20話に渡るアニメがたいそう面白かったので、原作に手を出すことにした。
放送時は極力入ってくる情報を絞り、眼の前のアニメと向き合う楽しさを大事に視聴していたので知らなかったが、この第一巻は松本清張賞を史上最年少で受賞した、和風ファンタジーミステリ……ということになるらしい。
なるほどな、と思った。
一貫丸々使い切って、最後のどんでん返しに視聴者を飲み込むミステリの冴えは、そもそもそういうジャンルで”勝つ”ことを念頭に入れて執筆されればこそ、強烈な鋭さを見せたのだろう。
アニメにおいては続刊である”烏は主を選ばない”と並走して描かれていた物語は、小説においては単行本一つ、桜花宮に集った姫君たちに限定されて展開していく。
そこでは主家たる四家政争の道具として、意志と尊厳を持つべき女性が扱われ、ドロドロの権力闘争を繰り広げることは当然の前程である。
桜花宮の外側に、それを当然としない世界……あるいは女たちを道具に貶める上部構造があることを、王朝文学の華麗な薫香を宿した華やかな文体は、見事に覆い隠す。
「これは可哀想で健気なあせびを主役とした、平安シンデレラストーリーなのだ」という思い込みが、華やかな着物、そこに焚きしめられた香の香り、季節の移ろいと咲き乱れる花々の描写から、自然創られていく。
その認識こそが、桜花宮という巨大な密室を作り、イカれた異常事態を異常と思わせない奇妙な共犯関係を、作品と読者の間に生み出す。
350ページ超の単行本それ自体が、巧妙に認識を操作されたことで成立する一つの密室として、野心的かつ華麗なミステリを生み出すのだ。
密室であるからには探偵がそこを暴き、乱された秩序を回復するのがセオリーとなる。
女を道具扱いし過酷な運命に巻き込む、苛烈な政争にまけず、一個人として微かな尊厳を涙ながら、女同士で紡いできた物語の奥に、精算で無邪気な殺人がある事実を、今まで欠片も姿を見せなかった若宮は探偵役として、冷厳と暴く。
家のため涙ながら、己を殺して婚礼儀式に協力する女たちが、抗えない当然と思い込んでいる巨大なシステムの残酷さを、改めて明瞭に……王朝文学の豊かな美しさに包み込むことなく突き出し、憎まれ役を買って出る。
その奥にどんな真意があり、若宮とはどういう人間なのか、というミステリは、続刊に長く続いていく大きな疑念であり、彼の本性を慮りながら自分を探していく、雪哉の物語が追うべき謎だ。
いかにもあせびが主役と思えた……そうなるように様々な物語的フレームを精妙に駆使し、読み手の認識を誘導した作品は、最後の最後で唐突に、探偵役としてやってきて女たちの健気な努力をぶっ壊した、空気読まない王子様こそがこの物語の中心にあることを告げる。
それはこの物語において唯一の舞台となった、桜花宮の外側に物語が広がっている事実を、そこを舞台とする続刊に繋いで暴いていくという、語りによる密室の崩壊だ。
女かくあるべしと、王子の到来を待ちわび衣だ花だ自分の気持ちだに視線(あるいは描写)を固定され、狭い場所に縛り付けられてきた物語が、より公平で容赦のないものによって解体され、外部と接続する瞬間に感じる、ぞわりとした不快感。
せっかく気持ちよく、狭く美しく暖かい場所に浸っていたのに、わざわざ外界へと引っ張り出して事実を突きつける行為への抵抗感。
それは母の胎内でまどろんでいた赤子が、望んでいないのにその外側へと排出され、苦難に満ちた人生を強制的に開始させられてしまう感覚に、少し似ている。
どれだけ甘い夢の中に微睡んでいたくても、世界は極めて残酷な事実を突きつけてゆりかごの外側にこそあるし、そこに目覚めていかなければ、殻の中で人は生まれず死んでいくだけだ。
