過去を暴かれ仮面を剥がされてなお、人形たちの宴は続く。
放送前「こういう感じのアニメやろなぁ…」と思ってたところを、たった一話で全部ぶっちぎって行く爆速スタート、Ave Mujicaアニメ第1話である。
月の表裏となる魂の双子、高松燈率いる真情吐露バンド”My Go!!!!!”の物語が一応の落ち着きを見せた裏で、仮面をつけた嘘つき共の物語は重く暗く、10代の少女が背負うにはあまりに厳しい枷を引きずりながらのスタートである。
どん底まで堕ちきるこの重たさは、キラキラだとか夢だとかを描いてきたバンドリには珍しい画角であり、だからこそこの作品が新時代に勝負をかける証明なのだろう。
やはり”My Go!!!!!”が一種の前編というか、心の奥何もかもを曝け出した上でゼロから自分たちらしい歪さで繋がれる”陰中の陽”なのに対し、大きな商業的成功と虚飾を抱え、何もかもが嘘っぱちに支えられて揺らぐ”陽中の陰”として、あの物語と相補関係にある印象を強く受けた。
CRYCHICという同じ根っこから分かたれた、暗い自分たちを隠さないからこそ明るい場所へと旅立てたバンドと、華やかな光に照らされているからこそ嘘が積み上がるバンド。
祥子が身を置いた…置かざるを得なかった旅路の果ては、喝采願望に取り憑かれたドラム担当の裏切りで一話にして仮面を剥がされた。
それは許されざるブック破りであると同時に、何もかも操る人形師気取りで銭と成功を求め、その実優しすぎて傷つき気高すぎて誰にも頼れない、泣きじゃくりながら誇り高く生きているただのガキが、幾重にも貼り付けた仮面を引っ剥がすための第一歩なのだろう。
社会的立場、あるいは精神的外装を意味するPersonaは、分裂せずに一貫した個人を意味するPersonと同語源だ。
仮面抜きでは人間は社会の中、他人の隣で生きていけないし、同時にその嘘は魂を窒息させていく。
どんな仮面を、誰と一緒に被るのか。
少女を殺しも活かしもする、嘘と本当を巡る物語は始まったばかりで、圧倒的な加速を見せてもいる。
My Go!!!!! があるがまま迷子な自分たちを認め、それでもなお一緒に進んでいく道を掴み取った十数話と、これからAve Mujicaが進む旅は呼応し、共鳴し、対比され、真逆でありながら重なり合う物語になるのだろう。
祥子以外の仮面の奥に、どんな人生の泥が隠れているのか(つまりは、そこからどんな誠の花が咲くのか)も見れていないし、一見暴発にも見えるにゃむのブック破りにも、初華の心酔にも、あるいは睦の不器用な沈黙にも、必ず祥子以上の苦悩と決断と不自由があるのだと思う。
見えている仮面がその人の全てではないし、真実は”真実である”というだけでは何の意味も持ちえない。
そういう矛盾に傷つき引き裂かれながら、それでも音楽を…ロックをやるのだと自分たちの舞台を選んでしまった少女たちが、何処へ行くのか。
魂から流れた赤い血が、暗い舞台に足跡を残す軌跡を、今後も見守っていくことになりそうだ。
すげー重たくヒドい話なんだけども、自分のアタマを悪趣味な最悪が頭をよぎらず済んでいるのは、作った仮面と自分の中にあるマグマの乖離含め、なんもかんも叫んで吠えて歌にしていくロックンロールを、このお話が主題に選んでいるからだと思う。
現実はカスで、自分はゴミで、だからこそ歌い繋がり広がっていく音楽。
ロックはそういうもんだし、My Go!!!!! もそこへ飛び込んだ。
