イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

映画『リズと青い鳥』感想

山田尚子監督、京都アニメーション制作の劇場アニメーション"リズと青い鳥"を見てきました。
これから感想を描きますが、バリバリにネタバレなので未見の方はご注意ください。
山田尚子の怪物的才能が、1秒1カットに余すところなく溢れかえる、感情の超細密画でした。
青春の、ヒトの気持ちがどのような音を立てて触れ合い、変化していくかに少しでも興味がある人は、見なければいけない作品だと思います。
ネタバレなので折りたたみます。


というわけで"響け! ユーフォニアム"の正式続編でありながら、その看板を外した本作品。
"聲の形"で見せた微細にして残酷に、愛を持って青春を分解していく山田尚子の眼力と腕前はますます冴え渡り、細やかな仕草や音に力強く接近して、柔らかな感情がこすれる衣擦れ、青春が出血していく瞬間の産声全てを写し取ろうという執念を、見事に映像に仕上げていました。
凄まじいのは、その微細な観察眼を余すところなくアニメーションに仕上げるクオリティであり、驚異的でマニアックな質の高さをコントロールしきって、『痛みを伴う青春』という骨太なストーリー一本に集約させる強い意志だと思います。
背景はリアルで緻密(あるいは徹底的にファンタジックで美麗)、音響は細密で大胆、演技と音楽は精妙。
そして何より、それら全てが一つの必然にまとめ上げられ、巨大な質量で殴りつけてくる良き映画体験として、強い統一性を持っています。

光と闇、レイアウト、語りかける指、脚、髪の毛、揺れる瞳のクローズアップ。
京都アニメーション的な、繊細で意味深なカットは異常な量積み重なるのですが、それは個別に意味を主張する異化作用の塊を飛び越え、超越的なハイクオリティにまとめ上げられた異質なる表現へと、一元化されていきます。

脚が喋るのも、足音が語るのも、呼吸音が生々しく息づくのも、もはや異質でありながら異質ではない。
それが当たり前のアニメーション表現であるかのような、素知らぬ顔の殴りつけが、みっしりと映像を埋め尽くし、視聴者の常識を書き換えすらしてくる。
その構えのない構えが、奇妙な当然として不思議な統一感を持っている。
この精妙なコントロールは、やはり山田監督が作品をどう仕上げるかというヴィジョンの精妙さ、それを受け取って具体化していく全スタッフの腕前が、幸福なる結婚を果たしからこそだと思います。

アニメーションはデフォルメの芸術、動的変化の表現なので、どうしても『ありのまま、そこにある』という自然さからは、メディアの特性として遠ざかっていってしまう性質があります。
全ては意志によって描かれた『絵』であり、それが組み合わさって作品の世界を形作る。
そんなある意味『わざとらしい』宿命を前提にした上で、この映画は非常に艶めかしい表現を、統一された意志で世界を眺め続けることで達成しています。

ありのまま、リアルに物事を切り取るのではなく、そこで描かれるべきリアリティに従って、背景美術を、音響を、キャラクターデザインを、色彩設定を操作し切ること。
触れれば壊れてしまうほど繊細な感情のガラス細工を、主線が極端に細いデザイン、淡い塗り、だからこそ際立つ光の強さで丁寧に積み上げていくこと。
非常にアニメーション的な操作を徹底的に、画面の隅々までやりきることによって、より強く駆動(animate)された現実を、フィルムに焼き付けること。
TV版とは違うリアリティ、違うスケール、違う着眼点で展開するこの物語に必要な『絵』を、徹底的に、適切に統一し切ること。
一つ一つの要素を怪物的に研ぎ澄ませつつ、それらを組み合わせたフォルムが表現したいテーマやモチーフ、キャラクターの抱える物語と強い親和性を見せて、必然性のある流線型をなしていること。

ただ絵が綺麗、ただ質が高いという作り手の自己満足を超えて、質が高い必然性、綺麗である必然性を、この作品は静謐な展開の中で爆発的に高め、猛烈に視聴者に叩きつけてきます。
その『このアニメーションは、この色彩、この動き、この音、このアニメでなければ行けないんだ』という狂的ですらある確信は、けして声高には叫ばれません。
ただ、圧倒的に仕上がってしまった完成度で静かに殴りつけ、穏やかに下支えをする。
その構えない鋭さが、ありふれた青春の特別な瞬間を驚異的な精度で切り取る映画の姿勢と見事にシンクロし、なんとも言えない迫力をみなぎらせています。
驚異的な質と明瞭な意志を心臓に宿し、美しい歩みで迫る静かな怪物。
そういう映画でした。


90分のコンパクトな上映時間に、あまりに沢山のものが詰め込まれているため、感想もどうしても断片的というか、全体像を捉えきれないものになってしまうと思います。
全てのカットに猛烈な意志が込められ、なおかつその強烈さを飲み込んでしまうほどに絵としての総体が美麗で、物語を導く操作が的確なので、1カットごとの意図を読んでいくと、紙幅がいくらあっても足らない。
それら全てを、映像を見終えたこの脳みそ一つで戦い切るのはちょっと無謀なので、そこら辺はBDが出た後ねっとり付き合う部分でしょう。
今は映画館が出た後の圧倒を、熱病に浮かされたような感覚を曖昧なまま、書き連ねようと思います。

