八咫烏シリーズ第5作・第6作であり、第一部完結編。
”玉依姫”を読了したところで、「続刊まで含めて一つの話だな……」と感じて読み進めたので、二冊まとめての感想を書く。
というか”玉依姫”が第一部フィナーレ直前にして、相当な変化球というか魔球だったので、収まりどころを見つけるためには”弥栄の烏”を見なきゃいけなかったつうのが正直なところか。
高校生時代の未発表作品をベースにしているのもあって、やや展開に急な部分、説明不足な描写が散見され、なかなか飲み干すのに手間のかかるお話だったと思う。
同時に山内の物語のエピソードゼロとして、若宮や雪哉を主役に据え結界の中に視線を留めていては描けないもの、外側に広がればこそ見えてくるものも多々あり、非常に興味深い巻だとも感じた。
話の展開に強い決定権を持っているサトと『英雄』の登場が全体的に唐突で、ただでさえ今までシリーズで慣れ親しんできた連中じゃない輩が、慣れ親しんでない場所で繰り広げる物語を、腹に落とすのをさらに難しくしている感覚があったな。
とはいえ山神とその贄巫女によって綴られる画角がないと、山内の物語を客観視し立体感を出すのが難しくなるため、雪哉を主役に据えて展開する物語でおそらく一番大事なキャラが死ぬシーンすら、有象無象の烏が死んだと描いてしまう”玉依姫”はとても大事だ。
それは雪哉が生来宿し、猿や山神を巡るこの闘争の中で決定的に自己と紐づけてしまった身内主義・郷里主義が、絶対の価値ではないことを冷酷に知らしめる。
最悪因習村に飲み込まれるまではごくごく普通に高校生やれていた志帆からすれば、重要なのは子にして夫たる山神との関係であり、自分を人の幸せに引き戻そうとする祖母との対峙だ。
”玉依姫”においては名無しのモブでしかない茂丸の死は、山内全体の幸福を実現する装置として、それを果たすにはあまりに情が深かった金烏に変わって、無常な統治の機械になることを選んだ雪哉が、唯一自分の中の子どもでいれた相手を奪ってしまう。
母や兄も、不甲斐ない父の代わりにぼんくらを演じて、非情な世間から守ってあげるべき弱者に位置づけてしまった雪哉にとって、責務と激情に駆り立てられどんどん無情の統治機関になっていく自分を、茂丸だけが人間に繋ぎ止めてくれていた。
それが壊された今、雪哉は主と真に心を通わせる関係を築く道を自分の手で塞ぎ、滅びゆく山内が最善の終りを迎えるための孤独で苛烈な度へ、たった一人進み出していくことになる。
他人と和し己を鑑みる優しさと賢さ……茂丸が見つめてくれていた自分の和御魂を投げ捨てて、冷徹にして苛烈な山内の荒御魂として滅亡に向き合う雪哉に、もはや人としての幸せは用意されていないのかなぁ……という気持ちになった。
猿との戦いの最後の最後、血を吐くような憤激と悲嘆を撒き散らす雪哉は、荒御魂と和御魂のバランスを欠いてしまった彼の的たちと、全く同じ存在に成り果ててしまう。
山神が激情のまま嵐を巻き起こし、稲妻で焼いたものは自身の力では癒やされず、志帆という外部化された和御魂によって本来あるべきバランスを(一時的でも)取り戻すことで、壊れたものを取り戻す奇跡に近づけた。
だから後悔や嘆きといった弱っちい人間らしさを打ち捨てて、弟の名前を呼びながら死んでいった猿を二度と見もせず、怒りと哀しみだけが自分の全てであり、それ故山内の生きるべき(と、彼が傲慢に凶悪に決めた)モノを守るために、雪哉は金烏が持つと期待されたオカルティックな力を全く持たず、知恵と非情さで山内を守ろうとする。
それはガキの癇癪で何もかも焼き尽くし、山内を危うくした山神と真逆の冷たさに見えて、迎えに来てくれる母妻のもはやない、寂しい未来に思える。
山神を『英雄』が殺し、和御魂と荒御魂が和合するという血なまぐさい祝祭を行うことで、”玉依姫”は一応の秩序を手に入れ、しかし名の失われた神を『椿』と名付けた女のエゴによって、神は孤独から救われて閉じた救済を得る。
