イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

アイドルマスターシンデレラガールズ 2nd Season:第17話『Where does this road lead to?』感想

 

・目次
1)はじめに
2)大まかな構造
3)城ヶ崎美嘉の憂鬱
4)靴と足のモチーフ
5)常務と部長
6)プロデューサーの国盗り
7)赤城みりあの幸福と憂鬱
8)城ヶ崎莉嘉の幸福と憂鬱
9)凸レーションと携帯電話
10)衝突する城ヶ崎姉妹
11)Bパート開始
12)莉嘉の発見
13)みりあと美嘉とお姉ちゃん
14)城ヶ崎姉妹の幸福な結論
15)まとめ

 

1)はじめに
行き先定かならぬ道を手探りで歩いて行く少女たちの成長譚、17回目の今回は凸レーション+城ヶ崎美嘉の物語。
メインアクターは第10話と同じ顔ぶれなんですが、あの時主軸だったきらりをサブに下げ、代わりに美嘉を問題の当事者として押し上げる構成を取っています。
『大人と子供』『お仕着せと自分の服』という印象的な対比を巧く使いつつ、三人のメインキャラクターが抱える個別の葛藤、共通の問題を丁寧に描くことで、CP全体、アイドル全体、人間全体を視野にいれるような、立派な話になっていました。
あくまで扱うのは城ヶ崎姉妹とみりあ姉さんの悩みながら、リフレインと象徴を効果的に演出することで、結果としてより広くより遠いところに届くテーマ性を手に入れています。
可愛くて、面白くて、ホッとして暖かい。
エンタテインメントとして、本当に素晴らしいエピソードだと思います。


2)大まかな構造
それでは、まず今回の話しのおおまかな部分をさらっておきます。


今回のメインアクターは赤城みりあ城ヶ崎美嘉城ヶ崎莉嘉の三人です。
彼女たちはそれぞれ、自己の持つイメージと、他者の持つイメージにすれ違いを抱え、『モヤモヤ』を解消できなくなります。

『姉』として母に甘えられないみりあは『大人であることを要求される子供』
無様なスモックを着せられる莉嘉は『子供であることを要求される子供』
ギャルキャラを捨ててキレイ目で売ることになった美嘉は『大人であることを要求される子供』

それぞれ、他者が自分に要求する社会的イメージと、自分が持ち、達成したいと願う自己実現のイメージが食い違う状況にあるわけです。
ここで全くバラバラの問題を背負わせるのではなく、『姉/妹』という共通タームを巧く使い、『大人/子供』という視点一つに絞り込んだのは、見事な作りだと思います。
みりあと美嘉が公園で共感したのも、ただ『姉』という立場が共通していたのではなく、『大人であることを要求される子供』の辛さ、自己イメージと他者視線のズレを共感できたからでしょう。


それぞれが抱え込んだ『モヤモヤ』は巧く解消されないまま進み、住環境を同じくする城ヶ崎姉妹は衝突します。
上手く行かない状況はしかし、『モヤモヤ』を素早く感じ取った年長者(みりあには美嘉、莉嘉にはあんきら智恵かな)の助けにより好転していきます。

莉嘉は杏ときらりの問答を聞くことで『何を着ていても自分は自分、外部からの押し付けも変化させられる』と気づきます。
みりあは美嘉とデートをすることで『子供』でいたい欲求を満たし、『姉』の辛さを共有することで母に歩み寄り、より良い関係を築きました。
ここで単純に年長者=助ける側としないのは第10話と共通であり、みりあをデートに誘って閉塞した空気を変えた美嘉は、みりあの胸の中で泣くことで気持ちを一新し、莉嘉が手に入れた気付きを自分のものとして、押し付けられたキレイ系を自分らしくアレンジします。
こうして三人が抱えていた問題は解決され、事態は物語開始時よりもより望ましい状態に落ち着きます。


こうしてまとめてみると、『大人/子供』という共通点を取り出しつつ、その根底にあるのは『他者/自己』の間にある対立/融和だということがわかります。
莉嘉がアレだけスモックを嫌うのは、同級生に『大人』であると証明するべく意気込んだ直後に、あまりにも無様でグロテスクな『子供』の象徴を強要されたからでしょう。
美嘉がキレイ系で売ることに忌避感を覚えるのも、それがカリスマギャルというこれまでの彼女、他人に認められ自分も誇りを持っていたイメージを、全て捨て去ってしまうからでしょう。
達成したい自己イメージと、正反対のイメージを他者が要求しており、それを投げ捨てられない事態が彼女たちの『モヤモヤ』の根底にあります。

ここで重要なのは、『自己イメージは無条件に正しくて、他者からのイメージは即座に悪いものだ』という単純な図式を導入していないことです。
みりあにとって『姉』であることは、母に甘えられない辛い立場であると同時に、『お姉ちゃんになったんだよ!』と胸を張りたくなるような、誇らしいイメージでもある。
『姉』であり続けることで自分の大事な人により良い成果を与えられると判っていればこそ、みりあは物分かりよく、『大人』らしく振る舞い続け、結果心のなかの『モヤモヤ』を増大させていくわけです。

まだ10代である彼女たちは、楓さんのように自分が正しいと思うイメージそのままに振る舞う自由はありません。
違和感を感じつつも美嘉はキレイ系の撮影をすっぽかすことはしないし、莉嘉だって嫌々ながらスモックは着て、リハーサルもやる。
自分たちを取り巻く他者の集合体あってこそ、自分自身も存在できるという社会の基本的なルールを、彼女たちはちゃんと理解しているわけです。
『ロックンロール!!』と叫んでお仕着せと社会的責任を脱ぎ捨て、社会の外側に飛び出してしまうことも一つの解決策なのでしょうが、それがもたらす破壊の大きさも十分知っている少女たちは、あくまで現状のまま巧くやる方法を求めています。
しかし、他者は自分を分かってくれないし、それをいきなり望ましい形に変えられる力も彼女たちにはない。
責任感と自分らしさのジレンマが、それぞれ別の形で発露し回転することが、今回のお話を前進させるエンジンになります。

紆余曲折を経て、少女たちは自分なりの結論に到達します。
みりあならお母さんに歩み寄り『姉』という立場を自発的に背負っていくこと。
城ヶ崎姉妹は押し付けられる衣装を脱ぎ捨てず、自分の納得できる形にアレンジして着ること。
それは彼女たちの迷いと、それを通じて手に入れた貴重な現状認識の結果選びとった、他者と自分の距離感どころです。
それを妥協ということも出来るのでしょうが、今回のお話が持つ精神的・社会的なバランスの良さを見ると、和解という言葉のほうが似合う気もします。

 

