イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

プリパラ:第83話『ペルサイユのくるくるちゃんダヴィンチ!』感想

夢と現実、幻想と真実が交錯する電子桃源郷奇譚、今週は紫京院ひびきのグラウンド・ゼロ
ガァルルを舞台から降ろしてあじみとふわりを帰還させつつ、何故ひびきが現在の一に押し流されてしまったかを解説する回でした。
ひびきの残忍なエゴイズムや孤立主義が何故生まれたのか、ストンと腑に落ちるような、人間の醜さを煮詰めたようなエグい話が笑いのオブラートに包まれて演出され、プリパラの底力を感じる展開でした。

同時に過去を語るあじみの共感不可能性も浮き彫りになり、一キャラクターの落着を超えた、シリーズ全体の一貫性に関する疑問も湧いてきて、今後が気になるエピソードでした。


今回のお話、掘り下げられたのは二人の女だと思います。
一人は当然ひびきで、悪役として主人公の前に立ちふさがりつつも、一分の理を行動に宿すことでただぶっ倒せばいい敵には収まっていない彼女は、しっかり掘り下げキャラの輪郭を際立たせなければいけないキャラです。
何故彼女は歪んだ理想を手に入れ、自分以外の存在を拒絶しながら孤立していく悲しい道を歩いているのか、その理由を語ることで彼女を知る。
有り体に言えば、同情できる存在として認識し直す。
それが今回、ひびきの過去を再話した大きな理由だと思います。

友達や家族同然の存在だと思っていた使用人たちが、金や権力という足場がなくなった途端手のひらを返す。
そこで終わらず、金や権力が戻ってくれば何事もなかったかのように友達や家族同然の立場に戻ってきてしまう。
ひびきが過去に受けた傷は、たしかに歪むのに十分なショックを持っていました。
『即物的な利益がなくなれば人は離れていく』だけなら結構ありがちな題目なんですが、そこからもう一歩踏み込み、『即物的な利益が戻ってくれば、離れた人は離別の痛みなど気にもせず、笑って元の場所に戻ってくる』というさらなるエゴイズムを埋め込んであるのが、非常にエグい。

この体験により、ひびきの中での『トモダチ』の定義はぐちゃぐちゃに揺らいでしまったのだと思います。
彼女が友達と過ごした日々は、家柄故に特別扱いされるという歪みを隠しつつ、幸せで綺麗な時間だと描かれていました。
自作のプリチケで憧れを演じる少女たちの姿は、実際にそのようにしてプリパラを楽しみ憧れているだろう数多の女子の姿をきっちり捉え、モニターを飛び出し現実を撃ちぬく鋭さがありました。
結局この楽しかった時間、プリパラという幻影に取り憑かれてセレパラを作ってしまったことから考えても、ひびきは絶望を愛しているわけではなく、幸せを望んでいる。

でも幸せを共有できる存在、『トモダチ』だと思ってた人は利益がなくなれば離れ、利益が戻れば帰ってくる。
『トモダチ』はひびきが大事だと思っていた心の繋がりになど、なんにも興味が無い、理解不能なエイリアンでしかなかった。

一番大事な場所を失ったひびきがどんどん追い込まれ、不安定になる心の流れはよく分かるし、その結果自分を傷つけることしかしない自分以外の存在を一切否定し、全てが偽りだと思い込み、現実をバカにすることで自分を維持しようとする防衛行動にも、納得は行きます。
『手に入らないぶどうは酸っぱい』というのは人間の基本的な心理防衛策なわけですが、ひびきにとって(たとえそれが利益で繋がる打算的な関係だったとしても)トモダチとの生活は楽しかったし、だからこそ失った(と思い込んでいる)今でもそれを求めている。
彼女がこれまで積み上げてきた憎らしい行動のロジックを説明する上で、今回の話はすごく重要だし、十分以上の説得力も兼ね備えていたように思います。


