イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ:第39話『助言』感想

三週間ぶりのおまたせでした、スペースヤクザ血風録も残り1クール、オルフェンズ第39話です。
現代の神話を体現したMA戦の熱も冷め、待っているのは現実的な嫉心の粘つきという感じで、イオクを巧く乗っけたジャスレイがタービンズ潰しに駆け回り、死亡フラグが堆く積み上がる展開。
オルガが兄に差し伸べた手は優しく払われ、三日月とアトラとクーデリアのヘンテコな三角形はまだまだ揺らぎ、破滅はゆっくりと近づいてくる。
これまで描写されてきた、鉄華団タービンズという『家族』の近くて遠い距離が、ついに炸裂した感じでした。

というわけで、これまで埋め込まれてきた『一つしか取れないとなった時、名瀬が取るのは女の手』という伏線が、しっかり拾い上げられる展開。
僕は正直、タービンズ自体が鉄華団と正面から対立する形で手を切ると思っていたのですが、第三勢力が横殴りをした結果、名瀬さんもオルガも株を下げずに決別する感じになりました。
まぁ敵味方はそもそも分かりやすいし、名瀬さんの株が下がるのは勘弁ではあるが。

『家族とは、手を取り合って一緒に死ねる存在である』という定義は、一期最終盤で鉄華団が己を定義したものと、非常に似通っています。
『家族』の内側に通じるロジックは同じでも、歴史や痛みを共有していないのならそれは『他人』であり、楽しいことも苦しいことも、生きるも死ぬも全てを共有できる一種の狂気は、そこには宿らない。
名瀬がタービンズに張り巡らせた決意の防壁は、鉄華団から少し遠い場所にあるが故に、『家族』の形を客観的に見せてくれている気がします。
だから、今タービンズに迫りつつある破滅は、遠からず鉄華団という『家族』に、別の形で降り注ぐんだろうなぁ、とも。

一期からずっと、このアニメにおける『家族』というのはひどく気持ちが悪いもので、『家族』以外を切り捨てることで己を定義する、ひどく内向きで排他的な側面がありました。
名瀬がオルガの助けを断ったのは、むしろ彼らを『家族』と思っているから(その上で、一緒に死ぬほどには『家族』ではないから)ですが、むしろ名瀬やアミタと『家族』になれなかったジャスレイの方に、『家族』の排他性が覆いかぶさった感じがあります。
アミタがジャスレイを選ばなかった決断が絡みに絡んで、今回の結末にたどり着いてしまっているわけですが、男と女は誰かを『選ばない』ことで操を立てる側面があるので、ある程度はしょうがないかなぁ、とも思う。
そこら辺の問題を、速攻で平らにしに行ったあたりアトラは生命力に溢れ(過ぎ)ているなとも。

事態をかき回しているジャスレイが、何故名瀬と同じ天を抱くことが出来ないのか、どういう価値観の衝突があるのかは、ジャスレイの内面を語る尺が回ってこないので、あんま判りません。
アミタを取られた恨みなのか、いまいち外道ヤクザっぽくない名瀬とのスタイルの衝突なのか、個人的にはそこら辺知りたいですが、顔の悪いヤツにベラベラ喋らせる時間はねぇ、ということかなぁ。
名瀬さんたちが昔語りをする時間はたっぷり取られているのに、ジャスレイはイオク様の足らない頭を補い、鉄華団にハードコアな試練を与える障害以上の役目が与えられない感じを受けてしまい、ちょっともったいないですね。


『家族』の壁を乗り越えて、新しい可能性にたどり着ける希望として、ラフタがクローズアップされているのはなかなか面白いです。
家を出て新しい血を混じり合わせる未来を、夫にして父である名瀬は祝福しているわけだし、昭彦に体重預けても良いんじゃねぇのと思うけども、立場的には板挟みだしね。
ラフタがタービンズの中での死と、鉄華団の中での生、どっちを選ぶのかというのは、変則的に名瀬とオルガの男比べみたいな側面もあるので、どこにたどり着くか楽しみではあります。
いやまぁ、ラフタが押し出される波を生み出すのは、ほぼ確実に名瀬の死体なんで、あんま楽しめないけども。

思いがけず有効手を打ったイオク様ですが、ラフタル直々に『なんであのバカに人がついてくるの?』というフォローがされ、細かい株価回復の動きが見られました。
考えてみるとクジャン家も『家族』なわけで、大切な誰かを愛するが故にどうでも良い他人をぶっ殺しまくる矛盾というのは、このアニメのあらゆる場所に埋まっているのだなぁ。
視聴者の足場は主人公たる鉄華団にあるわけで、その邪魔をし、あまつさえラッキーヒットで良い点数稼いでいるイオク様には、相当ヘイトも集まってきていると思います。
ジャスレイと合わせて、分かりやすい『悪役』……という割には、『家族』の背負い方やら無力加減やら、イオクはオルガの影として機能しすぎてる感じもあるのよな。
そんな彼をどう使っていくのか、気になるところです。


大人が三角関係をこじらせる中、倫理を亜空間に蹴っ飛ばして妻妾同衾を是とするアトラの恋も描かれていました。
食うや食わずの生活を続け、今も生き死にがシビアに転がる生活をしているアトラにとっては、『より正しい恋がしたい』という建前よりも、『三日月に活きていて欲しい』という願いのほうが強いのだろう。
三日月の破滅主義と指切りして、一緒に地獄に逆さまになってしまうオルガに対し、アトラは自分の肉体や生理、『女だから子供が産める』というアドバンテージを利用してまで、生の岸に引き留めようとする。
それは浅ましくビカビカと輝く猛烈な生命主義であり、建前でかっこよく死んでいこうとするオルガや名瀬とはまた違う、一つの光なんだと思う。

