イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

僕だけがいない街:第4話『達成』感想

世界が生きるに値する場所だと証明するため人知れず戦う男の物語、4話目は上げて、上げて、上げて、落とす。
雛月の生存を勝ち取るため、Xデイを乗り越えるために奮闘する藤沼くんが、暖かな隣人たちの助けも借りて見事勝利を達成した! 良かった!! と視聴者もキャラクターも安心した瞬間、最高のタイミングでスパッと足場を刈り取るお話でした。
『視聴者が一番して欲しくないことを、してほしくないタイミングでやる』というサスペンスの基本を完璧な形で決める流れで、思わず唸ってしまった。
これが『ほらー、お前の大事な萌えキャラが死んじゃったぞ~』っていうヤダ味溢れる不幸ポルノだったらそんなにダメージ無いんだけど、藤沼くんの懸命の努力や、雛月の悲惨な境遇と可憐さ、母や友人のかけがえ無さを本気で大切に思ってなお奪う覚悟が感じられるから、ズブッと刺さるやね。

今回のお話はほとんどが『上げる』話でして、雛月を囲い込む母親に怯まず対峙し、幾度もデートを重ね、お誕生会を成功させ……楽しくて達成感があって暖かい、気持ちの良いシーンが積み上げられていきます。
無論これは偽りの幸せで、『Xデイさえ乗り切れば……!』という藤沼くんの読みそれ自体が罠なんですが、幸福な描写を煙幕として使うことで、視聴者の目から罠を隠す仕事が綺麗に機能していました。
虐待や殺人の演出がすごく巧いので、極力ひどい世界を見つめたくない視聴者の臆病さも加速されて、ハッピーで暖かな要素に飛びつくよう誘導してあるのが、最高にクレバー。
藤沼くんも自分を無力と思いたくない気持ちが何処かにあって、その甘さに付け込まれる形でXデイにこだわり過ぎてしまったと思うのですが、キャラクターの甘えと視聴者の甘えが巧くシンクロするようになってるのは、本当によく出来ている。

しかしこういう物語的機能は描写の前にある意図ではなく、描写の後を追っかけて生まれるものです。
藤沼くんの決意や手応え、10歳の体と立場で必死に奮闘し雛月を守ろうとする姿がちゃんと描かれればこそ、そしてそんな彼を手助けしてくれる周囲の人々の暖かさが伝わってくればこそ、煙幕は煙幕として機能する。
ありきたりな言葉ですが、キャラクターをしっかり描いていればこそ、物語が機能しているわけですね。

そのためには一エピソード一エピソードを大事に描写し、暖かなリアリティを暖かいシーンに埋め込まないとダメ。
これにはノスタルジーが凄く大きな仕事を果たしていて、科学館にワクワクする少年ハートだとか、お誕生日会という10歳のビッグイベントだとか、張り詰めた緊張が溶けて泥のように眠る我が子を撫でてくれる母の姿だとか、もう取り戻せない日々を凄くフレッシュに切り取っていました。
この話で切り取られているノスタルジーって多分年齢関係なく『なんか懐かしい』と思える料理のされ方をしてて、それはつまり個別のアイコンや地域性に頼るのではなく活かし、もっと一般的で普遍的な部分にコンタクト出来てるってことです。
対照の抽象化、客観化に凄く成功しているってことなんですが、10才が置かれた世界のエッセンスを巧く絞りとって、シーンに塗りこむ演出の冴えも助けて、狙い通り羨ましくて懐かしい場面になっていました。


雛月と藤沼くんの甘酸っぱい関係も巧いこと『理想化された10歳』を演出しているわけですが、藤沼くん自身は29歳の意識をしっかり持っていて、恋人というよりは保護者として雛月を見守り、献身的に悪意と戦っている印象です。
性的暴行含めた児童虐待が悪意の具現として描かれている以上、29歳の精神が10歳の少女と恋愛関係になるのはタブー中のタブーだってことかもしれませんし、藤沼くんがシングルマザーに育てられ、父親を失っていることと関係があるのかもしれません。
延長線上にセックスがある恋に陥ることなく、あくまで29歳のオッサンとして失った過去を取り戻そうと戦う姿には、ストイックな英雄性と、それを意識しつつもときめいてしまう人間性が両立してて、凄く好感を持ちます。

