イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

『空棺の烏(阿部智里、文集文庫)』感想

 八咫烏シリーズ第4作目、今度は学園モノだッ!
 ……っていうのは半分くらい煙幕で、とうに学生クラスの立場にいない雪哉が陸軍士官学校テイスト漂う親衛隊養成所に潜り込み、獅子身中の虫をひねり倒しつつ味方を増やす陰謀の真ん中に立ち、三年で形が整ったと思ったら再度”猿”との接触があり、タイトル通り”空棺の烏”が山内に戻り、真の金烏以外には乗り越えられない一大事が本格化していく……という塩梅。
 ここまで雪哉が進んできた道を思えば、素直に学校でお勉強となるはずもないわけだが、茂丸を筆頭に地位も立場も関係なく、人間としての絆を学舎に育める相手との出会いが、彼が抱えた軋みを可視化していた。

 怪物にならなければ、怪物と戦えない。
 自分の血筋を利用とする外野の陰謀から、父が守ってくれなかった経験によって、雪哉は無邪気な子どもでいられる時代を早々に剥奪され、守るべきもののためにうつけを装い、悪辣さを演じ、取り繕った笑顔の奥に柔らかな本音を隠す、人生の迷子になってしまっている。
 この本質を一発で見抜き、何事も苛烈にやりすぎる雪哉のブレーキ役、外付け良心装置を担当していた茂丸は、非常に素朴な好感を寄せたくなるキャラであり、だからこそ早々に死ぬだろうな……という予感が強い。
 彼が生きてしまっていると、雪哉は苛烈さと純粋さ、理想と現実のバランスを上手くとった”正しい”存在になれてしまうわけで、こっから山内と彼個人の物語を大きく揺さぶるためには、茂丸の真っ直ぐなバランスの良さはぜひとも書いておく必要があり、そして残酷に奪うべき美しい夢なのだろう。
 ”銀英伝”におけるキルヒアイスだな……。

 

 貴族の食い詰めもの、あるいは悲惨な状況を強いられている平民階級がなんとか社会階層を登り、金烏近衛として社会に位置を占めるほぼ唯一の手段として、勁草院はかなり”近代的”な施設である。
 血筋と家柄だけが出世の全てとなる朝廷の古臭い近世っぷりに比べると、一応とは言え全階級に門戸を開き、流動性が少ない社会の数少ない窓になっている勁草院の存在は、やっぱ近代日本における軍隊に近いものがあると思う。
 ここに身を置くことで、朝廷という密室(ここに視聴者をいざない、同時にそこで描かれているものに視線を固定させて進んだのが第二作目であろう)の外側に広がっている、庶民の山内も見えてくる。

 それは極めて理不尽な差別に満ち、ありふれた悲惨に満ちている。
 桜花宮の姫君たちが一生知ることのない、階級差別とダイレクトな暴力に満ちた山内の現実。
 前回長束の理解がどうしても及ばなかった、初音を”怪物”にしてしまった世間の厳しさが、平民出身の茂丸や千早が物語の真ん中に出張ってくることで、より親身に際立ってくる。

 

 我が世の春を堪能しつつ、それに満足せず他人を陥れてより高い地位を目指す、貴族という名の怪物たち。
 彼らが気にもしない悲劇と犠牲で山内は満ちており、これに報いる必要性を権力者階級は全く感じていない。
 時の流れに取り残された山中異界に、歪な形で保存されてしまった中世の最悪な部分が、大変いい感じに濃く煮出されていて、今後いい感じに生きそうだなぁ……と感じた。
 若宮が守りたいと願う八咫烏の中には、貴族……どころか郷長程度の権力でも人間扱いされない平民たちも当然含まれ、しかし山内の命運を差配できる貴族たちの視界に、彼らの苦境は入らない。
 最も身近な協力者であるはずの長束ですら、初音を”怪物”にしてしまった世間の泥濘が何処から生まれ、何処へと流れていくかを、自分ごとに引き寄せてみようとはしない。