この閉鎖した悦楽は、末世に追い込まれつつその事実に気づけぬまま、我欲に呪われた政争に明け暮れる八咫烏たちの楽園……山内という舞台そのものが、溺れている夢にも思える。
真の金烏が改革し、新たな時代を生き延びる……あるいはそこへと生まれ出していくため作り変えようとしている、旧弊と差別と権益に腐りきった八咫烏の世界が、どれだけの不快感と抵抗に満ちているかを、名探偵が桜花宮という密室を暴き、これまで読者が浸っていた王朝幻想から強制的に冷めさせられるときの衝撃は、しっかりと教える。
その手応えは今後、おぞましきエゴに周囲を巻き込みなお罰せられない、ただ一人心底幸せなあせびを置き去りに進んでいく、若宮と山内の物語において、かなり大事なものになっていくのだろう。
なにしろ僕はアニメには定かに描かれぬ……しかし確かにヤバさの臭いがプンプンする、山内の詰んでる末世っぷり、それを改革しようとする若宮の孤立がどこに転がっていくのか、知りたくてこの原作を手に取ったのだから。
桜花宮の真実を暴き、その外側へと物語全体を導いても、あせびが家名を悪用して好き勝手絶頂ぶっこいた、腐りきった権力構造は何も変わらない。
若宮が(若宮だけが)見据える山内全体の危機は、単行本一つ濃厚に美麗に満たした、華麗なる残酷をよくある些事として、より大きなものへと拡大され、開放されていくだろう。
しかし快刀乱麻を断つ山内改革だけが、作品全体を牽引する”解答”ではないからこそ、このシリーズ第一巻は極めて細緻な筆先でもって、女たちを婚姻の檻に閉じ込める桜花宮の空気を、丁寧に摘んだのだと感じた。
ここに刻まれているものはこれから物語が挑み、おそらくは死にものぐるいの抵抗と、悪辣を極める謀略でもって抵抗される、山内の現実そのものの反射だ。
これくらい華麗で、醜悪で、堅牢なものに八咫烏全てが囚われ、出口のない認識の密室に捕らわれて、大局を見ぬまま我欲に流され、ともすれば世界全部を巻き込んで、「ただ幸せになりたかっただけ」と呟きながら、多くの人が最悪の不幸に飲まれていくだろう。
あせびが、この物語でそうしたように。
だからこの鮮烈な第一巻は、華やかな語り口と舞台建て全てを活用(あるいは悪用)して読者を桜花の密室に引き込み、それが破綻していくカタルシスによってより大きな物語へと漕ぎ出していく、否定されるべき踏み台であると同時に。
全ての物語がここで描かれたような、粘ついた感情と華やかな夢と、差別と無知に支えられた残酷な豪華絢爛と、そこに微かに燃える人の尊さに帰還するべき、物語の出発点でもあるのだろう。
”烏は主を選ばない”と並走する中、探偵役である若宮の人となりも、桜花宮の外側にある(そして密接につながっている)政治の世界、男の世界の存在も、既に知った状態で体験するのとはまた違った、一冊の単行本の中だけに成立する凶悪な密室。
それを心底味わえる贅沢は、おそらく10年前この物語と不意打ちに出会い、新進気鋭の才能の芽生えと、この先に続いていく物語の全容を何も知らぬまま、壮絶に世界が暴かれていく快楽に浸ることが出来た、幸運な読者だけなのだと思う。
とはいえ、いろいろノイズの入った純粋とはいえぬ読書でも、その戦慄の一欠片は十分以上に味わえた。(あるいは適切な構成によって、自分の中にエミュレート出来た)
それは僕をこの小説に導いたアニメと同じく、あるいはそれ以上に鮮烈で、巧妙で、残酷な体験だ。
主役を変え、山内という社会の解像度が上がり、おそらくは新たに幾度も、物語が進むごとに認識の密室を破壊するだろう物語が、どのような視線と鋭さで、この人間の業を煮詰めた山中異界を掘り下げていくのか。
此処から先の読書が、とても楽しみである。