イマワノキワ

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ネガポジアングラー:第3話『心のこり』感想ツイートまとめ

 ネガポジアングラー 第3話を見る。

 逃げて逃げて逃げて逃げて、その先に待つ深い闇。
 深海に垂らされた一筋の光明に釣り上げられて、改めて物語の舞台に横たわった主役はどこへ行くのか。
 第3話にして初めて魚が釣れない回であり、成り行きだけで転がっていたお話がカチッとした形を手に入れる回でもあった。

 怪魚ドチザメと百万円を乗らった、即物的(で、ともすれば不純な)釣りは常宏に何かを手渡すわけではなく、逃げて逃げて、借金取りすら追いつけない自意識の歪みの先に追いついてくれた貴明だけが、どん詰まりの先へと道を示してくれる。
 ここまでの二話と、結構テイストが違うエピソードといえる。

 

 余命宣告は別として、常宏がどん底に追い込まれる過程はどうにもならない不運よりも、彼固有の人格が響いている感じが強くした。
 大学のクラスメイトたちは至って普通に…というか普通よりちょっと前のめりに彼の人生を心配してくれているのに、常宏はそこで目を開けずに逃げ出し、自分の内側に広がる(他人には共感が難しい)痛みだけが世界の全部だと思いこむように、孤立と絶望のなかに飛び込んでいく。
 強迫観念に背中を押された致し方ない行動だとしても、自業自得の色はどうしても付きまとう。
 ここら辺、もうちょい常寛が自分のこと喋ってくれると食べやすいのだが、それが出来ないから一人で逃げてもいるわけでな…。

 常宏を包囲している”上手くいかなさ”が、運命の不可抗力によってどん底に引きずり込まれたというより、足掻けそうな所で上手く指が引っかからず、ズルズル落ちてった感じなのは、作品独自の味だろう。
 自業自得と抗えなさを微妙なバランスでブレンドし、結構良くありそうな三流大学生の人生転落記を主役のバックボーンとして据えた所で、常宏は独力ではどっかに這い上がる気力をもう持てない。
 上手くいかなかった、良いことなんてなかった自分の人生に飽き果てていて、諦めきっていて、どうにか前を向いて確かにそこにある光に目を向ける気力が、全然発火しない。
 活力とモチベーションがない、甘えた主役だ。
 その劇的でないありきたりさ、面白くもねぇ普通さが、僕は結構好きだったりする。

 

 自力で立ち上がれないなら、生きるための燃料を外部から注入するしかないわけで、それを担当するのが”釣り”であり貴明なんだと思う。
 それは自分の人生を半分に割り、本来引受なくても良い厄介事をいちいち背負い、金と家の面倒を見てどん底にハマったクズを生き返らせてやる、大した慈善だ。

 なぜそんなことを、このチャラく思える青年はやるのか。
 ”終わり”を口にする常宏の言葉に、一瞬フラッシュバックした過去がその原点なんだと思うが、背景が見えないと過剰にすぎるお節介、善良の方向へとネジ曲がった狂人の慈善に見えてもくる。
 ヘラヘラした顔の奥に、それだけの歪みを抱えているのは間違いなさそうだ。

 第3話にしてようやっと具体的な恩義が、絶望に溺れているネガティブ人間と、笑顔の奥に歪みを隠すポジティブ人間を繋げたわけだが、貴明に財布も生き方も握り込まれた常宏は、自分に足りてない光を強制的に摂取させられ、背筋を伸ばし前を向くだろう。
 それは望んでいない強制のフリをしながら、実はずっと諦めきれていない真の望みに繋がっている…はずだ。
 真実絶望の底に囚われ、何もかもを諦めているのなら、”釣り”にあんなにキラキラしないし、自分と違うからこそ何かを変えてくれる可能性を秘めた他人に、ぶつくさ言いつつ期待もしない。
 常宏が何も諦められていない事実を、思い出させる共同生活にはなりそうだ。

 

