イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

ぷにるはかわいいスライム:第1話『I HATE YOU and I LOVE YOU』感想ツイートまとめ

 ぷにるはかわいいスライム 第1話を見る。

 本誌からスピンオフした成人向けWeb連載媒体”週刊コロコロ”から飛び出した、コロコロ初の日常ラブコメが、遂にアニメ化。
 生まれからして結構大人狙いな作品なのだが、誇りある児童誌作家魂を全力で燃やし、思春期とホビー、被造物と人間、大人と子ども、スキとキライの境界線をガンガンに攻めるSFジュブナイルブコメディとして、常に明るく楽しく本気な本作。
 アニメになってもそのマインドは全開であり、可愛さと面白さと真面目さが、ベストなバランスで配合され自由自在に形を変え、いい感じに暴れまわっていた。
 当方原作大好き人間、色も動きも声も音楽も大満足のハッピーアニメ化です!

 

 

 

画像は”ぷにるはかわいいスライム”第1話より引用

 本誌ど真ん中の小学生ではなく、純朴な子ども時代から少し距離をおいた中学ニ年生を主役とするこの物語。
 コタローは女の子の形になったぷにると同衾するのを恥ずかしがり、微かにピンクな妄想に身悶えし、誰かを好きになる感情を理解し始めた、極めてスタンダードな思春期少年である。
 それは人間として”自然”な成長であり、奇跡によってスライム・ホビーに生命が宿ったぷにるには、理解も追従も叶わない変化でもある。
 社会に属する全ての人間が押し付けられ、自分のものとして引き受け、取り込みきれず思い悩む、不可視で不定形の”べき”という檻から、成長せず人間でもないぷにるは自由だ。

 子どもが求めてやまない、僕だけの特別なトモダチが、もう必要なくなった…と、社会が勝手に判断する季節になお、続いている幼年期の夢。
 恋や性に”自然”と色付けられながら、だんだんあるべき形を変えていく不定形な(はずでいて、社会や自意識の圧力によって極めて不自由に形を固定される)思春期において、ペンギンだったぷにるは女の子の形を得て、しかしそのおっぱいはスパンと切り離して他人に分け与えられる、身体性と固有性から自由な”ホビー”でしかない。
 女の形をただただ『かわいいから』で選んでいながら、ぷにるの本性は常に自由自在な不定形であり、その本質は(中学に年生として極めて健全に、異性に発情するクラスメイトが生み出し/縛られるような)生物的本能にはない。
 ホビーは成長もしないし、性徴もしない。
 しかし変化は出来る。
 ときに、人より自在に。

 

 ホネちゃん達が極めて自然に、発情するべき魅力的な異性としてぷにるを認識/受容するのに対し、ぷにるを生み出し共に長い時間を過ごしたコタローは、スライムと女、被造物と意思を持った他者の中間地点で、どこへ進むべきか立ちすくむ。
 「コイツはこういうヤツ」と割り切って態度を決めれる、相手を良く知らないからこその思い切りの良さは、ぷにるの生誕から現在までずっと一緒にいて、ホビーであり非生物であり無性存在である(はずの)ぷにるのをよく知るコタローには縁遠い。
 コタローがコタローであることと、ぷにるが一緒にいることはあまりに長く、深く繋がり続けて、そうそう簡単に名前をつけれない不定形の関係になっている。

 コタローは女の子の形を得たぷにるが女の子ではないこと、そのおっぱいがホウ酸と洗濯のりを練って固めた不自然な偽物であることを、間近に良く知っている。
 しかしその形はずっと一緒だったはずのトモダチを、意識するべき異性として認識させ、関係を少しギクシャクさせる。
 ”本物”の女であるきらら先輩に甘酸っぱい初恋を捧げつつ、いつも間近にいるぷにるに「可愛い」と告げるのはためらってしまう、幼馴染ヒロインとのラブコメ定型。
 そんな要素を確かに含みつつも、コタローとぷにるの距離感にはもうちょい多彩な要素が含まれ、その関係性には簡単に名前がつけられない。
 その不鮮明な不定形を、可愛く自由にぷにるは翔ぶ。