 ここらへんの貴族のスタンダードから離れ、階級のサラダボウルである勁草院に身を寄せたからこそ、平民の中に確かにある人間性に目を向けれたのが明留であり、貴族社会のスタンダードに溺れて、超改革派である雪哉と路近が長束派をあぶり出し切り捨てる餌にされたのが公近……という構図なのだろう。
 階級に関係なく友誼を結び、山内の危機に金烏をもり立て貴賤一丸となって取り組もうとする明留の方が少数派であり、差別意識バリバリの化石みてーな人権意識を結界内部に閉じ込め、腐らせた山内の現状においては、搾取と差別こそがスタンダード。
 勁草院の日々を画材に、そういう山内の現状をしっかり描くことで、金烏による中央集権改革を志す若宮に反発する連中がどんだけ根深いのか、改めて示す巻でもあったなと想う。
 雪哉の学友となった連中は皆気持ちの良い奴らばかりだが、彼らが凄くレアリティの高い希少人材だからこそ、雪哉は今更学ぶものもない勁草院に身を寄せて関係を深める必要があったわけで、頼れる側近で固めたサークルから外れた大多数と向き合う時、若宮の権力基盤はかなり脆弱だ。
 ここをしっかり固めるべく、清濁併せ呑める腹積もりが若宮と長束には足りてないし、複雑怪奇に絡み合う業と感情の網を正しく解きほぐすには、雪哉には身内認定しなかった相手への態度が苛烈すぎる。
 今回勁草院の教師連中に見せた、相手の事情を一切斟酌せず正論で殴りつけるやり口はむちゃくちゃ敵を作るだろうし、これを補える体温ある正しさを茂丸が持っているわけだが……補えちゃうからこそ奪うよなぁ……(最悪を予測しておくことで、お気に入りキャラが酷い死に方したとしても潰れない姿勢を取るオタク防災の知恵)

 

 公論に訴えかけ世相を変えていく政治の王道を、若宮サイドが取りにくいのはその行動の根本が、金烏の霊力と太古の記憶という、極めて個人的で代返不可能な能力に紐づいているのが大きい。
 今回白烏による代替わり承認が、『記憶の不全』という要因で阻まれたのは自分の中ではかなり納得できて、今まで空疎なお飾りか腐敗した現世利益追求機関かと勝手に思っていた明鏡院が、神代と現実をほそぼそながら必死に繋いできた、誠実な存在であると納得もできた。
 神の力を現世に繋げ、いざ神人の特別な力を借りなければ乗り越えられない一大事が起きた時、社会全体がそれに従いうるように影響力を行使する。
 そんな明鏡院の使命に忠実だからこそ、白烏は過去との繋がりがあやふやな若宮を、真の金烏として承認できなかった。
 そこには四家の思惑も現実の政治もなく、むしろ若宮が向き合おうとしている金烏としての公平で困難な定めに、別の角度から向き合う姿勢だけがあるのだ。

 同時に皇位禅譲にまつわるゴタゴタは山内の根本に関わる”秘”であり、家の権勢がどーだ平民踏みつけにしての贅沢三昧がどーだ、俗欲にまみれて生きてるボンクラ共にその内実は知る由もない。
 知ったところで理解できない救えなさも幾度か描かれているし、これをボケの多数派にも分かる形に翻訳し、救国の大志をしっかり共有して山内一丸となって運命を変えていくのは、極めて難儀である。
 おまけに伝えるべき若宮のヴィジョンは論理を超越した直感、あるいは真実が不鮮明でぼやけた記憶という、社会全体に拡大していく大きなヴィジョンにはなり得ない領域にとどまり続ける。

 

 山内を救うという、間違いなく正しい理想を現実にするための支援者を得るのが、めちゃくちゃ難しい現実を描くのも、今巻の狙いの一つだったのかなぁ、と思う。
 しがらみに囚われ主君弑逆の片棒をかつぐにまで至った山内衆が、そこまで堕ちるには(あせびや敦房や初音のように)色んな事情があり、「幸せになりたい」という万人共通の願いがあり、それを決定的に間違えて何かを腐らせてしまう人の業がある。
 そしてそのどうしようなさを、理解するより切り捨てることで自分の望むものを守ろうとする生き方を、雪哉は人生の相当早い段階で選んでしまった。
 「世の中そんなもんで、そうするしか生きる術はない」と早々に判断出来てしまえるくらい、彼の頭が飛び抜けてよかったことが一つの不幸であり、ここらへんは何も焦らず眼の前のもの全部を見た上で、何も諦めず自分の声で為すべきことを語れる、茂丸の生き方と好対照を為している。
 今後雪哉が、茂丸の持つ下からの視線の広さを自分のものにし、情と理を兼ね備えた徳治の為政者になっていけるかが、山内全体の運命を左右しそうだが……どーも明るくない印象だぜ……。