 助けられる側の常宏はまぁそれでいいとして、助ける側の貴明は他人の人生丸ごと背負う重さから、一体何を得るのか。
 どう考えても不公平な関係を是正するだけの、捻くれた歪みがヘラヘラ顔の聖人にずっしり突き刺さっている様子を、早く見たいなぁという気持ちがある。
 これで何も欠けず歪まず、ただただあるがまま善良だからありふれた孤独と絶望に手を差し伸べた…となると、逆に食いにくい。
 常宏のどこか甘えた絶望を、丸ごと飲み込んでなお希望のフリを続けているのだと、貴明が僕らに向けて語りかけてくれるのは、結構後の話になるだろう。
 ボケ一人地獄から引っ張り出すには、聖人の頑張りと強がりが必要だからな…。

 受験に失敗しFXにハマリ、余命宣告受けてお先真っ暗。
 そういう人間に未来を見せる難儀を成し遂げるまで、貴明は弱さを見せられない。
 ありふれた弱さに抗うつもりもない常宏の現状を、”釣り”を媒介に共に生きる中でゴンゴンぶっ叩き、真っ直ぐな道に戻していく旅の間、貴明は常に借金を代替わりし屋根を貸し、生きるに値する人生を教えてくれる強者の位置から降りれない。

 不公平な負い目をひっかぶってやることで、常広の人生が上向きになる強制力を生み出してやるお節介自体が、極めて強く優しく正しい、非人間的なまでに”善い”行為だ。

 金払ってもらったから、家貸してもらってるから。
 のっぴきならない人生の問題に食い込んだ他人に、ぶつくさ文句言いつつ従わなきゃいけない力関係を言い訳にして、常宏はずっと望みつつ自力では進み出せなかった”ポジ”へと、自分を転がしていける。
 それってかなりズルい行為で、善意すらアイツが勝手に押し付けたのだと、常宏は自力で選ばない言い訳を積み重ねられる。
 このアンフェアな関係をスタート地点にするしか、甘えたネガ野郎と狂ったポジ野郎は自分たちの物語を初められないってのは、実は結構好みの歪さだったりする。
 イイ話風味で結構ヤバい不均衡を今後、”釣り”がどう繋ぎ均し、逃げ癖持ちの甘えたクズを生き直させていくのか。
 三話で物語、始まり直した感じ。

 

 

 

画像は”ネガポジアングラー”第3話より引用

 常廣は逃げる時、いつでも目を閉じて走る。
 目の前に在るもの、自分を包囲している…と思い込んでいるものがどういう姿をしているか、ちゃんと見ないし見れない青年だからこそ、彼はとにかく逃げ続ける。
 そんな彼が胎児の姿勢で一人、ネカフェで眠るってのはあまりに良く解りすぎて、良いイヤさのある表現だと思った。
 他人の好意に背中を向けて、逃げて逃げて逃げてたどり着いた、一泊数千円の資本主義の子宮。
 それが、この話の主人公の現在地である。
 自力で生まれることが出来ない赤ん坊の、命をつなぎ外界に引っ張り出すへその緒は、絡まったテグスの形をしてる。

 目をつぶって必死に走る常宏の逃走/闘争には、借金取りも追いつけず、貴明だけがやがて暗い闇に沈んでいく海辺を駆け抜けて、同じ場所に立ってくれる。
 逃げられなくなったどん詰まり、否応なく目を受けてなにかに向き合わなきゃいけない場所へ、たどり着ける特別な権利を、貴明は確かに有している。
 それが幸運なのか不幸なのかは、結構めんどくさい形に絡まってるだろう二人の人格がもっと鮮明になってから見えてくるだろう。
 釣り上げるべきキャラの根幹が、思いの外複雑な事情に覆い隠されてると解る今回、水中の獲物がずっと姿を見せない”釣り”の描き方が異質で、的確でもある。

 

 

 

画像は”ネガポジアングラー”第3話より引用

  欲望の街東京の夜景を背中において、常宏を包囲するネガと貴明が発するポジは、相反しつつ混ざり合う。
 というより、貴明がヘラヘラした表情を崩さず発する光が、常宏の抱える(思いの外薄っぺらい)闇を飲み干していく。
 「人生の陰りなんて、欠片も関係ありませんよ!」という顔を作って、超越的に地獄でのたうち回ってる赤ん坊の手を引き、夜の中に輝く光の中へと、自分が見ようとしている世界と同じ場所へと、強引に連れ出す。
 それが他人事じゃないと約束するように、借金を肩代わりし家を用意し職場に連れて行ってくれる、ピンク髪した救済の天使は、底抜けにポジティブだ。

