イマワノキワ

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烏は主を選ばない:第11話『忠臣』感想ツイートまとめ

 烏は主を選ばない 第11話を見る。

 正気を保つのも尋常ではままならない、朝廷というこの世の獄。
 金烏としてそこで戦い抜く力を得るために、雪哉の家柄と血筋と実力を求めた若宮の冷徹を、飲み干せるほど大人ではない青年が、忠義の二つの顔を見つめて道を選ぶ回である。
 使いでのある道具なら上等と、君臣の間にある深い溝を当たり前の前提として飲み干せてしまう路近。
 血筋が野望を阻む現実に、忠義の皮をかぶせて噛み砕こうとした敦房。
 他人を道具として扱う組織的エゴイズムに支えられた世界で、己個人の幸せを軋ませながらどう生きるのかを選ぶしかない人々の、とりあえずの出発点。
 重苦しくて、良い話だった。

 

 雪哉がボンクラを演じて守りたかった幸せは、極めて小規模かつ家庭的で…つまりは幼い。
 血の繋がりはなくとも真心でもって、兄も弟も分け隔てなく愛してくれた母の思いを、雪哉は何よりも大事にしている。
 このマザーコンプレックスが、大紫の御前を差配者として南家が権勢を握り、長束を頂点に己が権勢を勝ち取る夢を見た敦房と共鳴しているのは、なかなかグロテスクな構図である。
 誰もが温かき母の胸に守られていた時代を夢見、しかし人間としてのシンプルな幸福では満足できぬまま、権力の鎧と悪意の鎖で身を縛り、不自由になっていく。
 権勢と我欲の奴隷である己を、この世で一番幸福だと思い込む。

 路近が連れ出し直面させた敦房を鏡として、忠義のエゴイスティックな顔を見せつけられた雪哉はそこに、自分を包む大きくおぞましいものを拒絶する幼さを、否応なく見つける。
 世慣れて大人びた仕草を取っていても、人が人のまま、己が己のまま、子どもが子どものまま愛される浄土をこの世に未だ夢見ていて、だからそうではない現実を強く拒絶する自分の未熟を、雪哉は今回の陰謀撃の始末に見つけていく。
 それが世の中のあらゆる人を…憎むべき”敵”にもあることを、少しは心に留めれたから、春まで判断保留で世を学び、己と主の越し方をじっくり考える決断に至ったのだと思う。

 若宮は個人としての感情や感傷を表に出さず、金烏という権力装置に相応しい冷淡を己に課している感じがあるので、彼自身がどの程度、幼い甘さを残して自分と世界を見ているのか、なかなか判別がつかない。
 これは多分意図された解りにくさで、敦房が己の野心を主の本意とすり替え、『貴方のため』という呪いでもって身勝手を正当化していた様子と、グロテスクな対応を為す。

 

 他人のことは、結局分からない。
 この分断を前提に置いた上で、それでもどうにか繋がりお互いを尊重できる重心点を探すことが、人が生きていくこと…その延長線上としての政治にあるとする、現実的理想主義。
 多分それが、エゴに肥満した敦房病の処方箋だ。

 路近はこの処方箋をしっかり体現している男で、南家に睨みを効かせる捨て石としての己、主の願いを叶えるための汚れ役の立場を、むしろ理想と力強く受け入れている。
 真実の意味では解り逢えないお互いの本意を、全部解ってもらえる甘っちょろい願いを早々に投げ捨てて、殺したり殺されたりの無惨な現実の中で、どう自分が納得できる越し方を全うできるのか、自分で選び自分で引き受ける。
 そこに真の自分を理解してもらおうという、相互理解への幼い願いは匂わない。
 解られないからこそ、解り合えたような気になれる奇跡の一瞬を抱きかかえて、血みどろの修羅場こそが居場所と己を投げ込む。
 そして路近は、それを忠義と誇らない。

 

