イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

六花咲く頃に ─2018年10月期アニメ総評&ベストエピソード─

 

・はじめに
この記事は、2018年10~12月期に僕が見たアニメ、見終えたアニメを総論し、ベストエピソードを選出していく記事です。
各話で感想を書いていくと、どうしてもトータルどうだったかを書き記す場所がないし、あえて『最高の一話』を選ぶことで、作品に僕が感じた共鳴とかを浮き彫りにできるかな、と思い、やってみることにしました。
作品が最終話を迎えるたびに、ここに感想が増えていきますので、よろしくご確認を。

 

・あかねさす少女
ベストエピソード 第11話『優等生』

俺はアーパー天然系(その実超重たい過去と、それに相応しいシリアスな人格持ち)としっかり幼馴染(その実臆病者で、心の躍動を支えられない弱い足腰持ち)がグネグネ感情を拗らせ、言葉のナイフで傷つけ会い、真心の膏薬を塗りあう展開が三度の飯より好きです。

あかねさす少女:第11話『優等生』感想ツイートまとめ - イマワノキワ

チャーミングなアニメ、というものがある。作画が図抜けて凄いわけじゃない。構成にはスキがあり、癖が強く、時折ヘニャヘニャになる。万人に受けるわけじゃないけども、波長が合った人にはビリビリと突き刺さる。
僕にとって”あかねさす少女”は、そういうアニメだった。感想を途中まで書かなかったことを見ても、序盤はあまりのトンチキフニャフニャ加減に付き合い方を掴みきれなかった。かといって、第1話で見せた『フツーの異世界冒険ジュブナイル』を押して行っても、スタイリッシュに突破することは出来ない。話の構造も、キャラのデザインも、どこか古い。
しかしとにかくトンチキな異世界修学旅行をアッパーにアーパーに走りまくるテンションが、だんだんと刺さりはじめた。それはそういうおふざけの奥にしっかり腰を落とし、青春と自我確立を掘り下げていくベーシックな強さが、しっかりと見えてきたからだ。

頭のネジをぶっ飛ばしたアホアホJKのトンチキ修学旅行で楽しませつつ、世界と自分の対立、真実の自分を見つけられない苛立ちには、嘘をつかない。狂った世界旅行で仲間の大切さ、自分の望みを掴み取って、クソダサスーツと一緒に新しく生まれ変わる瞬間に、偽りはない。
異能力を発現し『変身』する瞬間が、青春の繭から脱皮する少女の自己実現としっかり噛み合い、『変身ヒーローもの』としてのカタルシスが、確かにある。その変化を支え、促す仲間のありがたさ、アホを装いつつ明るく仲間を導き、元気づけるあすかの主人公力。
それが次第に、世界を滅ぼす黄昏との戦い、あすかの秘められた過去と人格に絡み始め、シリアスさが反転……するわけではない。後半、OPに相応しい重たさで展開する物語は、ちゃんとアーパーな異世界旅行の中でその土台を示され、納得できる運びになっていた。

そんなアニメで一番刺さったのは、主人公あすかの道化の仮面が反転した重たさ、それを一番身近に見守り、しかし踏み込むことが出来ない優等生の優ちゃん二人の巨大感情が爆裂する、この回だった。
異世界の自分』が複雑な感情の鏡として機能する構造は、ここまでのアーパー旅行でしっかり示されていた。便利キャラとして話の進行に寄与してたエロ優ちゃんと、正反対に見えて実はその感情の質量、質感において全く同質である、あすか好きすぎ人間・優。
デカい設定を扱いつつ、耐えきれない喪失を生き延びるためにシリアスさを置き去りにし、嘘で心を固めたあすかへの思いは、凄まじい温度でうねっていた。どっしり重たく、優しく湿っている優の感情は、話がシリアスさを増すごとにどんどん全面に出てきて、同じく全面に出てくるあすかの重たさと呼応していった。
巨大で熱いが故に、どう扱えばいいかわからない感情。それが様々な人の後押しを受けて、一つの結論にたどり着く(そしてあすかが、曇りなくその感情を受け止める)カタルシスは、非常に強力で真摯だった。繋がった思いが『変身』を連れてきて、ヒロイックなアクションで話が締まるところも、このアニメらしくていい。
すでに『変身』を果たした仲間がたどり着いたものを、しっかり掘り下げるヘイトアーツの上手さもいいし、実質的なクライマックスとして物語の全てを生かした熱量もある。
最初バカにして、斜に構えてみていたアニメが、その実自分の感性にビビッと来るチャーミングな作品であり、真摯さと上手さを兼ね備えていたと判る瞬間は、いつでも面白い。その醍醐味を最も強く味わうことが出来るエピソードであった。