そんなアトラの輝きを受けつつも、三日月は相変わらず自分を粗末に扱い続ける。
ケーブルのへその緒、コックピットの子宮に縛り付けられたまま、戦場以外に居場所を持たないところに追い詰められてしまった彼を生物として生かし、そこを超えた場所にある『人間らしい生き方』に導く。
アトラのそういう願いは、栄養補給のための餌ではなく、『人間らしい』食事を差し出すところに刻まれているのだけど、同時に悪魔のへその緒は三日月を縛って、アトラと同じ生活を送らせてはくれない。
一瞬他愛のないじゃれ合いに見える、ケーブルに邪魔されるやり取りの奥には、アトラの生への切なる願いの脆さと、アトラが象徴する方向に背中を向け、三日月を狭い子宮に追い込んでしまったオルガの残忍さが透けて見えた。
兄貴には袖にされるし、オルガくんはホント惨めな男やな……そこが好きやで。

三角関係の一端を担うクーデリアですが、アトラの超倫理主義恋愛にはついていけない常識人っぷりを見せつつも、真心自体は受け取るバランスの良い姿勢。
アトラの妊娠主義は、生まれてくる子供を『男をつなぎとめるためのアイテム』扱いしている危険性があって、そこら辺の本末転倒っぷりが鉄華団スタイルだな、とも思う。
そこに健全なバランスを与え未来につなげていけるのは、メインキャラだともうクーデリアくらいしかいない(名瀬は退場しそうだし)わけだが、同時にそういう健全さがむき出しのパワーを持ち得ないってのも、さんざん描写されてるからなぁ。
タービンズが打撃を受ける(もしかすると崩壊する)ことで、お話はさらに加速し狂気を増していくだろうけども、そこでクーデリアに何が出来るか。
気になるところだ。


というわけで、タービンズという鉄華団の足場を崩すことで、状況を加速させる回でした。
このアニメがずっと追いかけてきた『家族』の歪さや強さを確認し、道がどこに続いているのか、そしてどこがどん詰まりなのかを、丁寧に確認する感じでしょうか。
今回見えた破滅への獣道を、タービンズ鉄華団も、ジャスレイやイオクもしばらくは駆け落ちていくと思うのですが、さてその先に何があるのか。

お話に幕を下ろす頃合いがそろそろ見えてきたオルフェンズ、今回用意された事変の行き先もそうですが、それをどう使って物語をどこに落とすのかが、一番気になるところです。
死にゆく人々に、何を背負わせて退場させていくのか。
去っていく者たちから、残るものたちは何を受け取るのか。
今後の運び方に注目したいと思います。

 

鬼平 -ONIHEI-:第2話『本所・桜屋敷』感想

ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にはあらず。
人生の無常を、移り変わる季節に乗せて描く大江戸公安絵巻、第2話です。
今回も第1話と同じように、時が遷ろってしまう哀しみや人情を犯罪捜査の中で追いかけるお話なんですが、前回は『父』の立場から若人を見守っていた鬼平が主体となり、散ってしまった桜の悲しさ、過ぎ去った青春のきらめきを己の物語として語る形になってました。
ただ悲しく虚しいだけではなく、美しかった時代の思い出だとか、時間を飛び越えた再開だとか、変化の末に手に入れたものだとか、明暗両面をしっかり切り取る筆は、今回も健在でした。

第1話は『型』といいますか、『このアニメはこういう雰囲気で、こういうキャラクターが、こういう話をするんだよ』というアーキをしっかり見せる回でした。
なので主体を持って感情を変化させていく役割は粂八に預け、メンターとして話全体の手綱を取る仕事をしていましたが、今回は鬼平自体の過去が事件に絡み、鬼平自身の哀しみが画面に滲むという、主体性の強い物語になっています。
一発目で『ああ、こういう感じのお話だな』という納得ができた所で、過去の姿を現在と重ね合わせながら見せ、主役の造詣を掘り下げていく。
なかなか周到な構成だと思います。

テーマとしても第1話と重なり合う部分が多くて、『どれだけ過去が輝いていたとしても、それは過ぎ去って変化してしまうものだ』という真理を、麗しのマドンナ、彼女に抱いた純情を丁寧に追いかけつつ、確認していく話です。
粂八相手には大人の顔で、そこら辺の条理を噛み締め飲み込んだ態度を取っていましたが、鬼の平蔵と言えどもヤンチャしてた過去があり、友と青春を駆け抜けた記憶があり、淡くまっすぐな恋があった。
そしてそれは、非常な時の流れに晒されて劣化し、変化し、残酷に姿を変えてしまうものだというのは、粂八が変わり果てたお頭を『偽物だッ!』と切り捨てたのと、全く同じ構図なわけです。

しかしそこに流れるテイストは、粂八と鬼平の年齢や立場を反映し、かなり変わっています。
眉一つ動かさず拷問をこなし、非常に徹して江戸の治安を守る鬼平は、おふさの零落した姿、現実に飲み込まれて殺しも盗みも当たり前になってしまったあり方も、『まぁ、そういうもんだな』と飲み込めてしまう。
むしろ40にかかるまで、沢山の人生の苦味を飲み込んできたからこそ、火盗改メという苛烈な職務をこなすことも出来る人格が、しっかり形成されたともいえます。
だから、鬼であり続けるために平蔵は、雪の白洲に飛び出しはしない。