雪哉も山内の荒御魂として、いつか生まれ出る己の敵対者……であり、欠けた和御魂を埋め合わせる『英雄』に殺されることで、決着に相応しい秩序を生み出す悲しい怪物になってしまった手応えが、猿との闘争での冷酷な振る舞いからは見えた。
雪哉は情を投げ捨てた鬼であることを選び、外部化された和御魂(山神にとっての志帆、あるいは『英雄』)たる茂丸を失ったことでそれを己に刻み込み、どんな犠牲も正義の名の元正当化出来る怪物に育った。
彼が一切の理解を拒んだ猿や山神に、その非情ゆえに”勝ち”、誇らしく山内と八咫烏の永遠を寿ぐその言葉は、確定してしまった滅びを覆い隠す嘘を己に強い、それでも我々八咫烏は生きるだけの意味があるのだと、運命に噛みつく荒々しさと哀しさに満ちている。
”弥栄の烏”とは、なんとも皮肉で適切なタイトルであろう。
クソガキ山神の機嫌一つで、天が避け地が割れる極めてオカルティックな山内は、しかし中央に居続けるだの、どの家が政治の主導権を握るの、人間的で近代的な内輪もめをノンキに続ける。
その人間中心主義(の擬態)は滑稽ですらあるが、100年前に過去を封じ、焚書によって真実を殺して、どうにか罪なく生き続けて良い”今”を守った存在のありようだと考えると、納得も行く。
若宮は猿や山神が告げ、自身の中に断片的に蘇る過去を自分の罪咎だと真摯に引き受け、どうにか過ちを取り戻す手段を求めて低く頭を垂れるが、雪哉はそんな主の感傷を山内が偽りの”今”を続けていくための足かせでしか無いと、冷たく切り捨てる。
今という時間、山内という場所、己に縁のある人間にきわめて狭く縛られた現実主義は、だからこそ強烈で問題解決能力が高く、悠長なことを言ってられない火急存亡の危機を実際的に救う。
あるいは、根本的解決を後回しにして時間を稼ぐ。
それは己を山内の荒御魂へと研ぎ澄ませた雪哉にしか出来ず、そうしてしまったことで彼を悲しい怪物に固定してしまう、一つの決断である。
生木の弓で結界を繕っていたときには、世界全てを救いうる特別な力をたしかに持っているのだと思えた”真の金烏”は、極めて人間的な情の深さと、あまりに不完全な神徳と、ツギハギだらけの記憶を備えた、不完全な神代の残滓だったと、今回で解る。
若宮はある種の人間宣言を強制的に果たせられたわけだが、雪哉は金烏中心の政治体制、そのオカルティックな権能によってのみ成立する山内を”弥栄”に偽るためにも、主が人ではなく神である芝居を続けるよう強いる。
全てが救われる奇跡はなく、引きちぎられた己の半分は帰ってこず、自分に手出しができない無情が世界に満ちているとしても、”今”生きているのであればそこで生き抜く。
そういう現実的なタフさは、あくまで神話的な存在である自分たちの起源を忘れ、封じ込め、それ故どん詰まりの破滅に追い込まれていった八咫烏……人間でないからこそ人間臭いイキモノの、強烈な業を照らしている。
山神を恨み結界の中で生きていく雪哉の現代主義と、山にその精神を喰われつつ己は己だと呟く玉依姫の古代回帰は、巻を割って面白い対称を為しており、その両方が複雑怪奇な人間の肖像、そのものなのだろう。
時代が不可逆に神を忘れ、人間が人間として、個人が個人として生きる方向ヘと地滑りしていく中で、神は名前を忘れ/忘れられ、怪物へと落ちていった。
外部から神がどのような存在であるかを定義する、名や祭祀の崩壊がそのまま、神の存在自体を変質させていく認識論のトリックは、最終的に山神を殺した『英雄(名前がないからこそ強い存在)』を『椿』として定義しなおし、志帆と玉依姫が望む我が子=我が夫へと塗り替えていく。
そこには静かな神殺しがあり、もはや山の意思か過去の怨念か少女の自我か区別がつかなくなった、とある女の願いが山中異界を巻き添えにしながら叶う結末が描かれている。
”玉依姫”ですげー満足気に一大心中をぶっかまし、古式ゆかしい母子相姦へと満足気に突っ走っていった椿と志帆がその物語を終えても、”弥栄の烏”たちの物語は続く。
第一部を終わらせる最終章が、若宮と浜木綿待望の我が子と雪哉が出会うシーンで終わるのは、非常に印象的だ。