その白々しく猛烈な明るさが、そうならなきゃ生きていけなかった影の強さを勝手に想像させて、怖さと興味深さを同時に引き出してくる。
 人間として当たり前で、だからこそ誰もが行えないこの善行の裏に、何かがあってくれないと納得できない。
 そういう感覚が、常宏のガムシャラで一生懸命で、目をつぶった独覚に包囲された疾走を飲み込む、貴明の過剰な包容力から浮かび上がる。
 それは多分、ありきたりな地獄に呪われた愚かな男と、そんな当たり前を多分前程にポジティブであることを選んだ男が、この不均衡なスタート地点からどうにか、対等になったほうが面白いと、僕が感じているからなのだろう。

 

 常広の孤独で身勝手な疾走に、貴明が追いついてしまった…追いつかれてしまった時点で、力関係は固まっている。
 世界に満ちた不定形の怖さに向き合えず、何も見えないまま逃げて逃げて逃げて逃げてきた青年は、助ける理由も追いつく意味もないありふれた愚かさに、わざわざ手を差し伸べてくれる強者に”釣られ”てしまった。
 そこには明らかな『ポジ>ネガ』の力関係があって、そこに追いつくように借金の肩代わりと、職場の斡旋と、住居の提供と、どう生きるべきかの指導という、あんまりに大きくリアルな借りが押し寄せてもくる。

 どうにかこうにか、この荷物を返さなきゃいけない状況。
 目の前に積み上がった善を見つめ、その供給源たる貴明を睨みつけ、そこに反射する自分と世界を、逃げることなく受け止めなきゃいけない状況。
 そこに逃げ込み追い詰められて、常宏の人生がようやく上向きに変わっていく。
 世知辛い世間ではけして、誰かが代わりにやってくれない人生の転換を、自力では果たせない愚者の物語が、ネガティブからポジティブへと変わる結節点。
 多分それが、この三話だ。
 想定していたよりアンフェアで、生臭く必死な話だと解ったのは、なかなか良い手触りである。
 ”救う”という行為が自動的に帯びてしまう力の不均衡が、あんま表に出ない底流として描かれて心地いい。

 

 貴明にとって「救う私」であることは心地よく、それ以上にそうでなければ生きていけない必死さを、多分伴っているんだと思う。
 その光に満ちたエゴイズムに近づき、暴き、寄り添うことで常宏も、目を塞ぐネガティブを切り裂いて、赤子の姿勢で人生に横たわるよりマシなことを見つけていくのだろう。
 逃げて流れ着いて出会ってしまったこの始まりから、どれだけの変化を得て、ネガとポジが平らに混じり合うのか。
 圧倒的に強く正しく見えるポジの中に、人間にありふれたネガが確かにあるのだと、解るようになるのか。
 そこら辺が、二人が”釣り”をやっていく中、今後大事に暴かれててくれると、なかなか俺好みだ。

 貴明が現状示している正しさに抱かれて、彼のコピーとしてビカビカなポジティブ人間に成り果てても、それは常宏にも貴明にもあんま幸せな道じゃないと思う。
 救ってくれた奇跡と、成り行きでも普通でもない決意の意味を噛み締めた上で、「お前は歪で身勝手で最高だ」と、救われてしまった側がいつか伝えれるようになるには、もうちょい常宏は、強く優しく正しくならなきゃいけない。
 俺は男が二人いるなら、まっ平らな地平に足をつけ対等に関係性と魂で殴り合ってくれるのが、一番面白く感じるからな……。

 

 そのためのトレーニングセンターとして、奇人集うコンビニと色んな面白さと難しさがある”釣り”は、どんだけの仕事を果たすのか。
 今後の日常描写を支える作品の背骨が、三話にして屹立するエピソードでした。
 次回も楽しみ。