3)城ヶ崎美嘉の憂鬱
それでは、実際の映像の流れに沿いつつ、時々時間を先取りしたり、戻ったりしつつ作品を見ていきます。


お話はまず、美嘉が強要されている変化について触れます。
カリスマギャルとして世間に認められている彼女は、常務が打ち出したキレイ目路線への変更を余儀なくされ、強いストレスを感じています。
焦りを込めて体をいじめるレッスンルームは、当然のように薄暗いですね。

ここで美嘉周辺のスタッフが彼女に寄り添わず、常務の方針に言われるがままなのは、地下室から反旗を翻したプロデューサーの唯一性を、巧く強調していると思います。
常務は見た目ほど暴君ではなく、適切な手順で意図を伝え、結果を出していれば反乱すら許容してくれる、話のわかる君臨者です。
が、美嘉を取り巻くスタッフには文字通り顔がなく、常務の方針に従うばかりで、美嘉のやりたいこと、達成したい自己イメージに気を使う様子はありません。
一期でも部外者と自分を任じ、CP内部では手の届かない仕事を担当していた美嘉らしいスタンスだと思います。

意にそぐわない方針を美嘉が受け入れるのは、自分の肩に可憐と奈緒、二人の未来がかかっているからです。
第2話でNGをバックダンサーに抜擢したように、城ヶ崎美嘉は既に成果を出した優秀なアイドルであり、だからこそ自分勝手に動きまわるわけにはいかない。
しかし責任感から引き下がれば、自分の誇りであるギャルキャラを捨て、他人の押し付けてくるイメージを受け入れることになる。
開幕一分経っていませんが、既に社会的責任と自己イメージの対立は、美嘉を通じてお話の真ん中にそびえ立ちます。

路線変更の結果、ギャルを捨てた美嘉は街に溢れかえり、彼女は『綺麗だけど遠くに行ってしまった』存在に変わります。
自分を曲げて手に入れた栄光が、美嘉に与えるストレスこそが今後の展開を回す燃料になるので、アバンの段階で美嘉の変化を終わらせておくことは、残り二人のお話をスムーズに展開させる事前準備です。
ともかく、開始一分でお姉ちゃんは『モヤモヤ』した状態に追い込まれます。


4)靴と足のモチーフ
OP寸前、擦り切れたレッスンシューズがアップになりますが、今回は靴を使った演出が多用されています。
もともとこのアニメは足が喋るシーンが異常に多く、例えば13話ステージ後の裸足であるとか、常務に全てを奪われた後での二期の素足であるとか、一期OPでのガラスの靴であるとか、口ほどにモノを言う足たちが演出の軸になっています。
美嘉のレッスンシューズはもちろん、彼女が追い込まれている立場、そこに辿り着くまでの苦労を見せるフェティッシュです。

それ以外にもプロデューサーの踵のすり減った革靴や、みりあのスニーカー、莉嘉の革サンダル、常務のハイヒールなど、今回はとにかく靴がよく映りました。
Pくんの苦労を靴で写すことで、莉嘉が彼に頼らない理由付けがクリアになるため、あのカットは物語全体の交通整理をするシーンだと言えます。
今回の問題解決のキモはあくまで当事者である少女たちが自分で気づき、自分で変化させていくことにあり、プロデュサーは前面に出てはいけない構成になっています。
なので、苦労している様子をコンパクト、かつ効果的に描写して、しっかり舞台裏に下げることが大事になります。

みりあは莉嘉と異なり、スモックは素直に着るし、子供扱いされることそれ自体にストレスは感じていません。
いわば自然体で他者の視線を受け入れているので、履く靴はプレーンなスニーカーです。
番組レギュラーが決まって嬉しい気持ちを表すように、彼女の足はどっしりと地面を踏みしめ、着実に前に進みます。
しかしそんな彼女でも戸惑い悩むわけで、美嘉に悩みを打ち明けている時は地面に足がつかず、ぷらぷらしています。
そんな彼女が大地を踏みしめ、スニーカーで一歩を踏み出すことで美嘉を背負う『大人』になる一連の流れは、足がよく喋るシーンだと言えます。

美嘉を抱きしめた後、みりあは三回目の母との対話に望みます。
これまでの二回は靴下を履いて襖の前でじっと待っていたみりあは、今回裸足のまま母に歩み寄り、顔の見える位置で対話をします。
『自発的に他者イメージに接近することで、より望ましい結論に辿り着ける』というシナリオテーマを、セリフや説明よりもはるかに雄弁に語る歩みだと思います。
裸足であることが気負いのない自然体と同一視されるのは、シリーズ共通の演出ルールな気がしますね。

靴の描写で一番気になったのは、実は常務のヒールだったりします。
三人の中で最年長である美嘉も『大人』の立場を表す記号としてヒールを履いていますが、常務のそれは10代の生易しい背伸びとは別格の、そそり立つプライドそのものです。
"Star!"の歌詞を借りるなら『慣れないこのピンヒール 10cmの背伸び』が常態化した彼女のそれは、果たして魔法をかけて素直にしてあげないといけない背伸びなのか、それともただアイドルと彼女との距離を指し示しているだけなのか。
高いヒールで自分を持ち上げている常務が、素足で地面を踏みしめるシーンは来るのか。
そこら辺は今後の展開で見えてくるところでしょう。

 

5)常務と部長
美嘉のキレイ系路線を成功させ、改革に弾みをつけていた美城常務ですが、その周囲には無味乾燥な書類があるだけで、部下もアイドルもいません。
一期はプロデューサーとアイドルを後ろで見守るだけだった部長が、例外的にちょっかいをかけている状況。
この後多田が自分たちを『レジスタンス』に例えることからも判るように、少なくともCPに取って常務は悪者です。
これはアイドルだけではなく、『現状を快く思っていない』と明言したプロデューサーも同様です。

しかし部長は親身に声をかけ、『もう何度も言った』性急すぎる改革への苦言を繰り返します。
年長者である部長にとって、常務は地位の垣根を超えて正しい道に導くべき、危うい存在なのかもしれません。
ぶっつけ本番でバックダンサーを努めようと、初舞台の人が入らなかろうと、ジーっと見守っていた部長が目を見開いて相手をしていることから、部長にとって常務はプロデューサーやアイドルたちよりも、自分を出して付き合わなければいけない相手です。
CPメンバーやプロデューサーがこの役割を担わないのは、常務の計画が持っている危うさや一分の理を理解して人間的に接近してしまえば、現在準備中の逆転劇が別の方校に進んでしまうからでしょう。