既にそういうモンを描いて、ぶつくさ文句言いつつもかけがえない放課後を自分たちらしく、取り繕った仮面なしで過ごせている四人を視ていると、月の裏側で戦ってるAve Mujicaの仲間も、同じ場所へたどり着けるのだろうと思える。
つうか自分たちが新バンドでハッピー山盛りな青春にたどり着けたからって、そこへたどり着く助けをしてくれた祥子や睦が仮面の奥、ズタズタに引き裂かれている傷に手を伸ばさなくて良いって話にはならねぇ。
既に”あがり”を迎えた感があるMy Go!!!!!の連中が、どんだけの仁と義でかつての仲間に向き合っていくのかも、今後気になるところだ。
マージで今度は、燈が祥子に絆創膏貼ってやってほしいんだよ俺は…。
相変わらずぽやぽや世間とズレたまんまではあるけど、そういうあるがままの自分が他人を動かす詩を歌えるってこと、それを共に歌ってくれる仲間がいるってこと、”ずっと”が世界にあることを今の燈は信じれていて、そうやって手に入れた強さの一歩目に、手を添えてくれた女の地獄に踏み込める強さを、この”後編”では見せてほしいんだよな…。
他人に頼れないし見捨てることも裏切ることも出来ない、優しすぎて気高すぎるあの子は、そうやって差し伸べられた手を憐れみと跳ね除けてしまいがちなんだが、その防壁をぶち抜く強さを、燈はもう持ってるはずだから。
そこら辺の燃え盛る”ともさき”は未来への示極星として、最悪状況から抜け出すために捏造り出した最強仮面バンドの現状は、ピリピリ重たくぎこちない。
まさかまさかのDiggy-MO’参戦、独自の詩世界が紡ぎ出す世界で演者たちは普段とは別の名前を名乗り、仮面を被り、作り込まれた嘘っぱちを演じて、最初から大きな舞台に立っている。
観客席にその歌がどう響いているのか、リアクションを影に塗りつぶして見せない”Killkiss”は、不器用でもむき出しの自分を叩きつけ観客と呼応していたMy Go!!!!! の白日と、面白い対比だ。
仮面に覆われていない素顔に、化粧というペルソナをしっかり施し”にゃむち”を演じようとする祐天寺にゃむの姿は、手前に置かれたペットボトルの不気味な存在感でもって、どこか不安定で嘘くさい印象を醸し出している。
取材を受けるとき眼前に置かれている花も、生き生きとした本来のオーラを殺され、華やか嘘っぱちで飾り立てている現状を強調する。
それは過酷な運命が、オブリビオニスとなる前の祥子を襲い、父との絆を投げ捨てて祖父に守られる道を蹴り飛ばした時、画面を覆っている窓ガラスと共鳴する演出だ。
極めて柿本広大らしい、少女たちの世界を満たす不協和音と屈折を、静物に喋らせる演出が初手から鋭い。
仮面、人形、鏡、あるいはステージネーム。
祥子がどん底な生身の自分を隠し、余裕たっぷりにプロデュースするAve Mujicaは、虚飾を意味するメタファーで満ちている。
それは耐え難い運命に幾度も裏切られ、母やMorfonicaやCRYCHICに見つけた希望を引き裂かれ、過酷な現実ではなく華やかな嘘の中にこそ、忘却の救いと眩い可能性を見出した…見出そうとしている祥子の心を反射している。
在るがままの自分の世界に、他人に差し出して誇れるものなどもうなにもないから、何もかもを忘れるべく嘘に塗れ、仮面をつけて売れようとした。
しかしその拙い夢は、ツラ晒して売れてナンボなにゃむの離反によって、瓦解…あるいは破壊され再構築されていくことになる。