この映画は様々な対立によって成立し、それらが明瞭に引かれた境界線を幾度も侵犯し、融和し、拒絶され、また接近していく複雑な運動によって編み上げられています。
複数の糸を絡み合わせてタピストリーを作るような、様々な色彩をした個別の要素。
それらは異なるからこそ引き寄せ合い、一つになることを望んで離れていきます。
話のメインとなるキャラクター、鎧塚みぞれと傘木希美が歩む青春そのものも、そのような接近と離反、癒着と切開の繰り返しで出来ている。
強く求めれるほど離れ、諦めようとしても近づいてくる二人の距離感を反映して、この映画には複数の矛盾(とその止揚、あるいは止揚出来ないことの確認)が満ち満ちています。

そういうねじれた二項対立(とその融和、変化)を描いて、固定的な観念に揺さぶりをかける行為は、強力な説得力を必要とします。
当たり前に見えているものが実はどういう内実を持っていて、その肌触りや息遣いはいかなるもので、危うさや痛み、ズルさや凶暴さも引っくるめた美しさがどこにあるかを、創作の言語で自分なりに証明しなければ、『ああ、そういうことだったのか』とはならない。
この映画が切り取っている青春の異常な質の高さは、そういう作者が見ている風景に折り紙をつけると同時に、それ自体が猛烈な存在感で、もう一つの現実としてこちらを殴りつけてきます。
怪物の分解能で切り取られる、少女の欲望と視界、ノイズと音楽に満ちた世界。
その異常な生々しさが、この作品が静かに突きつける『青春とは(恋とは、才覚とは、残忍とは、対話とは、読解とは)こういうものだ』という『答え』に、有無を言わさぬパワーを与えています。

それは否定(あるいは融和)されるべき固定イメージ自身が、当たり前のものとして流通するだけの説得力やしようのなさをある程度以上備え、剥き出しすぎて危うい真実を遠ざけている様子にも、ちゃんと注がれる。
のぞ先輩の物分りの良い、ちょっとジゴロな立ち居振る舞いがどうやって共同体を維持しているのかとか、みぞれの奔馬のような欲望をするりと交わす仕草がどれだけ希美を防衛しているかとか、凡人が小器用に人生を渡っている姿を、その危うさや大切さをちゃんと見据えた上で書いています。
そうなるにはそうなるなりの理由があって、希美は鈍感でズルく、巧い。
そうはなれないみぞれにカメラが寄っているんだけども、でも引き寄せられ乗り越えるべき希美の凡庸さの中の光る、才覚に尖るほどに遠ざかっていく安定感……お菓子を食べ地べたに座る『当たり前の女子高生の幸福』(こう言って良ければ"けいおん!!"的なハッピーハードコア)を見逃しはしないのです。

だからこそ、二人がたどり着いた適正距離の中でそういう強みが生きていることに安心するし、ただただ凡俗を殴り倒す才能の強さではなく、自分の前にある(あるいは自分自身である)平凡さ、そこに鈍く光る愛おしさを肯定した上で、才覚が隔てた二人の距離を、埋葬した青春の断末魔を、頷きながら飲み込めるわけです。
そういうふうに、矛盾して見える一般的なイメージを、一個一個解体し、自分なりにゼロから(完全にゼロから!)表現として組み立て、語り直すことで、『世界は本当は、こういう形をしているんじゃないか』という作者の認識(こう言って良ければ『真実』)は、作品の中に込められ『読まれ』る。
そういう運動を成功させるために、このアニメは数多の並走する矛盾が張り巡らされ、それらが交わったり、触れ合ったり、遠くから震わされたり、あるいはその影響を弾き返すさまが、それぞれの観念の肖像を的確に切り取りつつ、見事に活写されています。

 

この作品に埋め込まれた二項対立を数え上げるだけでかなりの大仕事なわけですが、まず"リズと青い鳥"と『現実』が、出だしから絡み合いながら進行していきます。
曲線と水彩で描かれたファンタジーである"リズと青い鳥"は、『現実』においては子供向けの童話絵本(であり、文庫にまとめられた大人向けの小説でもある)であり、二人がソロの掛け合いを担当する楽曲でもあります。
オーボエとフルート、二人が口づけする管楽器が問いかけと返答を繰り返すソロは、部活動としての勝利を呼び込む大事な『結果』であると同時に、複雑に絡み合い融和できない二人の心を反映する『過程』でもあります。
楽譜と書物、複数のファンタジーを横断しながら進む『現実』は、青春期の繊細さを強く反映し、それ自体がファンタジーとしか言いようがない美麗な夢に満ちてもいる。
事程左様に、様々な差異点と共通点を細やかに切り取りつつ、物語は複雑なステッチを刻みながら進行していくわけです。