そういう人間の脆さや悲しさ、だからこそ感じる愛おしさを体現しているのが左馬之助です。
おふさに捧げた純情を大事に大事に守って40まで一人で来てしまった歩みは、あの瞬間すごく無残に裏切られるのだけれども、そういう男だからこそ、思わず雪の中に飛び出してしまう。
でも、何も言えない。
過去が変わってしまうこと、現実の重さに美しいものがすり潰されてしまう事実の前に、鬼平と左馬之助が共有していた美しい過去はあまりにも無力で、それでも美しくて、だから黙るしかない。
チャンバラシーンではなく、黙って流すしかない男の涙をちゃんとクライマックスに持ってきて、絵的にも刺さる形で届けてくれたのは、凄く良かったです。


そんな二人が共有しているもの、過ぎ去っていく時間を雪と桜、二つの吹雪で表現する演出は、非常にリリカルかつ明瞭でした。
現実の厳しさも人生の苦味も、何も知らなかった幸せな時代を彩る、暖かい春の桜。
時間が流れ花びらが雪に変わってしまった現在、二人は片や何も持たない素浪人、片や鬼となって悪を滅する火盗改メと、別々の立場で現実を背負っています。
雪の冷たさの中で、かつて恋した女がどん底まで擦り切れてしまった様子を見せつけられ、というか平蔵は治安当局者として罪(多分死罪)を言い渡す立場になってしまっている。
流れ行く時の冷たさが巧く雪に象徴されていて、それが桜と重なることで、失われた熱がグッと胸に伝わってくるのは、良い絵だなと思いました。

雪は冷たいだけではなく、過剰な熱を取り去り、妄念を浄化してもくれます。
鬼平は初恋を巧く乗り切り、無頼の人生とも別れを告げ、公安関係者として堅い(堅すぎる)仕事を手に入れた。
うなじのあだっぽい幻の女ではなく、家をしっかり切り盛りする妻を手に入れ、ボンクラ息子と可愛い養女を見守る立場になった。
鬼平が手に入れたものを最初に見せて、彼が過去ではなく現在に生きる揺るがないタフさを握りしめているのだと見せることで、話に安定感も出ていました。

鬼平のタフな現実をしっかり描くことで、彼の性格や立場も強く見えてくるし、過去に縛り付けラ得てしまった左馬之助の無残もより強調される。
エリート役人でありリア充家庭持ちである鬼平と、童貞こじらせた結果家無し職無し家族無しの左馬之助を並べるのは結構ヒドイなと思うのですが、そうすることで左馬之助が犠牲にしたもの、そうさせた思いの純粋さが、より強く見えてきもする。
平蔵が一切揺るぎのない『鬼』であり続けるためには、過去の幻想に現在の自分を捧げるロマンチストであってはいけないわけですが、このお話にどうにもやりきれない叙情性を宿し、人生の一側面を確かに切り取ったという実感を与えるためには、ロマンチストが必要なのです。
そういう仕事をやってくれているのが左馬之助であり、彼との再開を『俺も同じように、かけがえのない再開だと思っているぞ』と言葉にしてくれることで、鬼平への信頼感もより強くなる。
第1話でもそうでしたが、ゲストキャラクターとの対比の作り方、見せ方が堅牢で魅力的ですね、やっぱ。


絵空事であるキャラクターの人生を、実感を持って『俺の話だ』と感じ取るためには、作品の手触りというのは大事です。
稀代のグルメでもあった池波先生はそれを『食』の表現で作っていたわけですが、アニメ鬼平でもしっかり飯が旨そうで、非常に良かったですね。
森木靖泰を専門で置く気合の入れようが見事に刺さっていて、軍鶏鍋に蕎麦に、寒い冬の景色をほっこりと温めてくれる、一筋の灯明でした。
世知辛い話だし、そういうのを強調する美術の使い方だからこそ、暖かい食事が糧食以上の意味合いをちゃんと持ってくるわけだね。

手触りの作り方という意味では、おふさの色香の出し方とかもかなり良かったです。
清廉だった過去はスッキリと、崩れ果てた現在は汁気たっぷりに描写しつつ、男たちの純情の焦点である『うなじ』を効果的に共有させていました。
落語心中でもそうだったけど、林原さんはすっかり婀娜な女をやりきれる声優になったなぁ……すっかり人生を諦めきっていて、事情を述べるときも感情が一切揺らがない乾いた強さが、非常に良かった。

あと彦十の枯れた塩梅といいますか、アウトローの気配を残して老いている景色も良かったです。
平蔵が縁を切った荒れた世界にはまだ橋が残っていて、そこを渡って彦十が火盗改メの世界に入ってくる。
光と闇、過去と現在の境が明瞭ではなく、なんとも割り切れない曖昧さを残していればこそ、そこで語られる人生の物語にも、深みと味わいが残る感じでしょうか。
そういう作品世界の複雑さを強化する意味で、老密偵の彦十は大事なキャラだし、飯塚昭三の激渋っぷりも最高にマッチしてました。
ほんとなー、声優陣最高中の最高で、毎週耳が幸せなんだよなアニメ鬼平


