イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

バッテリー:第5話『密室の出来事』感想

13歳、ひとの一生でいちばん美しい年齢だとは誰にも言わせないアニメーション、今週は闇の中の闇、闇の中の光。
尖った生き方をしてきた巧がついに社会と衝突し、その傷口が残忍に広がる中、少年たちはただ野球を信じるしかないというお話でした。
どこまでもつっぱり続ける巧の我も、そんなピッチャーの強さを受け止める豪の大きな心も、弱くて強い沢口の怯えも、展西のあまりに歪な『いい子』っぷりも、すべてが平等かつ冷静に、そして暖かく描かれていて、凄く好きな展開でした。

と言うわけで、巧が密室で陵辱されるお話でした。
メタファーと言うにはあまりにも判りやすく、えげつなく直線的であればこそ巧の感じた痛みや屈辱、恐怖がよく伝わる、良いシーンだったと思います。
ショッキングな絵が連発されるリンチのシーンを、話を引っ張るためのヒキではなく序盤において、そこで受けた傷をどう治していくのか(もしくは治さないまま突っ張るのか)とか、傷が周囲に与える影響とか、色んなモノを描くための発端にする作りはアニメ版バッテリーらしいな、と思う。

今回は陵辱が行なわれる部室と、誰もいない豪の家という二つの『闇』の対比が非常に鮮烈でして。
部室にはいっぺんの光も入らず、誰の顔も見えないまま、匿名性の影に隠れた卑劣な暴力が行使され、13歳の精神と肉体は深い傷を受ける。
これに対し、一瞬の衝撃から開放されそれを生き延びなければいけない巧、その幼い気持ちを受け止める豪の家はには、暗がりの中でも明かりが灯り、食事と温かいシャワーが提供され、豪と同じ服に包まれる。
無機質で冷たい部室と、薄暗くも温かい豪の家の対比は、巧に叩きつけられた社会からの拒絶と受容、二つの反応を的確にヴィジュアル化しています。

巧が己の才能を頼みすぎて周囲の反感を買う様子が丁寧に描かれたのと同様、彼が歳相応に非常にナイーブで、他人の気持ちに敏感な少年だということも、このアニメは丁寧に追いかけてきました。
口では強がっているものの、顔の見えない相手に暴力によって否定された体験に巧は凄まじく傷ついているし、怯えてもいる。
それを的確に見ぬいて、かつ彼の繊細なプライドを守り切るべく『私とあなた以外いない、暗くて温かい場所』を用意し、衣食住から心身の傷の治療まで全てを用意する豪の人間力は、巧が指摘する通り『卒がなさすぎる』ところまで入っています。
(ここで『豪の用意した『闇』は普段強がっている巧が無防備な子供にかえることが出来る、外形化された子宮である』と書いてしまうと、ちょっとBL文脈で読み過ぎな気がする)

しかし豪が見せたホスピタリティは、医者の息子として育てられた彼の社会性の高さを示すだけではなく、巧という個人への強い関心と愛情があってこそ、発揮されたものでもある。
そこは暴力を振るってくる顔の見えない先輩たちも、不誠実な支配を押し付けてくる大人もいない、"バッテリー"しか存在しない個人的な空間であり、巧のクソ厄介なパーソナリティは、そういう場所でしか治療できないと、豪はこれまでの付き合いの中で分かっている。
そういう公的な『やらなければいけないこと』だけではなく、豪が一人の人間として巧に執着する理由、傷ついた巧を前に『やってあげたいこと』があればこそ、彼は傷ついた心身を包む家を用意し、ぬくもりを伝えるシャワーを準備し、自分の手で料理を作る。
サイズが一回り小さい『お古の衣装』は巧と豪の人格的成熟度の差を見せると同時に、個人の属性を強く宿した服を共有することで二人の絆を無言で確認し、匿名の暴力によって傷ついた巧が自分を取り戻すための、大事なフェティッシュになったのでしょう。
そして、親にすら体重を預けない巧が、豪に対してどれだけ素裸の自分を晒しているかということも、豪が用意した『闇』のなかでの癒やしを見ることで、良く分かってきます。