My Go!!!!! 第3話を祥子の側から描き直す今回、彼女を神格化していた燈が見落としていた泥臭い地獄と、それでもなお歯を食いしばり泣きじゃくりながら諦めない、”人間”豊川祥子の顔が暴かれていく。
彼女の気高さと優しさ…燈の未熟で精一杯の一人称から見えた「祥子ちゃんらしさ」からこぼれ落ちる、数多の苦悩と微かな光。
その先に幾度裏切られ、叩きのめされても、彼女は人生を諦めることも誰かを見捨てることもせずに、必死に泥臭く足掻く。
世界と噛み合わない自分の傷に絆創膏を貼ってくれたカミサマが、その実自分も母の死に傷つき、Morfonicaのステージに光を見出し、抗えない大きな波に全てを打ち砕かれ、それでも諦めず立ち上がる”人間”でしかなかった事実を、燈はまだ知らない。
知られないために過酷な仮面をつけて、仲間に決別の言葉を叩きつけた後、傘を指してくれる人もいないまま雨に濡れ、泣きじゃくっていた顔を、祥子は誰にも見られたくない。
それが傷つくことのない強さと受け止められ、拒絶の奥にある柔らかな心音を聞いてもらえない/聞かせないところに、豊川祥子の悲しみと美しさがある。
その決死の強がりと眩しさが、高松燈をどれだけ救い導いたか…だからこそ傷つき、その痛みを翼に変えて高く飛んだかは、既にMy Go!!!!!アニメが描いた所である。
Ave Mujicaの世界観を支える人形のモチーフは、母の遺品として没落の中でも譲らなかったアンティーク・ドールがその源泉であるが、ここに示されているように、自分ではない何かを演じる嘘や強がりは必ずしも、悪しきものではない。
そこにはどん底でも消えない愛の思い出が確かにあり、惨めさゆえに酒に逃げ、娘の気高さに焼き殺されそうになってるクソ親父が向き合えないモノを、自分に引き寄せ戦う強さを支えている。
同時に誰にも過酷な現場を見せず、助けも求められない窮状をひた隠しにしたまんま、他人の気持ちも蔑ろに金と名声のために利用しようとしているオブリビオニスのプロデュース・スタイルが、バンドの在り方として…あるいは人間の繋がり方として、拙く危ういのも間違いない。
アモーリスの裏切りはそういう、祥子の毒となる悪しき仮面を引っ剥がす理外の一撃であり、祥子自身はそんなつもり欠片もなくとも、かつてCRYCHICに夢見た”運命共同体”にAve Mujicaがなってしまっている以上、そういう裏切りと再構築は必ず起こる。
そういう意外性と再生の乗り物に、祥子が乗ってると解ってこの第一話、大変良かった。
だって祥子、過酷な運命を乗りこなせる強い自分を必死に演じて、そのことで一番大事な誇りを失わずに自分を保ってるけど、ドブ掃除もやったことねぇ箱入り娘だし、友達に嘘つくも別れるのも辛くて泣いちゃうし、それでもど根性で新聞配達し作曲もプロデュースも頑張る、傷も強さも両方持ってる”人間”なんだもん。
それが全部を操るパペット・マスターッ面で、仲間の意向も確認せず良いように状況動かしてたのって、無理があるし確実に良くないので、にゃむの裏切り(あるいは正当な抗議)はお互いの意思はさておき、荒海に漕ぎ出した運命共同体にプラスの選択だったと思うのだ。
まぁ仮面を一つ剥いでも、次の仮面があるから厄介だが…。
”本当”ってのが何処に在るのか解るんなら、こんなに楽なことねーしなッ!!!