 敦房の悍ましく、だからこそ人間の本質を深く抉っている部分は、別に長束に解ってもらおうとも、解ろうともしていない所だ。
 雪哉の幼く鋭い感性が喝破するように、彼が口走る野望は悪い夢でしかないのだが、時に悪夢が現実の別名となる世の中の不可思議を、雪哉は未だその身に浴びていない。
 相互理解が可能であろうが不可能だろうが、勝手に押し付け捻くれた願いこそが誰かにとっての真実であり、それに従って策謀がうずまき屍体が積み上がって、現実の輪郭を縁取っていく。
 重要なのは銭と血に塗れた事実であり、それを通して形成されていく現実であって、人間存在の真実などはどうでもいいことなのだ。

 この構造の怖いところは、他人と自分の中にある断絶のみならず、現実の行為者としての自分と、それを駆動させる自分の中の自分も、また容易にバラバラになりうる、ということだ。
 『自分のことは、自分が一番わかっている』などという、無邪気な自我最優先主義を極めて現実的なこのお話は、当然採用しない。
 人間の存在は家や朝廷といった社会装置、己の真意を汲んでくれない他者、心が思うまま伝わらない人の不自由に阻まれて、簡単にその在り方を見えなくする。
 私を見つめる私すらも、どんな存在であるのかはその外側の影響を受けて簡単に揺らぎ、誰かが求める己…己が求める誰かが、真実に取って代わっていく。

 

 ここら辺は仄かな恋心を殺され、婚礼の人形という自己像を破綻させた白珠と、卑しき暗殺者という、押し付けられた役割を投げ捨て飛び立った浜木綿の在り方が、面白いサンプルになっている。
 真実の自分を見つめる贅沢を許されず、イエが求める美しい花嫁であることを求められ続けた白珠が、本来なりたかった自分。
 それを誰かに理解されたり、社会の軛を引きちぎってそこへと飛び立つ、禁断的自己達成の物語をこの擬中世な世界が、殺してでも許さないことは、華やかな姫君の物語の破綻によって既に示された。
 あるがままの私をあるがまま、世界に認めさせ生き残ることが、極めて難しい山内という結界。

 そこにおいて、己が果たすべき責務として”金烏”という地位を求め、正しく行おうとする若宮の決意には、彼個人の情動があまり匂わない。
 生来そういうモノを他人に伝えにくい人物なのか、”真の金烏”と選ばれた個体はそういう特性を帯びるのか。
 どちらにしても、若宮は一人間として雪哉を求める甘っちょろい答えを、簡単には突き出さない(もしくは、突き出せない)
 ここで『お前が欲しい。心から』と甘く囁やけたのなら、人誑しの才能にも長けた現実的支配者に収まっていくわけだが、若宮は必要な嘘を必要なタイミングで突き出す方便には、あまり長けていない様子だ。
 今後も苦労しそーな誠実っぷりだなぁ…。

 

 それは毒もまた方便と、真実でも現実のみを見て、イエと己に都合よく事実を作っていく、四家の権力中枢とは真逆の在り方を、己に任じた結果なんだと思う。
 人間が人間と隣り合って生きていく、社会の一番高い場所に金烏として立つのであれば、守るべき一線がある。
 そう考えるから若宮は、幼い雪哉が求める温もりを簡単には手渡さず、ただただ自分たちの間に冷厳として存在する事実のみを、言葉にくるんで突き出していく。
 極めて誠実で実直な態度であるが、敵もたくさん作る生き方であり、今後為政者として必要な妥協を覚えていくのか、理想を抱いて溺死するのか、なかなかハラハラする。