このように、このアニメは少年のナイーブな内面に深く入り込みつつ、彼らが陵辱など何でもなかったかのように振る舞う仕草を、慈しみとプライドを持って語る。
『可哀想と思われるのはまっぴらごめんだ』と強がる巧を尊重するかのように、彼の内面は言語化されないし、受けた陵辱の衝撃に反して、彼は涙を流さない。
豪もまた、『才能に満ち溢れ、誰よりも強い向井巧』というセルフ/パブリックイメージを保護するかのように、黙ってシェルターを用意し巧が落ち着くまで一晩そばに居てやる。
傷を受けた瞬間を悪趣味に描写するだけではなく、そこから人間が立ち直るためには一体何が必要なのかをしっかり描き、けして『良い子』ではない主人公の全てに寄り添っていく筆致を、今回二つの『闇』の描写から感じました。


人間としてゴミクズ以下の振る舞いをした展西が、『ずっと良い子でいました。先生は僕を裏切らないでください』と言うことは、『いい子』ではない巧を切り取る筆と相補的なものです。
親や学校、大人にとって『都合の良い子』を演じつつも、『中学校は高校への踏み出し』と断じ、己のねじ曲がったエゴイズムを鞭にして巧をいたぶる展西は、大人にとってもセンパイにとっても『悪い子』であり、それにより衝突を呼び込んでしまう巧とは、正反対の存在です。
野球への情熱のなさ含めて、展西は胸糞悪い最低人間として描かれていますが、ではその対極に位置する巧は無条件に正しい存在かといえば、そうは描かれていない。
巧の協調性のなさ、己を鑑みる優しさのなさがあってこそ、展西たちは巧を疎ましく思い排除することに決めたわけで、その過程はかなり丁寧に描かれてきました。
そういう意味では、『都合の良い子』を演じる(そしてそれを貫くことに失敗する)展西は、内面も行いも全てが矛盾なく真実を捉える、真実の『いい子』たる豪のシャドウでもあるのでしょう。

世界には『いい子』も『悪い子』もいて、各々が殺しきれない業が満ち満ちていて、それが衝突する瞬間がかならずある。
展西が口にした『野球なんて、好きでも嫌いでもない』という言葉は、矛盾だらけの世界の中で選びとった『野球』というテーマが、問題全てを解決する万能の魔法ではないことを、如実に示しています。
自分に降りかかった陵辱を隠蔽してまで、野球を続けたいと思った巧の情熱は展西を変えることはなく、しかし受験を気にする海音寺先輩を、学校には向かう練習に引っ張ることには成功する。
万能の魔法ではなくても、巧の不器用な才能は他人に伝わり、他人を変えることがあるものだという見方は、常に徹底しています。
まるでキャッチボールのように、受けれる奴もいれば、受けれない奴もいる個性や人格をどう受け止め、どう投げ返す(もしくは受けず投げ返さない)かという人生の運動それ自体がこの作品の主眼なのであり、その横幅広い視界は子ども達だけではなく、大人にも細かい目を配っています。
展西が卑劣で不快な行動に出て、その結果作品の舞台から去っていくのも、『野球』に情熱がなかったからではなく、彼が己の歪みきった人格を正そうという意思がないからなのでしょうね。