 

中学生になったら、スライム遊びはしないもの。
 素敵な異性を好きになって、良く解ってないけど「大人っぽさ」をかっこよく体現して、社会が定める通りの形に自分を整形していくべき。
 もはや子どもではない世の中学二年生が多くそうであるように、コタローは多くの”べき”を正しく自分に引き受けて己を縛り、それによって自分の形を定めていく季節にいる。
 それは当たり前に見えて結構強い抑圧で、”べき”から外れるホビー好きな自分、恋が良く分からない自分、大人の形が見えない自分が、コタローの中に閉じ込められている。
 その隣で、ぷにるはとにかく自由で奔放だ。
 教室の異物として、自在に形を変えかわいく在り続ける

 ハイテンションなギャグとツッコミが乱舞する、明るく楽しい作風に背中を押されて、コタローは”べき”に縛られている自分、その檻の中にある不定形(スライム)な自分を、未だしっかり見れてはいない。
 世の中が押し付ける中学二年生の自然を、そのまま全部自分らしさと受け入れられるなら、ぷにるとの名前のつかない関係も、そこで摩擦され発火していく不定形の感情も、コタローの中には生まれない。

 しかし、それは確かにある。
 ならば時にシリアスに、基本かわいく楽しくコロコロらしく、ぷにると共にある日常の中でコタローは、自分がどんな存在か、そこに在るぷにると自分をどう名付けるべきか(あるいは無記名を選択するか)、ワイワイ騒がしく探っていく必要があるだろう。

 絶大なリスペクトを込めて参照されている、藤子・F・不二雄を起点とする『楽しい同居人』の物語と同じように、この物語は永遠に思えていつか終わりが来る幼年期の先に、それでもその輝きが生き続けるための道を探していく。
 もうスライム遊びをする”べき”ではない年に、ぷにるを置き去りに育ってしまったコタローが、それでもなおぷにると共に居るための道を探っていく、アフター児童誌な物語。
 そういう硬い芯をしっかり持ちつつ、メチャクチャ騒がしく楽しく可愛い外装をみっちりリッチに、たっぷり詰め込んでくれる作りが、心地よくもありがたい。
 ほんとみんな可愛いよ…。

 

 

 ペンギンの形では「かわいい」と言ってもらえなくなった、コタローの変化…コタローと自分の変化に、人間種の”自然”がなかなか理解できないなりに寄り添おうとして、ぷにるは女の子の形に自分を変えた。
 それは中学二年生の少年の隣りにあって良い、むしろある”べき”形だ。
 ここら辺、本誌連載の読み切り版から週刊コロコロへと媒体と読者層を変えた、作品全体のメタな変遷が重なっていてなかなか面白いわけだが。
 恋と性に興味を持ち始める(べき)第二次性徴期に身を置くコタローの世界で、スライムペンギンは「かわいく」なく、スライム少女は「かわいい」という判断が、確かに存在する。
 そのフレームに従って、クラスメイトはアイドルぷにるのおっぱいに発情し、目の前でスパンと切断される。

 そのコミカルな思い切りの良さは、人間の形に不自由に縛られた”ちょっとエッチなラブコメ”の檻をド派手にぶっ壊し、自由で快活な(はずの…そうあるべき)ホビー性を混ぜ込む。
 どんなモノが混ざって、どんな形になってもぷにるはぷにるであり、その自意識はつねに「かわいい」を目指す。
 恋愛とセックスという、社会に大きな価値を認められた青春のスタンダードから外れたところにだって面白さも可愛さもあって良い。
 そういう”べき”からの開放を、不定形なスライム少女が背負っていることは、普遍的な思春期の難しさに結構深く囚われてるコタローの未来にとって、やっぱ幸福な事だなと僕は感じる。

 