 

ゾンビランドサガ
ベストエピソード 第2話『I♡HIPHOP SAGA』

当惑と逃亡、衝突と融和を、ハイテンションでキレの良い笑いでしっかりくるみつつ走る今回のエピソードは、そういう作品のコアを肌で感じることができて、とても良かった。

ゾンビランドサガ:第2話『I♡HIPHOP SAGA』感想ツイートまとめ - イマワノキワ

 全てがベストで二億兆点、という前提を置いた上で、この話を選ぶのにはそれなりに理由がある。
ゾンビランドサガは真面目なアニメだったと思う。真面目なものを望まない視聴者のサガをしっかり見据え、上質なコメディのコーティングで本気を隠す。大上段に振りかぶったメッセージではなく、スルリと滑り込んで感染する思いを、笑いで鎧を緩めた上で突き刺す。
そういう方法論をしっかり貫通しきり、真面目さを真面目なまま消費させるという難行に成功する、桁外れの真面目さ。コメディアンの意地。そういうものがあらゆる局面、あらゆる題材にみっしりと満ちていて、しかし表には出ない。シャイである。
僕はシャイなアニメが好きなので、その奥ゆかしさがいっとう愛おしい。ドヤ顔で『凄いことやってます!』と威圧するアニメの強張りも大好きだけど、こうも洒脱に踊り、踊らせる軽味もまた好きだ。両方ともプライドの現れ方が違っていて、両方に価値があると思う。

このアニメがそういうものなのだ、という企図を受け取ったのがこの話数だ、というのが、ベストエピソードの由来である。
他のエピソードも最高に良い。各キャラクターのオリジンと現状、死に絶えた世界とその再生が描かれる第6話から第9話までの連作。ぎくしゃくと第二の生、新たな姉妹に戸惑っているフランシュシュを笑いと真実味で描ききる序盤。お話のエンジンにしてスタビライザーだったさくらを彫り直すことで、自作を語り直す終盤。全てが良い。
だがやっぱり僕は、作品へとの信頼関係、『このアニメだったらこれだけ体重をかけてみても良い』と自分に言い聞かせられる話が、シリーズアニメを見る時は一番大事で、一番好きだ。その期待感が裏切られず、むしろ期待を上回って描写が積み重なると、最高にいい気分になる。

このおもしろトンチキエピソードには、後に花開く”ゾンビランドサガらしさ”がみっしりと詰まっている。ゾンビであることの暴力性と、それを反射してくる世界の暴力性。そんな存在でも世界に通じてしまう、芸事の強み。バラバラな状態で強制的に蘇らされ、それでも繋がっていく思い。死体の少女たちから溢れ出す、瑞々しい生命の息吹。
音楽のアニメでもあるゾンビランドサガが、思いの外茶化さずラップをやったこと。さくらの土壇場リリックが、眼の前にいるサキ、後のフランシュシュ、観客席の仲間をしっかり引き受け、諦めをディスり希望を焚きつける有り様。型にはまらず、コール&レスポンスをしっかり果たしているフリースタイル・バトルの描き方。
ミュージカル調にしてもデスメタルにしても、あるいは土着の踊りにしても、ゾンビランドサガはそれぞれの”音楽”に敬意を持ち、自分なり答えを返してきた。どんなものでも”アイドル”が歌えば”アイドルソング”になってしまうジャンルに甘えず、一つ一つ自分が向かい合うモノの歴史、特色を引き受けた。

そういう生真面目さは、描写を圧迫し、キャラを動かし、物語に説得力を生む。サキが『もう終わってんだよ』という絶望から、自分のリリックを引き受け膨らませたさくらへの信頼へと飛び立ち、フランシュシュの頼れるリーダーへと変化していく兆しは、非常に短い尺の中で炸裂している。
そういう表現力を宿せるのが”歌”だし、”アイドル”を扱う以上そういうのは大事にしなきゃいけない。そういう部分も含めて、作品への信頼感がどっしり腰を下ろすエピソードだったのだ。