現状ほぼ唯一の理解者である部長の助言をはねのける形で、常務はおそらく初めて、自分の行動理由を言葉にする。
成果優先主義はこれまでも繰り返されてきた彼女のやり方ですが、それが目指すべき目的、彼女が達成しなければいけないと認める価値は、『美城という名前に相応しいアイドル』です。
会社の名前を文字通り体に刻んでいる彼女にとって、美城は夢をかなえる舞踏会場ではなく、それ自体が大きな格を持つ優先的な価値であり、アイドルも、そして多分自分自身も進んで奉仕するべき存在なのでしょう。
いわば、アイドルという中身よりも美城という外側を重視する視線であり、『心からの笑顔』を至上の価値とするCPとは、対立する行動理念だと言えます。


個人的に気になるのは、常務が重視するアイドルの外側、美城という名前はけしてマイナスなものとして描かれていない、ということです。
第2話で後のNG達が探検して僕達に体験させてくれたように、美しいお城はとても素敵なところで、夢を見るのに十分な魅力を持っています。
そしてそれは魔法のように存在しているのではなく、プロデューサーや部長が頑張って維持してきたからこそ、なんとか維持できてきた場所です。
新人アイドル集団であるCPの快進撃も、無論彼女たち自身の笑顔の輝きが大きな力であることは認めた上で、伝統と格式ある美城グループのアイドル部門という後ろ盾があってこそというのは、けして否定出来ないでしょう。

今回美嘉に『押し付けた』ように描写されているキレイ系路線も、ファンの増加という喜ばしい結果を生んでいるし、自分の真実に辿り着いた美嘉によりより魅力的に変化させられました。
それは美嘉個人の覚醒の結果でもありますが、同時に常務の『押し付けた』新しい可能性が無ければ辿りつけなかった境地でもある。
アイドルの外側があればこそ、アイドル個人の内側が存立できるという相補的な関係は、結構冷静に描写されているように思えるのです。

問題があるとすれば『外側だけ』を極端に重視する常務の姿勢であり、これは前回キャラ付けを全面的に否定し、前々回楓さんに過去を捨てさせようと迫った時と同じ、極端な姿勢です。
部長も常務の改革それ自体を否定するのではなく、その性急さと狭い視野に苦言を呈しています。
一極に偏った見方が幸福な結果を呼ばないのは、例えば第6-7話だとか、穏やかな描き方ですが第11話の*の対立だとか、シリーズ全体を貫通する価値観だと思います。
そしてそれは、過度に常務を敵対視し、彼女の計画がもたらした様々な副次的効果を切り捨ててしまっているCPの現状にも、適応可能な価値観ではないでしょうか。

個性や自分らしさといった『アイドルの内側』に寄った価値観をCPは持っており、現状その正しさが前面に出て、組織や会社主導のイメージ戦略といった『アイドルの外側』を重視する常務の価値観は、隙のある危ういものだと描写されています。
CPが常務に『勝つ』流れに説得力があるよう造られているわけですが、常務の描写が確実に孕んでいる正しさ、『外側』を重視することもまた間違いではないという感覚を、巧く取り込んでの勝利。
常務を見ていると、そういうバランスの良い結論を、ついつい期待してしまうわけです。
『味方』である部長を常務のマッチアップ相手に選んでいるところからも、単純な悪役として使い潰す以上の含みをもたせているというのは、過剰な読みでもない気がするんですけどね。
無論、僕が常務すきすぎてどーにか彼女の良い所を探しているのは否定しません。

 

6)プロデューサーの国盗り
『敵』のロジックが公開されたら、『味方』の現状を描写するというわけで、前回引き込んだヴァラエティー軍に続き、仲間を増やすCPが画面に映ります。
プロデュサーが革靴の踵をすり減らして集めたのは、346選りすぐりのニンフェットたちであり、部署の枠組みを超えて協力体制を作っている描写は、前回から継続されています。
ただでさえ登場人物が非常に多いアニメなので、CP外のプロデューサーの描写は思い切って省略し、対抗勢力をCPのプロデューサー旗下に一本化するというのが、基本的な方針なのでしょう。
まゆのPが描写されたのはまだ常務就任前で戦争が始まっていなかったのと、彼女の過剰な愛を描く上で絶対外せなかったからでしょうか。

新田さんが言葉にしているように、プロデューサーが大変そうなのは明暗の激しい画面を見ていれば伝わってくることです。
忙しい描写を入れることでプロデューサーが舞台袖に引っ込む理由を付けるというメタ的視線を差っ引いても、CPの反抗が上手く行くためのコスト描写として、十分な仕事を果たしているように思えます。
頑張ってないで偉業が成し遂げられても、偉業の値段自体が暴落しますからね。

ハードな業務をこなしながら笑顔を作り、アイドルに心配させないように務める姿は、車輪を任じていた一期前半から大きく変化したプロデューサーの心象を感じさせ、頼もしいものです。
同時にここまで負荷が強調されると、その負の側面が破裂するための前準備かなと疑いたくもなりますが、この導火線が何処に繋がるかは先を見ないとわからないでしょう。
爆破するなら、同じように長く埋めている伏線である島村さんが不調になるのと、同じタイミングかなぁとかなんとなく思っていますが。

 

7)赤城みりあの幸福と憂鬱
出だしからストレスを貯めこむ美嘉に対し、子供二人はレギュラー番組も決まり、心はウキウキです。
しかし好事魔多しとはよく言ったもので、反乱の狼煙になるはずの『とときら学園』を境に、子供たちのムードも暗いものになって行きます。
みりあの場合は仕事ではなく、あくまで家族と自分の間の個人的な事情が、彼女の憂鬱の原因になります。

CP最年少として時にあどけなく、時にワイルドに振る舞うみりあの姿からはあまり想像できませんが、みりあには生まれたばかりの妹がいて、母親はその世話にかかりきりです。
せっかくレギュラー獲得という楽しい出来事を共有しようとしても、お母さんは妹の相手で忙しく、自分に向き合ってくれない。
それでもわがままを言わず、社会が良しとする『姉』という立場を受け入れるわけですが、その表情は前向きというには程遠い、曇ったものです。
この母親とのすれ違いは三回同じ構図とレイアウトで繰り返され、みりあが感じている『モヤモヤ』とその解消を強調していくことになります。
美嘉の広告が映るシーンもそうなんですが、同じセッティングを繰り返す演出が今回は特に多く、同じ場所・同じ状況であるがゆえに強調される変化が見えやすい回だと言えます。


キレイ系路線にしっくり来ない美嘉や、スモックを着たくない莉嘉とは対比的に、みりあは要求される『子供』らしさは素直に受け入れ、自己紹介リハーサルも無難にこなします。
家族との関係の中でも、お母さんに胸の『モヤモヤ』をぶつけてスッキリする『子供』らしさよりも、自分の胸に仕舞いこんで待ち続ける『大人』らしさのほうが目立つ。
しかし勿論彼女は11歳の『子供』でもあって、社会の因果を含んで『大人』らしく立ちまわることを、全て納得し完璧に立ち回れるわけでもない。