 若宮が真実偉人であるのなら、己の内に秘めた高邁な理想で俗人を教化し、欲とエゴに曇った瞳を開けて真実に目覚めさせることも、また可能であろう。
 古来聖人君子というのはそういう教化を成し遂げてきたし、逆算的にそれを為せることこそが君子の証と、定められても来た。
 しかし敦房の蒙昧を見るだに、山内を満たす禽獣の盲目はなかなかに深く、金烏の真意を周りの連中が真実解るには、大変な苦労が理想だ。
 なにしろ側近候補の雪哉ですら、こうしてぶつかりすれ違うのだから、権益を異とし理想も違う有象無象を説き伏せ、権勢を差し出し、あるいは武力で黙らせる政治劇の果てに、若宮の分かりにくい理想を解ってもらうのは難儀だ。

 

 垂氷郷の幸せな家族関係だけが世界の全部だった、雪哉の幼年期が終わり、より広く残酷な社会へと巣立っていくこのエピソード。
 その先に待ってる(だろう)物語は、アニメの尺では当然語りきれない。
 垂氷を出て朝廷のハラワタを覗き込んで、それで雪哉の旅が終わるわけでもなく、悪臭匂い立つ臓物を切り払ってたどり着いた場所で、また世界は新たな顔で開けていくのだろう。
 それが幸福で安全な自己探求の旅で終わらず、極めて現実的な衝突と終わりを伴いかねない危うさは、なんとか乗り切った若宮暗殺騒動の顛末からも、なんとなく感じ取れる。
 ハッピーエンドが用意されていない、シビアなリアリティの手触りが、このお話にはある。

 それが若宮や雪哉の人生と、お互いを分かりあったと思いこんでは裏切られ、掴んだはずの真実が浅薄極まりない現実に突き刺される場面を、見届けたい気持ちも結構ある。
 ホントアニメの範囲は壮大なサーガの序章であり、山内という舞台がどんだけ腐って人間的なのかを、実例を伴って教える地獄のチュートリアルなんだろうなぁ…と思う。
 ここら辺、重厚長大な原作をアニメに押し込める難しさではあって、特に小説媒介だと良くあるなぁ…と、自分的なアニオタあるあるで噛みしめる次第である。
 しかしまぁ、アニメになることで出逢えた事実もまた尊いわけで、悪いことばっかじゃないわいな、当然だが…。

 

 

 

 さてはて話が少しずれたが、作品が捉えている世界の深甚がどう画面に反映されているか、少し絵解きをする。
 アニメは視覚芸術で(も)あり、語られざる画面構成にこそ様々なメタファーが盛り込まれ、読み解きの面白さもそこにあるだろう。
 今回は極めて視覚的にそこら辺が示唆されていたように感じたので、自分なりの解釈を開陳しておく。

 

 

 

画像は”烏は主を選ばない”第11話より引用

 自分を家柄の道具にする、若宮のエゴイズムを雪哉が糾弾する時、若宮は池にかかった橋の上、雪哉はその先にある地面に足をおいている。
 橋は岸と岸の間にかかり、人の身では沈むばかりの危険な水の上にかかる、危うい境界である。
 敦房という鏡を通して、忠義のエゴイスティックな本質(あるいは一つの事実)を目にする前、雪哉は橋に踏み出して若宮の近くに寄ること、彼が見ている危うい波紋を共に見ることが出来ない。

 雪哉が足を置いている、あるがままの自分をあるがまま受け止めてもらえる幼い場所。
 生まれついて”真の金烏”という装置であることを求められ、血縁とすら表立って情を繋げられない若宮にとって、それは橋向こうの遠い場所だ。
 そこに身を置いてみたいのか、一個人としての甘っちょろい真実をぶちまけてみたいのか。
 思いを顕にすれば、それは自分を殺す弱さを晒す立場に彼はずっと居続けて、水面を見つめ続けている。

 私情を顕にしない/出来ない遠い境界の果てに若宮を感じつつ、雪哉もまたそこに近寄ることはない。
 主君は君臣の抱える人間としての情を知らず、配下は主が背負った権力の重荷と危うさを知ろうとしない。
 この分断に、既に橋を渡って幼い我を捨てた路近がひょいと近づき、雪哉を攫っていく。
 彼は人間を道具にすることでしか理想を果たせない橋の上の景色も、己を理解されぬまま道具にされて苦しむ地上の景色も、両方を見ている。
 見た上で、長束の隣で橋からの景色を見届ける腹を固めている。
 そういう人間にしか、主と臣の、大人と子ども、理想と現実のの橋渡しは難しいのだろう。