 そもそも人間ではないぷにるは、性差や年相応の成熟に縛られず、「かわいいボク」を徹底的に体現する。
 魔法のように形を変え、それでも揺るがない「ボクであるボク」を持ち続けるぷにるは、児童期を終えて自分と世界の距離感に思い悩んでいるコタローに比べて、青春の引力から自由だ。
 しかしその自由さは、コタローの「特別なトモダチが欲しい」という願いに応えて生命を宿し、それを満たすために在り続けているぷにるの、根本的な不自由さと癒着している。
 コタローなしでぷにるは存在できないし、そうしたいと思わない。
 「かわいいボク」は、「コタローにかわいいと言われるボク」と混ざりあって離れない。

 『それを強引に引っ剥がして、”正しく”しなくてもいいじゃないか』という優しい視線が、二人を見守り続けているところが凄く好きだ。
 それは魔法に守られた閉じた楽園を二人に用意する形ではなく、性だの愛だの”自然”だのにさんざん揺さぶられ、惨めな身悶えで笑いを生み出すコタロー等身大の悩める青春と、共に勢いよく駆け抜けていく。
 否応なく変わっていくコタローが、出会った時から変わってくれない/変われないぷにるとの関係に戸惑い、それでも一緒にいるための方法を探し、ワイワイぶつかり合いながらちょっとずつ、自分たちだけの答えを見つけていく時、コタローの不自由とぷにるの自由は等価だ。

 ぷにる以外の存在が”自然”に受け入れている性を、スパンと切り離せてしまえるぷにるの異質性を、作品世界はゲラゲラ笑いながら/笑える形に整えながら、優しく受け入れる。
 コタローあってこそボクが在る、依存というには対等で気さくなトモダチの歪さを、率直にスケッチしながら否定しない。
 ぷにるはコタローの望みを受け取って女の子になったわけではなく、自分なりコタローの変化を感じ取り、隣にいれる「かわいい」の形として、少女の姿を選び取った。
 そう出来てしまう不定形な自由さを、色んなモノに縛られる「普通の中学二年生」はなかなか得れない。

 

 そういうもんだよね、と。
 大人と子どもの真ん中に立つ存在へ、大好きだったホビーから卒業しなさいと周りに言われ、自分自身もそうある”べき”だと、女の子に夢中になったほうが”自然”だと考えがちな年頃の、世界に百億いるコタローたちの不自由と惨めさに、この物語はとても優しい。

 ワイワイ騒ぎながら自分の大事なモノ、ずっと側にいてくれたトモダチとの距離感に悩んでいいし、それを助けてくれる楽しくて優しい連中は隣に結構いるし、そんな右往左往自体がメチャクチャ楽しいんだと、ハイテンションなギャグを連打しながら告げてくれる事が、僕は凄く良いなと思う。
 アニメも原作のそういうトーンを、色使いから動きのテンポから、しっかりアニメに落とし込んでる感じで良かったです。

 

 

 

画像は”ぷにるはかわいいスライム”第1話より引用

 第2エピソードはコタローの持つ、”べき”思考と思い込みの強さが、結構顕著に出ている。
 チャラい外見に惑わされ、南波くんを恋のライバルだと思い込んでその本質を見ないのも、自分で閉ざした教室の奥でぷにるがエッチな目にあっていると思い込むのも、肥大化した思春期の自我が、あるがままの真実を見る目を塞ぐからだ。
 そもそもきらら先輩と向き合うときにも、コタローは自分の勝手な思い込みに振り回され、身悶えして上手くコミュニケーションが出来てない。
 それぐらい、コタローを縛る鎖は硬いし、世界から押し付けられるのと同じくらい、強く、自分の中から湧き出している。

 まーコタローの脳内に巣食う、聖母としてのきらら先輩像自体が勝手な妄想でしかなく、その実態がどんだけヤベーのかは次回早速描かれる訳だが。
 ぷにるが自分と世界の本質しか見れず、それを上手く常人の世界と繋げる手段を見つけられない異物であるのに対し、コタローは極めて普通に少年らしく、世界が求めてくる”べき”を敏感に感じ取り、しかしそれと自分自身をどう繋ぎ合わせたら良いのか解らぬまま、自分に見えているモノだけで世界を埋め尽くしてしまう。
 求められる表層を作りきって、上手く思春期泳いでいける器用さがないのが、またコタローの可愛く面白いところでもあるのだが、とにかく彼は思い込みの鎖で何でも固め、封じる。

