イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

秋風やや寒し ─2018年7月期アニメ総評&ベストエピソード─

・はじめに
この記事は、2018年7~10月期に僕が見たアニメ、見終えたアニメを総論し、ベストエピソードを選出していく記事です。
各話で感想を書いていくと、どうしてもトータルどうだったかを書き記す場所がないし、あえて『最高の一話』を選ぶことで、作品に僕が感じた共鳴とかを浮き彫りにできるかな、と思い、やってみることにしました。
作品が最終話を迎えるたびに、ここに感想が増えていきますので、よろしくご確認を。

 

ルパン三世 PART5

ベストエピソード 第23話『その時、古くからの相棒が言った』

"ルパン"を愛し、信じて、手間と知恵と努力をつぎ込んでお話をしっかり作り上げたこと…五回目のルパンとしてしっかりやったことが、思いに報いる。

ルパン三世 PART5:第23話『その時、古くからの相棒が言った』感想ツイートまとめ - イマワノキワ

 歴史のあるコンテンツというのは、いつでも難しい。ファンの感動と想いが積み上がれば上がるほど、求められる”らしさ”は捉え難くなり、作品への要求は高まり、新規参入者が超えなければいけないハードルは高くなる。
PART5は”峰不二子という女”から始まるルパン・ルネッサンスの突端に位置し、もっともシビアに誠実に”ルパン”を解体・批評・再構築することで、50年目の”ルパン”に必要な要素を獲得していった。
連打される過去作からの引用、メタ言及を含んだ自己批評はけしてポーズではなく、”ルパン”が好きだからこそ生まれる、ある種のファン目線の産物だったと思う。

50年は長い。生まれたときから”ルパン”があって、魂の根っこに”ルパン”が刻まれた状態で創作者となったファンが、制作サイドに入ってもおかしくない時間だ。
ファンの熱意、愛情と知識は、時に客観的に作品を作る上で邪魔にもなる。身内が作った、身内のための閉じたコンテンツが身内で腐り果て、作品としての輝きを失うことはよくある。長生きしたコンテンツは、常に腐敗の宿命と戦い続けることになる。
PART5は製作者ことが一番のルパン・ファンボーイであることを隠しもせず、その上で客観的な創作としてどう仕上げるか、楽しく見てもらうかに、しっかり心を配っていた。
展開する物語は”ルパン”批評としてだけではなく、作品世界でいきいき冒険するキャラクターのドラマ、血湧き肉躍るアドベンチャーとして、単独でしっかり輝いていた。熱量と勢いがあり、とても面白かった。
それはとても大事だ。”ルパン”の看板だけで目が潤むような身内だけでなく、今回はじめて”ルパン”に触れるプレーンな視聴者が、思わずファンになってしまうような、始原的で力強い物語のうねりがなければ、”ルパン”を解体しきって新しく作り直すことも、また出来ない。
冷めた理性と、熱い情熱。両立の難しい二つの極を融和させ、過去から面々と続く”ルパン”の最新版として、そして今現在放送される”アニメ”として、とても力強く、面白く、魅力的なものに仕上げる。
”ルパン”の身内である自分を認めた上で、その魅力を外側に伝わる形で出力し、ドラマやストーリーに生かしていく。そういう愛情と努力が、随所にあふれる見事なPART5であった。

個別エピソードとして、ベストに何を選ぶかは悩む。
もう一人の”ルパン”の魅力、悪党VS悪党の一大対決を輝かせたEP2。ピカレスク見習いのハードな通過儀礼を、青春の爽やかな苦さでまとめたEP3。どれもいい。
バラエティ豊かな脚本陣が、才気と”ルパン”愛を迸らせた単話も粒ぞろいだ。それぞれの得意分野を最大限振り回して、自分なりの”ルパン”を『どうだ』と世に問う態度が、堂々としていてよかった。個人的な好みで一つだけピックアップすると、第19話かなぁ……。

そのうえで、あえての一話を選ぶとするならこの話数となる。
『ルパンとはなんなのか』『ルパンにとって、私とはなんなのか』
問いかけの多いシリーズであったし、それに様々な角度からしっかり答えるシリーズでもあった。そんな数多のクエリーの中で、このエピソードで次元が問う『ルパンってなんだ?』は、”声優の高齢化・交代”というメタレイヤーも繰り込んで、重たくクリティカルだ。
声は変わる。作者も切り替わり、エピソードごとに味も設定も変わり、しかしそれでも”ルパン”であり続ける。複雑怪奇なオムニバス、自動操縦されるポップアイコンに魂を宿すのは、一体何なのか。
PART5はそれをずっと問うてきたし、ドラマとキャラクターの描写を熱く燃やすことで、それに答えても来た。冷たい題目を垂れ流すのではなく、あくまでキャラクターが創作世界で生きた証として、活きたセリフを返していた。

そんなやり取りが、このエピソードのラストに待っている。とても立派で、堂々として、力強いアンサーだった。
『ルパン一味は殺しはやらねぇ』というパブリックイメージを、溢れるゴア描写で殴りつけたのもPART5の特徴と言えるかもしれない。そのピークとして、次元大介警官皆殺しの大立ち回りは印象に残る。
大団円としては次の最終回がよく広げ、よく収めていてとてもいいのだが、やはりこのラス前で投げかけられた問いの鋭さ、重たさ、熱意と冷静さが、いちばんPART5らしいなぁ、と思う。

いろんなルパンがある。コメディ、シリアス、アクションと冒険。血とセックスにまみれた大人向けの娯楽であり、子供も大好きなスーパーヒーローでもある。
その全てが”ルパン”であり、でも帰るべき”真なるルパン”はちゃんとある。そう信じて描ききったPART5は、50年を超えて”ルパン”が続く素地を、しっかり整えてくれた。
最終回、この作品は”ルパン三世は永遠に”と叫んだ。それはつまり、今回が終わりではない、ということだし、そう出来るだけのポテンシャルはPART5の面白さ自体が証明したと思う。
僕は相棒の問いかけに答えた先にある、”次のルパン”が、とても楽しみだ。

 

あそびあそばせ
ベストエピソード 第9話『エセ外国人の悩み/ダッチなワイフ/遺伝子操作』

ダッチワイフ・オリヴィアの大暴走とか、ホント最悪だったからな…英語の発音が良いのが、またムカつく。

あそびあそばせ:第9話『エセ外国人の悩み/ダッチなワイフ/遺伝子操作』感想ツイートまとめ - イマワノキワ

 あそびあそばせはいいアニメだった。日常系の空気、可愛いキャラ、人間関係の微妙な緊張感と友情。そしてエンジンかけっぱなしのギャグ。色んな要素をてんこ盛りして組み合わせた、欲張りなキメラを破綻させることなく、巧く魅力を引き出す構成であり、映像造りでもあったと思う。
僕はコメディを見る時、どーしても舞台裏の真面目顔というか、細かく細かく作り込んでいる部分が気になってしまう。笑いというのは繊細なものなので、かなり考えて作る。一発受ければ良いアマチュアではなく、商品として笑いを届けるプロフェッショナル・プロダクトは特にそうだ。
しかしその『いかにも作り込んでます』なわざとらしさが前出ると、笑いはスッと逃げていく。今出来ました、特に準備もなく生まれました。そういう自然さを漂わせないと、視聴者は笑いを飲み込んでくれない。だから、極力仕込みの残滓を消し飛ばそうとする。

そう考えると、なんも考えず一瞬笑って、スカッと楽しい気持ちになるのが、コメディへの最大限の敬意なのかもしれない。性分故になかなか出来はしないけども、せめてベストエピソードを選ぶ時は、『一番面白かった話』を面白い中から選ぼう。
というわけで、このエピソードである。まーヒドい。ホント第2エピの英語の良い発音がツボに入りまくりで、見ながらゲラゲラ笑ってしまった。主軸になってるオリヴィエは可愛いし天然でバカだし、お兄ちゃんは最悪だしで、ネタの粒が立ってる話だった。
血管浮かび上がりまくりの超絶キ印共が、なんか良い感じの日常と青春の中で大暴れするこのアニメ、とても面白かった。可能であれば続きが見たいが、今はとにかくありがとうを。楽しかったです。