どれだけ神に見放されようが、己のあり方を見失った哀れな存在だろうが、八咫烏に新しい命は生まれてしまうし、その存在自体にはなんの罪もない。
それでも新たな生命が生きていく(そこでしか生きていけない)山内には滅びが約束されていて、嘘っぱちの弥栄を繕うために、雪哉はどうあっても荒ぶれない主に変わって、誰を適切に殺すかという為政者の業を背負う、山内の荒御魂へ固定されていく。
青雲の志を若き青年君主と通わせ、故郷から飛び出した雪哉少年は気づけばそういう、どうにもならないものがゴロゴロ当たり前に転がる場所に投げ出されてしまっていて、それでもなお世界は尊い。
だからこそ非情の鬼になっていくだろう己への、哀しみと憐れみを殺す痛みも込めて、雪哉はあそこで泣いたのだと思う。
それを拭ってくれる茂丸……彼の和御魂は、もはやいないのだ。
信仰を失い変質した祭儀により、神が零落し怪物となっていく、神道的認識論を十分説得力がある形で展開できていたかは、正直疑問が残る。
そういう”現実的”なトリックから無縁であると、閉ざされた永遠のなかでシンデレラ・ロマンスやら政治的謀略劇やら、学園を舞台にしたリクルート・サスペンスやらを見せられてた心持ちに、急にカミの史実が滑り込んでくるとどうにも馴染まないというか、馴染ませるための文学的装置を十分造りきれなかった感じもある。
しかし名前や祭祀によって外部的に定義され、また記憶の中保たれる”私”のあり方こそが、異能によって保たれる古代の世界を支配し、滅ぼしもすれば蘇らせもするのだというルールは、極めて重要であろう。
どんだけ遡っても己の名前を思い出せない、若宮のアイデンティティの危うさは、この時代に生を受けた彼個人の咎ではない。
盟友を見捨てて京都からやってきた唐様の生き方に染まることにしたのも、そうして神に抱いた山神を裏切って山内を閉ざしたのも、自分たちの拠り所をかき消して閉じた楽園で生きていくことにしたのも、奈月彦という個体が選んだものではなく、そこに責任を感じる必要もない。
……とするのが、近代的自我の尊さを社会の脊髄にぶち込まれ、基本的原則として認めてしまっている僕らには、納得がしやすい。
それが世界の全てではなく、特にカミの論理が支配する古代の延長線上においては怪しいものだとするあり方を、玉依姫となった自分を間違いなく自分だと受け入れ、その個人の決断として山という装置、カミという機構に奉仕することを選んだ志帆が示してもいる。
ここら辺の自我の消失と、消えきらない個人の苦悩(と、近代的視点が定義してしまうもの)は、第一巻における白珠や、今回における真赭の薄と重なる部分でもあり、誰かが選んだあり方だけが唯一絶対正しいとはしない、残酷で多様な筆が生きている部分でもあろう。
家、あるいは山内全体。
それを存続させるための道具であることを、人間の中世的価値観をそのまま移植して結界の中腐敗冴えていった山内は(特に)女に求め、その犠牲にならない近代的自我が、可憐に颯爽と火花を散らしてもいる。
浜木綿も厳しすぎる状況に押し流され、かつて自分が否定した制度の奴隷になる生き方を真赭の薄に強要しかけたが、思慮深くそこから立ち直り、親友が選び取った決断を抱擁出来た。
極めて感動的な真赭の薄の戦いは、澄尾を蘇らせる個人的ハッピーエンドは掴めても、猿との戦争を防ぎ山内を滅びから救う、社会的ハッピーエンドにはたどり着けない。
なんもかんも解決してくれそうな物語的勢いを、決意の飛翔に力強く宿しつつ、メチャクチャシビアに雪哉の現実主義でぶん殴らせ黙らせていく展開は、とてもこのはなしらしい残酷さで良かった。
カミなる時代の価値観から遠い、我々現在の読者にとって、真赭の薄は親しみやすく見てて心地よいキャラとなり、山の意識に飲まれ己を捨て子との閉じた相姦に身を投げた志帆は、受け入れがたい不快な異物となりがちだろう。
しかし二人とも、己がどういう存在であるべきか選び取った意思……自分をどんな存在として、誰によって名付けられるべきかを選ぶ思いにおいて、優劣も差異もさほど無いのかなと感じた。