第一話ではハイテンションギャグで強引に引っ張り回し、主役顔で居座っていた巽が、後方に下がって『プロデューサー』をやりきるのも、とてもいい。彼がやっている仕事は莫大で、それをこなすだけの実力、10年ちょっとで作詞作曲マネジメント営業運転エンバーミングに呪術まで、しっかり身につけた才能を思うと、確かに『持ってる』男だ。
この段階ではそういう背景は見えてこないのだけども、ウザいハイテンションの奥にある献身、舞台とゾンビへの愛情はこの段階で感じ取れる。だから、僕は巽を好きになったし、巽を重要なポジションに置いているこのアニメを信頼しようと思ったのだ。
この描写は話が進み、フランシュシュの間に信頼感が生まれ、視聴者がアニメに前のめりになるたびに、どんどん濃くなっていく。このとき予感(当たらなければ妄想)した巽のシリアスとシャイネスが間違っていなかったことに、してやったりの喜びを感じなかったと言えば、当然嘘になる。『おせーよお前ら、俺はもう巽幸太郎に”張ってる”ぜ?』って感じだった、正直。

そういう薄暗い優越感もたしかにありつつ、根っこにはこのアニメを好きになってよかったという、分厚く熱い感慨がある。そのイグニッション・キーとなったこのエピソードは、自分的にはとても大事である。
ギャグ面白いし、女の子かわいいしね。こういうシンプルで根源的な部分を一切怠けず、楽しくカワイイアニメに全力投球しきったところが、非常に偉いと思います。強いアニメは強いッ!

 

BANANA FISH
ベストエピソード 第24話『The Catcher in the Rye』 

この作品に込められた答えの出ない問は、今でも現役で僕らを悩ませ、傷つけ、引き付ける力を、しっかり持っている もう一度容赦なく僕を打ちのめしたあのラストシーンが、それを証明した

BANANA FISH:第24話『The Catcher in the Rye』感想ツイートまとめ - イマワノキワ

 多分あなた達と同じように、僕は”BANANA FISH”を見るのが怖かった。ノスタルジーでオナニーするために、あるいはオッサンオバサンで商売するために汚されていい作品じゃないし、内海紘子の歪な感性が作品の真摯な聖性と向き合えるか、”Free!”を見終わった後では確信は持てなかった。
第1話の感想を見返すと、相当警戒心強く見始めて、その後の感想を読むと、あっという間に切り崩されていくのが判る。何しろ、原作がいい。男達の濃厚な感情、人間を縛る矛盾した宿命、汚濁と美麗の中で決死に生きようとする命の煌きが、随所に詰まっている。心揺さぶられ、笑い、泣き、否応なく気持ちを運ばれていく。
そういう強さを最大限生かせるように、オッサンオバサンの懐かしさを満たすためだけでなく、今まさに生きた物語として様々な人に届くように、アニメスタッフは決死の努力をした。
そう思えるようになったのが何話くらいからなのかは、正直覚えていない。ショーターが死んだ第9話では、もうあーだーこーだのややこしい感情は押し流されて、白旗を上げていたように思う。
第2話で英二が飛んだ青い空の鮮明さ、それを的確に切り取るセンスと誠実さを叩きつけられた時に、もう蒸発していたのかもしれない。どっちにしても、内海紘子は間違いなく天才である。なまじっか物分りのいい話やるより、カルマが地獄絵図を描き、感情がどこまでも重たい矛盾に引き裂かれるような無惨なお話のほうが、性に合ってるんじゃないかなやっぱ…。

その内海監督がコンテ・演出に戻っての最終話は、圧倒的なクオリティと圧力で、一気にエンドマークまで物語を運んだ。絶対に認めたくはないが、認めるしかない重たさの結末。それを納得させるための、暴力的なまでの”質”
とにかく、あらゆる瞬間の”絵”がいいのだ。
よく動くし、それ以上に的確に動く。命を奪うアクションの切れ味と重さ、感情がぶつかりあう時の熱量、人間の醜さと美しさ全てを切りとる視覚の広さ。リッチな作画が、問答無用の説得力を物語に宿している。
クオリティはただ高いだけでなく、いかに使い、何を描くかがとても大事だと思う。2クールの長丁場、作画がヘタる時も正直あったけども、勝負どころでは必ず鮮烈で強い”絵”を叩きつけてくるアニメは、最後の最後で最強の”絵”を叩きつけた。