ヒロインである雛月が藤沼くんと関わりを持ち、凍りつかせていた心を溶かして変化していく姿が丁寧に描かれているのも、藤沼くんの達成感(という煙幕)に視聴者がシンクロする、良い足場になってます。
物憂げな表情も、その下に隠されていた柔らかい感性も凄く巧く描かれていて、悠木碧さんの演技も冴え渡っているので、凄く瑞々しい『活きた少女』としての実感を感じ取れるキャラクターに育ってきました。
『こいつを守らなきゃいけない!』という気持ちが自然と視聴者に生まれてくる良いヒロインなんですが、その共感は体重を預けさせた瞬間に全力で足をすくってくる演出の切れ味と背中合わせであり、巧いサスペンスだなと見事すっ転んで痛む頬を撫でながら思います。
好きにならなきゃ痛くもないんだが、好きにならないわけねーだろっていうね……ずるいわー巧いわー。

前回は出番のなかったお母さんはやっぱり非常に頼れる存在で、親の問題に立ち入りにくい10歳の藤沼くんを、大人の立場から矢面に立って守ったり、決意を秘めた藤沼くんが一息つく『家』を守ってくれたり、ありがたい存在でした。
藤沼くんの覚悟の大きさ、10歳の身の丈の小ささが巧く描写されていて、緊張が溶けるタイミングがあまりない作品なので、お母さんが見せる大人の余裕や優しさ、包容力が凄くありがたく感じられるのですよね。
1988年でお母さんの描写を深めていくと、自動的に2006年のお母さんの死の痛みと、それを回避しようとする藤沼くんの決意にも強くシンクロできるようになるわけで、年代的にも物語構造的にも、巧いロングパスだなと思う。


今回はリバイバルのルール再確認といいますか、ルールミス再確認といいますか、『いい具合にエピソード積み上げてるからって、そうそう悪意が見逃すわけじゃないよ?』というお話でもありました。
藤沼くんの記憶があやふやなので、タイムスリップによるアドバンテージがそこまで強力ではなく、限られた手持ちでどうにか運命を変えなきゃいけないこのお話。
強い覚悟を持っていても、Xデイという思い込み一つで即座に落とし穴に突き落とされる、歴史改変の厳しい法則を体感させられる回だったと思います。
ここでもノスタルジーが巧く機能してて、藤沼くんを取り巻く風景を懐かしいと思えば思うほど、実は具体的な記憶がおどろくほど抜けている自分を直視することになり、記憶があやふやな藤沼くんを責めるのではなく『まぁ、フツー忘れてるよね』と納得できてしまうのが凄いね。

リバイバルというリセット・スイッチを持っている以上、ここでの失敗と再上映はいわば約束された敗北ではあります。
超常の力で不条理をねじ伏せ、死ぬはずだった大切な命を取り戻す偉業を達成すればこそ、カタルシスのある物語が成立するわけですから、強い共感を与え、それを残忍に鮮烈に奪うことで試練の大きさを思い知らせるのは、基本的かつ優れた劇作のテクニックだと思います。
ただまぁ『お話的にはそうなるよね』で納得出来ない痛みや後悔が、今回のヒキにはちゃんとあって、そのことがこのお話が不幸ポルノではない、真剣に犠牲と正義を取り扱う物語だという証明になっていました。
ここらへんもまた、テクニックと情熱の融合の結果といいますか、キャラクターの人生に向かい合った結果、物語の歯車が噛み合い凄いスピードで回転してる証明なんだと思います。

ただ雛月と関係を深め、Xデイを乗り切れば惨劇が回避できるわけではない。
これまでの蓄積を無に返すような残酷な結論でしたが、幸運にしてこのお話は絵空事で、リバイバルという祝福(もしくは呪い)が藤沼くんには用意されています。
望まぬ巻き戻し機能が彼をどこに連れて行くのかはまだ分かりませんが、そこには過酷な試練と、それを乗り越えた先の暖かな瞬間と、ドス黒く顔の見えない悪意が、まだまだ待っているのでしょう。
恐くもあり、楽しみでもあり。
面白いなぁ、このアニメ。