彼女が作り上げたセレパラという偽りの城もまた、何が真実かわからない中で他人が評価した唯一のものである実務的利益を延長した場所であり。
同時に本当は何よりも大事だったのに失われてしまった、優しさや真摯さを蔑することで自分を守る、『酸っぱい葡萄』の心理的反映でもあるのでしょう。
自分は家柄しか価値が無い人間なんだから、それを肥大化させ延長した存在であるセレパラには、自分と同じセレブリティな価値観以外認めない。
『天才』を唯一の価値として任じる独善も、あくまで自分を守るためのエゴの延長線上にセレパラをおいた防衛心理と、全てを失った後でも『プリンス』として評価と実績を積み上げてきたことへの歪んだ自信、努力という『後付の偽り』を憎む心の傷が入り混じった、複雑な感情のように思えます。
彼女が追い込まれてしまった袋小路の反映としてみると、あれだけ醜く許し難かった紫の城にも、一抹の寂しさが漂う。
この同情というか共感というか、ともかく彼女の痛みを共有できる状態をたった一話で作り出す辺り、やっぱりプリパラのパンチ力は凄い。

全てを嘘だと偽り、男を装って生活してきたのも、何が真実なのか判断する足場を略奪され、どうにか生き延びるために『世界の全部は嘘だ』という結論にたどり着くしかなかった人格の荒廃、その結果なわけです。
このアニメで性自認がかなり重要な問題だというのは、例えばレオナの描き方を見ていても判るわけですが、『ありのまま』女の姿を選んでいたレオナに対し、ひびきが男を装うのは一種の復讐です。
すぐさま手のひらを返す、偽りだらけの世界の中で、傷つきやすい『女の子』のままではいたくないし、いられない。
ならば強くて、人を傷つけても許される『男』、しかも経済的・社会的に特権を持つ『王子』という仮面をかぶれば、自分はもう傷つかないし、嘘ばかりつく世界と同化し、奪われる側ではなく奪う側になれる。
防衛行動的な性的倒錯はしかし、ひびきが心から望んだものではけしてないし、『ありのまま』というわけではもちろんないわけです。
ふわりに対するアプローチも、『王子』という役割の鎧を外すことなく(それ外せば即座に死んじゃうほど、ひびきは追い込まれているわけだから)、どうにかして『ありのまま』の女の子、自分がなりたくてなれなかった少女を手元に置き、癒され助けてもらいたかった叫びだったのかと思うと、茶化す気力が失せていきます。

ファルルに告白した『ボーカルドールになりたい』という言葉は、プリパラらしいネタのヴェールに隠されてはいるけど、人間の肉体を捨てて夢の世界に行ってしまいたいという諦めの告白、自殺願望の吐露にほかならない。
電子的な尸解仙、戯画化された補陀落渡海と言ってもいいかもしれない。
現実での時間を共有できないファルルの哀しみってのは二期でかなり強調されていて、そんな彼女がひびきの歪んだ夢の受け皿になる対比が今回活きていたわけですが、ひびきはその瞬間ファルルが見せた当惑を目に入れていません。
ひびきがボーカルドールの夢に見ているのは、あくまで幼い日の幻影であり、幸せだった日々の再獲得なのです。
誰も自分を傷つけず、自作のプリチケで楽しんで、『みんなトモダチ』という綺麗な真実を素直に信じられた、優しい日々。
そこに帰りたいからこそ、これだけ歪んでも理想のプリパラを追い求めずにはいられない。
そして、ボーカルドールになれば『みんなトモダチ』の象徴行為であるプリチケ交換は死を意味し、だからこそだれとも『トモダチ』にならなくていい立場に憧れている捻れが、彼女の告白からは感じ取れました。

これだけ大量の歪みを見せられ、そこからもう抜け出せないほど追い詰められたひびきを見ると、彼女を悪役として憎む時間が終わったことは、直感的に理解できます。
彼女は助けなければいけない。
誰よりも美しかった時間を愛し、それ故歪んだという意味では、1年目第2クールでラスボスを務めた大神田校長に近いキャラクターなのだと思います。
思い返せば、第1クールで『トモダチ』になったソフィは自分の虚弱さと、第2クールのラスボスであり『トモダチ』でもあったファルルは機械の冷たさと、友情が死に変わってしまう宿命を、それぞれ乗り越えてきました。
ひびきを取り巻く状況、というよりも、それを生み出している彼女の心理状態は非常に歪で危ういわけですが、このアニメは変わることを力強く、肯定的に描いてた。
つまりひびきの歪みと痛み、そこへの共感、そこからの脱出と変化を望む気持ちは、正しくシリーズの方法論を踏まえた、プリパラらしい展開なわけです。
彼女が何重にも着込んだ思い込みと敵意の鎧を脱いで、『ありのまま』の自分に戻れる瞬間はかならず来るし、来て欲しい。
そう思える場所に視聴者を押し流す、パワーの有るエピソードでした。


