デリコズ・ナーサリー 第9話と第10話の感想を書く。
灰猫街での攻防が描かれる9話は、正直自分的に響くものがあまりなく、描写がどう広がり落着するかを見なければ言葉を紡げない状況になったため、一話飛ばすことになった。
ここら辺の響かなさは、主役に位置づけられている貴族たちへの共感の薄さ…有り体に言ってしまえば好きになれなさに由来していると感じる。
第10話”ノブレス・オブリージュ”という言葉を用いて、このアニメにおいて貴族サイドで是とされる価値観が可視化され、テオドールが自分なりのそれを選択して疑似繭期を脱する描写があったことで、ある程度この作品の貴族主義を自分の中に収めた…とは思う。
何しろこのアニメは莫大なサーガの一片でしかなく、僕はそれに途中からかじりついたニワカでしかないので、何かをいうたびに的外れなんじゃないかというおそれと、実際そうなのだろうという感覚が、心の縁からせり上がってくる。
偉そうに上から作品を読解してる仕草を延々続けておいて、今更こういう震えを吐露するのも情けないモンだが、僕はこのアニメを的確に読めているのか、その資格があったのか、結構悩んでいる。
「ニワカだろうと、放送されたアニメの前には識者と対等(タメ)であり全然やれる!」という思い込みで突っ走りたかったが、そこら辺の妄念を引っ剥がすのに二度の放送遅滞はちと、大きい仕事をしすぎたか。
さておきここから、自分とこのアニメの距離感を綴るにあたってある種の予防線を、この段階で貼っておく。
僕はこのお話…特に貴族側で描写されているものを全然受け止められていないし、共感を伴った理解を出来ていないし、それをあたかも是であるかのように書いているこの終盤戦に納得もできていない。
幾度も子どもを攫われ、命を奪う刃をテオドールに握らせ、華やかで家庭的なぬくもりに満ちた…というパッケージングをされた”親子”を描写されて、結局ナーサリー業務を外部委託し、貴族の余裕を崩すことなく最後の祭りに飛び込んでいく男たちのことを、全然尊敬できず好意も抱けない。
バカだなぁ、と思う。
この貴族たちへの”バカだなぁ”が、その愚かしさもひっくるめて吸血種という人間の全体を描こうとする、悲喜劇の視点から作品と共有されているものなのか、それとも作品が価値として称揚したいものとズレた結果なのか、いまいち判然としないから、中々言葉探しに困ってもいるのだが。
劇場で紡がれ積み上がっただろう、ダリ・デリコの人生がこのゼロ地点からどう変化し、彼が何に間違え何を取りこぼしたかを知っている立場ならば、あるいはそれを補助線にしてダリ達の気取った愚かしさを、適切に位置づけられるのかも知れない。
僕にはそういう素材がないので、中々ポジション取りは難しい。
ダリは亡妻への愛の証明として、殺人捜査と託児所を同居させるナーサリー計画をゴリ押しし、悪戦苦闘の果てテロリストに踏み込まれて、子どもを攫われTRUMPを殺されかけている。
僕には捜査官としての責務を私情で危うくした大馬鹿であり、自分の失敗を見つめ直さないまま家庭を置き去りに仕事を取るしかない不完全な存在に見えるが、作中ダリちゃんの至らなさや愚かしさを、周りが突っ込むことは無い。
ノブレス・オブリージュ。
一山いくらで死んでいく、名前も顔もないモブ達を活かしてあげる、貴種としての責務を果たすことこそが大事なのだと、四人の父達は血みどろの仕事場に、子どもを置き去りに突き進む道を選んだ。
事件捜査のなか貴族たちが当たり前に、意識に上げることすらなく乗りこなしていた、命とその尊厳に対する冷淡さ。
貴族的/ヴァンパイア的な美麗なる残酷を演出するための、生臭いパルファムのように流れる犠牲者たちの血。