 

・Phantom in the Twilight
ベストエピソード 第10話『すべてが終わる一日前』

キャラが何を大事に生きていて、どういうことがしたいのか。 モチベーションとオリジンがちゃんと見えるのは、お話を飲み込み楽しむ上ではとても大事だ。そういう根っこの部分を整理して、最終決戦を燃やす準備を整える回でした。

Phantom in the Twilight:第10話『すべてが終わる一日前』感想ツイートまとめ - イマワノキワ

 ヘンテコなアニメだった。
ジャンルとしてはオトメゲー原作なのに、イケメンが前に出てかっこいいことするシーンがあんま決まらず、主人公がガンガン決断し、物理力を存分に発揮して体を張る。
スパイス程度で良いはずのオカルトは、妙に地道でしっかり描写され、アンブラ達の裏には色々設定がある様子が示唆され、しかしその膨大さを拾いきれずザックリ進んだりする。
展開、描写、演出は半歩ズレたテンポで追いかけてきて、しかしそのズレが不快ではなく、独特の魅力と感じられる。
王道を真っ直ぐ進む力強いアニメではなかったけども、僕の出っ張りにカチッとハマる、チャーミングなアニメであった。キャラや世界観に情熱を持って、ちゃんと届け、語りきろうとしてくれたところも嬉しい。
終わった後『俺、このアニメ好きだなぁ……』としみじみ思えるアニメは、やっぱ良い。世評がどうこうをおいて、自分の内側にじっくり染み込む、相性のいい作品。やっぱそういうところに評価基準を置きたいものだと、強く感じさせられた。

そう思えるのはやっぱ、このエピソードでキャラがどういう魂の色をしているか、しっかり描いたからだと思う。クライマックスマジ直前、ギリギリのタイミングではあったけども、キャラクターが何を大事にしているか、どういう価値を抱えて決戦に挑むのか、クリアに見えたのは素晴らしかった。
派手なアクションや高まるロマンスは、やっぱそういうキャラの根っこがあって初めて機能するものだと思う。なんか歯車が噛み合わなくて、でもどっか好きで。そういう気持ちで作品を見続けていたわけだが、この10話でいろんなモノがカチッとハマった感じがある。
ここで手に入れた手応えは裏切られず、少年漫画の王道を走るロンドン塔決戦はしっかり盛り上がった。今まで輪郭だけ使ってきたリージャンを、話を落としてテーマに奥行きを出す最後のピースとして使ったのも、バッチリ決まったと思う。
それもこれも、この最後の日常回が分厚く、主役と悪役の顔を彫ってくれたおかげだ。そういうエピソードがあるアニメは、ヤッパいいアニメ、好きになれるアニメである。

 

ヤマノススメ サードシーズン

ベストエピソード 第7話『働かざるもの、登るべからず!?』

向日葵は太陽ばかり見ているが、太陽の方も向日葵に視線を注いでいる。それも、相当重たいやつを。

ヤマノススメ サードシーズン:第7話『働かざるもの、登るべからず!?』感想ツイートまとめ - イマワノキワ

 セカンドシーズンまでで、確固たる己のスタイルを確立し、世に知らしめたヤマノススメ。サードシーズンでもそれを踏襲する……と思わせて、その眼目はかなり重点を変えた。
山や新しい仲間との出会い、挫折とその先、支えてくれるかけがえのない”特別なあなた”。そういうベーシックを踏まえた上で、劣等生のあおいと優等生のひなたという”いつもの二人”の関係を、狙いすまし崩していった。
『あおいも変わったなぁ』と、無邪気にその世界の拡大、人格の成長を喜んでいた視聴者は、伸長していく親友に置いてけぼりにされて、自分を定位できなくなる後半戦のあおいの描写、その重たさと物量に押し流されることになる。
『成長』の美名に隠されて、見落としてしまいがちな陰り。変化することが生み出す不協和と、それが気づかれすらしない哀しさを、後半戦はどっしり追いかける。

それは気楽な日常やまゆりコメディ”ヤマノススメ”が内包しつつ掘り下げてこなかった視座であり、一旦足を止め、己を考え直す歩みでもある。作品が作品自体を思い返す歩みが、エピソードを大量消費してでもあおいの薄暗い内面に切り込んでいく話運びに、その陰りの中で自分とあおいを考え直すひなたの姿勢に、静かに繋がっていく。
この表現手段と表現される内実、それを受け取る受容者とのシンクロが、サードシーズンで一番好きな部分である。それは作品を彫り込む筆の細やかさが、それが描くものに必須であることとも響き合う。
身体性のある細やかな作画で生まれる、繊細な芝居。世界を美しいものとして叩きつけてくる、圧倒的な美術。それらのクオリティが空転せず、むしろありふれた青春の悩み、発見、変化と成長”こそが”圧倒的にドラマチックである事実を、見落としがちな視聴者の脳髄に叩きつける仕事をしている。

それを効果的に見せる意味でも、あおいの成長は明るく楽しく、前向きにかかれないといけない。”いつも”のようにのんきで楽しいヤマノススメ。それの仕上がりがしっかりしていればこそ、”いつも”から外れてしまったひなたの孤立、痛み、寂しさは印象的に刺さる。
そういう計画的反抗がいよいよ形をなし、超重力への後半へと繋がっていくこのエピソードが、僕はベストだと思う。全話数を一つの組曲として、青春のスケッチを書いたふでやす脚本の妙味は、この結節点にこそある気がする。
『すすき』を舞台に描かれるあおいの社会人としての成長は、”ひなたではない人”の顔を見て、優しくできるようになることで示される。それはひなたと出会い(直し)、山に学んだからこそ可能な変化だ。
しかしそれを与えてくれた当のひなたは、池袋の街を楽しく一人で歩みつつ、あおいだけ、”特別なあなた”を求め続ける。”みんな”と”あなた”の中間地点にいて、いつでもバランスを喪失し続ける人間の有り様が、ひなたにもちゃんと背負わされる。
それは物語の基本構造に、超人的人格者であり続けることで奉仕してきたひなたを、一少女、一人間に戻す試みだ。明るく社交的で賢く、強くて優しい女の子だって、当然人間で、迷い悩む。”特別なあなた”が特別でなくなってしまう思い込みに、闇の中沈み込むことだってある。

そういう迷いは成長する主人公だったあおいの特権だったわけだが、その歩みが富士登山と下山、下山以降で一つのピークを迎えた今こそ、悩む特権(はつまり、青春を生きるあらゆる人々に開放されているわけだが)をひなたに譲る。弱く、脆く、身勝手な人間性を取り戻させる。
記号としての少女が好きな人、”いつも”明るく物分りが良いひなただけを肯定する人には、好まれない運びだろう。しかし僕は、ここでひなたを薄汚く脆い人間に戻した製作者達の決意、そこからに長く重たい物語を5話続ける覚悟に、凄い強い愛情を感じるのだ。
重たくシリアスなものをかけば、人間が切り取れるわけじゃない。今までやってきた気楽な物語に、価値がないわけじゃない。でも”いつものヤマノススメ”を続けていると、踏み込めない場所があるのなら、思い切って進もう。
そういう大胆で、勇気ある変化こそが、物語を善い方向へと変えていく。それは前半、あおいを主役に描かれる光であり、後半ひなたを主役に紡がれる影絵でもあった。輝きと陰り、両方に意味はある。そういう広い視座、野心に満ちた物語感覚が一話の中で明瞭に対比させられ、両義的に大事にされているバランス感覚も含め、このエピソードは好きである。

 