ひびきはこうして敵役から、救済しなければならない被害者へと立場を変えましたが、一切変化を見せず、むしろその不可解さを強調したのがあじみです。
今回あじみは完全な善意から傷ついたひびきを救済しようと動き、それに完全に失敗します。
それは彼女の『天才と紙一重のキチガイ(もしくはキチガイと紙一重の天才)』というキャラクターがもつ、根本的な対話不可能性が生み出した悲劇だと思います。
何が悲劇かというと、あじみは自分がひびきを追い込んだことも、傷つけたことも、自分の善意がひびきに届いていないことも、一切認識できていないからです。

『正反対の結果を産んだとしても、善意は善意として正しい』って見方もあるんでしょうが、それに頷くにはひびきは傷を受けすぎています。
たとえそうする意図がなかったとしても、ネタっぽく展開される彼女の過剰なスキンシップがひびきの逃げ場を奪い、どんどん追い詰めていったことは、ひびきの語尾アレルギーやドロシーのリアクション(彼女はいつも、視聴者の本音の代理人だなぁ)からも理解できます。
それは『みんなトモダチ』という、プリパラが大事に育てきたテーマが無残に失敗している、悲しいすれ違いです。

それを癒やすためにはふわりが己の失敗を鑑み、ひびきに届く言葉で自分の善意を語り直さなければいけないわけですが、彼女は自分の善意を疑わない。
登場からこれまで結構な話数を使ってますが、実は主人公達であじみとまともな意思疎通に成功しているキャラクターは一人もいません。
あえて言えばコスモですが、彼女はあくまでサブのキャラクターであり、お話しの方向性を決断する立場にはいないわけです。
『でも、あじみちゃんも急ぎすぎたね。もうちょっと優しく喋ってあげなきゃダメだったね』と言ってあげるだけの物語的必然性が、あじみと主役たちの間には、実は育まれていないわけです。

これはあじみという『天才/=キチガイ』キャラクターの描写を怠けていない証明でもあり、他人と共有できる言語があろうとなかろうと、圧倒的な才能で自分を認めさせ、自分の足場を手に入れてしまう暴力性が、天才という存在には確かにあるからこそ、あじみは安易に『何言ってるか判る』『急に素になる』言葉を使わない。
周囲を困惑に巻き込みつつも、プリパラポリスとして的確にジーニアスの正体にたどり着き、ひびきのオリジンを見つける有用性と直感が、たしかにあじみにはあるわけです。
人の話を聞かない、人の気持ちを慮らない、傷ついた女の子の心に土足で上がり込む。
結果を出している事実によりそれが許されてしまうからこその天才であり、そのギャップに悩まないからこそ天才で、『ありのまま』でい続けることが出来る。
理解不能性の渦に飲み込まれ、無理解から自分を守るために男の仮面を被ったひびきとは、正反対の生き方だといえます。

ぶっちぎりのキチガイとして、僕らに笑いとネタを届けてくれたあじみですが、しかしんじゃあ、その特権を振りかざしたままで良いのかと言われれば、少なくとも僕は首を縦にはふれません。
このアニメは『みんなトモダチ、みんなアイドル』をキーフレーズとして配置し、『みんなトモダチ』であることの困難さや、『みんなアイドル』であることの強さ、素晴らしさを、強烈なネタ要素をこれでもかとぶち込みつつも、かなり真正面から描写し続けてきました。
道化の仮面に隠した繊細さがあればこそ、今回あれだけの説得力を持ってひびきの傷を描くこともできていて、しかしそのナイーブさは例外を一つ認めれば破綻してしまう、危ういものでもあると思います。
『あじみちゃんはあじみちゃんだから』『キチガイキャラは対話が成立しちゃったらキチガイじゃなくなるから』という言い訳で、あじみがひびきに確実に与えた(ことは非常に的確かつ適切に、今回描写できていました)傷を無視すれば、『みんなトモダチ、みんなアイドル』というプリパラの魂は、一気に説得力をなくしてしまう。
僕には、そういう気がするのです。