というわけで、第1話と同じく流れる時の無情さを扱いつつ、鬼平を主体に据えることでまた違った景色を見せる、いいお話でした。
時間と一緒に流れていく感情と涙、血と痛みを感じ取れればこそ、超絶無敵の最強中年ではなく、一人間として長谷川平蔵を感じ取ることが出来る。
主役の内面に切り込みつつ、過去の甘い幻想に逃げ込まないタフさもしっかり強調できて、余韻のあるエピソードでした。

二話まで見てみると、『無常でありながら情に満ちた人生を、様々な角度から切り取っていく』という原作のエッセンスが、アニメでも同じように健在であることがわかります。
そこを抑えつつ、アニメ独自の表現法、アニメだからこそ使える表現力に果敢に挑戦し、生きた体温を込めて『鬼平』を語り直してくれるこのアニメ、既に信頼感が凄い。
来週は"暗剣白梅香"ですが、どういう描き方であの話を見せてくれるのか。
非常に楽しみです。

ACCA 13区監察課:第2話『悪友の名はニーノ』感想ツイートまとめ

リトルウィッチアカデミア:第2話『パピリオディア』感想

信じる心があなたの魔法!
ど真ん中から魔法と青春を扱うTRIGGERの新境地、二話目であります。
どっしりと腰を落とし魔法少女学園青春物語をやってくる姿勢と、アニメーション独特のスペクタクルを大事に盛り上げる気概は二話になっても衰えず、非常にベーシックかつ丁寧に話を進め、胸躍る冒険を作り上げてくれました。
舞台となる学園の日常、仲良し三人組とは違う立場のダイアナ、シャイニーシャリオの現在など、一話で少し語り足りなかった部分をちゃんと説明しつつ、魔法学校の素敵な日常をしっかり描写する。
タイプの違う主人公とライバルの運命の出会いを描き、そこで生まれる科学反応への期待をグンと高める。
二話目でやるべきことを完璧にこなしているのに、惰性や手抜きを一切感じない、素晴らしくフレッシュなお話だったと思います。

というわけで、ドタバタ転がりながら魔法の国までたどり着く勢いが、非常に気持ちよかった第1話。
それに比べると、じっくりと朝の風景を見せるアバンからして、落ち着きを感じる第2話です。
無論、パピリオディアの復活絡みでアクションなどもあるのですが、重くて速いストレートで視聴者を掴んだ所で、じっくりとフットワークを見せて足場を確認していく緩急の付け方。
非常に良いと思います。

アバンの丁寧な描写は様々な意味を含んでいて、アルクトゥルスの森での冒険を通じて三人組が仲良くなった様子とか、イニシエーションを経て日本にサヨナラしたアッコが新しく手に入れた『日常』とか、色んなものが見えてくるシーンでした。
『魔法学園』という異郷に心が踊っているのは、アッコだけではなく視聴者もまたそうなので、浮かれている様子をスーシィやロッテと対比しつつ、巧く感情をシンクロさせる見せ方でした。
アッコの幼さや劣等生具合、我が道を行きつつ優秀なスーシィ、万事控えめなロッテと、朝の風景をじっくり回しつつキャラの個性が見えて、ストイックな描き方が良かったです。
ケレンの効いた派手さを使いこなしつつも、地面に足の付いた成長物語がこの話の土台になると思うので、こういう何でもない風景をしっかり見せてくれると、作品を見ている側も居場所を見つけられる感じでうれしいですね。

ここで三人が見せた気の置けない関係性というのは、今回のエピソード、そしてお話全体を受け止める大切な足場になります。
普通人で日本人で異物なアッコは、オールドスクールな魔法学校の中では、常に試されバカにされる立場にいる。
その時もし孤独ならば、無神経に見えて結構ナーバスなアッコはすぐに期が滅入ってしまうと思うのですが、二人のルームメイトが支えてくれるのであれば、乗り越えるべき成長の試練になりえます。
ここら辺は、クライマックスで魔法を打つ時、アッコの背中を二人が支えていた描写からも感じられますね。

彼女らの関係が初対面から進展したのは、アッコの頭に生えた若葉からも良く感じられます。
ああいうイタズラを許し合える程度には三人は心を許し合っており、同時にスーシィが悪戯好きな小悪魔加減とか、あれだけのことをされても気づかないアッコのマヌケっぷりも見えてくる。
始末の仕方も、ダイアナが強力な魔力を持っていること、そういうケアを何の気なくやれる気持ちの良い子だと示すことが出来ていて、関係性と個性両方を、コメディの中で際立たせる運び方でした。
こういう見せ方は、授業の風景をテンポよく進めていく中でも、朝の風景でも感じられますね……スーシィのガスマスクとか、一人だけ毒ガス吸い込んで悦に入ってるところとか。

そしてその友情は、なんか大上段にどどんと構えて宣言するものではなく、時間と空間を共有し、当たり前の(でも魔法的に輝いている)『日常』を共に過ごす中で、自然と生まれてくるものです。
授業前の賑やかな支度の様子、そして三者三様に退屈している授業の様子をじっくり追いかけることで、彼女たちの関係がどれだけ力みのない、柔らかなものかが伝わってきます。
美術が非常に良いので、世界をじっくり魅せてくれても退屈ではないどころか、むしろ『もっと見せてくれよ!』って気になるのは強いですね。
まぁここら辺は、僕が『ここではないどこか』を描く童話や児童文学に、強い興奮を覚える性癖だから、ってのもあるんでしょうが。