あるいはワガママいっぱいのようでいてその実、パパたちの都合をいい具合に飲み込んでくれる子ども達の、暴力的撃発によって傷を受けたかも知れない未来。
僕にとっては存外、そういうモノが大事であって、しかし貴族たちはそれを顧みない。
その無意識的(に見える)軽視が、どういうしっぺ返しを携えて、自分自身の…あるいは子どもたちの未来をズタズタに引き裂くのか。
あるいはあんま大事な問題ではなかったと、結構うまくいくのか。
この物語の行く末はどうにも、アニメ単体で収まる気配を僕には感じ取れず、外部に(既に)配置されているんじゃないかという推測(あるいは妄想)が、物語を見ていく中で育つ。
こんな粗雑に、今まさに己の在り方を育てている人格を蔑ろにした報いは、なんかいい感じ風味に収まった描写の遠い向こう側で、当たり前の因果として残酷に炸裂しているのではないか。
していて欲しい。
だって、ナーサリー計画は見るも無惨な失敗であり、ダリ卿は天才気取りの愚者にしか、僕には見えないのだから。
そういう気持ちが、正直結構濃い。
繭期に呪われ、大人になりきれないまま世界を巻き込んでぶっ壊そうとするペンデュラムのガキ達と、子ども時代のワガママを飲み込んで、パパたち貴族を最後の祭りに送り出したテオドールの対比は、結構自分の中で納得の行くものだった。
それが適切に”子どもであること/大人ではないこと”の深奥を照らせているかどうかは一旦横に置いて、父との繋がりを断たれたがゆえに不気味な一人芝居に捕らわれていたテオドールが、自分自身の”ノブレス・オブリージュ”を定義し、それにふさわしい振る舞いをすることで、テロリストたちを狂わせ間違わせた繭期の幻想を振り払う描写は、作中要素の呼応も対称も的確で、かなり気持ちが良い。
第10話で明かされたジュラスの繭期は、心の中を覗くだけで変えられない、壊すことしか出来ない不完全な力だった。
それは手に入らない愛に狂って、社会全部を腐らせるだろうTRUMPへの逆恨みを加速させるだけの、邪悪の種だ。
それ全部ひっくるめてジュラスという人間であり、彼は間違えきったまま哀しく、己の終わりまで駆け抜けていく。
そういう描き方が出来ていて、ペンデュラム側の描写は結構自分なり、噛み砕けている。
それは危うい繭期の誘惑に打ち勝ち、正しい成長を果たした…とされている、テオドールの描写があったればこそかもしれない。
自分も世界も振り回す、思春期のグジャグジャした混乱を、適正に処理できないピーター・パン達の、はた迷惑な大暴れ。
繭期を既に通り過ぎた過去として切り捨て、繭期以前の無垢を程よく愛で、抱っこして一緒に遊んで、その表層だけ撫でさすって”ナーサリー”したように描かれたパパたちは、貴族の余裕を保ったままそれに対峙し、断罪する。
そうして正義と不正義に切り分けられる、貴族の成熟とテロリストたちの繭期は、しかしそんな明瞭な線引が出来るものなのか。
ともすれば世界全部をぶっ壊しうる異様なパワーを秘めた思春期の混乱は、余裕たっぷりでカッコいい大人の貴族に、切り捨てるべき過去と定位されて然るべきものか。
ペンデュラム=繭期/ヴラド=脱繭期と、組織的対立とライフステージが重なってしまったことが、価値の勝敗を引っ張っている感じもあるけど。
ドッタンバッタン大騒ぎだった”ナーサリー”を思い出に変えて、こっから本格的思春期闘争に飛び込んでいくだろう子ども達が、家族の情愛に包まれ、十全なコミュニケーションと適切な人格尊重に支えられて、己も世界も滅ぼしかねない繭期を、平和に乗り越えていけるかは、僕には大きな疑問である。
アジトでのバトルに勝利し、なんかいい感じに血を流して愛を証明した感じになっちゃったことが、逆に自分たちの関係の歪さ、それを生み出す貴族社会の軋みから、目を背けさせた感じするんだよな…。