タイトルでもある"リズと青い鳥"は、それ自体が複雑な謎を孕んだミステリーであり、同時に『なぜ物語は、別のフィクションを孕む形で進行するのか』というメタ的な謎、あるいは『みぞれと希美、どちらがリズでどちらが青い鳥なのか』という『犯人当て』を含んでもいます。
絵本の世界がそのまま動き回る、驚異的な表現で描かれる"リズ"の世界と、硬質な光の表現がリアリティを強く打ち出してくる『現実』の世界。
それは対比されると同時に、みぞれの主観をその息遣いとエロティシズムまで切り取って描く冒頭のマニアックさによって、地続きでもあると判る。
ファンタジーとリアリズム、大人と子供、あなたと私。
作品には幾重にも切断面が描かれ、しかしそれは物分り良く分断されないまま、橋がかかって(あるいは橋をかけたいと願い、かけたくないと思うのに橋が勝手にかかってしまって)いる。

そのまどろっこしい距離は、リズミカルに揺れる希美のポニーテールとスカートの挑発によって、明瞭に示されています。
みぞれはそれに触れたいと願いつつ、同時に触れることで終わってしまう『なにか』に怯えている。
希美の退部によって一度切り離されたトラウマは、再び巡り合った今でもみぞれの体内で渦を巻いていて、息が触れ合うほどに親しい間合いを維持してなお、離別していく恐怖に震えている。
そしてその予感は全く真実であり、同じ存在ではなく、同じ才能、同じ性傾向を共有しない二人は、当然当たり前に引き離されていく未来に向けて、歩いていくしかない。
そんな未来を、物静かな外面に反して微細な感性を持つ(からこそ、オーボエ奏者として群を抜いた表現力を持つ)みぞれは見据えつつ目を逸しています。

触ってしまえば壊れてしまうが、だからこそ触りたい。
みぞれが左の髪の毛を幾度も触るのは、それが幼少期にとどまっていたい彼女のライナスの毛布であり、揺れるポニーテールの代用品、性器に一切触れない精神的自慰でもあるのでしょう。
具体的な対象を持ったアンビバレンツには、静かで強い息遣いがあり、フェティシズムではなくエロティシズムがあります。
理想の希美を蜃気楼のように追いかけているという意味では、形のないフェティシズムなのですが、みぞのれの視線は常に『そこにいる』希美に向けられ、しかし『そこにいない』かのように届くことはない。
その不在と実在のあやふやなダンスが、あのポニーテールとスカートには濃厚に込められているし、それがエロティックな瞬間であることを、オーボエの接合、リードへの口づけが清潔に強調もしてきます。
そしてそれが成就しそうな臨界点を超える寸前で、希美は接近するみぞれの体温から距離を開け、零レンジで溶け合う解決は霧散していく。

希美だけを求めるみぞれ(を強調するべく、音のない世界にどーでもいいモブが一回やってくる描写、それがみぞれの世界に音楽を与えない描写を入れるところが、最悪に性格悪くて好きです。みぞれの世界に鼓動を入れられる特権は、希美にしかない)の強い視線と、それをすんでのところで躱し、しかし明瞭な拒絶もしない希美。
それが無意識の拒絶なのか、あるいは言葉にされない意志なのか。
沢山のパンを可愛い草食動物に与えすぎてしまって、ちょっと異形のアライグマ(視力が極端に悪いので、『モノを洗っている』と誤解されるほど近くで触れなければ事実を認識できない動物が、自分自身すら認識できないまま二人きりに自閉しているみぞれのトーテムであるというのは、過剰な読みではないと思います)には残しておけなかったリズの描写と合わせて、エロティックな謎掛けを刻むアバンだと言えます。

この後幾度も繰り返される、下級生とのぞ先輩との食事シーンは、愛という名前のパンを不必要に配りすぎる希美と、パンを求めすぎるのにトラウマとも離別とも真っ直ぐ向き合えないみぞれを、幾度もリフレインします。
希美は凄くズルい子で、自分の勝手でみぞれを幾度も振り回し、社交的な性質そのままにみんなに優しく振る舞い、そのくせみぞれがダブルリードの後輩と関係を作ると、尖った嫉妬を向けてくる。
みぞれだけが歪んでいるように見えた冒頭の構図は、圧倒的な表現に飲み込まれていくうちに自然と崩れ、エロティックですらある独占欲と嫉妬を抱える希美の歪さ……"リズ"の清廉な筆致から巧妙に排除されているリビドーが、ジワジワと匂い立ってきます。
愛し求めるけどもたどり着けず、嫉妬し憎むからこそ近くに引き寄せたいアンビバレントは、エロティックな視線をポニテに向けるみぞれだけではなく、清潔に思える希美にも宿っているわけです。

世界のあり方もマトモな真実も、自分では体現できなくてもある程度は判ってしまっている、もう子供でもなくまだ大人ではない時代の青年たち。
この複雑な世界を描く上で、接触にまでたどり着けないからこそ内圧を怪物的に上げていく欲望、その高まりと不達成の描写は、非常に静かな重さを宿しているように思います。