この穏やかな関係がスッと入ってくるのは、前回コカトリスと激しいチェイスを繰り広げる中で、各キャラクターの個性、彼らの関係構築が強めに叩きつけられたからでしょう。
アクションの中で一気に育まれる友情も、日常を共有する中で積み重なる思いも、両方本当のものであり、その緩急がお互いを引き立てるような上手い構成で、少女たちの友情が描かれています。
TRIGGERの強みを乗りこなしているのは、何もケレンの効いた作画シーンだけではない、ということです。


抑揚の効いた見せ方の巧さは、今回もう一人の主役ともいえるダイアナからも感じ取れます。
魔女界の血縁主義の権化であり、教師も上回る実力の持ち主、シャイニーシャリオは大嫌い(ということになっている)。
ドンガメ劣等生のシャニオタ・アッコとはきれいに正反対のキャラクターであり、一見類型的なライバルにも見えます。

しかしその描き方を追いかけてみると、周囲の連中のようにアッコの血統や能力をバカにすることはなく、かなり冷静に状況を見据えていることが分かります。
アタリがキツいだけで、ダイアナ自体はエリート意識に支配されているわけではないし、自分の実力に天狗になっているわけでもない。
サイドキックにギャーギャー騒がせて、『ライバル』のイメージを上手く膨らませつつ、ダイアナ自体の素直なキャラクター性は歪めていないのは、非常に上手いですね。
結果として一騒動起こしてしまった励起術式も、噂に聞いた(『過去だった憧れ』という意味では、アッコがシャイニーシャリオに抱く想いと同じ)記念樹が弱ってしまっている現状を、自力でどうにかしようと頑張った結果なわけです。

あそこで先生に相談するのではなく、自分の思いに素直に行動し、自力で結果を引き寄せてくるダイアナは、実は猪突猛進なアッコにそっくりです。
劣等生と、優等生。
気持ちを素直に口にできるアウトサイダーの子供と、家に縛られ大人を演じるインサイダー。
二人は正反対に見えますが、強い思いを留めておけない魂のスタイルは、双子かと思えるほどによく似ています。
つまり、対立するかのように見える二人の立ち位置にはちゃんと橋がかかっていて、今後融和の物語も書かれるのだろうな、と期待できるわけです。

ここら辺の予感は今回非常に丁寧に扱われていて、アウトサイダーであるアッコが読めなかった『正式な発音』を、インサイダーがるダイアナが己のアドバンテージを分け与える形で伝えているシーンに、強く象徴的です。
奇蹟の蝶を羽化させたのがアッコなので、一見彼女のアドバンテージが目立ちますが、しかしそれはダイアナが培ってきた知恵があってこそ、生まれた結果。
教師を上回る知恵は『キャンベディッシュ家1500年の伝統』に応えようという努力があって初めて、ダイアナのものになった力です。
『大人であれ』『名門に相応しい優等生でいろ』という抑圧は、ダイアナを縛る鎖であると同時にダイアナ『らしさ』を構成する、かけがえのないものでもあるわけです。
自由奔放な主人公を無条件に持ち上げるするのではなく、その出来ないっぷりを冷静に描きつつ、優等生の憂鬱と抑圧、そして抑圧故に手に入れたモノの価値も、しっかり切り取る。
そういう冷静かつ公平な描き方の奥に、お互いに足りない部分を見つめ、引き寄せられ、反発し、その先にお互いを見とめ高め合う未来の物語が、コンパクトかつ的確に素描されています。

ダイアナはまだ、周囲が押し付けてくる優等生(と、その立場にいるものが当然するべきと思われている、差別主義者)のロールを超越できません。
『奇蹟は私が起こしたんじゃなくて、あの劣等生の日本人がやったんです!』と、真実を口にし、今までの立場を乗り越える勇気はまだない、ということです。
しかし今回の描写でも、ダイアナがアッコの中に自分にない魅力を見つけていること、それを足場に前に進める子であることは、しっかり伝わってきました。

そしてそれは、アッコがシャイニーシャリオに憧れて魔法学校にたどり着いたのと同じ、『あなただけの魔法』の物語なのです。
主人公とライバルが同じ魂の色をしていて、同じ形式のストーリーを自分なりに歩もうとしている。
そういう強靭な物語の骨格が、二話の段階でしっかり見えているのは、お話全体を信頼するのに十分な足場だと、僕は思いました。


ぶっちゃけ僕は、第2話でダイアナのことが凄く好きになってしまったのですが、アッコを構成する大事な要素であるシャイニーシャリオのことを、ダイアナは実は好きなんだろうな、と思います。
アルコルのぬいぐるみを手放さなかったアッコは、良い意味でも悪い意味でも『幼さ』や『無垢さ』を失っていないキャラクターで、その対比たるダイアナは、一足先に大人になってしまって、シャイニーシャリオを否定しています。
第2話でも奇跡を起こしたところを見るだに、この話がアッコが持つ『自分らしさ』が世界を変えていく物語であり、その変化を受け取って、アッコ自身も『自分らしさ』を変化させていく話なのだろうな、というのは良くわかります。
シャイニーシャリオへの思いを二人が共有しているのなら、それは非常に面白いことだし、正反対なのにそっくりな二人が、お互いの物語を積み上げていく足場にもなるでしょう。