 昨日と変わらぬ今日、今日と変わらぬ明日が永遠に続くと思い、他人の足を引っ張ったり誰かを支えたり、当たり前な人間の悲喜こもごもに忙しい八咫烏たち。
 彼らが人形を成して、そういう”人間らしい”ままごとに興じられているのは山内という特別な場所があればこそで、しかしその存在は”猿”と山神の神秘に不安定に支えられていて、激しく揺らぎつつある。
 境界の向こう側に不知火を揺らす人間の世界も、描写を拾っていくとかなり現代的であり、つまり喋る猿だの烏だの、山の中の隠れ里だのを日常の隣においていく時代は、とうに過ぎている……ということだ。
 そういう情勢ならば、当然山内の結界は揺らぎ神域も消えていくし、かつて神聖な存在だった獣も人食いの悪習に身を染めて、言葉を解さぬ怪物に落ちてもいくだろう。
 ”子猿”と若宮の接触を読んでいると、ここら辺の結界外の事情がおぼろげながら見えてきて、「ノンキに古臭い政治ゲームやってる場合じゃないよなぁ……」という危機感も強くなる。

 

 だが天が砕け地が揺るがされるまで、日常が壊れる危うさに気づかないのが人間というものであり、あるいはそうなってなお、ずっと続くはずだった差別と陰謀の日々に固執する、それで”幸せ”であるどうにもならなさこそが、八咫烏が一番うまく”人間”を真似ている部分なのかも知れない。
 『黒船襲来によって揺るがされることがないまま、長い太平の中平安時代の社会構造・技術レベルで腐敗していった鎖国日本』として山内を見ると、勁草院の終わりっぷりに腹を据えかね、ド派手な外科手術を敢行した雪哉の気持ちも、少し分かる。
 しかしそのドラスティックな苛烈さが、どういう危うさを持っているかも描かれていて、ここら辺の匂いをアニメは先取りする形で、雪哉の描写に取り入れていたのかなぁ、などとも感じる。

 というか勁草院での日々を通じて、使えるべき主ではなく対等な友と触れ合う雪哉が描かれたことで、苛烈な怪物になることで怪物から大事なものを守ろうとした雪哉自身の、危うさと寂しさが強く臭った感じもある。
 どれだけ卓越した頭脳と、旧弊にしがみつく反対勢力を気にかけない強さを持っているとしても、雪哉も若者であり人間だ。
 そういうモノを置き去りにして突き進んできた日々の一部、使えるコマを集め獅子身中の虫を下す実務を冷徹にこなしながらも、確かに人としての情は色濃く友との絆を育み、改革へ突き進むのならばそれに流されるわけにもいかない。
 その軋みを受け止めてくれる唯一の存在として、茂丸の人徳は大変デカい。

 雪哉もまた雪哉なり「幸せになりたい」と思っていて、しかしそれで何を踏みつけにするのか見えてしまう、ある種の視力の良さがある。
 これが麻痺すると人間どんな事も出来るようになって、あせびや敦房や初音の人非人な振る舞いは、他者への共感性を麻痺させた(あるいは生来持ち合わせていなかった)結果ではあろう。
 為すべき大義のためにそこら辺の柔らかさを黙らせれる強さは、手前一人が見定めた勝手な真実のために多くの人を犠牲に出来る、傲慢なる冷徹と裏表だ。
 新進気鋭の青年参謀として、金烏集権体制へと移り変わっていく山内の中で、雪哉が振るうことができる権力もどんどん拡大していく。
 それが踏みつけにするものの中には、千早や茂丸が背負った泥臭くありふれた地獄が沢山あって、そういうものと向き合いながら日々を過ごしている生命で、山内は満ちている。

 

 そういう世界のあり方を学べる場所で、雪哉は一足先に大人顔負けの知恵と冷酷を手に入れて、学生でいることよりもそこを利用して、自分の理想を叶える方を選んだ。
 この自己完結した成熟が、今後より過酷さを増すだろう山内をどう巻き込み、どう変わっていくのか。
 あるいは何も変われないまま、行くべきところまで行くのか。

 終わってみると学ぶところのない学舎への寄り道に見えて、色んなモノが描かれた巻だった。
 作品全体を支え、また揺るがす基盤として、オカルト・ファンタジーとしての山内の成立過程、山神や”猿”と八咫烏の関係が分厚く存在している事実も……そこを若宮が想像以上に、なんも解っていない現実も、改めて見えてきた。
 根本的に神話的レイヤーで成り立っている場所なのに、神を蔑ろに人間の欲で世界を回す中世レベルに結界内部の社会が進んじゃって、おかげで世界の根源を揺るがす神秘的災害に見舞われたときに、複雑怪奇に勝手に生きてる八咫烏たちがバラバラのまま、それに対応できない。
 時代の流れと歪な実相がかなりヤバいい衝突をしかけているのに、霊能力者としても政府指導者としても唯一絶対の立場にある若宮が、適切な影響力を行使できない。
 「かなり詰んどるなぁ……」というのが正直な感想であるが、さてはてどうなっていくのか。
 次回も楽しみである。