STEINS;GATE ZERO:第23話
ベストエピソード 第23話『無限遠点のアークライト』

こうして終わってみると、『やる意味あるの?』と疑っていた半年前の自分を見事にぶっ飛ばす、”ゼロ”だけの、”ゼロ”だからこその物語となりました。 ありがとう、本当に面白かったです

STEINS;GATE ZERO:第23話『無限遠点のアークライト』感想ツイートまとめ - イマワノキワ

 シュタゲのベストは本当に悩む。無印のオカリン&紅莉栖一点主義から群像劇へと変化したおかげか、各キャラクターの物語的ピークとなるお話が全てエモくて、どれを選んでもベストとなりうる。

岡部くんのバッキバキに折れた心を、生々しいメンタルクリニックの描写で鮮烈に叩きつけた第1話。
死してなお、圧倒的なヒロイン力を牧瀬紅莉栖を見せつけた第7話。
運命と悪意の踊らされる悲しい少女兵士の残影、第13話。
”父”としてのダルの存在感が、鈴羽の可憐さと強さを照らして見せる第15話。
主人公として自分の道を選び取る、椎名まゆりの戦いが始まる第16話。
コピーであり電子生命であるアマデウスの哀しさが、感情複合を乗り越えた真帆を照らす第22話。

どれもキャラクターをしっかり愛し、その物語に深い陰影をつけようという決意が映像に焼き付けられていて、素晴らしいエピソードばかりだ。
他の物語も鮮明なレイアウトのセンス、長く影を引く陰影に助けられ、心に残る物語が多い。影が深いからこそ、傷を癒やしてくれる一瞬の灯火、当たり前の日常の中で育まれる絆も、暖かく見えた。
無印序盤が大事に描き、だからこそ運命の戦いが鮮明だった”ラボ”。それをもう一つの主役として、岡部くんと一緒に再生させていく物語としてみると、ピークは”ラボ”が戦闘組織に姿を変え、失わたものを取り戻すべく戦っている第20話なのかもしれない。剣客ルカ子かっこいいし。

そういう諸々をひっくるめた上でこの話数を選ぶのは、無論大団円の強さがあるわけだが、しかし何よりも、”ゼロ”それ自体の終わりとして完璧だからだ。
蛇足。金儲けのための外伝商法。いらないお話。その成り立ちからして、”この物語がこの物語でなければいけない”必然性…作劇的アイデンティティが危うかったゼロ。ベストエンドを手に入れるための、バッドエンドが約束された世界の中で、一体何を描くのか。
群像劇、別の角度からのキャラ描写、無印が取りこぼしてしまった必然的歪みの是正。
スタッフが見つけた”ゼロでしか描けない物語”は、最終回で一気に収束し、まゆりと岡部くんを主役に加速していく。その果てに、あの荒野の再開がある。
『自分、まゆり派なんで』ってのも正直あるけども、無印岡部くんをベストエンドに送り出すために背中を押した物語達が、切り捨てられた闇の中でどれだけ豊かで、プライドに満ちた自分独特の結末にたどり着けていたかを、堂々と吠える終わりで、本当に良かったと思う。
それは岡部くんとまゆりの物語の終わりであり、同時に”ゼロ”の終わりである。自分たちはこういう物語を、ベストエンドに繋げるために、また自分たちだけの物語として、必死に作ってきたんだ。このアニメ独自の表現、ドラマ、キャラクターのぶつかり合いが、このエンディングを掴み取ったんだ。
そういうプライドが、エモい曲を最適に使い切ったエモい流れの中にみっちり詰まっていて、見ててとても良い気持ちだった。
どうせ外伝、どうせ蛇足。そういういじけた開き直りに、一度も甘えなかった作品だけがたどり着ける、外伝だからこその輝き。もう一つの、真実価値のある結末と、そこにたどり着く過程で本物として描かれきった愛、苦痛、決意、尊厳。
過去と現在と未来。作品内部とメタ領域。キャラクターの人生と、それを紡いでいく作者の決意。全ての領域に嘘のない、見事な最終話でした。ありがとう、シュタゲゼロアニメ……。

 

 

Free!-Dive to the Future-
ベストエピソード 第10話『希望のグラブスタート!』

世界を適切に維持し続ける"正しさ"と、そこからはみ出してしまう"情念"の危ういバランス。その中間地点で揺れ動きながら、京都アニメーションの諸作品は作られているし、このFree三期も同じポジションにいるな、と感じる。 その不器用な真面目さが、僕はやっぱり好きだ。

Free!-Dive to the Future-:第10話『希望のグラブスタート!』感想ツイートまとめ - イマワノキワ

『 三期はFreeなのか』という問いかけは、まぁ難しい。
内海版の身勝手で狭い世界観、人間観、物語性がその偏狭さ故に生み出すパワーの強さが、主に女性ファン層をぐっと引き寄せ、一大コンテンツを打ち立てた流れは、頭では理解できる。
特別な男が特別な男に特別な関係で引き寄せられる特別な話の特別性こそが、そしてそれを”絵”でもって、肌と快楽神経系に直接叩きつけることが出来たからこそ、Freeはウケた。そこら辺の事情をなんとなく把握はしつつ、しかしその特別性が踏みにじる他者への、競技への敬意のなさに、判然としないモノを感じ続けてきた自分としては、公平さと成長、責任と開放感が強くなった三期こそが『僕の待っていたFree』と言えるかもしれない。

とはいうものの、やはり映像の”空気”というのはクリエーター個人の資質にどうしても頼るもので、内海紘子という稀代の才能(それは現在”BANANA FISH”で、水を得た魚のように暴れまわっているが)が欠けた”Free”には、ある種の匂いがない、とも言える。
凶暴に相手を求める爪の鋭さ、睨みつける視線の熱さ、微睡み窒息し続ける羊水の甘さ。それは『これこれこういうモノです』というコンセプトを打ち立てれば存在してくれるものではなく、間合い一つ、色彩一つ、レイアウト一つズレれば欠片すらも伝わらない、『私の物語だ』という切迫感を伴って襲ってこない、実に微細なものでもある。
その微細な呼吸を握り込んで、高校生の分厚く脆い(女性的な、と言っても良いかもしれない)身体へのフェティシズムを、映像に塗り込める才は、やはり内海紘子個人のものであろうなと、映画以降のFreeを見ていると思う。
男たちの甘いマスク、ねじれた関係性、濃厚な感情を捉えつつ、最後の最後、一つ香るパルフェム(それは自分が描くべきと思い込んだもののためには、他の何をも蔑ろにできる死臭が混ざっているわけだが)が足らない感覚は、そこにセンサーが薄い僕でも、やはり感じてしまう。

しかしその不足は、むしろ監督が交代した後のFreeをそのまま受け止め、今の自分達が自分たちなりに作れるもの、作りたいものに誠実に向き合った結果だ、とも言える。内海紘子のコピーを繰り返すのではなく、それを踏まえた上で、武本康弘の、あるいは川浪栄作の”Free”をやる。
その気概が生み出した、必要十分に歪みつつも物分り良く、清潔に世間や成長や自分自身と適切距離を取れる青春物語は、やっぱり僕は好きである。歪なフォルムは整えられ、キャラクターの奉仕/搾取関係は(それなりに)是正され、公平な物語世界がやってきて、あんまワリ食うキャラはいなくなった。
『それでいいのか』という疑問と、『それでいいんだ』という確信はお互い喧嘩しながら、僕の中で同居している。欲張りに色々やりつつも、けして共存できない描写というものが創作にはある。内海Freeのパルフェムと、彼女不在の清潔な香気は、どうやっても同時には描けないものなのだろう。
ならば、両者を比べてどっちが上だ下だの話をするよりも、お互い”Free”の枠に入りつつ別個の存在として、それぞれの薫りを醸し出している作品群それぞれの尊厳を、やっぱり大事にしたいと思う。
ちと理屈くさく、過剰に正しく、言いたいことに言うべき表現が(アレだけリッチにやっても、時にリッチだからこそ)追いついていない……つまり『京アニっぽい』三期が、僕は好きなのだ。そう思えるようになったことで、内海版を受け取る時のねじれが、少し解けた感じもある。ここら辺のコンプレックスは2020以降も続きそうだ。