 

 

 

 

画像は”烏は主を選ばない”第11話より引用

 主君殺しの大罪人である敦房は、縛にかけられつつも獄に閉じ込められず、格子のないフラットな状況で雪哉と顔を合わせる。
 そこに、若宮とのあいだにあった境界はない。
 罪人のほうが高貴な主よりも、今の雪哉の方が親しいのだ。
 そこで顕にされる、忠義に飾られたエゴイズム…境界を超えて勝手に解ったことになり、自分の願いと他人の願いを取り違える危うさは、雪哉の歪んだ鏡だ。
 自分の中にもこんな、悪夢から滑り出した醜悪な怪物がいることを(おそらく無自覚に)理解したからこそ、雪哉はおののき、戸を叩いて大人の助けを求める。
 その感触を飲み下すには、まだまだ時間もかかるだろう。

 

 敦房は雪哉を前に、何もかも解っていたとうそぶく。
 解った上で、主も理解していない本当の願いを叶える本当の忠義を、境目を越えて差し出したのだと。
 しかし彼は、本当に解っていたのだろうか?

 長束の真意を(たとえば路近のように)真実理解していたのなら、もっと別のアプローチがあったはずで、しかし若宮暗殺という道に踏み出したのは、触れれず動かず変えられない他人の気持ちよりも、家柄の檻を憎み我欲に燃える己の心のほうが、全く与し易い夢だったからではないか。
 真実境界を越えて、たどり着きえない誰かの真実に近づく難行を、己に課してこその忠義という、峻厳な理念で己を律し、生き続ける苦行。

 そこに身を投じるよりも、誰よりも主を解っていて、主にも解ってもらえるという越境の夢に浸ったほうが、全くもって楽である。
 根本的に越えられない溝を、諦めず橋をかけつづけるという、けして報われぬ人間としての尽力。
 これに耐えきれず、思いが報われて欲しいと狂う様子はどこか恋にも似ていて、なるほど女の子サイドが婚礼儀式を大きなテーマとするわけだ…と思った。
 地位、認識、権力、夢。
 根本的に分かり合えぬまま、人間と社会を形成する様々な壁に阻まれてなお、それでも分り合いと願い分かろうと務める、永遠に続くシジフォスの苦行。
 これを飲み干す度量が、果たして大人びた風で己を守る子烏にあるのか?

 

 

 

 

画像は”烏は主を選ばない”第11話より引用

 敦房との対面後、若宮は高い場所と低い場所を繋ぐ階段を、雪哉と共に降りていく。
 境界を越えていく行為が二人の距離を縮め、雪哉は若宮が身を置く橋の上ではなく、自分がかつて身を置いた岸辺に若宮を引き寄せる形で、共に波紋に満ちた池を見つめる。
 首切りの刃のように危うく、数多の狂気が当然闊歩する朝廷の闇に、若宮は生まれた時から身を置いていた。
 この視界を共有する時、長束も澄尾も縁を乗り越えて同じ庭には立たず、境界線の向こう側には主従二人きりの空間が広がっている。
 そこが極めて精神的・社会的な舞台であることは、冴えたレイアウトを通じて鮮明だろう。

 もし物語が万全な結末を期するのであれば、雪哉は若宮が最初身を置いていた橋の上に追いつき、俗世と理想、若さと老練、夢と現実の境目で揺れる危うい場所を、身近に共有しているだろう。
 しかし描写は、若宮が雪哉の側による形で積み上げられ、若宮の真意は雪哉にも僕らにも、誠実に明かされない。
 解らないものは解らないし、越えられないものは越えられないのだ。
 その上で近くに行って、相手が見ている景色を見ようとする努力は出来る。
 あるいは悍ましく目を背けたくなる己の鏡の前に放り投げられて、”忠”なるものの本質(の欠片)を見せつけられたショックで、見えてた世界が移り変わることもあろう。