あじみというキャラクターを殺すことなく、彼女が無自覚に踏みつけたひびきの痛みをどう認識させ、どう取り戻すのか。(もしくは取り戻せないのか)
これは今回のエピソードでは、全く先の見えない部分でした。
それはおそらくそれなりの尺とクリティカルな演出を必要とする、とても難しい描写であり、ひびきの歪みと痛みを描いた今回『ついで』で書き切るには、難しい題材なのでしょう。
だから、これからのエピソードの中であじみの交流不可能性を、『わけのわからないことを言いまくる、楽しいキチガイ』というこれまでの描写から踏み出した展開を作れるかどうかは、今だ不明です。

このアニメは結構ナイーブな問題をネタで包み、苦さで吐き出さないように工夫しながら描ききる手腕に長けています。
どう考えても薬物なレッドフラッシュであるとか、ファルルの死であるとか、『一見ネタまみれだけど、良く考えると凄く重たくて痛い問題』をコメディとして切り取る時、そこに『笑えれば、それでいいや』という諦めはあまりなかったように、僕は思えます。(一つ例外があるとすれば、あろまとみかんの間柄の決着は、いまいち踏み込みきれてなかったと思う)

コメディ・エンターテイメントとして楽しめるものを出しつつ、痛くて苦い問題を排除するのではなく、巧く料理して食わすこのアニメの手管。
僕はそれを、尊敬しているし期待もしているのです。
だから、今回あじみが見せた『痛みへの無理解』『その原因である対話不可能性』にも、これまで起こしてきた奇跡で真っ向から、逃げることのない描写を期待してしまう。

ひとつ気になるのは、あじみがもはや成人であり、らぁらを筆頭とする子どもたちのような、成長の具現たりえる年齢ではないということです。
彼女が自分の天才性、対話不可能性に悩みつつ成長し、『自分らしさを活かしつつ、他人の分かる言葉で話す』という結末にたどり着くストーリーは、考えてみれば当然ありえたのだけど、実際はほぼ描写されませんでした。
彼女はあくまで『楽しいキチガイ』『話をかき回すイレギュラー』であり、そう描くことで切り取ることが出来たものも沢山あるんでしょうし、『成人した天才』であれば(良くも悪くも)確立してしまった自我があまり変化しないのは、納得がいくところです。
しかしまぁ、大神田校長のエピソードを見るだに『大人だって夢をみるし、傷つくし、変わることも出来る』というのはこのアニメの視野に捉えられているテーマであり、僕個人の好みとしてはもう一度語っても良いテーマなんじゃないかとも思っています。

『あじみちゃんはあじみちゃんだから』という、便利で強力で安定したトートロジーは、猛烈にあじみのキャラを立てました。
ひびきが自分のエゴと悪徳を表に出すまで、そして出してからも。
二年目のプリパラ後半を牽引したのが、彼女の強烈でブレのないキャラクター性だというのは、否定出来ない事実です。(真実使いこなせていたのは、ふでやすと福田さんだけだった気もするけど)
しかし同時に、トートロジーで立ち止まらずキャラクターに踏み込み、胸に迫る描写を積み上げてきたからこそ、このアニメは独特の力ときらめきを手に入れてきた。
あじみだけがその例外になれば、自分の手で積み上げてきた尊さを捨て去ってしまうような気がして、僕は期待し信じつつも恐れている、複雑な気分でいます。


こうして、ひびきの過去は明らかになりました。
憎い敵役だったひびきを共感可能なヒロインへと変化させ、同時に『あじみちゃんはあじみちゃんだから』という同語反復の危険性を浮き彫りにもした、みっしり中身の詰まったエピソードだと思います。
今回提示されたひびきの痛みと歪みに、らぁらたちがどう踏み込み、寄り添うのか。
狙ってか狙わずかは判別しかねますが、ともかく表面化した『楽しいキチガイ』に話が通じなすぎる現状を、いったいどうするのか。(それともどうもしない、どうもできないのか)
二年目のエンドマークに向け、緊張感と期待、不安と願いがより強くなる、優れたお話でした。