スラッと童話的な"リズ"のキャラデザインを引き継ぐように、『現実』の希美もみぞれも、乳と尻がすらりと薄く、静かに伸びています。
しかしそこには明瞭な差異があって、物語の中の永遠を生きるリズたちと違って、希美達の制服の下には確かに性成熟が息を潜めている。
揺れるポニーテール、脚とソックスの『先』を想像させるに十分な危うさ、色の濃い身体性を、『現実』サイドのデザインがしっかり有していることが、接触と拒絶の絡み合いによって進行していく物語を、強く支えているように思います。
そしてそういう熱い息遣いは、冒頭『見る主体、接近する側』であったみぞれだけでなく、『見られる客体、拒絶する側』であったはずの希美にも宿っている。
様々な隠蔽と暴露が入り交じる映画ですが、このリビドーの共犯関係がじわじわと漏れ出てくるサスペンスが、僕には猛烈に刺さりました。

己の性(さが)を自認する思春期を、何もかもが明瞭になってしまう成熟期の拒絶を、このアニメーションは濃厚に含んでいます。
止まらない時間の流れも、愚かさや頑なさを装いつつ自動的に溢れてしまう少女自身の賢さも、絵本の中に閉じ込められた幼少期が永遠ではないことを教えているけども、それでも青い鳥をかごの中に閉じ込めておきたいという願いは、触れれば血を流すほどに強烈です。
それと同じ魂の熱量が、見ないように目をそらしても届いてしまう愛おしさ、触れたいという願い、セクシュアルな律動を加速させもする。
しかしそれは、表になってしまえば共有不能な性質を確認するしかない、死を約束された飛翔でもあります。
音楽と童話、お喋りとお茶会に行儀よく収まりつつ、禁忌(あるいは未知)としての性は、映画のあらゆる瞬間で静かな燐光を放つ。
その冷凍された生々しさが、最後まで静謐な形を保ったまま熱気を放つところが、狂暴で好きです。


色彩もまた、矛盾をはらんで静かに溶け合い、あるいは溶け合いない切なさを確認しながら静かに立つ。
キタノブルー(あるいはピカソの"青の時代")よろしく、冒頭の世界をフィルタリングする圧倒的な『青』
それはみぞれを主体としていた物語のカメラがアングルを変え、様々な画角から世界を切り取り始めると、ゆっくり薄れ始めます。
清廉の、永遠の、死人の、あるいは潔癖なるマリアの処女性を背負う『青』は、段々と当たり前に息づく『オレンジ』の活力と入り混じり始め、物語は早朝から夕刻へと進んでいく。
持ち前の社交性で後輩に交じる希美だけでなく、みぞれもまた、後輩と喜ばしい距離感を作り、二人きりの共犯関係だけが世界の全てではないと、『オレンジ』が『青』を侵犯していく。
このアニメにおいて色彩の変化は非常に精密なリアリズムで、時刻や気象の変化を反映する描写であり、同時に物語の抽象やキャラクターの心象を強く反映した表現手段でもあります。
作品固有のリアリズムを、製作者が決定的に握り込めるアニメーションメディアの強みを、音響と合わせて最大限活かした箇所だと言えます。

青い鳥の前髪を飾っていた赤が入り混じった紫が生まれ、『Disjoint』が『Disjoint』になることで物語は終わります。
触れ得ない緊張感に満ちたポニーテールを、後ろから見つめれる至近距離から離れることで初めて、オーボエは正しく接続され、リードは音を奏で始める。
アバンを再演するかのように二人の歩みが描かれて、しかしそれは図書室と音楽室、それぞれの未来と生き方を反映した離別の確認になっている。
息がかかるほどの至近距離では見えなかった、離れてみてようやく適正な距離にたどり着けた二人は、物理的には離断(Disjoint)されているのに、魂としては接続(Joint)されている。
そういう相矛盾した距離感を、本当に緻密な歩みで生き一つ取りこぼさず書ききる歩みこそが、この映画の相対だと言えます。

救いと教訓を込めた童話、現実から離れたファンタジーたる"リズ"の世界は、人工的な直角を決定的に避けた柔らかな水彩の世界です。
これに対し、エロティックな危うさと硬質なルールが支配する『現実』は、凄まじくスマートで峻厳なレイアウトが、ピシッと世界を分割しています。
窓枠、蛇口、椅子と机、複雑に重なるマット。
真っ直ぐな描線は交わらない心を隔てる境界線となり、あるいは何らか答えを出さなければ許されない世界のルールを反映して、あらゆる場所で研ぎ澄まされる。
この硬質な感覚を際だたせるためにリズの世界を間に挟んでもいるし、逆にファンタジーが侵犯してきたようなグニャッとしたモチーフ(紐や水、光と影、感情を溢れさせた人体、髪の毛など)が、ときおり顔を出したりもします。