戦いの中でそれを示したと、作中のキャラクターたちにも作品のパッケージとしても、一段落ついた感じの、誰かを慈しめるNurseな愛の証。
子どもらは幸せそうだったし、作中そう描かれているものに異議挟んでもしょうがないんだが、しかし真実子どもを愛しているのなら、血なまぐさい殺人からは遠ざけ、テロリストに攫わせ、ショッキングな生き死にの現場を目の当たりにさせはしないだろう。
こういうつまんねー常識を現実世界からフィクションに持ち込むのが、あんま上手くない手だとは分かりつつ、”子ども”という要素を作品の中核に持ち込まれた以上、変な繋がり方してそういうモンを、自分は手放せない。
なかなか難儀である。
イカれた天才捜査官が、「捜査と育児同時にやるぞ!」つうイカれた提案をして、その通りにイカれた結果になった、つう話ではあって。
外側から持ち込んだ”マトモさ”(という看板貼っつけた、僕の偏見の集合体)”でもって、そこを突っついてもしょうがないのではあろう。
それでもやっぱり僕の眼にはダリ・デリコも、破天荒な風雲児として彼が逸脱しているように見えて、その実その価値観や判断の大きな部分を蚕食されている吸血貴族社会も、たいそうイカれて不完全に思える。
この感覚を作品が肯定して、ダリがその内(あるいは既に)そのツケを払うことになるのか、ニワカのズレたチューニングミスなのか。
そこら辺の判別は、なかなかつかない。
TRUMPの機嫌一つで命も尊厳も社会もぶっ壊れかねない、たいそう脆弱な人間モドキの共同体を、どうにかして余裕ある楽園として保つために、ヴラド機関は全てを捧げる。
そう嘯いていたヴラドがガキ可愛さに揺らいだのは、どうにも残念であった。
そういう話じゃないといい加減分かりつつも、かわいいかわいい子ども達を血まみれの肉塊に変えて、社会最後の防波堤たる意地を見せてくれても良かったなぁ、と思う。
まぁそうなれない人間たちの世界だからこそ、こんなに軋みこんなに不完全で、それでもなお幸せに生きていけるよう、無様に足掻いているわけだが。
神様の奴隷になりきれず、大義と情を秤にかけて悩まざるを得ない不完全な人間が、完全な社会の守護者たろうとする時、迷いを振り切り脳髄を麻痺させてくれるいい感じのモットーが”ノブレス・オブリージュ”なんだと思う。
そこには責務の対価として与えられた特権を、疑わず享受できる生来の支配者の視点が滲む。
死んでいく雑魚共の愛や未練、一個一個すくい上げていたら、貴族を頂点に維持される巨大な装置を駆動させることなんて出来ず、その不完全を輝かしき価値に反転させる儀式として、父たちは赤いグラスを飲み干し、”ノブレス・オブリージュ”を叫ぶ。
醜悪だ。
かっこよくないし、好きになれない。
そう感じてしまう僕は、あんまいい観客ではないのだろう。
ジュラス達の抱えたグジグジした繭期の呪い、そこに確かにあってしまう自分だけの真実味に共感を寄せず、冷たく切り捨てれてしまう能力がなければ、多分この世界で”貴族”なんてやっていけないのだろう。
愛すべき継承者達への愛と、世界を恨んでひっくり返そうとする下層民への共感は全く別物で、身分が愛されるべきか否かを決める。
そういう差別主義を、当たり前に飲み干せないとあの華やかな衣装は着れない。
ならば飾り立てられた絹は人非人の証明であって、犯罪者の拘束衣こそが、正気の証になるのではないか。
そんなことまで思う僕は、多分あんまいい視聴者ではないのだろう。
相性が悪いのかも知れない。
子ども達が児童期を越え、繭期を生き延びて”貴族”を継いだ時、(あるいはその激浪に飲まれて、人生を悲惨に燃やし尽くした時)、彼らは自分を守るために刃を振るい、秩序に膝を屈したキキちゃんのことを、覚えているのだろうか?