巧が主役という特権で保護されないように、横幅の広い視界の前に大人たちも、エゴイズムに満ちた理不尽な姿を晒します。
かつて巧の祖父に『裏切られた』と感じ、人格を捻じ曲げてしまった戸村は、展西の歪んだ、しかしある意味必死の『裏切らないでくださいね』という言葉を救い上げることはない。
校長は豪のように巧のプライドに寄り添うこともなく、展西が必死に捏造した『いい子』の鎧を守り、学校の体面を守るために事件を深刻化させない。
『お前のため』『子供のため』といいつつ、絶対的に大切なモノを取りこぼすほどに無神経で、己の言葉すら裏切る不誠実な大人の姿をちゃんと描くことは、巧が抱え込む世界へのいらだちに視聴者を近づける、大事な足場になっています。
歳を積み上げ、人生経験で上回れば、人間として善い行動が取れるわけではないという目線は、実は青波の真っ直ぐさと対比で描かれている要素かもなぁ。


今回は主役と敵役だけではなく、まるで名前の無いモブかのように描かれていた人物が、しっかりと人格を宿していると判るシーンが強く存在していました。
巧の陵辱を前に逃げ出し、学校を休むほどに悩んだ沢口の行動は、僕には凄く鮮烈に見えました。
巧が『野球をする』という目的のために不実を選ぼうとしたところで、己の臆病さを乗り越えて事実を公表し、一応の正義を野球部に取り戻す姿は、僕にはとても正しく尊いものに映った。
そこには、例えば豪がシェルターを用意して守ろうとしたものと同じ、人間のプライドがあるからです。

彼は子供らしく木に登って、高い場所から『綺麗なもの』を見ることで気持ちを整理したかったのでしょう。
しかし『綺麗なもの』を見るだけで気持ちが整った時代はとうに過ぎていて、あまりにも生々しくつきつけられた悪意ある現実は、子供時代に立ち返ることでは対応しきれなかった。
彼は木の上にある子ども時代に別れを告げて、まっすぐ友人たちと向き合い、自分の不明を告白し、友人たちも沢口の震えをシリアスに抱きとめる。
友人を慰めに来ても『怒っている』と誤解されてしまう巧ですが、このように他者の弱さや震えに向かい合い、共有していくことで、あまりにも分かりにくい向井巧を、最大の理解者であり女房役でもありキャッチャーでもある豪以外とも、ゆっくり共有できるわけです。
こういう小さな、しかしあまりにも大切な思春期の迷いと成長が、主人公たち以外のキャラクターでも描かれているのは、このアニメが捉えたいものを多角的に捉える、大事な足場になっていると思います。

思春期の少年たちの魂の震えは、『部活動停止、公式大会出場辞退』という不都合になって襲いかかります。
この不都合を呼び込まないために、巧は己の屈辱をユニフォームに隠そうとして、沢口はそれが嫌だから展西の不正義を公開した。
校長は問題が巨大化しないように犠牲を望み、それに『大人らしく』答えようとした海音寺部長も、一年生たちの『野球』にかける熱意に感化され、『都合の悪い子』の仲間になる。
思い切り弾いたビー玉のように、人間の綺麗で醜い個性たちがそれぞれ飛び回り、影響しあう様子がこのアニメでは丁寧かつ肯定的に描かれていて、やっぱ僕はそれがすごく好きだなぁと思います。
俯瞰的に倫理だけを語るのではなく、成長を止めてしまう悪役も含めて、個人個人の表情にしっかりクローズアップし、そこにある震えとプライド一つ一つを映像に塗り込めてくれているところが、凄く好きなのだ。


そんなわけで、野球部を襲った一大事件、その顛末でありました。
巧の不器用さが行き着く果てだとも言えるし、出るべき膿が派手に出たともいえますが、どういう形であれ少年たちは『野球』を選び、続けていく。
その中で変わっていくものもあれば、変わらないものがあるし、このアニメはその変化と不変/普遍にじっくり寄りそうアニメです。

『公式戦』という、スポ根最大の武器を封じられたこの作品は今後、全別の方向に舵を切り進んでいきます。
その中で、巧の危うい真っ直ぐさがどう変わり、弾だけではなく魂も受け止めている豪がどう変わるのか。
二人の"バッテリー"が野球を続ける中で、周囲の人々がどう巻き込まれていくのか。
このアニメの先がより楽しみになる、良いエピソードでした。