このように、非常に綿密な計算によって造られた『絵』が、多彩な意味を含んで連発されるわけですが、それが悪目立ちしない……というか、分厚く明瞭なテーマへの視線が『絵』を必要とし、丸呑みしきってしまっているところが、正しくこの映画の怪物的なところで。
京都アニメーションという創作集団が度々陥ってしまう過剰品質を、それをさらに上回る作家性と、それを一つの作品にパッケージし切るバランス・コントロールの能力で、あくまで表現のためのツール(あるいはメディア)と御しきってしまっているところが、本当に恐ろしい。
個別の表現の鋭さは常に、常時画面に張り詰めている『青春』というテーマに接続され、それをどれだけ凄まじい精度で描ききれるか問いながら配置されている。
ソロの掛け合いとハグと対話、クライマックスの明瞭な会話を成立させるために、語らない語りでムードとイマージュを伝える足場として使い潰す。
その腕力と視力があってこそ、この濃密な90分だと思います……ほんといくらでも一個一個の表現を微視できるんだけども、それはあくまで全体のための奉仕でしかないっていうのは、怪物の発想だし実力だ。


普通の深夜アニメなら、サービスシーンとして挿入されるだろうプールでのじゃれ合い。
それはさっくり省略され、携帯電話の中の静止した永遠に閉じ込められます。
それは『肌色とかのやっすいエロスに、逃げるつもりは毛頭ねぇから。衣擦れと視線と息遣いだから。アタシら谷崎イズムの正式継承者だから』という無言のパンチではあるんですが、同時に綿密に設定された檻からキャラクターを出さない、凶悪な懲役でもあります。
この物語は根本的に、学校という巨大な水槽、"リズ"という物語の檻から出ないことで成立しているからです。

TV版ユーフォは祭りに行ったり合宿に行ったり、あるいはコンクールに出たり、学校と外部を往復することで物語が進行していきます。
コンクール本番の描写をすべて捨て去り、勝ち負けのドラマに完全に背中を向けたこの映画では、当然そういう好ましい青春の往復運動はなされない。(なにしろ、メインテーマである"リズと青い鳥"も第三楽章以外演奏されないわけで)
音楽室と理科室、あるいは『現実』と"リズの青い鳥"。
二つの監獄を行き来することで物語は進行し、幾度も幾度もクローズアップされう足元が『外』に向かうのは、希美が決定的に真実に打ちのめされる合奏の後、ハグを終えて二人が決定的に破断していく下校のシーンのみです。
学校は青い時間を閉じ込めた氷の檻であり、どこにも行きたくないが羽毛は生え揃ってしまっている青い鳥達が、己を閉じ込めている水槽なのです。

みぞれは希美だけが世界のすべてだと思いつめつつ、しかし様々なものと接触していきます。
鎧…じゃない剣崎後輩と不思議ちゃん同士共鳴したり、フグに餌をやったり、希美ではなく図書館から本を借りて読んだり、新山先生(『学校』外部からの侵入者!)と決定的な対話を果たしたり。
みぞれがフグに引き寄せられるのは、それが自分の目線の届く範囲で水中を羽ばたき、青い鳥ほど綺麗じゃない飛翔を見せてくれる、自分に似た存在だと思ったからじゃないかと思います。
なにもない水槽に囚われた不自由さが、自分と希美に共鳴する部分もあるのかな。
後輩に『フグみたい』といったのは彼女にとって凄い褒め言葉なんだけども、そういうみぞれを後輩(が代表し希美もそこに足場を置く『当たり前の世界』)は、なかなか許容できない。
でも、TV版で見せたような激しい軋轢は(多分吉川部長が持ち前の人間力でバンバン芽を潰して)起きず、剣崎後輩も不思議なみぞれを不思議なまま慕う。

静止と流動が各々の領分を保ったまま、対立して進んでくれるのならばある意味楽なんですが、子供から大人へ否応なく変化してしまう青の季節は、矛盾したものを大きく吸い込み続けます。
希美だけがいる青い檻にとどまっていたいと望みつつ、その才覚が、その人格が他人を無自覚に引き寄せてしまうみぞれには、自動的に『外』への窓が空いてしまっている。
童話としての"リズ"で満足せず、文庫版の"リズ"に踏み入る行動から見て取れるように、そういう風を言葉では否定しつつ知性と感性が感じ取ってしまうみぞれの姿も、丁寧に描かれています
『外部』から吹き込む風が、青い世界の静かなエロティシズムにみぞれを安住させないし、同じ風が希美にも吹き付けて、彼女を不安にさせていく。
その複雑なダンス、交錯しつつ交わらない視線と吐息こそが、いつまで経っても重ならない二つのソロなのでしょう。


自分のこと、最も大事で身近にいる存在だからこそ、判らない。
適切な距離が取れない。
そういう複雑な混濁を取り払ってくれるのは、この作品においては常に『他者』です。
『これが本当のリズ第三楽章じゃい!』とばかりに、久美子との合奏を高らかに響かせる麗奈。(爆弾ぶっこんでくるのが『より良い音楽を弾いて、聞きたいから。才能ある人が縛られてるのは我慢ならないから』なあたりが、相変わらずのブラス狂犬っぷりで最高でした)
みぞれの圧倒的な才覚を見抜いて、音大という『外』への切符を彼女にだけ手渡し、"リズと青い鳥"の謎を一緒に解く手助けをしてくれる新山先生。
後輩として静かに接近してきて、青く凍った世界を切り崩す剣崎後輩。(ポワポワしてるのに健気で、とっても可愛い)
あるいは、一生喧嘩イチャイチャしつつ適切なバランスを保ち、部長として会計係として『大人』の仕事をしっかりする中川&吉川。