この孤高の泣き虫強がりお嬢様の、思いの外近い場所に睦はたち続けて、他メンバーが知らないその困窮も、ひと足早く知っている。
祥子が気高さゆえに覆い隠してしまう生身を、幼馴染特権(+他人には伝わりにくい、不器用な優しさを知っているよしみ)で見届けれる立ち位置にいる彼女は、ぼんやり分かりにくい表情の奥で親友の痛みを感じ取り、自分に出来ることをおずおず差し出している。
僕はカメラがAve Mujicaを真ん中に捕らえる前、My Go!!!!! の脇役だった頃から、睦が何かを言おうとして、上手く言えない様子を気にしていた。
CRYCHICに決定的にヒビを入れた「バンドが楽しいって思ったこと、一度もない」という言葉が嘘なのか本当なのか、仮面の真意を確かめるチャンスはまだ来ていないが、しかし祥子の地獄に共に落ちて、むっつり不器用に彼女に優しくしようと頑張る(けど、上手くいかない)姿は、前作でもこの第一話でも眩い。
燈には詩才があり、他人を自分の言葉で引き寄せられる引力とそれが生み出す縁の繋がりがあったが、驚異的なベースの腕前を自分の喉の代用には出来ていない睦は、己が何を考えているのか伝える手立てがない。
しかし動かない仮面をつけているからと言って、彼女が何も感じないわけでも、伝えないわけでもない。
どんなに辛くても祥子のそばに居続けて、誰にも預けられない苦しみの欠片を少しなりとも背負おうとするその生き方それ自体が、睦が何も感じぬ従順な人形などではなく、自分が上手くできないことでも挑まずにはいられない、優しさの使い方をよく知らない”人間”であることを示している。
話の主役がAve Mujicaに移った今、彼女が”有名人の娘”という自分ではどうにも出来ない軛にどう繋がれ、そこからどう逃れようとしたのかも、祥子という存在をどれだけ大事に思っているかも、深く掘り下げられていくだろう。
若葉睦という無表情なミステリを、ようやく解体できるチャンスが巡ってきて、僕としては大変嬉しい。
燈が自分の詩才で壊れかけたMy Go!!!!!を再生させたり、ぼんやり分かりにくい自分のまんま他人に求められ愛される特権を有しているのに対し、睦はずーっと何考えてるのか分かりにくい、考えていたとしても状況を適切に動かせない、無価値なお人形に見えてしまう存在だ。
しかし燈が音楽を通じて自分と他人と世界をつなぐ奇跡にたどり着けたのなら、同じ救済を睦から遠ざけるのは不平等かつ理不尽に思えて、愛され理解される特権に恵まれていないこの子をこそ、解ってもらえる日が来ることを僕は強く望んでいる。
燈のような特別な才がなくても、仮面無しで繋がれる瞬間をこのアニメが描いてくれるのだと信じたいのかもしれない。
いらない胡瓜ばっか押し付けてくる、ズレにズレた残念人間であっても、睦が祥子を大事に思い、取材とか仮面引っ剥がされて素顔さらされるとか、メチャクチャ苦手なコトに投げ込まれたとしても一緒にいるため戦ってる姿は、既に描かれている。
だから睦が何を言いたくて、何を守りたいかは今後の物語で容赦なく暴き立ててほしいし、そこに脈打つ赤心を裏切らず報いて欲しいと、僕はずっと思っている。
Ave Mujicaを描く苛烈な筆は、そこら辺嘘や迂回路なしでガチる画材にもなってくれるはずで、無理解とすれ違いの地獄を超えたからこその繋がりを、この不器用トンチキ人間に与えてやって欲しい。
マジで頼んます。
あの二人がいっとう好きなので、ついつい過剰に語っちゃうんだけども。
祥子が繰糸を握るAve Mujicaにソッコー反逆をキメたみゃむちも、Sumimiの相方より心を焼き尽くした女の幻影に夢中な方も、なかなかコクのあるご挨拶を第1話にキメてきた。
さっきも言ったけど、アモーリスがぶちかましたブック破りは祥子の嘘っぱちに風穴開けて、自分たちが辿り着く場所へみんなで(殴り合いながら)進んでいく歩みとして、かなりいいなと思うんだよね。