肉体的年齢としては『子供』寄りだけど、内面的には早熟な『大人』らしさが目立ち、しかし『子供』らしい自意識が皆無ではない。
みりあの中に閉じ込められている複雑な『大人/子供』らしさはみりあだけではなく、今回の主役三人全てに共通する対立です。
美嘉も莉嘉も、周囲の要求する『大人/子供』らしさと自分のやりたい『大人/子供』らしさの間で危ういバランスを取りつつ、そしてそのバランスを崩しつつ、今回のお話を前に進めていく。
そこに『大人=善/悪』『子供=善/悪』という、単純な図式はありません。
今回のお話の中の『大人/子供』らしさとは、一つのパーソナリティの中に多様な側面が、多様な在り方で存在しうる、複雑な個性です。


これは第10話で、それまで『大人』として『子供』二人を引っ張っていたきらりが遂に崩れそうになった時、きらりを支える『大人』の役割を受け持った逆転劇と、良く似た構図を持っています。
さらに言えば第6-7話における本田とプロデューサー、第16話における前川とウサミンのように、それまで一般的な『大人/子供』らしさが要求する役割に従っていた人間関係が変化し、前に立っていた人間が後ろに下がったり、上に立っていた人物が下に回ったりするエピソードが、この作品には多い。
今回三人の主役に秘められたダイナミズムは何もこのエピソードだけではなく、作品全体に流れる通奏低音だとも言えます。

その上で、第10話ではあくまで『二人の子供』として描写されていたみりあと莉嘉の持つ『大人/子供』らしさを個別に描写し、それぞれの個性を掘り下げていく展開は、第10話ではやりきれなかった視点からの物語だと言えます。
CPの中でも『子供』としてまとめられがちな二人ですが、それぞれ人格の発達度も違えば、価値観も違う。
それが彼女たちがたどる物語の違いとしても現れているわけで、今回と第10話を比べてみると、同じキャラクターを扱いつつもかつてとは違うお話を構築できている、正しい意味での発展形だと言えます。
掘り下げるべき差異をしっかり受け取る意味でも、みりあの中の、そして城ヶ崎姉妹の中の『大人/子供』らしさが『自己/他者』にとってどう受け止められるかに注目するのは、有意義な見方だと思います。

 

8)城ヶ崎莉嘉の幸福と憂鬱
みりあとは違う子供、城ヶ崎莉嘉もまた、レギュラーが決まってウキウキで帰ります。
街を占拠する美嘉の看板は彼女にとって誇らしく、つい立ち止まって見つめてしまうほどです。
莉嘉にとって城ヶ崎美嘉は最も身近な『大人』であり、こうなりたいと願う強烈な自己イメージの源泉なので、より年上の路線をひた走る姉の姿はポジティブで、憧れと興奮の対象でもあるわけです。
しかし視聴者はキレイ系路線に納得がいっていない美嘉の姿を既に見ているわけで、姉妹という一番近い『他者』とのすれ違いが、この段階で迫っていることに気づくわけです。

学校でもレギュラー獲得を自慢し、どう考えても美嘉が好きすぎる同級生男子に張り合う形で、セクシー派カリスマギャルであると証明する約束をします。
しかし『大人』の基準を『林間学校でたくさんカブトムシを取る』という、素朴過ぎる指標においている莉嘉は、自分が思うほど『大人』ではありません。
というか、ほんとうの意味で『大人』らしいのであれば、男子の挑発は受け流し彼らと張り合う必要もないはずです。
年下のみりあが持っている『大人』らしさ、黙って自分の欲求を飲み込む聞き分けの良さは、莉嘉にとっては縁遠いものなのです。
余談ですがこのシーンで見せた12歳の感情表現は非常に優れた表現で、第4話のビデオ撮影、第10話できらりにおんぶをせがむシーンと合わせて、相当子供が好きでよく観察している(隠語)スタッフがいるな、という印象を受けました。


これが最大限発露するのが『とときら学園』のリハーサルであり、スモックという無様なお仕着せを飲み込むことが出来ず、リハーサルの切れ味も悪いです。
9歳の仁奈ちゃんですら『せっかくもらったこのお仕事、頑張るでごぜーます』と割りきり、『大人』な態度をとる中、12歳の莉嘉だけが仕事を完遂出来ない。
みりあが母との関係の中で『モヤモヤ』し始めたように、このタイミングで莉嘉も『モヤモヤ』を開始します。

これは勿論、学校でした約束が影響を及ぼしているからで、友だちに見せると約束した『大人』な姿、こうありたいと願う自己イメージとは真逆の衣装を強制されたからです。
スモックとは強制された『子供』らしさの象徴であり、他者が莉嘉に望むイメージと、『お姉ちゃんみたいにセクシーでカッコいい大人の女』という莉嘉の自己欲求とは、正反対にある衣装です。
ここで莉嘉が受けた屈辱と『モヤモヤ』を絵面一発で納得させるためには、スモックという極端な衣装はベストな選択であり、ただやり過ぎ感あふれる笑いを提供するために園児服を着せているわけではないのです。
勿論、無印アイドルマスター第15話であずさ達が着ていたスモックへの、作品を超えた目配せという意味合いもあるでしょう。

番組スタッフという『他者』から幼稚園児レベルの『子供』であることを要求されてはいますが、美嘉自身が目指すものは性成熟を果たした『大人』です。
しかし理想と現実のギャップを受け入れられず、上手く立ち回れない態度そのものは『子供』的であり、みりあと同じように『他者/自己』『大人/子供』という属性は、莉嘉のキャラクターの中で複層的な描写になっています。
スモック一枚にしても、それを脱ぎ捨てて『こんな仕事できない!』とわがままを言う『子供』らしさだって、莉嘉の選択肢としてはありえたはずです。
しかし彼女はそうしない。
この次のシーンで判るように、『大人』に憧れる『子供』らしい莉嘉は同時に、強い責任感を持ち、簡単に仕事を投げ出さない『大人』らしさも兼ね備えている『子供』なのです。

 

9)凸レーションと携帯電話
上手く行かなかったリハに、蘭子の付き添いで多忙なプロデューサーは顔を出せません。
連絡は携帯電話を通じて間接的に行うことになるわけですが、ここで凸レーションは三者三様の表情を見せています。
最年長のきらりは莉嘉の変節にかなり早い段階で気付いていて、プロデューサーと電話で話す機会を率先して作っています。
最年少のみりあは手を伸ばして電話をねだり、自分がどれだけ頑張ったのか、大好きなプロデューサーに素直に伝えています。
これは、母にして欲しい行動の代償行為なのかもしれません。