この話が貪欲なのは、シャイニーシャリオへの幼稚な(しかしあまりに真実の)憧れを軸に二人を対比させるだけではなく、既に夢を終えてしまったアーシュラ先生の姿を、しっかり写し取っていることです。
今回の話は主にアッコとダイアナの出会いの物語なんですが、彼女たちが放散するシャイニーシャリオへの無垢なあこがれ(とその反転としての侮蔑)を浴びて、当惑するアーシュラ先生の姿も、しっかり挟み込まれています。
これはつまり、『そのうち、アーシュラ先生の終わった(つまり終わっていない)青春の物語もやるぞ!』という予告でしょう。

そういう期待が高まるのに十分な愛嬌が、今回のアーシュラ先生にはありました。
アッコの表情に特徴的ですが、作画力を活かして細かく芝居を付け、人間味と可愛気を出していく演出がこのアニメでは冴えています。
本を取り落としそうになった後のコミカルな芝居も非常に面白くて、かわいくて、アーシュラ先生を一発で好きになれる、良い見せ場でした。

そういう『動』のフックだけではなく、アッコとダイアナを静かに見守る表情も色彩豊かで、『静』のフックが強くありました。
決着を付けたはずの青春の残影が、少女の胸の中でまだ熱く燃えていて、前に進む猛烈なエネルギーになっていること。
それに当惑しつつも、特別レッスンを申し出るくらいにアッコのことをよく見ていて、『シャイニーシャリオ』から『アーシュラ先生』に姿を変えても、見守り導いてくれる『憧れの大人』であることには変わりがないこと。
騒動を外側から見守る『大人』な彼女を追いかけるカメラが非常に丁寧で、いろんなものを教えてくれるのが、本当に良かったです。


ライバルやメンターが光り輝いて見えるのも、話の主軸たる主人公が堂々と己を主張しているから。
授業にはさっぱりついていけないし、目の前の現実よりも頭の中の理想を追いかけちゃう夢想主義者だし、ちょっと追い込まれるとすぐウルウルしちゃう弱虫ちゃんだけども、話を背負う上で絶対に間違えてはいけない部分では、アッコは今回も完璧な立ち回りを見せていました。
シャイニーシャリオをダイアナに貶されても、世間の評判を気にせず、胸に宿った『あなただけの魔法』を押し出してくるところとか、『お前……お前マジ二億点!!』って感じでした。
主人公はやっぱ、お話のコアの部分を裏切ってはいかんわけですよ。
むしろ恥ずかしいぐらいにガンガンと、前面に出てグイグイ主張してくれるとマジ二億点なわけですよ。

アッコとダイアナを通して見えたもう一つの部分は、この話が暴力に対してかなり独特のスタンスを持っている、ということです。
第1話でシャイニーアークをコカトリスに対して撃たなかったこと、あくまで未来と運命を切り開くために力を使ったことからも分かりますが、直接的な暴力はこれまで、この話の問題を解決しません。
寄生虫=悪』と考え、持ち前のパワーをその排除のために使ったダイアナの前に、アッコが体を張って立ちふさがる一連の流れも、それを引き継いでいるといえます。
ダイアナが暴力を行使し他人を傷つけることに、自分自身も傷ついてしまう正しい、そして優しい感受性の持ち主であることを見せる意味合いもあるかな。

あそこでダイアナが全ての蛹を殺してしまっていたら、120年に一度の奇跡は実現しなかったし、ダイアナが自分とは別の可能性に出会うこともなかった。
(ダイアナがシャイニーシャリオへのあこがれを隠しているとしたら、シャリオの縁者といえる蛹を殺すのは、過去の幼い自分を殺すことと同義であり、『魔法』を心から信じる幼さに肯定的なこのアニメにとって、それはかなり致命的な行動になりえます。アッコは蛹だけではなく、ダイアナが心のなかに隠している無垢な子供もまた、体を張って守ったわけです)
魔法の力は非常に強力で、鉛筆線がそのまま出てくるような撮影効果でその独自性を強調されるくらいのパワーなんだけども、何かをぶち壊しにする力として使っても、120点の真実にはたどり着けないわけです。

『たとえ自分が傷つくとしても、大切なものが損なわれるのを黙ってみていられない』というアッコの美点は、一話でロッテを助けた時と同じものですね。
それはシャイニーシャリオの幻影を未だに本気で信じている、夢と希望という幼い『魔法』を前に、ためらいなく踏み込めるアッコだからこそ、ノータイムでたどり着ける結論≒真実です。
幼さを肯定し真実を力に変えていくロジックの組み方こそが、キャラクターデザインや色彩や美術や小物以上に、このアニメが児童文学の精髄を正しく継承している証明だと言えるでしょう。

 

魔法物語として考えると、アッコのグリモワールが古臭い教科書ではなく、己の憧れと親愛がたっぷり詰まったTCGなのは、今風だし独特だし強さがあるしで、二億点の演出でした。
アッコは常に、アウトサイダーとして慣習にとらわれることなく真実を見つけるキャラであり、そんな彼女の魔法が『オモチャでしかない、シャイニーシャリオのカード』だというのは、非常に巧妙な逆説です。
そのカードが第1話で失われかけ、一見『なんでそんなものに固執するんだろう? 危ない目に合うほどのものなのかな?』と疑問に感じるアイテムなのも、話の連続性を活かした素晴らしい見せ方だと思います。
幼い憧れを守りたかったアッコの気持ちがあればこそ、今回魔法が発動できて奇跡が起こるという流れにすることで、アッコのメンタリティも、彼女が背負う物語のテーマも、圧倒的に間違ってないと見せることが出来るからね。