さて、ベストエピソードを選ぶのは悩む。山田監督の狂信者としては第6話のディープで繊細な表現、フェティシズムと童話性の共存に入れ込みたい気持ちもあるが、第8話の開放感、第12話の盛り上がりもまた良かった。
それらを踏まえた上で、やはり橘真琴という少年が己の天職に悩み、競技者の一線から退いた(退くしかなかった)自分を見つめ直すこのお話を、ベストに据えたい。それは、三期にならなければ描けなかった物語だろうし、今後物語が世界トップレベルの競技に飛び込んでいく今だからこそ、描かなければいけない物語でもあるのだろう。
かつて真琴が共犯者となって、砂をかけた(かける形になった、と言ってもいいけど)競技への、他者へのリスペクト。特別な誰かを癒やすためなら、顔のないみんなが同じ情熱をかけるプールを蔑しても問題はない。

そんな場所を通り過ぎ、己の神様だった遙に挑んで殺されて、真琴はプールサイドで競技を見る立場になった。半端で、宙ぶらりんで、ともすれば過去自分がしたように、超越的な競技者に踏まれてしまう立場。特別でもなんでもない”ハタチを超えたただの人”でしかない自分を、ゆっくり咀嚼せざるを得ない年頃。
そんな真琴が己の道を定めるまでに、一話使ってくれた三期を、俺は偉いと思うし、ありがたいとも思う。世界の壁にぶつかり、競技の厳しさの中を泳ぎ続ける遙と凛は、そら立派である。だがそこから離れた場所、世界中にありふれた特別ではないあらゆる場所が、あらゆる人の人生を乗っけた勝負のステージなのだとしたら。
その物語はやはり、特別なものと同じだけの熱量と質でもって、仕上げられる必要があると思う。このお話の各シーンに込められた意図、美しい美術と少年たちの表情、生気と活力を感じると、そういうものにこそ報いたいのだという三期の思いを、肌で感じるのだ。
それこそは内海紘子にはたどり着けなかった、Freeもう一つの作家性、透明で公平なジュブナイルとしての味わいなのかもしれないな、と思う。人を引きつける魔の香味とはまた違うのだけども、僕はその匂いがやはり好きなのだ。

 

 

少女☆歌劇 レヴュースタァライト

ベストエピソード 第11話『わたしたちは』

二層の構造を基本としていた物語はここにいたり、現実と幻想の境界線を保ちつつ、並走し、影響し合いながら展開していく領域へと止揚されていく。 何が現実か。なにが夢か。その境界線を”定めない”ことこそが、最も確かに夢を現実に変えていくのだ。

少女☆歌劇 レヴュースタァライト:第11話『わたしたちは』感想ツイートまとめ - イマワノキワ

 全話ベストです。

そう言って記述を打ち切りたいほどに、スタァライトの物語は全て輝いている。それは九人の舞台少女(を支えるB組、先生方、学校というアジールそのもの)がそれぞれの話数で十分キャラクターを立て、魅力的な記号とそこにとどまらない人間の匂いを描き、それぞれのドラマを呼応させながら成長し、尊敬できる人格を見せてくれた証明でもある。
群像を描く中で、上下はつく。主役と脇役の別、メインエピとサブエピの差というのはどうしても生まれるし、その落差がなければ物語は駆動しない。しかしそれは、それぞれが背負う尊厳の軽重を意味はしないし、してはいけない。
レヴューは最終的に物語世界を改革する特権、その中心にいる権限を二人の主役に与えつつも、彼女たちに星を奪われた残りの七名もまた、綺羅星として描いた。それぞれの可愛さ、必死さ、優しさが眩しく輝く、とても魅力的な思春期の少女、才覚溢れる舞台役者なのだと。

そんな彼女たちが踊るエピソードとドラマは、どれも鮮烈な美意識と優しい目線に貫かれ、圧倒的に魅力的だ。
”特に”をあえて上げるとすれば、純那ちゃんを鏡にこのアニメが”敗者”をどう描くか明瞭に発声した第2話、東京という街を迷路に少女の純情が複雑なダンスを踊る第4話、まひるちゃんの可愛さと歪みが全力で暴れまわる第5話、秘められ続けたひかりちゃんの切実さがななのループを切り裂く第8話、全てが圧倒的に決着し新たな未来を切り開いていく第12話……かなぁ。やっぱ全話!!
そういうワガママを言いたくなるほど、このアニメを貫通している一つの倫理は強靭だし、それが沢山のキャラクター、魅力、面白さを描いて軸がぶれない腰の強さに繋がっている、とも言える。
作品を支える世界観(それは自分たちが生み出す仮想の世界だけでなく、自分を取り巻く現実に向けてのものでもある)が強靭で、言いたいテーマがハッキリしていることが、このお話の強い魅力となっているわけだ。

そしてそれが一番鮮明に現れているので、この代11話がベストとなる。
人は成長できること。傷つき敗北し喪失しても、また立ち上がることができること。そのためには過去を大切に、未来を諦めず、時間的連続性の中で自分を再生産する必要があること。
演者を変え、舞台を変え、幾度も繰り返される物語の根幹を、このエピソードは華恋を通じて描く。このエピソードを通じてようやく、主人公は好感が持てるキャラクターに脱皮する、とも言える。
華恋は結構ズボラで、あんま頑張っていない、他人の事情に目を向けにくい子供だということは、ずっと共通して描かれている。第9話でななをぶっ倒した後、その魂を見つけて拾い上げるのは純那ちゃんであり、華恋ではないのだ。
天堂真矢がトップの重圧にさらされつつ、けして”下”の仲間を見下さず、見逃さずにいるようには、華恋はふるまえない。自分のことで手一杯、そもそも自分のことすら把握しきれていない(から、まひるちゃんに日常のことをお世話してもらっていたわけだ)、どこか足元が危うく、他人に優しくないように思える。

それは狙いすまされた筆で、子供であり奪われたこと、喪ったことのない華恋は、どれだけひかりちゃんを思ってもその痛みに共鳴しきれない。ひかりちゃんがロンドンで受けた傷、それでも(それだからこそ)戻ってきてもう一度戦おうと決意した切実さを、華恋は判ることが出来ないまま(出来ないからこそ)塔から落ちる。
知らないならば学べばいい。堕ちたなら立ち上がればいい。そういう作品のルールに従い、華恋はぼんやりとした甘い妄想に逃げた後、切実に痛むひかりの喪失に直面し、涙する。スタァライトの原作に辞書片手に向かい合い、ロンドンでバリバリやってたひかりと同じ言語で、自分たちの原点となった物語を読み解いていく。
そうしてようやく、ひかりちゃんという自分に一番近く、一番遠い存在の痛みを学び、それがあくまで自分とは違うものだと認識することで、華恋は子供から大人へと、少し進む。この歩みがあってこそ、全てを奪い奪われ、与え与えられる関係性という”答え”を、ひかりの運命の舞台で叩きつけることもできるのだ。

そうやって手に入れた答えを描くためには、答えを手に入れる前の子供っぽさ、身勝手さ、実はよく知らないものを知ってると思いこむ浅はかさが大事なるため、華恋はどっか共感しきれない主役となる。その未熟さを見つめる視線の暖かさが、僕は好きである。
その幼さあってこそ、まひるちゃんは華恋にぞっこん惚れ込み、またひかりちゃん一本槍の厳しい態度で傷つきもする。それを華恋に砕かれることで、華恋に仮託していた輝きのありかを自分に見つけ直し、”姉”というかつて実家で担当していたポジションに誇りを取り戻しもする。二人のお姉ちゃんとして、バカガキどもの面倒を楽しく見もする。
幼さと成熟は、他の様々な二項対立と同じように個別であり、また響き合ってもいる。一般的に矛盾であると、排他であると思われているものが実は根底で共通しており、響き合い分かり会えるのだと理解する瞬間のショックが、ファンタジー最大の武器であり存在意義であるとしたら。