 『それでいいし、そういうことしか出来ないだろう』という納得はあるし、あくまで現実的であって真実的ではないこの擬似越境が、誠実にこの主従の未来に未だ残響する危うさを、切り取っているようにも思えた。
 どーもアニメは1クールできっちり収まる満足感をしっかり醸造しつつ、境目をどうやっても越えきれない無常の危うさを雪哉と若宮に残している感じがあって、その手つきが誠実で好きだ。
 どこまで行っても判断保留、唯一絶対の真実などにはたどり着きえない、永劫の迷い人達の歩み。
 それを描くのならば、確かに華やかな救いは遥か彼方、極めて微かにしか見えやしないのだろう。

 

 

 

 

画像は”烏は主を選ばない”第11話より引用

 つまりは王子が花嫁を選ぶ、世に最も華やかな物語もまた、一般的な形では終わり得ない…ということでもあって。
 あっという間に過ぎ去る一年(紅葉と雪に覆われる桜花宮の鳥瞰でそれを表現する演出、マジ良かった)の黙考を経て、若宮の隣を己の居場所と定めたから、雪哉も側近の立場で、堂々の御成を告げる。
 墨染めの衣は烏の本文、豪奢な飾りを脱ぎ捨てた僧形にもにた、あるがままの真実の担い手である。
 ここにおいてもまた、若宮派極めて危うい境界の上に立つ。
 いつ落ちるとも知らぬ手すりの上、横に並び立つもののない孤独な場所。
 それは権勢の危うさ、我欲の醜悪を知るからこそ、金烏の玉座と見定めた足場だ。
 (ここに並び立たないまでも近い高みに己を引き上げている真穂の薄と、何も解らぬ乙女の顔で地べたに座ったままのあせびの対比が、彼女らの未来と真相を既に暗示している感じもあって、そういう意味でも良いカットだ)

 朝廷はたやすく人の正気を奪う迷妄の渦であり、その頂点たる金烏の玉座もまた、半歩ずれれば地獄へさかしま、極めて危うい不安定。
 若宮がこの認識をもって権力闘争を泳ぎ、花嫁選びの儀礼に向き合っていることも解る表現で、凄く良かった。
 姫君たちが甘く夢見た、絶対権力者が己を選んでくれる幸せを、多分これから若宮はぶち壊す。
 男の子たちの物語が並走して描かれていなかったら、物語の内側に描かれたものをぶち壊す無作法な越境とキレてただろうけども、既に禁裏の外側にどんな地獄が広がっているかは、山盛り描かれている。
 否。
 その地獄は、桜花宮の華やかな風の中にこそ確かに、悍ましく抱卵されていたのだ。

 さぁ、化物が孵化し、羽化し、稚鳴きの声を上げる時が来る。
 あるいは怪物は既に素知らぬ顔で、華やかな衣をまとって毒を撒き散らしていたのだと、見た目には美しい事実の奥の真実を、えぐり出す瞬間が。
 数多積み重なった嘘と裏切りと死体の奥に、一体誰が居たのか…真実と虚偽の境界線に立つ王が暴くだろう。
 ずっとその時を待って、毒入りの砂糖菓子を食ってきた。
 せいぜいド派手に、残酷に夢を終わらせて欲しい。

 

 雪哉が衝撃的ながらも誠実に、敦房という鏡でもって己の幼年期を終わらせられたのとは、多分毛色の違う破綻が、次回描かれるのだと思う。
 その対比を描くために、二軸の物語を並走してきたんじゃないかという読み…あるいは期待が、このアニメの語り口が好きな自分にはある。
 それを確かめ見届ける意味でも、次回も大変に楽しみだ。