そこで操られるばっかじゃなく、自分の欲望と理想をぶん回してくる仲間がいるのは救いだ。
アモーリスの革命性は、彼女がバズだけで繋がる部外者だからこその闊達だと思うけども、幼い日の思い出に照らされて祥子に蕩けて全肯定人間である、三角初華は愛の鎖がジャラジャラ重い。
睦が情ねぇ生身の祥子を見つめ、その血を頑張って両手で受け止めようとしてるのに対し、初華の中の祥子ちゃんはあの夏であった美しい少女のままでだ。
もう子どもではいられないと思い知らされたからこそ、幾重にも仮面をつけ他人を見捨てられる自分になろうとしてる祥子が、魂の一番表層に被せている仮面を、初華はカミサマと崇めている感じがある。
この崇敬は、もちろん理解とは一番遠い感情であり関係だろう。
しかし初華が好きな祥子ちゃんが全部ウソかというと、クソみてーな現実と運命にズタボロにされてなお、力強く輝く”祥子ちゃんらしさ”を極めて純粋なまま、初華の視線が保全している感じもある。
そういう含意がないと、二人が仮面を外して共に歩くシーンをこんなに心地よく、開けて前向きなものとして書かないんじゃないかな、という読みよね。
どんだけ薄汚れ嘘まみれになろうが、あの溌剌と眩しく優しい女の子を殺せないのが祥子のままならなさであり、善さであり、強さであり、苦しさでもあると思う。
祥子の現状も真実も知らず、覗き込もうと踏み込みもしない初華の残酷な崇拝は、カミサマがもう自分には残っていないのだと思い込んでいる輝きが、未だ眩しく燃えているからこそ生まれても来る。
変わってしまったことに気付かさ愚かさは、どれだけクソを投げつけられても変わらない、鋼鉄の如き魂の地金を愛し信じる心の表れでもあるのだ。
ここら辺を仮面引っ剥がし、Sumimiの自分たちをラブラブカップルだと未だ信じている方との間に超悶着起きそうな嵐にぶっ飛んでいった今後、どうこねくり回し発火していくのか。
何しろスタッフロールでは主人公立ち位置なので、祥子を愚直に信じるだけの子どもではいられないんだろうが、せいぜい切り裂き暴き立てて欲しいもんである。
名前にDolorosaを含む以上、彼女なりの苦痛(もしかするとキリスト的なもの)が話のコアにもなってくるんだと思うが、どんくらいのエグさでブッ込んでくるか…ハラキメないとな。
つーか初華が無邪気に信じている祥子の眩さって、クソみてーな運命に翻弄されても戦うのを止めない強さ、歌って伝えて何かと繋がろうとする表現者としての根性、どんだけオヤジが情けなくても見捨てない優しさつう、ロックンロールやるしか生きる道がねぇ程の、反逆児としての才能から溢れてると思うワケ。
初華が見ている幻の祥子は、彼女自身が見えなくなってる/捨てようとしているあの子のRealそのものでもあって、初華が掲げた鏡を通じて、自分が思ってるより強く気高い豊川祥子を、思い出せる展開になってくると良いなと思う。
仮面がなきゃ生きていけない、Realなんかじゃない自分たちのRealを思い知らされた経験を、もし歌に出来たら。
これは作り込んだ世界観に観客を引き込むパワーが確かにあるAve Mujicaが、音楽表現集団として一発ムケる起爆剤にもなるわけで、ここら辺の”音楽性”との向き合い方も、今後楽しみな所である。
ここが衝突したからこその、裏切りのアモーリスなわけだしね。
ここら辺、My Go!!!!!が不出世の詩人・高松燈のリリック力で不器用に率直に己のRealを突きつける形で観客にぶっ刺さってるのと、やっぱ対比し共鳴させながら描かれていく部分かなと思う。
嘘をつかなきゃ生きていけない自分たちの本当を、どう研ぎ澄ませて歌に変えるのか。
そういう闘争も、是非見届けてみたいのだ。
舞台の上で演じられる美しいカーテシーは付け焼き刃の芝居ではなく、ガチお嬢様として身だしなみを躾けられてきた日々と、あらゆる存在に失礼なく生きようとした魂の名残だ。
そういう嘘っぱちの中にある本当を、窒息させかねない仮面のプロデュースを、アモーリスは跳ね除け顔を晒す。