やはり”舞台少女心得 幕間”をBGMに展開する地獄めぐりのシーンは、幻想と現実両方の価値を高らかに歌い上げ、それらが欠くことのできない魂の双子であることを、堂々証明してくれたように思う。
守護霊のように立ち上る、かつての戦いの敗者達。共に舞台を作る共演者であり、青春をさざめき笑う親友でもある少女たちは、華恋の幻想とも、超現実的な実在ともとれない、曖昧なあり方で主役の前に立つ。エールと約束を交わす。
華恋の全てはひかりのなかにあり、ひかりこそが舞台という狭いエゴイズムこそが、全てを救済するわけだけども。そんな二人で潜った死地から帰還するのは、あの階段で交わした言葉、”みんなの舞台”という約束でもあるのだ。
それは夢うつつの精神世界と、確かに存在している現実世界の間にかかったタワーブリッジであり、物語の中の、そして我々が生きるこのつまらない世界もまた、そういう淡いの中にある。
厳しい現実のルールを塗り替え、あるいは何かに思いつめた心の限界点を突破して前に進んでいくためには、幻にも思える戦いの記憶、それでもたしかに胸に刻まれた暖かな思い出が、絶対に必要なのだ。

そんなふうに、現実の中にある物語、物語を必須とする人間存在を肯定してくれたことが、僕にはとても嬉しかったのだ。現実世界で舞台少女たちは、華恋が見ているのとは別の生き方を進む。その二層構造はしかし、どちらが真実、ということではない。
過去が未来を再生産するように。敗者が同時に勝者でもあるように。幻想と現実、物語と人生は互いに呼応し、切り離され存在している。断絶に思えるものがあっても、橋はかかり繋がっていける。
現実の薄暗い落とし穴、青春の挫折をしっかり捉えつつ、キャラクターとドラマをそこに落とすことはしなかったこの物語は、そういう矛盾と対立へのポジティブな視座、パラドクスを止揚しより善い未来を掴み取ろうとする野心に、みっしり満ちていた。
全話数、全シーンにそういう哲学が溢れているから、僕はこのアニメを見るたびに満ち足りた、ありがたい気持ちになるのだと思う。そしてそれが最も鮮烈で鮮明なのが、僕にとってはこの第11話なのだ。

 

 

ハイスコアガール
ベストエピソード 第3話『ROUND3』

驚異的な完成度を誇る原作一巻を、完璧以上にアニメートさせた序章であった。全部ひっくるめて二億兆点。

ハイスコアガール:第3話『ROUND3』感想ツイートまとめ - イマワノキワ

 ハイスコアガールは良いアニメ化であったし、良いアニメであった。原作の魅力をしっかり理解し、色と動きと音がつくアニメ・メディアでどう増幅させていくかを、よく考えたアニメだった。
アニメと漫画は物語を受け取るテンポ、体験が大きく異なるので、良い漫画をそのまま動かしても良いアニメにはならない。読者個別の体験であるコマを咀嚼する速度(これを調整するのが漫画家の偉大なアーツなわけだが)は、アニメでは一定の間合いに強制的に収められ、固定されてしまう。だから、漫画を読む体験をしっかり抽出し、それを映像の中で追体験(あるいはより強化された体験)できるか否かが、とても大事になる。
ハイスコアガールのアニメはココらへんの間合い感覚が特に優れていて、キャラが動き出すタイミング、セリフの出入り、BGMのかかる瞬間と、映像でしか出来ない演出がキレまくっていた。ここが強いことで、原作の強みである元気な笑い、エモい青春がブースターを積んで、胸にぶち当たってくる。

原作にみっしりと詰まったゲームへの、青春へのノスタルジーと愛情も、アニメスタッフの中で共有され、ハイレゾなドットをアニメに完璧に取り込む奇跡を生み出した。あの時遊んだゲームの輝きそのまま(あるいはより強化された輝き)を、時代を超えて叩きつけてくる、要の演出であった。
大野さんがしゃべらないので、ゲーム画面は彼女の内面を描くキャンバスとして、とても大事だ。ミカドの精鋭たちが名演した、感情の乗っかったパンチ一発、ジャンプ一回が、言葉にならない大野さんの心境をゲーム画面に乗っけて、僕らに見せてくれる。その雄弁さ。
恋物語のトキメキ、ガキなまんまの男とそれに惚れ込む女の子のすれ違いも、丁寧に優しく、時々残酷に見守られてきた。バカなゲームキチガイなんだけども誠実で優しいハルオの胸に、ぶっとく突き刺さった大野さんの存在感。孤独で言葉を持たない大野さんに、力強く突き刺さったハルオの存在。そしてそれを認識しつつ、不退転の恋愛戦を繰り広げる日高さんの純情。
彼らを繋ぎ、ときに遠ざけるゲームの魅力。口下手な僕たちが唯一持ち得た”ゲーム”というコミュニケーションメディアの力を、心と心が通い合い、またすれ違う甘酸っぱい青春の中で掻き立てる筆は、非常に鮮明だった。
コメディの切れ味が良く、笑いが自然と生まれたのもとても良かった。大真面目に青春するだけでなく、トホホで勢いが良い彼らの生き様が、大笑いするうちに自然胸に飛び込んでくる。そのスルリとした振る舞いが、上品で濃厚で、とても楽しかった。

これら上質なアニメーション体験は、やはり原作一巻、アニメ第1話から第3話を通じて描かれた小学校時代が、あまりに強烈だからこそ成立する。だんだん自意識が顔をもたげ、窮屈そうに身じろぎしつつ、まだ無邪気でい続けられた時代。
その自由と少しの窮屈を丁寧に切り取りつつ、物語はノスタルジックに、しかし今まさに突き進む活力を込めて転がっていく。言葉を持たない少女は、ゲームとハルオ、人生に悪いもの二つと決定的に出会ってしまって、方向を決められてしまう。
その衝撃は双方向で、ハルオもまた、胸の中に黒髪むっつり天才ゲーマー美少女とのふれあいを、ずっしり突き刺されてしまう。どうしようもなく運命に引き寄せられ、しかし青春の面倒くささに足を取られ、自分と相手と世界に素直になれない物語が動き出す。その瞬間の鼓動。

それを鮮明に焼き付けているのが、空港での離別のシーンであり、そこに飛び込む前のハルオの逡巡、背中を押すゲームの妖精たちであろう。
ハルオはバカなガキだが、同時に周囲の視線を無視できない青春ボーイでもある。自分にとって大事なものを、素直に大事だと叫べない気恥ずかしさに支配され、一回は別れに背中を向ける。その撤退戦がなんとも身につまされ、ハルオを身近に感じた。
その時正しいものに目を向けさせ、前に進む勇気を与えてくれたのは、電子の世界の仲間達だった。ゲームは心地よい妄想、傷つきやすい魂を護る青春のシェルターであり、同時に現実とか自意識とかと戦うための武器にもなる。そういう特別さが、ハルオにとっての、大野さんにとっての、あの時代ゲームキッズだった僕(あるいは、勝手にこう言ってよければ”僕たち”)にとってのゲームにはあったし、今もある。

人によって世界とつながるための、自分と戦うためのメディアは違うだろう。でもそれは、共通して楽しく、輝いて、特別で、力強いものだ。それが踏み込んでいく青春もまた、様々な顔をしながら一個一個特別で、普遍的な光を放っている。
あの時代に同じ体験をしたオッサンおばさんにしか刺さらない題材のようで、結構な数のニュービーをなぎ倒しているアニメだとも思う。それはやっぱり、コアな題材を扱いつつ普遍的な”何か”にふれる力強さが、このアニメの中にあるからだと思う。そこに到達するべく、作画も、演出も、音響も、美術も、アニメーションを構築する全ての要素が必死に頑張り、いいアニメを作ろうとしていた。
そういうありふれて、だからこそ描ききることが難しい物語を描ききり、中学高校と伸びていく背丈、変わっていく景色が鮮明に映るキャンバスとして用意したこの話数は、やはりとても良い。