狭くて息苦しく、それでも大事に守りたいと思える幼い青の監獄を、優しく壊してくれるチャンスはみぞれと希美二人が見つめ合っていても、けして到来はしない。
リードを自分で作り、赤い糸(それが希美の小指に伸びていることを望みつつ、薄っすらとはっきりとそうではないことに感づいていればこそ、みぞれはどこにも羽ばたけないまま傷つく)を巻き取るみぞれは、自分の目で世界を読み解ける賢さと(性へと繋がる)成熟を、自覚のないままに果たしています。

絵本版の"リズ"に夢見られているような、大人の女にならないまま少女と同衾できるような、静止した楽園。
みぞれはそれを夢見つつ、しかしそれが絶対に実現してくれない『現実』の厳しさに、リードを自作する成長を置き据えることでしっかり対置しています。
彼女はオーボエというポジション、それを成立させるリードの自作を通じて、既に(満ち足りた幼少期の影を伸ばす、希美の幻像ではない)他者と向かい合うだけの腰つきを整えつつあるのですが、幼いままならば希美と接触できる期待感、自分と他者の境界線が薄いままいたい欲望(キャラデザの細さは、これを反映していると思います)を前に、そんな自己像を素直に肯定はできない。

しかしそんな『自立した』みぞれを、剣崎後輩や新山先生は正しく見据えていて、その屹然とした可能性に引き寄せられて、言葉をかけ、成熟によって内側から罅が入った自意識の殻を、外側からも割っていく。
禅語で言う『卒啄同時の機』、内側から卵の殻を突く『卒』と、外側から新生を手助けする『啄』が合わさり、微睡みから否応なく目覚めてしまう瞬間の変化は、みぞれ自身のうねりと、彼女を求める『外部』とのコンタクトで発生します。
その望ましい(とされる)変化へ、嫉妬と羨望の眼差しを確かに向けた希美の姿を、抜け目なく挿入している所……大人っぽい希美が実は子供で、幼く見えるみぞれが実は大人な側面がある混濁を見逃さないところが、悪魔的な目の良さです。

『外部』からの接触は凄く残酷に、呼吸しなければ死んで腐敗していくだけな世界の真実を見据えていて、なおかつ青い監獄に閉じこもっていたい、閉じ込めていたいという無茶なお願いに、愛のこもった視線を向けた描写だと思います。
皆が永遠を求めつつ手に入らず、誰かの青い鳥となって籠から出ていき、檻から解き放つ。
そんな当たり前の成長がどこからやってきて、どこで停滞し、どんな痛みを伴っているかを、この作品はすごく細密に、愛おしく見守っている。
そしてそれを、驚異的な表現力でしっかり描いてもいる。
だからこそ、『外』への道は常に『外』が示し、『中』から開け放たれるのだと思います。

このアニメが優しいのは、才覚に満ち溢れた青い鳥を閉じ込めていたリズ……希美もまた、『外部』足り得る資格を有することを、ちゃんとシーンを作って見せているところです。
中庭を挟んで、言葉が届かない距離に離れた二人が手を触り合う時、フルートの銀色が光を反射して、みぞれの胸を刺す。
それは希美自身が意図して放った矢ではないけども、中学時代の運命的な接触と同じように、幾度もみぞれの柔らかな感性を貫き、鈎を突きたて、自分の方へ引き寄せる恋の矢です。
そういう矢衾に貫かれて、みぞれは内向的で狭い視線……青の中で揺れるポニーテールに静かに発情する危険な動物へと進化した。
木でできたオーボエは光を発せず、希美の方には銀の矢が突き刺さっていないのが、みぞれの未来を残酷に暗示し、二人の性自認の差異を無言で語っているようで、本当に残虐でした。

しかしそれと同時に、危険なほどに親しい間合いで触れ合っているときとは違う表情を、光の矢で無意識に交信しながら希美とみぞれは交わしあう。
離れていったトラウマ、近すぎるからこそ言えない言葉。
そういう絡み合った糸を引き剥がして、お互いがよりお互いらしくありえる可能性は、中庭という距離を隔てて、お互いが『外部』になることでしか発生し得ない。
その峻厳な事実にちゃんと向き合いつつも、そんな自分たちの距離感を巧く自覚できず、殻の中でまどっている姿、殻から出れるかもしれない可能性(と残虐な悲しさ)にカメラを向けていく繊細さは、やはり怪物的といえます。