今後アッコは自分だけの魔法、自分だけの魔導書に導かれて、失敗や成功を繰り返しながら『自分らしさ』を見つけ、また変えていくでしょう。
そんな彼女の姿を見ることで、友人たちもまた変化したり、アッコを支えたりしてくれるでしょう。
その中心にあるのは表面的には魔法ですが、それが発動するときには常に、アッコの胸のときめき、幼い日に見た幻影への限りない憧れが輝いています。
ワンダー溢れる魔法表現で視聴者を楽しませつつも、魔法が心の力であることをけして忘れず、物語と感情のうねりの先に発動させている徹底も、すごく良いと思います。
今後物語が辿るだろうレールをしっかりと見せ、強い論理性と証明してくれたのは、アニメシリーズ全体を信頼するに足りる、強い足場だと思います。


というわけで、素晴らしい第2話でした。
魔法学園の弾むような日常風景、ルームメイト達の柔らかな友情、それとは違う、でも同じくらい尊いダイアナの精神。
主人公たるアッコの幼さと純粋さ、おまけにドジでダメダメな所もしっかり感じ取れ、いろんなものをたっぷり食べられるエピソードでした。

日常風景のしみじみした味わいあり、魔法が弾ける時の驚きと喜びあり、輝く日々のちょっとした陰りもしっかり描く。
ど真ん中に『魔法学園ストーリー』という芯がぶっとくあるおかげで、色んな表現がしっかりと立ち上り、とても楽しいお話になっていると思います。
この強靱で繊細でパワフルな物語が、どう転がっていくのか。
少女たちの魔法に満ちた青春が、どんな表情を見せてくれるのか。
リトルウィッチアカデミア、二話にしてマジで期待しかありません。

昭和元禄落語心中 -助六再び編-:第2話感想

行きつ戻りつ因業の輪、世代を超えて繰り返されるカルマの車輪、落語心中二期二話でございます。
一話で助六の主人公力を確かめ、良い所をグッと出してきてさぁイイハナシだよ! とはならないのがこのアニメであり、今週はとことんダダスベリな与太郎メインでした。
助六はとにかく陽性で、彼と触れ合うことでみんな良くなっていくキャラなんですが、作品全体を支配するネガティブなオーラとそういう性根が、巧く噛み合わないのも事実。
ここで彼が持っている焦りとか劣等感とか不足とかをちゃんと描写することで、彼がこの物語の部外者ではなく、他の皆と同じように陰りを持っていることが伝わってきました。
こういう話を挿入しないと、助六が世界を変えていくエンジンに火が入らないあたり、難儀で楽しいお話ですね。

というわけで今回のお話のコアは"錦の袈裟"ですが、他のエピソードでの噺の使い方と同じく、上手いことエピソードテーマを拾い上げるチョイスでした。
身の丈に合わない衣を手に入れようと、間抜けの与太郎が右往左往するさまが面白い話なんですが、これは助六を襲名しつつも自分が見つからない与太郎自身と、見事に重なり合います。
アマケンが見事に指摘したように、助六と八雲、二人の名人の影を追い続けた与太郎には『自分』というものがなく、つまり自分の噺もない。
足場がないので思わず力みすぎて、子供がいるのに艶笑ネタかけちゃうし、高座で肌晒しちゃうしで大失敗もするという、なかなか笑えない展開でした。

必死に演じているのに客が掴めない、それどころかガンッガン席が冷えていく焦燥感というのは、追いかけている八雲も一期で捕まったものです。
生まれたときからの名人なんてものはなくて、皆同じように焦りや実力不足に悩み、失敗から学んで自分を見つけていくものなんだと思えば、今回のダダスベリも安心して見て……はいられなかったな。
カメラワークとカッティングに自身があるから、どっしり時間を使って噺全部を見せる演出が使えて、その過程で場が壊れていく臨場感も耐えられないほど高まっていくのは、このアニメ独特の強さだなぁと思いましたね。

助六は家族を知らない孤児であり、生き方に迷った元ヤクザなので、過去の自分に誇れるものが何もないのでしょう。
帰るべき場所がないから、どっしり腰を下ろして『これが自分だ』といえるものがなく、落語が好きな理由も『落語が好きだから』というトートロジーにもなる。
その重荷のなさは、前回見たように未来への希望を連れてくるんだけども、同時に芸を結いつける確かなオリジンが喪失していること、それを埋めるべく、『今楽しいこと』である八雲・二代目助六の芸を尊敬し模倣し続けることにも繋がっている。
わりかし最悪の形で彼の身軽さが爆発した形になりましたけども、その身軽さで捕まえた樋口が鎹になって、八雲に温かい言葉をかけてもらって前向きにヒイたのは、とても良かったと思います。

『色の入っていない鯉金』も、与太郎/助六の現状を凝縮する良いフェティッシュでした。
ヤクザとして背負った過去を背負うことも否定することも出来ず、中途半端に悪口だけ言われている状況が、"錦の袈裟"をスベらせたもう一つの理由でもあります。
過去の自分を肯定できないからこそ、他人に自分の証を求めてしまうのが助六の弱さである以上、それは世間に暴かれるし、向かい合って何らかの結論を出すべき問題でもある。
最終的に八雲が『色入れて背負いなさい』と、鯉金が意味するものを言語化し道を示してくれるわけですが、そうやって言葉になる前から、色のない鯉金は与太郎の迷いと弱さを絵にしてくれていました。
鯉は登龍門をくぐって天に昇るものなので、それに色が入るのは、噺家としても大成の足がかりを掴むっていう意味合いも込められているかな。