 

 

・ハッピーシュガーライフ
ベストエピソード 第8話『1208号室 』

根源的なエゴイズム、それが殺傷に容易に結びつく危うさは、画家もさとちゃんも区別がない。なら、その末路もまた似通ってくるのではないか。

ハッピーシュガーライフ:第8話『1208号室 』感想ツイートまとめ - イマワノキワ

 世に悪趣味の種は尽きまじ、キチと暴力と純愛はエンタメの華。色んなアニメがある中で、モンドな悪趣味アニメは一つの大きな潮である。限界人間が血まみれオペラを踊り、人間の実相をむき出しにしてくれるお話は見ていて面白い。不謹慎ながら、それは事実だ。
そのうえで、エゲツないことをやりつつひとかけらの純情というか、真面目さというか、そういうものが欲しくなるのが、欲張りな僕の好みである。愚かで狂った人間を嘲笑う時に、どこか喜劇役者に愛情をもってやってほしい。クレイジーな世界を描きつつ、望むべきまっとうな世界への冷静な視座を維持して欲しい。
そういうバランス感覚を悪趣味なエンターテインメントに望むのは、結構難しい。中庸の感覚は簡単に崩れ、どちらかに傾きすぎることが常だからだ。よしんば感覚を掴んでいたとしても、それを絵に乗せアニメにするのはさらに難しい。

そういう前提でこのアニメを語ると、かなりバランス感覚は良く、そのエグさと冷たさをアニメに乗せる筆も流麗だったと思う。”マトモ”を片目で睨みつつ、家庭環境や生来の性格から”マトモ”にはけして生きられない人達の、狂った群像劇。狂人が好き勝手暴れる歪な爽快感と、それに溺れてはマズイという現状認識が様々な場所でスパークし、色んな色を乗せる。
セックスと暴力で状況をコントロールする冷静な怪物でありつつ、”マトモ”への憧れゆえに詰めが甘いさとちゃん。その綱渡りな凶行と、エゴとアガペが入り混じった少女への愛がフラフラと揺れ動く姿は、なかなかの愛情をもってしっかり描かれていた。
最終二話が原作を追い抜き、ややスピーディーな展開となったが、原作を読んでいない自分としてはその速度が生み出すカタルシスが、終局に相応しく爽快に思えた。読んでると『削りすぎ!』ってなりそうだな、とも思ったけど。

この話数をベストに選ぶのは、やはりAパートの尖った演出の冴えが、一番の理由だ。割りとポップに、受け入れられるギリギリのキチガイっぷりを守ってきた印象だったけど、ここで前衛に思いっきり踏み込んで、独自の匂いが出た気がする。
ここで言葉を持たない画家の一人称で、身勝手な人間の破滅を描いたことが、後に加速していく地獄、エゴに溺れていく愚か者たちの肖像画を、しっかり書き切るキャンバスになっていたと思う。みな画家のように、ノイズまみれの世界で生きていて、身勝手な欲望を他人に押し付けていく。
死ぬもの、壊れるもの、正気のまま生き延びるもの。結末は様々だが、どれも因果にまみれて愚かしく、どこか一筋切実で、甘くて苦い。そういう後半のなんとも言えない味わいは、ここで攻めた演出を乗せたおかげかなぁ、と思うのだ。

 

PERSONA5 the Animation
ベストエピソード 第8話『Put an end to all this and use your own artwork for once.』

実は紙一重な敵と己に、いかなる一線を引くか。今後の怪盗団の戦いは、そういう部分に踏み込むのか、どうか。

PERSONA5 the Animation:第8話『Put an end to all this and use your own artwork for once.』感想ツイートまとめ - イマワノキワ

 

 

ペルソナは大ネタ大落の部分が今後の特番に回されたので、総評を付けるのは難しい。自分が『ここが良いところだな』『ここが面白いな』と思っている部分が、予感で終わるのか、メインに据えられてしっかり切開されるのか。その判断を完全に預けきれない感じが、評価を断言するのを避けている。
時系列をシャッフルし、怪盗団の”敗北”から物語が始まるこの作品。子どもたちが見捨てられ、なじられるストレスフルな描写と、それを超常の力で跳ね返して”正義”を為す爽快感は大事にされつつ、同時にその危うさ、浅はかさも追いかけられる。
パレスの主たちがエゴを暴走させ、他人を踏みにじるのとはまた別の形で、負の人間性を撒き散らしながら、ガキっぽく図に乗る少年少女たち。情報管理が甘く、ノリと勢いで行動し、後ろを顧みない浅ましさは、しかしどこか愛おしく、血が通っている。
ろくに世間に認められてこなかった子供が、クソ以下の大人をぶっ倒し、他人に称賛される。それが生み出す快楽と、グラグラ揺れる自意識は、当然在るのだ。天使ではないからこそ、悪を用いて善を為そうと”怪盗”になるのだし、そこに宿るのはキレイ事ばっかりじゃない。

そういう裏腹な視点、主役たちの気持ちいい大活躍だけを肯定しないスタンスが、ピカレスクジュブナイルに独特の締りを与えていて僕は好きなのだ。もっとこー、蓮たちを全肯定気味に書けばいいのに、ガキどもの図に乗った行動はハナっから水ぶっかけられ、主役の顔面は大人の拳で腫れ上がる。あえて、ストレスのかかるそういう描写を入れる。
それは主役が断罪する”悪”がとてもありふれたもので、その影からあらゆる人が無縁ではない、ということに繋がる。子供にとって(大人にとってもそうなんだが、生活基盤を”家”に頼るしかない以上、さらに)巨大な”家族”が、多くパレス持ちになっていることからもそれは判る。
悪なる存在を叩き潰すことは、社会的存在を、心を、体を殺し、人間を終わらせることにも繋がる。そのエグさもまた、話が進んでいくうちに双葉の母、あるいはオクムラによって描かれていく。
怪盗団は”正義の味方”なんかでは、けしてない。無敵でも無罪でもなく、ただ当たり前の一人間として、それでも”怪盗”という生き様を選べるか、否か。それを問うための材料集めはしっかりやれているし、だからこそ特番以降の物語では、巨大な黒幕の”悪”と同じくらい、そこに通じる部分がある怪盗団の”悪”、それらを隔てる”善”の描写を、しっかりやってほしいと思う。

そういう感想になったのは、第二のパレスである斑目の物語が大きい。”母”を失った(奪われた)祐介の”父”であり、唯一与えられた自己表現手段である”絵”の師匠でも在る斑目は、実は”母”を殺し”絵”を奪う悪しき存在だった。
『若いやつは正しく、年寄りは間違ってる』という二分法に染まりそうな題材だが、斑目の”父”あるいは”画家”としての一欠片の真心、どす黒い人生の中に確かにあった黄金を描くことで、白と黒の世界ににじみが生まれている。
悪行を尽くしつつも、幼子と手を繋ぎ、守るべきものを守ったときだってあった。純粋な衝動に胸を焼き、だからこそ苦しんだ。最終的に間違えきって、人倫にも人の優しさにも背中を向けた悪党だけども、どこか主役と同じ、赤い血が流れている。