そして、背伸びしようにも踵のないサンダルと、姉に憧れて付けたネイルを見つめる莉嘉の表情は冴えません。
みりあから携帯電話を渡されても、『バッチリだった、余計な心配しないで』と嘘をつきます。
不安げなみりあをピースサインで黙らして、通話は打ち切られる。
みりあもきらりも莉嘉の変調に気付いていますが、Aパートは事態は悪化する一方であり、このタイミングでは『モヤモヤ』を払う有効手は打てません。
プロデューサーはあくまで舞台袖で待ち続け、『モヤモヤ』の解消はアイドルが担わなければいけない状況が強化されていきます。

これは後々の発言から判るように、自分たちCPの立場向上のために走り回るプロデューサーの負担を少しでも減らし、自分たちで何とかしようという莉嘉の『大人』らしさの発露です。
第7話で『あの人、何考えてるか判んない』とバッサリ切り捨てたのと、同じ相手にする配慮とは思えませんが、それだけプロデュサーとの関係が変化したということでもあります。
第10話でも、CIはプロデューサーに頼ることなく、独力で危機を乗り越えピンチをチャンスに変えていました。
その成功体験が莉嘉の自信に繋がっているからこそ、ここでプロデューサーには頼らないという選択をした、とも見れます。

上手く行かない状況を説明するように、電話の後のシーンではリフレインが続きます。
帰宅し現状を母に伝えようとするみりあの言葉は妹の泣き声で遮られ、離れていく母を『うん、大丈夫』と『大人』の対応で見送ります。
その表情はさみしげで、全くもって『大丈夫』には見えません。
一回目の母との対話に比べ、感情をこらえている様子が強くなっています。

 

10)衝突する城ヶ崎姉妹
同じ状況を反復することで、変化している状況を強調する演出は、美嘉にも用いられています。
レギュラーが決まってウキウキした莉嘉が電話をかけた時と同じように、美嘉も広告の前を歩いていきます。
あの時はオレンジに輝いていた世界は、今は夜闇に包まれて暗い。
『ライティングは極端に心象を反映する』という、この作品の基本法則が徹底された演出です。

街を埋め尽くすキレイ系な自分の姿は、名前もないギャルが言うように『綺麗だけど遠い人』として、美嘉には映る。
違和感を飲み込んで『しょうがないじゃん、アイドルは遊びじゃない』と自分に言い聞かせる美嘉の足元は、紅いヒールで背伸びをしています。
『わがままなんて言ってらんない』と『子供』っぽい自分を押し殺して、仕事に徹する『大人』として振る舞おうとする美嘉ですが、その考えを信じ切れるほど彼女は馬鹿でもなければ賢くもない。

逡巡の果てに出た結論は『でも』です。
『子供』である自分を隠して『大人』らしく振る舞う決意に対し、『でも』という逆接の先にあるものはあくまで言葉にされません。
この段階で美嘉にあるのは違和感だけだからです。
常務が代表する周囲の他者が押し付けてくる『大人』っぽさには、耐え難いほどの違和感がある。
『でも』それを具体的にどう発露し、どう迷惑をかけない形で自己イメージを実現すればいいのか、分からない。
アバンから抱え込んでいた美嘉の『モヤモヤ』はどんどん大きくなり、『でも』どうやればそれが晴れるのかは分からない状況です。


『モヤモヤ』を大きくしているのは莉嘉も同じで、ベッドの上で大好きなカブトムシの人形を抱きしめつつ、ため息混じりに煩悶しています。
あんなに嬉しかった『とときら学園』の台本は乱雑にベッドの上に捨て置かれていて、素直に受け入れられない気持ちを表現している。
美嘉と同じように『でも』どうしたらいいのか分からない状況で、莉嘉が頼るのはやはり憧れの姉であり、『お姉ちゃんだったらどうするんだろう』という気持ちが口をつきます。

暗い姉の部屋(ライティングによる心象表現は継続中)を確認したところで美嘉が帰宅し、莉嘉はいつもの様に抱きつきます。
しかし『モヤモヤ』を極大化させ、心身ともに弱り果てている美嘉はいつもの様に妹を受け止めきれない。
肘を抑えて引き剥がし、廊下に預ける形になります。
これまでのお話の中で、何かというと飛びつき抱きつき受け止めてきた城ヶ崎姉妹を知っている身としては、異常事態が進行中だとハッキリ判る描写です。

自室で荷物を置く美嘉に対し、廊下に座り込んだまま莉嘉はグチり始めます。
自分も扉を越えて部屋の中に入って、姉の側に行かないのは、抱きついた後に一度拒絶されているからでしょうか。
莉嘉のグチは意にそぐわない『大人』っぽさに苛立つ姉の立場を無視し、無垢で一方的な憧れを押し付けるものです。
同時に美嘉も、意にそぐわない『子供』っぽさを強要される妹の悩みを、『そんなこと』と一蹴している。
蓄積したお互いの『モヤモヤ』が仲良し姉妹の気配りを押しつぶして、どんどんすれ違っていく対話は『今お姉ちゃんが着てるみたいな、大人っぽいのがいーい!』という莉嘉の言葉で臨界点を迎え、美嘉は強い言葉で妹を拒絶します。
『気に食わない服でも我慢して着ろ。アイドルやるなら本気でやりきれ』と莉嘉を叱る言葉は、同時に美嘉自身に言い聞かせているような響きがある。
笑顔になれた時代のポスター、目の前で閉じる扉が、ギクシャクした現在を強調するシーンです。


このシーンがこのエピソードのストレス最大値なのですが、心に傷を残すいがみ合いという印象は、そこまで受けません。
一つには、美嘉が受けているストレスの強さが効果的に表現され、文字通り妹を受け止める余裕もないほど追い詰められている状況が、視聴者に理解されているからでしょう。
『まぁ、しょうがないかな』という感想を抱ける程度には美嘉は弱っている姿を見せていて、それは第3話でみせた『頼れる無敵の先輩アイドル』という役割から、城ヶ崎美嘉を開放する描写でもあります。
こうして既存の役割から外れた姿を見せることで、キャラクターの複雑な内面が視聴者に届き、より近しい存在として感じられるのは、間違いないことだと思います。

もう一つは、美嘉があくまで莉嘉の『姉』であることを放棄しなかったからだと思います。
『そんな気持ちなら、アイドルやめちゃいな』と当たり散らしはしても、自分がどういう気持で妹が憧れる服を来て、どれだけ『モヤモヤ』を貯めこんでいるのか、ぶちまけはしない。
事ここに及んでも、美嘉はあくまで莉嘉の『姉』であり、自分の事情を押し付けるのではなく、相手の事情を聞いてやる『大人』な立場を崩せない/崩さないわけです。
そこにはこれまで積み上げてきた関係への愛おしさ、精一杯の背伸びともいうべき挟持がある。
最後の一線を維持し、『頼れる無敵の先輩アイドル』としての自分をギリギリ崩さなかったことが、ストレスの掛かる状況下でも美嘉を信じられる、大事な足場になっています。

