イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

コメット・ルシファー:第12話『星と少年』感想

星の命を受け継いだ少女と孤独な少年が出会うとき、冒険が始まる! と視聴者は思っていたアニメ、ついに最終回であります。
超世界規模の大破壊が降り注ぐ中、ラスボスは解りにくいポエム語で喋り、それを補うようにボッ立ちで解説が流され、ソウゴはヒロイン的立場に滑り込んで星の子と守護者は使命を果たしましたとさ。
もうなんて言っていいか正直分からんけども、ラストの感想行くぞお前ら!!

取り敢えず、出だし5分ずーと、罪もない少女を騙したり脅したりの、イヤーなシーンを見せられる展開がしんどい。
このアニメの尺取るシーン大体に言えることなんだが、『それ要るゥッ!?』と聞きたくなる描写が長いのだ、食いもんを粗末にする描写にしても、ドモンの家を壊す描写にしても、無軌道な暴力が無邪気に炸裂する描写にしても。
僕は(一応)主人公の姿形を借りてラスボスがヒロインをなぶる展開を見ても良い気持ちにならないし、そのシーンが作劇上何らかの役割を果たすとも感じ取れない。
ていうか最終回なんだから、物語の機能を積み上げるタイミングは終わってるはずだ。

黒いガーディアンが悪いやつってのは、まぁ描写と物語の蓄積による説得力が薄いから納得はしていないけど、そういうもんだって理解くらいはしている。
だから一応主人公側として描写されてるフェリアがネチネチ虐められるシーンを長く続けなくても、星落としてビルふっ飛ばして大量殺戮してる時点で『コイツはぶっ飛ばさなきゃいけない』という理屈は解っているのだ。
フェリアをネチネチ追い詰めることで見えてくる地金や葛藤を見せたいのであればもっと前倒しでやるべきだし、足らなかった掘り下げを行うにしては時間がない。
そんなに執着心あるなら、早めに見せてくれたら色々助かったのになぁ、ラスボスさん……。


そして特に何かしていたわけではない主人公が物語に選ばれた理由を唐突に開陳しつつの、世界改変のための電池オチが続く。
ここでフェリアと役割をコンバーションして『主役が犠牲となって世界を救い、ヒロインが生き延びて過去の残影を追いかける』というお話にするために、ソウゴはカカシ主人公だったんだね!
……フェリアは最後の活躍のチャンスがもらえたかもしれんが、ずっと体を張ってきたモウラは心中に付き合わされる形じゃないのよ……。
つーか主人公が世界の中心にいる理由があるなら、早い段階から匂わせておいてくれ、別に明言はしなくていいから。

ソウゴ声の黒ガーディアンさんから大量に詰め込まれる設定とモチベーションに胸焼けしつつ、宇宙空間で最終決戦である。
そこら辺も最終話で一気に説明すんじゃなくて、話の合間に細切れにしてバラまいておけと思ってしまうが、それが出来るのならコメルシはコメルシになってないわけで。
このボッ立ちでしんどい説明時間は、このアニメがたどり着くべくしてたどり着いた宿命だと言える。
だからといってしんどさが減るわけじゃあないがな!!

平行して世界はすんごい事になってるが、最終決戦は主人公(元さらわれヒロイン)とロボット(あんま強くないイモムシ。美少女にもなれる)に握りこまれ、冒険を一緒にした仲間は特に役立たん。
さんざん嫌がらせしてきた軍人の皆さんも、最後に人命救助っていういいコトしたから無罪放免だね!! ……っていう、『取り敢えず定番になってることをおさらいして、なんとなくいい感じの効果だけをかっさらおう根性』剥き出しの描写とか、マジ勘弁して欲しい。
蓄積がない場合、どれだけ安定感のある描写でも上滑りして刺さらないってことだな。

結局元主人公・現電池は世界の命運を左右することもなく、フェリアとモウラが犠牲になって世界は救われる。
彼を主人公と思い込んでいた僕が悪いのだが、本当に安全圏から出ねぇキャラクターだなお前……地中に潜って終わるラストカットも、『行きて帰りし物語』というには道のりがねじ曲がっている上に軽いので、感慨は特にないな。
フェリアを追いかけるけど捕まえられない未来に関しては、ソウゴが捉えられていた『身の丈』の呪いを最後まで破らなかったってことなんだろうが、起こったことを見ると『フェリアを生け贄に生き延びた』としか見えなくて、やっぱケジメの付かない主人公は見ててしんどいなと思う。
あとせっかく詩的で良いこと言ってヒロインを留めようとするんだから、せめて以前に一言くらいは使った言葉にしてくれ……多分おかんから聞いた言葉なんだろうから、描写することで過去との絆とか演出できたと思うんだが……。
他のキャラクターもまぁ、フェリアが守って死んだ世界でそれぞれ前向きに生きて、色々活躍したよというところで、このアニメは終わりました。