そういう共感を生みつつ、しかし斑目は決定的に間違えきっていて、だから断罪されなければいけない。祐介は”父”を、”師匠”を超えて正義のローラーで轢き潰すことで、”母”を再獲得し”画家”になる。ファザー・コンプレックスを克服することで、少年が大人になっていく、シンプルな成長の物語が力強い。
斑目と対になるように、双葉の義父であり、怪盗団全体の親父でもある惣治郎おじさんが祐介に優しくするBパートがあるのも、”父”の二つの顔をしっかり見据えていて好きだ。大人になることは、汚くなって間違えることとイコールではない。惣治郎がカレーを出して、ガキを優しく、強く、静かに見守れるのは”大人”だからこそだ。
斑目と祐介の複雑な鏡像関係、思いを惹かれつつも悪を断ち切り、己の信じる正義を為す物語は(第13話での補強含め)、作品全体が追うべき悪と善の混ざり合い、そこに妥協せず善を貫く姿勢を、巧く圧縮しているように思う。
今後続く物語の中で、このエピソードで見せたような複雑な苦味、悪に落ちるものと善を貫くものの境界線を、形を変えて活かすような物語が来ると嬉しいと思う。主人公・蓮に似ているのに道を間違えた明智少年が、ただの道化、あるいはシンプルな”悪”としてかかれないと良いなぁと、彼らが好きな僕としては思うのだ。特番、楽しみです。

 

ぐらんぶる
ベストエピソード第3話『新世界』

相当にダイビングアニメとしてしっかり作っていて、とても良かった。どんなものもちんぽアルコール風味で煮込んでしまうのではなく、しっかり区別を付ける感じ。

ぐらんぶる:第3話『新世界』感想ツイートまとめ - イマワノキワ

 ”あそびあそばせ”といい、下品で元気なギャグアニメが豊作なクールであった。際どいネタは際どいからこそ強火の笑いを誘うが、だからこそ扱いは難しい。過激な方向だけに突っ走っていると、ネタには飽きるし超えちゃいけないラインは踏みつけるし、だんだん笑えなくなっていく。
あそびあそばせ”はそこら辺を、少女たちの日常を丁寧に掘り下げる筆を用意することで回避していた。結構微妙な中学生女子の人間関係を、大暴れする中でもナイーブにケアして維持しようとする、少女たちの身じろぎ。クソバカやりつつ育まれる、友情に似たナニか。パット見ガワだけに思える”女の子の中学生ライフ”を、実はかなり気を配って細やかに描くことで、ハイテンションだけで押し切る危うさから距離を作っていた。
この作品の場合は”ダイビング”だったと思う。集団が楽しく、安全に潜るレジャー・スポーツという本質を大事に、作品を覆い尽くす●とアルコールをあえて遠ざけ、真剣にやる。海の中で見つけたピュアなキラキラは、茶化さずちゃんと書く。
大学生という年齢設定だからこそ、心のどっかで求める分別。散々な大暴れが洒落ですむ、どっか冷えた感覚。それがキャラクターと作品に宿っているのだと見せる意味でも、このアニメが結構ちゃんと潜っていたのは大事だと思う。

開始二話で超絶不謹慎ギャグとしてのポテンシャルを、嫌というほど叩きつけたあとに来る、シリーズ最初のダイビングエピソード。しっかりゲラゲラ笑わせた後だからこそ、キャラクタがしっかり入ったタイミングで『お、フザケルばっかじゃねぇな』と思わせるのは大事なことだ。それもまた”ぐらんぶる”だからだ。
海が苦手な伊織が、初めて潜った世界に受けた衝撃。それで感動するピュアな心を茶化さず描いてるのも、すごく好きなところである。あっという間に全裸アルコール集団のトンチキに馴染んでしまったわけだが、そういう擦れっ枯らしのどチンポだけで、主役が構成されているわけではない。きれいなものを素直にきれいと感じられる感性が、ちゃんと在るのだと判る。
それを支えつつ、ほのかで甘酸っぱい恋の相手でもあるちーちゃんは、なかなか可愛かった。作画も決死に防衛戦を引いて、ちーちゃんは常に可愛く、コケティッシュで魅力的に描かれ続けたなぁ……そこが作品のバイタルとして、しっかり機能してたのは強いと思う。

耕平との凸凹青春絵巻もそうなんだが、大学時代という季節を明るく楽しく、さんざんかき回してちょっとセンチメンタルに描いてる筆が、僕は好きだ。どっかにあったような、でも絶対に手に出来なかったような、暴れまくりでキラキラした青春へのあこがれを、ちゃんとすくい上げるアニメだったと思う。
高校生と違って、セックスに直結した恋愛があり、酒で繋がる人間関係がある。自分の自由になる金がそれなりにあって、でも”大人”でもなくて。フィクションであんま主役になることがない”大学時代”を、泥まみれの筆で嘘なく描いたお話だったなぁ、と思うのだ。やっぱ好きだな、このアニメ。 

 

はねバド!
ベストエピソード:第3話『アイツは完璧だった』

しかしこの話はバドミントンの話なので、エレナの立場は弱い。どうにか出口のない繰り返しから出たいけども、才覚のない自分では綾乃を引っ張り出せない。

はねバド!:第3話『アイツは完璧だった』感想ツイートまとめ - イマワノキワ

 はねバド! アニメは難しいアニメだったな、と思う。
絵柄も物語のテイストも、テーマへの潜航深度も、話の途中でガラリと変わってしまう(ように思える)原作を、どう相手取るか。原作再現で話と絵がブレるよりも、最終局面から逆算し大胆に作り直すことを、アニメ版は選んだ。
その結果掴めたものもたくさんあるし、取りこぼしたものも山とある。一番痛いのは、なぎさと綾乃の最終決戦(それだけが付き崩せる綾乃の幼さ、マザー・コンプレックスの高い壁)を起点に描くために、日常的なユーモアが巧く救い取れなくなってしまったことだ。
シリアスなコマとコマ、エピソードとエピソードの間を繋ぐ、フッと肩の力の抜けた”笑える”シーン。原作序盤は萌えで絡め取られたユーモアが前面に出て、ふわっとわたあめみたいな食感なのだが、中盤以降はおちゃらけた空気が鳴りを潜め、がっちり地盤と絵柄が固くなる。その重たさを食べれるのはしかし、序盤で前面に出ていたライトな笑いと可愛げのセンスがあればこそ、だったりする。
スポーツのあり方、アスリートのあり方、人間の、大人と子供のあり方。そういうソリッドでシリアスなテーマを食べる時、真面目一辺倒ではなく、どっかでフッと『抜く』瞬間が必要になる。ずっと顔を水に沈めて、息継ぎのために顔を上げるようや、温かい人間の風味、人生にどうしても必要な真剣さの中の笑い。
原作はこれが抜群に良くて、それは序盤のヌルい空気からひっそり継承されたものだったりする。再構成の結果、モエモエな序盤を蹴っ飛ばしたアニメ版は、そういう連続性をどうしても失ってしまっており、つまり過剰に硬い。例えば第5話、フレ女のお風呂シーンとかは、露骨に浮きまくっている。

しかしそういう頑なさ、過剰さを選び取らなければならないほどに、強張って本気の制作姿勢が僕は好きである。非常に奇妙な漫画的ライフサイクルを経て、ある種のキメラとかした”はねバド!”から、アニメスタッフは生真面目さ、真摯さを選び取った。
それはなぎさが代表し”部”全体に及ぶ”正しい”生真面目さだけでなく、綾乃が閉じ込められてしまっているマザー・コンプレックスの檻、成長できないまま毒を撒き散らす最悪さ、そこから出て別の可能性を掴み取りたいけどできない苦しさに対しても、非常に(あるいは異常に)真面目であった。