同時に、『姉』であることをやめられなかった美嘉は、心の『モヤモヤ』を誰にも預けることが出来ず、溜め込み続けます。
莉嘉は頼れるお姉ちゃんにグチればいいけど、頼られるお姉ちゃんは誰にも頼ることが出来ない。
この状態は『姉』であり続けようと自分を押し殺すみりあと強く類似しており、この類似が後半、みりあと美嘉を強く結びつけていく重要な足がかりになります。


11)Bパート開始
それぞれの『モヤモヤ』が最大化されたAパートが終わり、解決のためのBパートが始まります。
まずは主人公三人の簡単なスケッチが挿入され、各々悩んでいる様子が描写される。
あれだけウキウキと見上げた姉の広告は今の莉嘉にとっては複雑な印象を与え、電車の中で幸せそうにはしゃぐ女の子を、みりあは浮かない表情で見つめています。

この時みりあの背筋は伸びきっていて、足はまっすぐに地面を踏みしめている。
公共の場では相応しい態度を取るという『大人らしさ』を一人でも維持できているわけですが、ほんとうの意味で納得はしていないので、表情は晴れません。
楽しそうな女の子が、お母さんと一緒にお話をしていることも、みりあの憂鬱の原因かもしれません。


一方トレーニングウェアに身を包んだ美嘉は、揺れる気持ちをコーヒーに乗せて呟いたりしています。
今回は水面や鏡、窓ガラス、広告など、直接的にキャラクターを写すのではなく、クッションを一つ入れて反射・屈折させて見せる演出が非常に目立ちます。
常時街を占拠する美嘉の広告を筆頭に、常務が部長に信念を告白するシーンも窓ガラスに向かって喋ってますし、『とときら学園』の楽屋にも鏡がありました。
このようにクッションを入れる演出は他の話でも見られるので、今回特有のものというよりは、『心象=ライティング』や『足が喋る』といった、シリーズ全体の演出ラインに乗っかったものでしょう。
過負荷が極限化し莉嘉を受け止めきれなかった美嘉ですが、『姉』として常に弱者に気を配ってきた彼女の目はまだ健在で、『モヤモヤ』したまま椅子に座っているみりあを、目ざとく見つけます。

今回の話はかなり丹念にストレスケアされた物語で、『モヤモヤ』が最大化された状況はAパート終了からこのスケッチまでの約30秒しかありません。
美嘉がみりあを発見しデートに誘うのと並列して、CPの仲間が莉嘉の事情を聞き出し、事態は高速で良い方向に転がっていきます。
思い悩む時間が少ないのに、彼女たちが達成した変化に爽快感がちゃんとあるのは、『モヤモヤ』を貯めこむ過程が丁寧に構築されていることと、三人が相互的に関係し、『モヤモヤ』を加速させたり、解消しようとして失敗したりする描写が、間に挟まっているからでしょう。
『モヤモヤ』が限界点まで貯まる前段階、Aパートの上げと下げが丁寧に構築されているので、鬱屈した描写が少なくとも、少女たちの貯めこんだ『モヤモヤ』は十分伝わってくるわけです。

そしてキャラクターの感じる鬱屈が伝わっていればこそ、美嘉がベンチに座るみりあを見つけ、状況が改善しそうな予感が見えた時、強く期待をする。
この『モヤモヤ』して、本来のみりあちゃんや美嘉姉や莉嘉ちゃんの良さが全然出ていない状況がぱっと晴れるという感情が、話の構築から半自動的に導かれる。
効果的なスケッチだと思います。

 

12)莉嘉の発見
ため息混じりでCPの扉を開けた莉嘉は、凸レーションリーダー・きらりとCPメンバーに向かい入れられます。
ケーキを用意し、わざとらしくはしゃいで楽しそうな空気を作る三人ですが、莉嘉はあんまり乗れない。
気を使っていることを悟られてしまう年長三人も、『もしかして、気使われてる?』と口に出してしまう莉嘉も、スマートな『大人』らしさとは縁遠い、ぎこちない『子供』です。
しかし戦友の不調にいてもたってもいられず、なんとか会話する場所をつくろうとするメンバーの気遣いは『子供』には出来ないわけで、そういう場所を造らなかった結果どんどん事態が悪化した第6-7話の反省を活かしている意味合いも含めて、ケーキを持ち出してきた三人は『大人』でもあります。
主人公三人だけではなく、脇役たちもまた『大人』と『子供』の中間を複雑に彷徨う存在です。
それにしたって、極力莉嘉と同じ視線で歩み寄ろうとする三人組の聖人っぷりがやべぇ。

この時三人の気遣いをありがたく感じつつも、それだけでは気分を晴れやかにし、状況を好転させるスタートを切れない莉嘉の姿は、とても良いなと思います。
『姉』という状況を飲み込んでこらえているみりあと比べても、自分の気持を巧く整理できない莉嘉は『子供』です。
三人の真心も、ケーキを用意して莉嘉を待ち構える労力を判っていながらも、それだけでは前に進めない気持ちを、莉嘉は抱え込んでいる。
それは、現在の状況を吐露しても変わりはしません。


状況を改善する一発は意外なところから飛んできて、衝立に隠れた杏が足からにゅっと出てきます。
彼女はあらゆる状況に縛られない自由人、アウトサイダートリックスターなので、こういう状況をかき回すのは得意中の得意です。
何者にも束縛されない存在である以上、当然のように裸足です。
結局CIの仲間と同じ場所にいるあたり、杏ちゃんは目立たないけどさびしんぼうなのかなぁとか思ったりもします。

この後杏ときらりの間で交わされる『衣装』にまつわる会話を聞くことで、莉嘉は状況改善の気付きを得て、自発的に世界を変えていきます。
最初は『他人』事として硬い表情をしていた莉嘉が、どんどん話に引き込まれ、『自分』の問題としてあんきら問答を受け入れていく表情の変化は、見事な演出でした。
自分の抱え込んだ『モヤモヤ』はあくまで自分自身のものであり、誰かが肩代わりして片付けてくれるものではないというのが、この回の基本方針なのでしょう。
同時に、自分の世界だけに閉じこもっていても改善のきっかけは得られず、三人全員が『他者』と対話することで変化のきっかけを得ています。
これまでネガティブに描かれていた『他者/自己』の関係が反転し、ポジティブな相互作用が見えるこのシーンは、エピソード全体が陽転する重要なシーンになります。


