らしていたと思います。

 愛と勇気と友情と……絞れば青汁取れるくらいに青臭い何かを実は真ん中に据えて、悪趣味なシニカルをがなり立てていたお話に、これ以上なく向き合った映画化だったと思います。
 四時間でまとめるにはこの形しかなかったし、この形と結末を選んだことで、”デデデデ”のアニメは極めて”デデデデ”な映画になりました。
 大変良かったです。
 ありがとう、お疲れ様でした!

 

 

 

 

・24/05/25追記 原理的に不可能な完全なるカーボンコピーを目指すことだけが、”愛あるアニメ化”じゃないって話。