主役だけではなく脇の描き方も繊細なのがこのアニメの良いところでして、一見ただの小言屋のアマケンの描き方、非常に良かった。
口うるさくなるのは、落語の未来を本気で案じているから。
いちいち突き刺さる一言を言えるのは、与太郎の芸とニンをしっかり見てくれているから。
引っ被った『イヤなやつ』の皮の奥に、落語を時代と心中させないためには絶対必要な硬骨漢の骨がしっかり見えて、好きになれるキャラだなぁと思いました。
助六が落語の作法に詳しくないんで、アマケンが『正しい落語』を言葉にしてくれると、見てる側も判断に迷わないんだよね。

二期の重要人物っぽい樋口も、一筋縄ではいかない光と影を表情に刻んで、面白い立ち回りをしていました。
八雲に袖にされた恨みがどれだけ残っているかはさておき、落語と心中を企てている八雲も引っくるめて、落語という文化それ自体の命をつなげたいってのは、結構本音な気がするなぁ。
色々問題はあるけども、助六が挑もうとしている落語の延命はとんでもなく立派で、大変な仕事だと思うので、裏があるとしても樋口先生にはしっかり支えて欲しいと思います。

"錦の袈裟"で子供がゲームボーイやってるのも、このアニメらしい『語らない語り』の上手さでした。
大体の時代をあのアイテムから感じ取ることが出来るし、二期一話のレンタルビデオショップと同じように、ひっそりと落語が娯楽の王様の地位を失い、新しい楽しみに包囲されつつある現状を、しっかり見せることが出来る。
この状況は二代目助六が恐れ、約もと一緒に打破していこうと一度は誓った未来そのものなわけで、三代目助六が果たして立ち向かい、勝つことが出来るのか、長いスパンで戦う問題でもあるんでしょうね。


そんな希望を据えられた八雲は、すっかり自分の命と巻き添えに落語を殺す気まんまんで、樋口に釘を差されていました。
助六とみよ吉が一緒になって逆しま落ちた時から、八雲の人生は全て余生であり、小夏に言った『とっとと殺してくれよ』ってのも、案外戯言じゃあないんでしょう。
しかしそれなら、なんで与太郎を弟子にとって今でも師匠やってんのかという話になるわけで、あらゆる人間と同じように、八雲の中にも死にたい気持ちと生き残りたい欲望がぶつかり合っている。
そこら辺の希死念慮はOPで象徴的に描かれているわけですが、八雲を誘う死神に、三代目助六が代表する生者たちがどれだけ抗えるのかは、今後大事な部分になるでしょう。
二代目助六の影響をどう乗り越えるかっていう、噺家としての三代目助六の戦いも、生者と死者の戦いだしなぁ。

今回は『雑音』の多い話で、アマケンの耳に痛い小言に、"錦の袈裟"を包み込む冷たく激しい雨、八雲を悩ませる信乃助の鳴き声と、あらゆる場所でリフレインしていました。
信乃助の邪気のない仕草はとてつもなく可愛いのですが、八雲にとってはベッタリした生の温気の象徴みたいなもんで、逃げ出したくてしょうがねぇウンザリごとなのでしょう。
それでも、行きてる限りガキは懐くし、放っておいてヒドイことになるのを座視も出来ない。
雑音もまた、人生の音楽の一つなのでしょう。

つうか、小夏と八雲が同衾している絵があまりにエロティック過ぎて、おめーそれはどう考えても親子の距離感じゃあねぇだろと。
間違っていたら八雲師匠に土下座なんですが、『信乃助の父親、どう考えてもアンタだよね』っつー、艶の乗った演出でした。
もしそうだとしたら、親子同然の女と色を交わした八雲の心情、それを殺さず産み切った小夏の心、どれもとんでもない業に塗れた、一筋縄ではいかないカルマそのものだなぁ……表沙汰になった時、助六受け止めきれんのかコレ……。
……『二代目助六の子供を生みたかった』がこのねじれの根っこにあると、こりゃホントにヤバいな……。(推測を積み重ねて危険高度までアガるマン)


というわけで、それぞれの人生の中で生と死、色と情が絡み合う、落語心中らしいエピソードでした。
人生の陰影を色濃く描きつつ、それがはっきりとは別れず混じり合って、複雑怪奇な業を軋ませながら進んでいく話運びは、やっぱとんでもなく魅力的だなぁ。
今回やらかした助六の"錦の袈裟"もまた、八雲がそうであったように『自分の芸』に出会うための大事な足場になって、成功をつかむ足場になるでしょう。
痛いほどに間違いを切実に切り取りつつ、闇から光、失敗から成功へと潮目が変わる予感もちゃんと作ってくれて、良い話だったと思います。

しかしその足場が、ふらりと揺らいでしまう危ういものだってのも、このお話が睨んでいる人生の真理。
移り変わる時代、迫り来る老いと変化の中で、男と女は何を見つけ、何を失っていくのか。
ここからの話運びが非常に楽しみになる、味わい深い第二話でした。