灰猫街に、あるいはジュラスの村に吹き溜まる社会の矛盾は、炸裂すれば血を呼び、自分たちを犠牲者として巻き込む。
この体験が、間違いだらけだった”ナーサリー”の大事な教えとして、構造的差別に加担する未来が既に用意されている幼子たちに、少しでも残ればいいなと思う。
あるいはそんな”マトモ”さ、貴族社会と吸血種の歪を生き延びていくには、致命的な傷にしかならないのかも知れないが。
僕は吸血種族の設定と、それが生み出す間違いだらけの貴族社会の描写はとても好きだ。
自分由来じゃない間違いを種族レベルで生まれたときから背負わされ、それと真っ向対峙することも許されないまま、無自覚にシステムに囚われて”ノブレス・オブリージュ”の美名の元、それに奉仕するか。
あるいはズタズタに傷つき、良くねー薬で繭期を延長しながら、神を殺す手立てを必死に探して、血溜まりを拡げてテロリストになるか。
そんくらいしか選択肢がない、極めて哀れで不自由な存在達の歪さは、香しい腐臭を宿していて好きだ。
フリル飾りの華やかな装いが、その腐れっぷりを強調しているのも悪くない。
極めてヴァンパイア的だ
だからこそ奴隷であることの不自由と、人間であることのどうしようもなさに振り回され、傷だらけで大間違いの決断に縛り付けられて突っ走る、ペンデュラムの方が共感しやすいのだろう。
こんな狂った世界で、あたかも良い父であり、良い仕事人であり、社会が定めた価値に従順に邁進できる勝利者であるかのように飾り立てられているヴラドの男たちは、いかさまおぞましく滑稽だ。
もっと余裕がなくなって欲しいし、機能してない綺麗事吠えるより人間の根っこに目を向けて欲しいし、自分たちの在り方を階級的にも、個人的にも、思い悩んで欲しい。
しかしまぁ、そういう部分に焦点を当てる物語では、少なくともこのアニメはない…ようだ。
ここら辺のズレを抱えたまま、しかし1クールのアニメとしてどういう答えを描いて終わるのか、見届けたい気持ちは当然ある。
かわいそうな悪のテロリストを打ちのめしてピンチを切り抜け、大団円という形にまとまってエンドマークなのか、そういう表層の奥でグネグネのたうってる(ように僕は感じる)無茶や矛盾がいつか…例えばナーサリーの子ども達が繭期を迎えたころ炸裂すると暗喩して終わるのか、はたまた抗う奴隷の牙が何もかもぶっ壊して終わるのか。
どういう結末になるにしろ、このアニメ(その背景にあるTRUMPサーガ)が何を描こうとしたのかを、自分なり噛み砕いて終わりたいとは感じている。
ぶっちゃけ相当にズレて擦れた繋がり方ではあるけども、自分的には結構面白く作品を見ている。
ここまでこんな感想グチャグチャ連ねておいて今更ではあるが、このお話を通じて何が描かれたのか、何を伝えたかったのか、身を乗り出して読みたくなる魅力は、開始時からちゃんと受け取っている…つもりだ。
素直に響かなかった、不協和音混じりの共鳴だったとしても、このアニメと僕の間には確かに響くものがある。
それがこの長い文章をここまで読んでいただけた貴方とも、どこかしら繋がったものであってくれるなら、何よりありがたいなとは思う。
「全然解んない」はまぁ、凄くふつうのリアクションだと思います。
色々ぶっちゃけた感想になったけど、これを書いておかないとあと二話付き合うの無理なんで、書いてWebの海に放流することにする。
主役がスタイリッシュに活躍したり、家族愛を微笑ましく形にする場面より、吸血種の矛盾にズタズタにされた連中が無様にもがいている様子のほうが楽しく感じるので、最終戦はジュラス達の苦悩を、せいぜい格好悪く描ききってほしいなと思います。
結局汗かいてる連中のほうが好きという、嗜好の話に収束していくのかなぁ…。
残り二話、楽しく見届けたいと思います。