綾乃はこの3話で、既に『正しさ』にたどり着いている。
バドミントンが好きで、だからリスペクトを込めてやる。部のみんなと友だちになって、他人を労れる優しい存在になって、ちゃんと『ありがとう』と『ごめんなさい』を言えるようになる。
そこがゴールなのだ、という兆しはこの第3話で的確に見えていて、だからこそこっからの話数が重たい。綾乃の動けなさ、動かなさが、甘えた停滞に見えるのだ。物語的にたどり着くべき『正しさ』は見えてんだから、足踏みしてないでとっとと突っ込めと、外野席からは思えてしまう。
そうは言っても、綾乃が有千夏に抱く愛憎の濃さ、それゆえに前にも後ろにも進めない重たさ、自分を成長させる方法も他人に優しくする方もわからない幼さは非常にシリアスで、なぎさがシャトルでぶっ壊す以外に方法がない。そしてそれは、IH県予選の櫓に乗っかって決勝まで話が進むまで、抜くわけにいかない伝家の宝刀なわけだ。
第3話の予兆と、第12話の解決。その間に埋まっている不協和音の多さ。それが、シンプルなスポ根、魂の『正しさ』が勝利を運んでくるストレートな物語進行を望む人(僕の半分くらいは、そういう素直な人である。信じてね?)には厳しい。予兆と解決をホールドしないで、直線で結んでほしくなる。だが、はねバドアニメはそうしない。

それは不協和音にこそ……それが”バドミントン”に真摯に挑むことで調律されて和音となり、敗北の中から自分らしさ、他人の優しさと強さ、世界の広さを見つけて歩き直すことにこそ、このアニメが書きたいものがあるからだと思う。
アニメ版は色んなエピソードとキャラを切り捨てて、北高のモブたちをガリガリに掘り下げる。”部”であること、才能あるやつもないやつも、男も女も一箇所に集まって、必死でバドミントンすることを大事にする。それは原作が内包しつつ、掘り下げきれなかった大事なパートだと思う。
理子に第6話まるまる捧げていることからも、それは良く見える。悠ちゃんの甘えと優しさ、空ちゃんの厳しさと強さを対比させつつ、最後に綾乃をさせる大事な柱として機能させた構成からも判る。
特別な過去があって、特別な才能があって、”勝てる”連中だけが、”バドミントン”の主役ではない。
それが寄り道に見えるか否かが、アニメ版はねバドを許容できるかどうかの、大事な一線になっているのだと思う。僕はスペシャルな人間がスペシャルなことを成し遂げる突破の快楽と同じくらい、特別ではない連中がホコリまみれの自分星を見つけ、泥まみれで立ち上がり直す話が好きなので、『モブ共のいらない話』はとても楽しめた。彼らがいればこそ、綾乃となぎさの特別な対決は成立しているのだろう。

ともすればアンチスポ根に見えるこの物語は、実は”スポ根”という物語化されたスポーツが、アンチスポーツともなり得る危険性を見据えている。競技はときにマテリアルなもので、ルールに定められた点数は人格や品位に関係なく積み重なり、それが厳密な勝敗を生む。それは揺るがせようのないものだ。
それと同時に、ドラマを背負った側が勝つわけではなく、勝つ側が勝つのだ。そこに盛り上がりのなさではなく、厳しさと公正さを見ればこそ、(上手い下手は横において)競技者は競技に、己の身を投げて向き合う。『いろいろ物語を背負ってるから、立派だから、可愛そうだから』という物語的な要素で、スポーツの勝敗は左右されないし、されてはいけないのだろう。
しかし人間は物語で現象を解体し、咀嚼する。それ以外に、人間がマテリアルな現実を解釈する方法はない。(それが出来るのは、覚者とか聖人とか言われる存在だけである)だから、スポーツは物語化し、流通し、消費されていく。マテリアルなスポーツと、物語としてのスポーツの中間地点で、常に競技は揺れ動いているのだ。

そして、マテリアルとしてのスポーツの経緯は、常に物語化されている。頑張った、必死だった、譲れないものがあった。そういう思いは結果は変化させないにしても、物語が手放せない人間である選手、その集団に当然影響する。過程が変われば、当然出てくる結果も違う。
はねバドアニメが追いかけているのはそういう、過程としての物語性であろう。そしてそこには、競技に選ばれたたった一人だけではなく、多くの人が絡む。
はるか昔に自分を捨てた母、コートを同じくするライバル、今時分を支えてくれる仲間、その温かみを理解できない(理解していても、そこに素裸の自分を投げ込めない)自分。
様々にすれ違い、苛立ち、受け入れ、拒絶し合う、それぞれに意志と尊厳を持った人々が絡み合うドラマは、どうやったって人間を取り込んでいく。人間の営為であるスポーツもまた、その絡み合いの中にある。
そこからどういう結果が出るかは、様々である。クソ以下のクソガキでも、数字は素直に勝敗を分ける。なにかに気づけたからって、いきなりプレイが上手くなるわけじゃない(第8話参照)
それでも、過程の中に組み込まれた人間のドラマ、感情の熱量には、それぞれ特別な尊厳があり、描くに足りるだけの物語がある。だから、負けるもの、勝負に関係ないものまで引っくるめて、あの”選ばれたものの戦場”に関わる様々なものを、豊かに描ききろう。
はねバド! アニメは、まぁそういうアニメだったのではないか、と僕は思うのだ。

第3話がベストなのは、エレナが主役だからだ。シャトルを持てない彼女は、綾乃の問題解決をなぎさに託す。託すしかない。結局、あの戦場をくぐり抜けることでしか綾乃は変わることができなかったわけだから、その判断は正しい。
でも、綾乃のことをずっと見て、綾乃を一番考え抜いたのはエレナだ。”母”の代理品として甘えてくる綾乃の寂しさと傷をしっかり見て、自分なりに決死に戦って、それでも決着を他人に預けるしかない。エレナの寂しさと尊さは、この話数でしっかり描かれている。
そんな彼女の寂しさは、第12話で競技場を抜け出し、”母”と向き合う特権を獲得できたこと、第13話で綾乃にちゃんと『ありがとうとごめんなさい』を言ってもらえた(言わせることができた)ことで、ようやく解消される。不協和音の解決までが長い!
競技するものの特権を決定的な変化の起爆剤としつつも、そこから離れた”シャトルを握らない女の子”をどう描くか。それは、バドミントンに対するリスペクトが話の根源にあった物語を、最後に支える背骨だったと思う。
この話数でシャトルを握らないエレナの惨めさと尊さをちゃんと描いたからこそ、第13話の黄金の再開が胸に効いてくる。そういう意味では、第13話と合わせてのベストエピソードとも言える。

あえてこっちを選んだのは、まだ戦いが激化していない分日常の描写が多く、この作品の強みがよく出ていたことが一つ。とにかく繊細な感覚で風景を切り取り、意味や情感をたっぷり込めて美しく仕上げる筆が強いアニメだった。それを堪能するには、ロケーションを任意にエモく仕上げられる日常芝居のほうが、試合より実は向いている。
もう一つは、後に長く続いていく”勝てない奴ら”の系譜を、エレナがしっかり作るからだ。第1話.第2話の退部組もそういう存在なわけだし、そこで『それも描きます』と見せたことが一貫性にも繋がるわけだが、彼女らは舞台から降りてしまう。
綾乃のクソっぷりになんにもできないけど、親友だからなにかしたいエレナの身じろぎは、この後もずっと切り取られる。しんどい。本当に優しい女の子の真心が、ひねくれちゃったクソガキに届かずすれ違っていくのは、マジで見ていてしんどい。
でもその無力は、最後の最後に綾乃が真っ白になれた”バドミントン”の特異性を描くためには絶対必要であるし、”バドミントン”が救えなかった部分をエレナが背負い続けたからこそ、あの白い場所もある。そう思えるように、第3話からエレナが歩く道は舗装されている。
高校一年生の女の子が、高校一年生の女の子を護る。”母”が致命的に間違えてしまった愛が、ちゃんと綾乃を、世界を取り巻いているのだと信じ続け、諦めず戦い続ける。そういう物語としても、むしろだからこそ、僕はアニメ版はねバド! が好きなのだ。
そしてこの第3話は、そういう友情ドンキホーテの空回りと、誠実な死闘がみっしり詰め込まれている。ここで生まれた和音と不協和音が、繊細な画面に流麗に乗っかりながら、最後まで鳴り響き続ける。だから、この話数がベストなのである。