そのきっかけとなったあんきら問答は、『衣装』にかまけてエピソードテーマ全体をまとめ上げる、中盤の要です。
『何を着たって自分は自分なんだから、服なんてなんだっていいじゃん』と言い切るきらりは、『他者』からのイメージを気にかけず、天才的な『自己』を押し通すことで社会に居場所を手に入れた、特権的な存在です。
対して『自分の好きなお洋服着ると、心がハッピハッピになるにぃ。それで、自分らしく工夫してオシャレすると、もっともーとハピハピになるんだにぃ』と反論するきらりは、バカでかい身長を可愛い服で覆い隠し、少しでも威圧感を減らすにぃにぃ語法を選びとった、『他者』の気持ちをとても大事にする女の子。
二人の立場は正反対ですが、それ故仲が良いのでしょう。

この時注目したいのは、『自分』主義の杏ちゃんは『他者』の存在を無視しているわけではなく、『他人』重視のきらりも溢れ出る『自分』らしさを殺しているわけではない、ということです。
第9話を見ても判るように、杏は求められる自分を瞬時に判断し、必要な『衣装』を即座に用意することのできる天才であり、『自分』を貫くだけではなく『他者』の要求をも乗りこなす、両立的な立場を取っています。
きらりが常に周囲の状況に気を配り、『他者』が何を考えているか、『ハピハピ』なのか気にしている人物なのは見ていれば判るわけですが、同時に彼女は隠しようのない巨大な『自分』を(身長的な意味でも、可愛くなりたいという欲求としても)持っています。
きらりにとってオシャレで大事なのは『自分がテンションアップアップになれる』ことだと、今回言葉にしていますしね。

杏ちゃんはバラエティ出演をニートキャラで押し通しても良かったし、きらりは可愛いにこだわらず、高身長に見合った魅力を選択してもよかったわけですが、二人は『他者/自己』それぞれのイメージの間にあるバランスを取る道を、既に選択したわけです。
二人は『他人に見られる自分』『他人に見せたい自分』にそれぞれ『自分』らしい解答を既に用意しているわけで、いわば今回の主人公三人が悩んだ問題を、先取りで解決しているキャラクターだといえます。
それ故、彼女たちの問答が莉嘉の問題を解決する、重要な一擲となるのです。
共感こそが問題解決の最重要ポイントになるのは、この後のみりあ-美嘉も同じですね。

 

13)みりあと美嘉とお姉ちゃん
年長者としてみりあの中の『モヤモヤ』を見抜き、立場を同じくするものとしてセンター街デートに繰り出す美嘉。
きらり+CIのぎこちない気遣いに比べるとスマートなやり口で、流石頼れる先輩という感じを受けます。
公園でのターンオーバーがあまりに鮮烈なので忘れがちなのですが、みりあの状況を見切ってデートに連れ回したのは、あくまで年長者の美嘉です。
スマートでクレバーで優しいお姉さんの姿が頼もしいからこそ、みりあが美嘉を抱きしめるシーンの威力が上がっている、とも言えるでしょうか。

カラオケ、コスメ、プリクラ、喫茶店にウィンドーショッピング。
みりあにとって美嘉が用意してくれたデートコースは、8歳という年齢差をフルに活かした、お姉さんっぽくて楽しいものだったと思います。
莉嘉が感じた『気を使われている?』という引け目は多分、公園についた時のみりあには縁遠いもので、だからこそ18分間貯めこんできた『モヤモヤ』、『姉』であり『大人』であることの辛さを吐露していきます。
電車の時とは違い、みりあの靴はブラブラと所在なさげに揺れています。

みりあの告白を受けて、美嘉もまた『姉』であることの辛さを共有出来ると自分の体験をさらけ出し、みりあの傷に歩み寄ってくる。
誰にも言えず一人で抱え込んでいたはずの傷を、自分をデートに誘ってくれた優しい人が同じくしてくれたという気付きは、みりあの気持ちを一気に軽くします。
杏ときらりの対話を聞いた時と同じように、みりあの表情が劇的に変わる。
この『心に何かが届き、全てが開放されて真実に辿り着いた時の表情』はもう一度、美嘉の問題が解決するときにリフレインされます。

リフレインといえば、二人が座っている椅子には手すりがあり、同じ場所に座っていながら気持ちを完全には共有できていない距離感を、視覚的に示しています。
美城の中庭で話していた時も、第1話で島村さんと凛ちゃんが話していた椅子も、第7話で凛ちゃんが座っていた椅子も、全て手すりが付いています。
同じモチーフを的確にリフレインすることで、演出は単独の『点』ではなく、より強靭な『線』に変わります。
1回のエピソードの中で『線』を作るリフレインも、エピソードをまたいで『線』を作るリフレインも、両方が惜しげもなく投入されていることが、今回の話が豊かな物語になっている、大きな理由ではないでしょうか。


『お姉ちゃんって辛いよねー!』と声を合わせ、自分たちが同じ傷を持った仲間だと強く共感した二人は、その辛さを共有しようと持ちかけます。
年長者であり『大人』である美嘉にとって、この提案はみりあの辛さを自分が受け止める、一方的なものです。
しかしみりあにとってこの『お姉ちゃん同盟』は年齢を超えた相互的な連帯であるべきで、美嘉も『姉』として辛いのなら、自分に頼っても良い。
このズレは美嘉が『大人』であることを強く自分に任じ、素直な『子供』でいたいという心底を覆い隠している故に発生しています。
二人を繋いでいるのは『大人/子供』という差異ではなく『姉』という合同なので、みりあの『お姉ちゃん同盟相互論』が論理的にも心情的にも真実です。
『大人』は我慢しないといけない、後輩やスタッフを背負って仕事をしている自分は頑張らないといけないと、ずっと耐えてきた美嘉にとって、その真実は遠い。
逆に言えば、『お姉ちゃん同盟相互論』に辿り着いたみりあはこの瞬間、『大人/子供』という区分を超えたのです。

『アタシは辛いことなんてなんにも……』とみりあの境界侵犯を拒絶しようとした美嘉を、美嘉自身の心が裏切り、意図しない涙がこぼれていきます。
楽しいデートで心がほぐれたのは、みりあだけではなくホスト役の美嘉も同じだったのかもしれません。
目の前で自分を守ってくれる『大人』が泣く、傷を見せる。
これは第11話できらりが遂に折れた時と同様な状況であり、みりあはその時と同じく、正しい行動を取ります。
手すりを乗り越えて美嘉の前に立ち、『姉』のように抱きしめるのです。
美嘉が座ってみりあが立つことで、身長差≒年齢差が逆転してるのも、第11話と同じ演出ですね。
暗かった世界に電灯が付いて、問題解決の流れが更に加速していきます。


