イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

少年メイド:第5話『だんしの一言金鉄の如し』感想

優しさと可憐さで作った優しいお城のお伽話、今週は捻挫と怖い映画。
今週もちーちゃんが抱える少しの闇と、それを含めて優しく受け止めてくれる世界がゆったりと描かれていました。
足の怪我で自分の有用性が発揮できる場所が奪われると、とたんにここにいて良いのか悩み始める辺り、千尋にとって母親の喪失はとてつもなく大きいし、円はそこに接近しつつ代理はできていない、当然っちゃあ当然の立場なのだな。

千尋は賢い子供なので自分がこの世界に存在している意味や理由など考えるし、無為に自分が愛されると思いこめるほど子供でもない。
その確信を与えられたのはただ一人母親だけだったのだけど、そんな彼女が残した『働かざるもの食うべからず』という金言が彼の賢さを担保し、同時に無条件に愛される存在としての自分を認証できない呪いにもなっているのは、如何にも皮肉なことだ。
他人が家族になっていくこの物語は、様々なパターンで『己が無条件に愛される』という確信に千尋を接近させつつ、彼がそこに到達することはない。
永遠に優しい世界で彼はたゆたいつつ、世界の優しさゆえに彼は真実に到達できない。
彼の孤独と真実はつまり、彼の母親は死んで時間は巻き戻らず世界がどれだけ優しかろうと取り戻せないことがあるという事実なわけで、そこに触ってしまえば物語はたやすく限界化するだろう。
剥き出しの本音とエゴに接近しリアリズムを確保しつつも、作品世界自体が内破するほど残忍さには踏み込まない目の良さを、このお話を見ていると僕は感じる。

Aパートの物語では彼は賢さ故に己の居場所のなさを認識し、賢さ故に周囲の優しさに自発的に気付いて、その寂しさを炸裂させて世界を破綻させることはない。
Bパートの物語で子供らしい怯えを見せたとしても、円と千尋の距離は真実家族という間合いまでは近づかない。
千尋の賢い孤独と、円(に代表されるあらゆる他者)の愛情がそれを埋める真実足りえないという事実は、触ってしまえば限界まで突き詰めるしかない危険なテーマなので、軽く触れては去っていく、蜃気楼のように実態のない邪悪さだ。
それはこの世界の優しさが真正真実のものであるという一つの事実と、全く矛盾しない。
むしろこの世界の優しさは常に母の死と千尋の孤独を背景に成立していて、それが甘いだけの物語に苦味を添え、作品と視聴者が許容出来るだけ十分のナマの臭いを足している。

そのコントロールの良さが、安定した物語展開と、優しく心地よいキャラクターの関係性を維持している。
だけれども、それが上手くできれば出来るほど、優しさが破綻し、世界の背景に確かに匂わせされているもう一つの事実に到達する瞬間を、見たくもなる。
円と千尋が家族になろうとする運動は、その中心にある孤独と喪失に踏み込まないかぎり、おそらく完成しないようにこの物語は描いているのだから、そこに踏み込んでしまえば物語は終わる。
だから千尋は賢く自分の孤独に気付き、賢く周囲の優しさに触れて、賢く自発的撤退を選択してエピソードをきれいに閉じさせる。

賢い子供が子供の当然の権利として、物分りの悪いただの子供に変わる瞬間はおそらく、このお話しのラストエピソードになる。
千尋が世界に存在するために装っている賢さを手放してしまえば、円は剥き出しの千尋に触れ、家族にもなれるだろう。
しかしそのためには、よく計算された優しさという世界律は一度壊れなければいけないし、それは作品全体を瓦解させかねない危険な選択肢だ。
だから多分、僕は僕の見たいものの一つをアニメの範囲内では見られないと思う。
当然、良く仕上げられた優しい世界の物語、もう一つの見たいものをしっかり楽しめるという贅沢を、心の底から楽しみはするが。

そもそもにおいてこのアニメ、『そういう話』ではないかもしれないし、良く出来た砂糖細工のように善意と優しさと少しの苦味で構築された物語構造物を甘受していれば、視聴者としてはそれで良いのかもしれない。
しかしやっぱり、このお話しの中で描かれている賢い子どもと不器用な男のあり方、その鋭さを見るだに、優しい世界の土台になっている残忍さに、いつか本気で飛び込んでいってほしいなぁと無責任に願う。
それで優しい世界が破綻するとしても、だ。

そんな身勝手な願いはさておき、来週は遂にEDで存在感をアピールし続けたアイドルたちが、本編に登場するらしい。
彼らが登場することでこのお話がどういう変化を迎えるのか(もしくは迎えないのか)は、非常に楽しみだ。
どういう接点でアイドルがちーちゃんと絡むのかさっぱり読めんけど……同級生なんかな。