そんな希美の可能性もまた、みぞれを離れて『他者』と交錯する瞬間に飛翔する。
狭い廊下のどん詰まりで、中川&吉川を壁役として、希美は音大を望んでいない、たどり着けもしない自分を告白していく。
鳥の死骸がガラスの檻に閉じ込められた理科室で、みぞれはリズではなく青い鳥である自分自身を、カウンセリングめいた新山先生との対話で見つけていく。
それは『外側』から卵の殻を突っつくおせっかいと、卵の閉鎖した温もりを慈しみつつ、それが壊れつぃ舞う予感に震えて身動ぎする『内側』とが、両方頑張った卒啄の瞬間です。
そういう内外同時の決断がなければ、檻は不安定な距離感、真実の己を開放できない窮屈さを維持したまま、全てを閉じ込めてしまう。
でもそれは、ただ『正しくない』と断じられてしまうような虚偽ではなく、その時代その人にしかない切実さを宿した、一つの真実でもある。
永遠に青く居続けることは出来なくても、そうしたいと願った気持ちは本当のことだったのです。
外側にあるものと内側にあるものは、この作品に囚われた他のあらゆる矛盾と対立と同じように、個別の性質と愛おしさを宿しつつ反発し、混ざり合い、孤独に誇り高く交流していきます。


新山先生との対話は、『待ち構え、閉じ込めるリズ』というセルフ・イメージ(であると同時に作品読解)に問わられたみぞれを、『解き放たれ、飛び立つ青い鳥』へと変化させていくきっかけになります。
それはみぞれを新しい世界に開放すると同時に、"リズと青い鳥"という作品(映画の方も、書物の方も)を新しい解釈によって飛翔させる目線でもある。
ここまで積み上げられた微細な視線、吐息、足先の戸惑いが何を意味し、どんな意志によって形作られ、何を思考して飛び立つかを『読む』ことに成功したみぞれは、希美と隣り合うために押し込めていた実力を全て開放し、自分自身であることを恐れなくなります。

それは"リズと青い鳥"の童話版で満足できてしまった希美と、よりディープで細密な文庫版を読み解こうとするみぞれの知恵の差、自意識の差が生み出した『読み』でもある。
無意識に、あるいは意図してみぞれを翻弄する(そして翻弄される)希美の身勝手と愚鈍さは、満ち足りた青の中で明瞭なノイズとして、幾重にも埋め込まれていました。
抽象を直感しあるいは思考する能力の欠如、微細なサインを読み取って考え込むセンスの無さ。
みぞれの憧れにシンクロしつつ、しかし冷静な客観を織り込みもする描写は、"リズと青い鳥"を小説としても楽曲としても解釈し表現する才能の差を、静かに準備していました。

その発露として理科室での読解があり、音楽室での表現がある。
オーボエに口づけする行為一つで、他者を圧倒的に飲み込んでしまえるような怪物的なみぞれの才覚。
希美への執着と愛情はそれを閉じ込める檻であり、そんな才覚を手元においておくことが、当たり前に後輩と喋れてしまう凡才・傘木希美の薄暗い喜びでもあった。(ユーフォ2第9話の、あすかの靴紐を縛り付ける中世古にも通じる、『母』なる欲望の再演)
そんな檻に取ら割れている/安住し続ける青い自分を、自分の唇で噛み砕くかのように、みぞれのオーボエは青い空に伸びて、伸びて、伸び続ける。

その高さ、圧倒的な才覚の差異を聞き逃がせないほどには、希美には音楽の才覚と誠実さがあった。
それが彼女を吹奏楽部に引き戻し、みぞれと再開させもした。
あの演奏シーンは、世界の果てを思い知らされてしまう瞬間、幼年期が首をはねられる圧倒的な残酷と、それを認識することでしか新しい世界に進むことが出来ない峻厳な真実、全てがが開始再生する瞬間への切ない愛しさで満ちていて、最高に良かったです。

親友への告白を足場に、みぞれの新たな演奏、それに反射される自己像を『読んだ』希美は理科室(才覚溢れるものだけの特等席)に閉じこもりますが、剣崎後輩(他者!)の助言を助けに、みぞれはそこに踏み込む。
飛べない鳥の骨格が、硝子に閉じ込められた檻を背景に、みぞれがたどり着いた答えから耳をふさぎたがる希美。
中学時代は気楽にやれて、でも背丈が伸びスカートの中でリビドーが荒い呼吸をしている高校三年生には、もう遊びでやれないハグへと、みぞれは飛び込んでいきます。
静かに青い世界に微睡み、あるいは沈黙の中複雑に『読む』主体だったみぞれは、前に進んで飛び込み、あるいは声高に想いを叫ぶ存在へとこの瞬間変わる。
饒舌でそんなみぞれを押し留めていた希美が、愛を強く語るみぞれの過剰な語に対し、『オーボエ』の一言だけですべてを語る(それはつまり、己とみぞれの関係を覚悟を決めて『読んだ』結果でもあります)のは、先鋭で残酷な対比でした。

沈黙と饒舌はこのとき交錯して、青の中で静止していた幼年期を残酷にもぎ取る。
"リズと青い鳥"を『読む』こと(つまり演奏すること)が、不安定な青春に揺蕩う少女二人の自己分析、関係変化のための状況整理にもなっているからこそ、心象の中の青い鳥はインクを張り合わせたロールシャッハ・テストのような筆致で描かれるのでしょう。
青い鳥に何を見るかは、すなわち自分自身、それに繋がった他者と作り上げる現在と未来を、強く反射します。
"リズと青い鳥"から何を読み解くかは、読者(演奏者)自身の成熟や知能、忌避や恐怖を反射し、唯一確認させる『外部』との対話でもあるわけです。