それは彼女を祥子が誘った時、祐天寺にゃむの”顔を売る”と決めた約束が、果たされぬから投げ込まれた爆弾だ。
嘘をつき、裏切っているのは誰なのか。
虚実入り交じる舞台の上で、観客は不意打ちの脚本破りの真偽を知らぬまま、無責任に本物の喝采を叫ぶ。
眼の前で作り上げられるモノが本当か嘘か解らず、というかその境目を定めることに意味を見いだせないほどに没入していく劇的体験の生成は、ブシロがスポンサードしているプロレスの文化と共鳴した描き方だなぁ…などと思ったりするが。
上が押し付けてくるマスク路線を、打ち合わせ無しの下剋上で引っ剥がし、アモーリスは祥子の素顔を暴く。
ここで初めて、祥子が自分を包囲し期待し責任を追う観客席に目を向け、武道館を埋めるくらいのパフォーマンス集団になってしまっている自分/それに勝手で熱のある期待を寄せる群衆が描かれるのが、なかなか面白い。
それは冒頭描かれた、薄暗い”Killkiss”にも同じように蠢いていた。
にゃむの独断によって仮面を引っ剥がされ、作った脚本ではなく本音の下剋上によって激動したAve Mujicaは、それ故見えなかった/見えないふりをしてきた観客の存在、そこに生まれてしまう演じる責任に向き合うことになる。
夢と嘘を売り、世界観に飲み込む関係性は、パフォーマー同士でも、演者と観客という距離感においても一方的ではなく、双方向に共鳴し合い、変化を生み出す。
何しろLiveなワケで、衝動に突き動かされ、嘘と本当が入り混じった文脈に興奮する獣たちは、一人が定めた退屈な脚本よりも、乱入上等な生の律動にこそ心を踊らせる。
その波を掴まなきゃ、どん底から這い上がることだって出来ないのだ。
第1話でソッコー顔バレ…初期コンセプト大崩壊まで突っ走るスピード感に驚きつつも、祥子が盤面全てをコントロールできていない未熟さを健全に暴き立て、噛みつけばこそ生まれる変化に扉を開いたのは、痛快ですらあるスタートだった。
そういう大嵐の中で、睦が不器用ながらマジ祥子のこと好きで、初華の無邪気な信奉が守っている光が確かにあって、祥子が地獄に膝を曲げない気高い戦士であることも、しっかり見せてくれた。
ティモ様だけが地金をあんま見せていねぇのだが…ここら辺は立希ちゃんとの関わりで発火してくる部分かな、と思う。
こんだけドロドロ煮立ってると、仮面の奥全部に踏み込んでくれそうで期待だぜ!
こんだけ生臭いものを見せられつつ、「まー最後は自分たちなり、泣きながら笑えるようになんだろ!」と思えてるのは、祥子とCRYCHICの原点がMorfonicaのライブにあると、明瞭に書いてくれたからかもしれない。
あのバンドの真ん中にいる倉田ましろも、ポピパ達のライブを暗闇から見上げて、星の鼓動を受け継いで自分たちの舞台へ踏み出した。
ダメダメで凸凹な自分たちが、どんな歌を歌うべきなのかぶつかり合いながら決めて、舞台の上から見つめる世界の中に、在るべき自分の姿を探し出してきた。
そうやって上向きな未来へとCircleは繋がっていくわけだし、運命の導きでバンドになった連中の個性に合わせて、その音楽は様々であって良い。
仮面をつけなきゃいけなきゃ生きていけない、世界に満ちた苦しさや嫌味を、嘘っぱちが秘めてる輝きと意味を、歌うバンドがいてもいいのだ。
既にデカい箱埋めれる商業的成功を掴んでるAve Mujicaは、他のガールズバンドが歩いた地べたから自分たちの道を積み上げていくのとは、逆のコースを駆け下り(つまりは駆け上がる)ことになるだろう。
銭だバズだを超えた先にある、自分たちだけの音楽。
それを暴き立て描く画材は、人間の醜さ、世界の理不尽に汚れてキラキラしていない…ようでいて、そういうモノに嘘がないからこそ見えてくる、自分たちの本当に満ち溢れていると、僕は信じ願いたい。
そんなAve Mujicaだけの歌を掴むまでの、長い旅がここから始まる。
次回も、とても楽しみだ。