 

 恋愛対象じゃないぷにるは雑に扱っていいし、自分にとって大事なのはきらら先輩とデートすることなのだと思い込んで、教室を閉ざした黒い鎖。
 ぷにるの声を聞いて、自分の手でそれを引きちぎり、中に秘められていた真実…南波くんが生粋のコロコロボーイであり、コタローがそうある”べき”じゃないと思いこんでいた、ホビーとの幸せな繋がりを(ギャグになるくらい過剰に)持ってるキャラが見えてもくる。
 クラスメイトがドギマギしてた、女の子としてのぷにるを南波くんは全く気にしない。
 彼の視界を占めているのは、とにかく楽しいホビーとのふれあいであり、そこで高鳴る心…自分を一人にしない満たされた気持ちだけだ

 それを強く求めたからこそぷにるは生命を手に入れ、コタローとずっと一緒のトモダチになったのに、中学生になってしまったコタローはそれを遠ざけ、忘れ、思い込みで頭を塞いで狭くしつつある。
 そうする”べき”だと告げてくる、透明で強烈な不定形の枷を遠くに睨みながら、ぷにるとコタローと楽しい仲間たちの、騒々しくも楽しく可愛い日常は続いていく。
 やりすぎなくらいフリーダムなスライム少女を隣に置くことで、そうは生きられない当たり前の中学生を縛る枷の重たさを、極めてポップに、だからこそシリアスに示せているのは、このお話にある沢山の好きポイントの一つだ。
 つくづく、思春期の物語であるよ。

 

 

 

 

画像は”ぷにるはかわいいスライム”第1話より引用

 気合の入った変身バンクで、色んな「かわいい」に…あるいはエッチにぷにるが変わりうるのが、僕は好きだ。
 それは性の主体になりうる自分に戸惑いつつ、段々とそういうモノと向き合う術を探していく存在とその季節に、作品全体で間違っていないよと、告げている手触りがある。
 誰かが「ダメだよ!」と縛ってくるエッチなことへの興味とか、”べき”で押し付けてくるセックスの形とか、笑い飛ばしながら不定形に溶かして、自分なりの形を選んでも良い。
 そういうメッセージがあるから、このラブコメははいい塩梅にエッチで、しかしそれだけに縛られることから自由なんだと思う。

 命を持ったスライム・ホビーであるぷにるに、生殖は出来ない。
 思わずエッチな想像を掻き立てられる、ギャルなぷにるの可愛さはあくまで、その本質と結びつかない外装だ。
 しかしだからといって、その形に宿る可愛さが嘘ではないし、様々に姿を変えるぷにるはどんな形になっても、かわいいぷにるであり続ける。
 自分の形が持つ意味を理解せず、「コタローとずっと一緒にいたい」という祈りの本質にただ素直に、いろんな形で子ども時代のまんま抱きつき、愛を伝える。
 その純朴が、やっぱりぷにるの…それに愛されるコタロー一番のかわいさだ。
 可愛すぎるよホント…。

 

 

 

 原作から受け取ったものがあまりに多すぎて、まだまだアニメではその片鱗しか見せていないものについて、過剰に語ってしまった感じもある。
 そういう思わぬ勇み足を引き出されるトコロ含めて、大好きな作品が素敵なアニメになってくれて、大変嬉しいです。
 ありがとう伊部監督、ありがとうTOHO animation STUDIO…。

 形に縛られず自由でかわいいぷにるも、不自由で悩み多きコタローも、人間もスライムも。
 みんな最高に可愛いし、そういう連中がワイワイ過ごす日常はとにかく楽しい。
 そういうポジティブな作品の”芯”が、めっちゃ元気に弾んでいる第一話、素晴らしかったです。
 これからどんどん面白くなる物語を、どうアニメにしてくれるのか。
 期待満載で、次回を待ちます!