 

ちょっと露悪的に書きましたけど、僕はこのアニメを『叩いていいストレス発散装置』とは捉えていません。
というかそういう作品は世界には存在しなくて、沢山の期待と幾ばくかの不安を抱えながら楽しみに見始めて、幸運なことに楽しめたり、不幸なことに楽しめなかったり、どちらにせよある程度自分を差し出しつつ物語は体験されていると思います。
僕はコメルシを好きになりたかったし、一視聴者に必要と思われるだけの真面目さを持って臨んだつもりですが、哀しいことに好きにはなれなかった。
その気持を閉じ込めて感想を書かなくなっても良かった(実際の話、これまで見てきたアニメにはそういうものも少しある)けれども、抱え込むには少し辛い感情だったので、ブログという他人に読まれる可能性と危険性のある場所で公開してきたわけです。

一応このアニメを好きになりたかった立場からすると、色々問題点はありますが、やはり『見せたいシーン』が優先して『見せるべきシーン』が省略されていたのが、一番しんどいところでした。
キャラクターが特定の結論に至るためには、描写の蓄積と行動理念の説明、モチベーションの解説などが適宜スムーズに行われ、視聴者が感じる物語的必然が高まっていく必要があります。
いわゆる『定番』のシチュエーションや描写、設定、キャラ配置などは、この過程を効果的に達成可能だからこそ利用され(過ぎてその異化作用を減じ)ていると思うわけですが、これまで拙い体験ながら色々学習してきた『物語の型』みたいなものを、このアニメは綺麗にすっ飛ばして展開していたと思います。

多すぎるキャラクター、見えてこないモチベーション、省略され後に過剰に説明される世界のありよう。
『見せたいシーン』を予感させ期待させるための『見せるべきシーン』は特になく(あっても視聴者が気付ける形ではめったに提示されず)、結果視聴者が『見たいシーン』と制作側が『見せたいシーン』は食い違っていく。
Webページの説明で『見せたいシーン』にはこういう意図があったんですよ、と後出しの補足をした所で、その意図が映像に塗り込められていないのならば、あくまで一回性の体験である(べき)創作の受容においてはあまり効果的ではないでしょう。
感じ取れなかった物語は、存在しない物語なのです。


哀しいかな、事前宣伝やヴィジュアルイメージやOPから僕が勝手に期待した『見たいシーン』と、実際の物語の中で展開された『見せたいシーン』はすれ違ってしまいました。
それはまぁ、勝手に期待を膨らませた僕が悪いといえば悪いんですし、一視聴者がどんだけ傷ついてんだよと言われれば返す言葉も無いですが、んじゃあ『ま、世の中そんなもんだよね』と嘯いて安全圏から創作物を略奪する視聴態度を取ればいいかといえば、僕はアニメーションというものが未だに好きだし、それは不誠実で楽しくもないだろうと思います。
僕が製作者の意図を全て受け取り理解し認めてあげる万能の読者ではない以上、『見たいシーン』と『見せたいシーン』のすれ違いはまぁ起こるもので、そういう意味では『ま、世の中そんなもんだよね』です。

しかし創作という行為はそういう前提としての断絶を乗り越えて、奇妙に幸福な相互理解、見えないはずの『見たいシーン』と『見せたいシーン』の合致を生み出すことがあります。
見ず知らずの他人が生み出した物語を何故か『これはオレの物語だ』と実感できる奇跡というのは、本屋やレンタルショップで金で買ったりHDレコーダーからボタン一つで再生出来る奇跡なんだけど、やっぱり僕にとって根本的な喜びなわけです。
そして多分、物語を紡ぐ側の人もその断絶を乗り越えるべく様々な手管を駆使し、既存作品を分析し、定番と新規のバランスを取り、考えに考えて物語を作り上げ、僕らの方に投げかけてくれているのだと、僕は幸福にも信じています。
僕とコメット・ルシファーの間には不幸にしてそういうことは起きなかったけども、創作がそういう快楽と感謝を秘めている以上、期待することは止められません。

世の中には幸運にして、コメット・ルシファーが『見せたいシーン』と自分が『見たいシーン』が合致した人が、必ずいると思います。
僕はそうではなかった、というだけです。
である以上、やっぱり最初に抱いた期待と好きになりたかった気持ちが後を名残らせるけれども、あまり幸福な出会いではなかったのだと思い切って、感想を閉じたほうがいいのでしょう。
さようならというべきかありがとうというべきか、分からないけれど、ともあれお別れ、コメット・ルシファー。