そういう意味で、この示唆と暗示に満ちた物語が『読む』ことで決定的に変化し、その様相を変えてクライマックスへと至るのは、必然的かつ的確な運びだと思います。
"リズと青い鳥"という、質感もデザインも異なる『外部』に踏み込み、あるいは踏み込まれることで、静止した不安定な青が崩壊し、赤と入り混じっていく。
そういう物語を描くためには、異質なる"リズと青い鳥"を作中に入れ込み、別種のルールが支配しつつ『現実』とも接合した複雑な寓話として描くことが、とても大事だったのでしょう。
そしてそれは、『リズの青い鳥』と名付けられたこの物語を見て、読み、侵犯され侵犯する僕らと僕らの『現実』においても成立しうる関係です。
この映画を『読む』ことが何らか青い鳥を羽ばたかせるかは、見たものの決断と発見によって様々でしょうが、そうさせるのに十分な圧力と緻密さ、祈りがこの作品には込められていると、僕は思います。


みぞれを『特別』だと、自分とは違う存在だと認める希美は、みぞれからのハグを幾度も拒絶し、最後踏み込まれたときも当惑のまま押し流されていきます。
そこにみぞれと希美の性自認の差異、ゲイ・セクシュアリティを込めて『わたしの全て』と言い切れてしまう少女と、それを共有できない少女との断絶を見るのは、僕は過剰な読みではないと思う。
二人の恋の形は、お互いが相手と自分に抱いた身勝手なイマージュを反映してすれ違っていて、その才が『読み』によって内破してしまったのなら、『同じ』であるという幻想から距離をおいてしまうのは、残忍ですが誠実でしょう。

ですが、それでもみぞれは至近距離で思いを伝え、それを受け取った希美はみぞれを抱きしめ返す。
恋の形が食い違っていたとしても、それを修正しつつお互い手を離し、繋ぎ直すことは出来るし、そうやって再接合された関係は、偽りでも哀しいものでもない。
今の希美に精一杯の『みぞれを完全に支える』という第三楽章。
才覚の差、音大へのパンフレットが片方にしか手渡されない現実を理解しつつ、希美は今の自分に出来る最善を身じろぎの末になんとか獲得し、静かに差し出したわけです。
それはリズが青い鳥を開け放った結末によく似た、ハッピーエンドなのでしょう。

ラスト、冒頭の青い世界から離れた二人はお互いの歩みで、お互いのステージに進みます。
オーボエを準備するみぞれの手付きと同じくらい、受験勉強に励む希美の当たり前の努力が、丁寧に細やかに描かれていたのが、僕は嬉しかった。
そのクオリティの高さは、夢破れ特別ではないセリフイメージを許容する(せざるを得ない)ほぼすべての人と、それに置き去りにされ孤高に飛ぶ少数の天才たち両方に、精密に描くだけの意味と愛おしさがあるのだと、無言で語ってくれているように思えたからです。
そういう残酷な断面を描くために、吹奏楽という題材は必然であったし、TVシリーズでも丁寧にその残酷さを見つめてきたユーフォだからこその描写だと思います。

遠く離れた二つの場所を、閉鎖し見守る窓の外に、青い鳥が飛んでいきます。
その軌跡が繋がっているように見えるのは、むろん映画編集のテクニックが生み出した幻像なんですが、二人きりではないことを受け入れざるを得なかった二人が、それでもなお繋がり続ける希望を背負ってくれてもいます。
どれだけ本当の自分を他者に見つけても、それは離れて別々である真実に怯えつつ、それでも飛び立っていった少女たちの青春が、どこに辿り着くかを描かず、それが巣立った瞬間までで切り落とす作り方が、なんとも鮮明で凄まじいと思います。
それは『そこまで書けば十分であるし、これ以上は必要ない』という決断だから。
この作品にとって、青春は息の根が止まるまでがクローズアップ&スロウで描くに値し、そこをしっかり描ききれたなら、その先の終着点は演算可能なわけです。

あるいは、演算不可能な無限の空をこそ、青春の次にやってくる青さとして描ききりたかったのか。
赤と青が入り交じる紫の空を、青い鳥たちが飛んでいく。
それはどうしようもなく愛おしいから互いに手を伸ばし、それを弾き合い、残酷にバラバラであり痛いほど親しかった少女たちの、セルフ・ポートレートです。
それと同時に、誰もが置き去りに忘却し、しかし今なおジクジクとうずき続ける普遍的な青春のスケッチでもある。
それは傷つき羽を休めながら、己の中で渦を巻く律動に導かれて、どこまでも遠くへ旅立っていってしまう。
そんな震えながらの飛翔を描けてしまえたこの映画は、やっぱ凄まじいと思う。


檻の中に漂う、息苦しさと密着の安住。
清潔な描画の中で荒い息をつく、獣欲と嫉妬。
跳ね返し誘惑する、幾重にも折り重ねられた描写と読解。
豊かなものが精妙にコントロールされ、その過剰さを窮屈そうに弛めながら、あるべき場所に配置されている。
そういうアニメです。
素晴らしいアニメだと思います。