美嘉と触れ合うことで『姉』であること、『大人』でいることを、『他者』からの強要ではなく『自発的』な欲求として受け入れたみりあは、三度目の母との対話に挑みます。
前回二回は闇が迫る時間帯でしたが、今回は突き抜けるような朝の光の中での対話です。
変化はそれだけではなく、前回までは扉の前で待っているだけだったみりあは、裸足のまま母に歩み寄り、母の仕事を肩代わりします。
それは公園で美嘉に歩み寄り、『姉』の辛さを共有した経験あっての成長です。

みりあが自発的に近寄ったことで、お母さんは初めてみりあの顔を見、妹も三回目にして泣き止みます。
ここでお母さんが言った『ありがとう、みりあ』が自分はこのエピソードの中でも一等好きな台詞で、凄く報われた感じを受けました。
無論このエピソードは全体的に演出の粒が立っていて、心を揺り動かされるシーンがたくさんあります。
しかしCP最年少ながら自分の中の『子供』を常時押し殺し、三人の主人公の中でもしかすると一番『大人』だったみりあが、一番言って欲しかった言葉を一番言って欲しい人から貰えたこのシーンは、僕にとって特別刺さる形をしている。
心の底から『良かったなぁ』と思えるシーンがあるのは、『出来が良い』という評価を一歩飛び越えた、情緒のうねりを引き起こす作品なんだと思います。

 

14)城ヶ崎姉妹の幸福な結論
杏ときらりの言葉によって真実を手に入れた莉嘉は、意気軒昂とブーツで自転車を漕ぎ、仕事場に向かいます。
ここでの移動が自転車なのは、自分の足を使いつつも、一歩ずつという段階を飛び越えた疾走感を出したかったのかな、などと思いました。
あんきら問答が起こした発想的飛躍は莉嘉にとってまさにEurekaであり、アルキメデスじゃないですが走り出したいほどの衝動を引き起こしているのでしょう。
その上で、莉嘉は自分の欲望をただぶつけに行くのではなく、『お仕事頑張る』ため、衝動を制御しより発展性のある形に消化させるために、自転車を乗りこなすのでしょう。

莉嘉が見つけた答えは、『他者』が押し付けてくる『子供』らしさの象徴を脱ぎ捨てることではなく、それを受け入れた上で『自己』が望む『大人』らしさと融合させ、着こなすことでした。
スモックを着ているからといって『子供』でいる必要はなく、見えないオシャレという『大人』らしさ、『自分』らしさを前面に出して構わないという結論は、杏ときらり、ケーキを用意してくれたかな子と智恵理がいなければ、辿りつけなかった結論でしょう。
何よりも、ずっと背中を追いかけ続けた自慢の姉がいてこそ莉嘉は背伸びを望んでいるのであり、二人の信頼関係は自己紹介直前、何かを確かめるように莉嘉が姉を見つめるシーンでよくわかります。

今回、莉嘉の物語の中で重要なフェティッシュになっているのが、ネイルです。
オレンジ色に飾られた指は、姉の影響下にいる『子供』の自分でもあり、姉に追いついて『大人』になりたい自分でもある。
気に入らないスモックを着て下を向いた時も、あんきら問答をため息混じりに聞いている時も、莉嘉は大人びた指を見つめ続けている。
一回目の自己紹介では隠していたネイルを、二回目では魅せつけるようにギャルピースで目立たせているのは、こうなりたい『自分』を『他者』に共有してもらう勇気の象徴のように、僕には思われました。


妹の堂々たる態度と、『だって、私は私』という言葉を受け取って、美嘉も他の二人同様自分の中の真実にたどり着きます。
アバンから約22分間、長い隘路でしたが、やはりアップで表情の変化をしっかり捉え、『他者』の言葉を支えにして『自己』を実現するための妙案にたどり着くという描写は、ここでも徹底されています。
美嘉が『他者』の思いやりを受け取るルートは、CI+きらり→莉嘉→美嘉 と 美嘉→みりあ→美嘉 という二つあり、お話全体が彼女の発見と決断に集約するように構成されているため、最後に来るのはむしろ必然といえるでしょうか。

作中最大の価値である『笑顔』が主人公たちに戻り、時計の針が進んだところで、アバンから悩まされてきたキレイ系路線を、ようやく美嘉は乗りこなします。
『他者』に要求される『自分』らしさを投げ捨てるのではなく、『自分』の信じる『自分』らしさを勇気を持って表現し、『他者』に受け入れてもらうこと。
キレイ系衣装とメイクをしたままギャルなポーズをバッチリ決めた美嘉の結論は、着ている衣装が『子供』らしいスモックと『大人』っぽいキレイ系と正反対なのに、妹のそれとそっくりです。
莉嘉を飛び石にして、あんきら問答が美嘉をより良い方校に導いていることがわかります。

最後に美嘉がたどり着いた境地、新しい広告を二人で写真に残し、今回のお話は終わります。
これまでは笑顔で退治することが出来なかったこともあった広告、『他者』の見る『自分』ですが、お揃いの服を着た姉妹は笑顔でそれを見ている。
『なんたって私は、カリスマJC・城ヶ崎莉嘉の姉だからね』という言葉は、『自分』が認識する『自分』を大事にするだけではなく、妹という『他者』が誇りに思う『自分』を自己認識の核とした発言であり、ずっと悩まされてきた『他者/自己』の対立が美嘉の中で解消したことを示しています。
三者三様の迷い道は綺麗に整理され、皆が穏やかな笑顔を浮かべている姿をスケッチして、クレジットとなります。

 

15)まとめ
これまで二期はあまり出番のなかったアイドル(14話のまゆ、15話の楓さん、16話のウサミン)を取り上げてきたわけですが、今回は城ヶ崎美嘉という一期で活躍したアイドルをあえて取り上げ、彼女の持っている弱さと強さを掘り下げる回となりました。
CPからは赤城みりあ城ヶ崎莉嘉という二人の子供がピックアップされ、これまで束で扱われがちだった彼女たちが持つ、個別的な弱さと強さに光が当てられました。
『看板』『母との対話』『靴』『反射する自我』など、演出面での繰り返しを効果的に使い、お互いの『モヤモヤ』もその解決も影響力を及ぼし合う、見事なエピソードだったと思います。

『お仕着せとオシャレ』『大人と子供』『他者と自己』。
一見対立する二項を平等に取り上げ、それが相補的な関係にあること、両者の的確なバランスを取ることでより実りのある行動につなげることが出来ることを印象的に見せたテーマの扱い方も、豊かで魅力的で、とても面白いものでした。
大上段にテーマを叩きつけるのではなく、10代の少女たちの小さな、しかし真剣な悩みの中で活きた描写に変えていたことが、やはり何よりも素晴らしい。
物語が持っている力を再確認するような、立派なエピソードだったと思います。
良いアニメーションでした。