志帆がたどり着いた場所は、近代が揺るがぬ聖域として定めた自己決定の権利が、実は脆い結界の中のあやふやな不知火でしかなく、時代や立場によって大きく揺るがされる恐ろしさ(と、僕らに受け止められてしまうもの)を暴く。
カミが堕落した信仰、失われる祭司の意義、真なる名前の喪失によって怪物へと変質し、周囲を巻き込んで世界を終わらせていくように、ヒトも様々なものによって己が何者であるかという、最も重要な定義を揺すぶられ、それこそが己のあるべき形であると、決定的に定めてしまう。
そしてカミもヒトも己の中で自足出来ない、否応なく社会的な存在である以上、その揺らぎは他者へと伝播し、必ずそのあり方を変えてしまう。
何もかもが不確かな不知火の揺らぎの中にある中で、揺らがず尊いと思えるものは一体何処にあるのか。
金烏を導き全てを救うと思われていた古代の真実が暴かれ、その無力が顕になったこの物語は、彼とともに雪哉が真の忠義を貫き、心の奥底で十全に繋がった”人間的”な幸せをも遠ざけていく。
敦房がそうしたように、雪哉は主個人の願いや弱さを横にのけて、自身が果たすべきだと、怨恨に燃えて何が何でも果たしたいと願った、怨敵鏖殺の戦いを効率的に進めていく。
あの時暗い廊下の中に見た、敦房の”正気”は正しく雪哉の未来の予言であり、『ああはなるまい』と呪った相手にこそ、成り果てていってしまう成長の恐ろしさを、山内の荒御魂となった雪哉を見ていると感じた。
悲しく、淋しく、どうにもそうなるしかなかったなぁ……と思えて、読了の感慨はなかなか深い。
奈月彦ではない金烏が勝手に果たした、いつかの裏切りのツケを払わされる形で、かつて神であった烏が真の名と力を取り戻す希望は失われた。
生来の性格が全く金烏に向かないのに、その役割を背負ってしまった青年は、それでもソレを己の咎だと、深く後悔し傷つく。
それはやっぱり彼が、我が子を殺す激情に流されることがどうしても出来ない、八咫烏を殺せない山内の和御魂だからこそだと思う。
非情で的確な軍事的判断でもって、真赭の薄が進めようとしたヌルい外交努力を一蹴し、効率的な虐殺でもって一切合切を決着させた雪哉は、主が果たせない荒御魂としての使命を、人間としての自分を殺して(猿に殺されて)代行した……とも言えるだろう。
それは本来金烏が果たすべき、奈月彦も果たせると思っていた、統治の機械としてのあるべき姿であり、しかし雪哉は運命に選ばれた『英雄』ではない。
本来補い合うべき和御魂と荒御魂が分離し、自分ではどうにも制御しきれない定めに押し流されて世界を巻き込んでいく流れは、荒山においては母子相姦の形で決着を見て、山内においては今まさに始まったばかりだ。
それはあまりに寂しい青春の終わり、二人の青年の決別であると同時に、表向き”弥栄”を手に入れた山内が金烏中心の政治体制を手に入れる、寿ぎの始まりでもある。
第二部において、山内の荒御魂と成れ果ててしまった雪哉がどこへ行くのか。
彼の山内を何処へ連れて行くのか。
彼を殺し、世界にあるべきバランスを取り戻す『英雄』が誰になるかを、見届けたいと思わされる第一部の終わりであった。
「他人の声に耳を傾ける、己のエゴを譲って皆が幸せになる道を探る」なんてのは、荒御魂が司る権能じゃあねぇもんな……そらー、こういう場所にもたどり着くよ。
そう納得しつつ、雪哉の末路はとても淋しい。
人間としての奈月彦を理解し、受け止める仕事を浜木綿が十全に果たしてくれているからこそ、雪哉がそういうプライベートを冷酷に切り捨て、金烏の私情を挟むことなく山内を”弥栄”に保つという、一世一代の嘘にも挑めるのだろう。
でもそれは、真実心が通じ合い幸せが生まれる関係を永遠に遠ざけてしまう、冷たくて寂しい、とても人間らしい決着だ。
その先にも、新しい命は罪なく生まれ、無常なる運命に引き裂かれて、そのあり方を変えていく。
激浪のごとく流れる時代の中で、人はどのように変わり、変えられ、己を保つのか。
そんな無常の中、生きる幸せに値する何かが果たしてあるか探るべく、まだまだ物語は続いていく。
第二部、非常に楽しみです。