それぐらい強くないと、あの結末は飲めない、ということでもある。そういう終わりに話をたどり着かせなきゃいけなくて、そのためにはどうカロリーコントロールをするべきか考え抜き、成功したアニメでもある。
事程左様に、アニメとして”BANANA FISH”をどう描き抜くかをよく考えたアニメだったと、今では思う。その集大成にして必然、ここにたどり着くために全てがあったエピソードが、やっぱりこの話数なのだ。
そういう計算高さと巧さをひっくるめて、やはりベストエピソードである。アッシュを殺すことで、”BANANA FISH”はエバーグリーンたり得たというのは、悔しいが事実だと思う。
彼が生き残っていたら貫き通せない、無慈悲なほどに青い正義。それをこそアッシュは地獄の中でも求め、手を伸ばしていた。それに届かない悲しみと、それを背負った英二と出会い、わかり会えた救い両方が、この終着点を中心に、物語の全てに及んでいる。
強く、熱く、優しく、情けも容赦もない誠実なアニメだったと思います。そんな強さが全て詰まっている最終回が、やっぱり一番すごいかなぁ…。

 

・うちのメイドがウザすぎる!

 ベストエピソード 第7話『うちのメイドがいない家』

みどりを壁にすることで『嫌なものは嫌』という人間味(ミーシャと共通する感覚)が顕になって、キッツいキッツいサイコ腹筋メイドが、ちったぁ人間であることが見えてくる。 笑いを回す変態エンジンの出力は落とさないまま、食べやすく調味してきてなかなかグッドだ。

うちのメイドがウザすぎる!:第7話『うちのメイドがいない家』感想ツイートまとめ - イマワノキワ

 『六話じゃないの?』と思われただろう、おそらく。
自分としても六話はすごいと思うし、好きでもある。カルマ系アニメーターのオールスターを原画陣に揃え、”絵”の圧力で押し切る強さはおそらくシリーズ中随一。とにかく崩れない作画、ミーシャちゃんの可愛さでヤダ味を押し切ったアニメとしては、自身を一番象徴するエピソードだとも思う。単純に、見てて凄いし面白いしね。

しかし話としては第六話、まーったく進んでいないしみどりの仕事もわかんない。一話ずーっと起伏なくドM女がダラダラ喋り、ロシア美少女が切れ味鋭いツッコミを入れるだけである。いや、それが面白いんだけどさ…。
対してこの七話は、自分を一切変えない怪物すぎるつばめに過剰な感情をいだき、世界やミーシャや視聴者に橋を架けるみどりの仕事が、鮮明にわかる回でもある。あえて引くことで、ミーシャの気持ちを動かし自分に都合の良い結果を引っ張ってくるつばめの邪悪さもな!
ペドフィリアの邪悪さ、サイコなパスの身勝手さも含めて、このアニメは原作と自作をよく見たアニメだったと思う。不謹慎でろくでもない話なのだ、根源的に。しかしそのままそれを叩きつけたのでは、視聴者は引くし、それ以外の要素…目立たないけど確かにある人間味とかが、エグさで蒸発してしまう。

つばめの犠牲者になるしかないミーシャ単独では、毒を消しきれない以上、適切な新キャラを投入する必要がある。つばめと同じエグさを抱えて、つばめとは違って『まとも』なみどりはドンピシャなキャラを、ドンピシャなタイミングで投入できた稀有な例だと思う。
そんな彼女の真価がわかり、ただ勢いで押し流すだけではない強さ、眼の良さがひっそりと輝くこの話が、僕は凄くこのアニメらしいな、と思う。
良い読後感を与えるために、(あえてこの言葉使うけど)取ってつけたシリアスを最後に持ってくる……ために、第一話でそういう綺麗な要素を印象づけておく構成力。それはつばめの強烈でエグいキャラと同じくらい、このお話を楽しく、魅力的に仕上げてくれたと思う。

もう一本の柱であるミーシャの健気な可愛さもこの回元気なのが、『らしい』というか。キャラデザの時点で”強い”んだけども、そこに甘えない人間の良さ、時に過剰なほど『良い子』になってしまう寂しさを上手に使って、良い主人公であった。
そういう子だからこそ、彼女を玩弄するつばめのエグさも目立つわけだが……ほんとにこの会の『押して引く、弱ったところに漬け込む!』という最悪っぷりは、ホント最悪で良い。その変化しない最悪が印象的であればあるほど、最後に譲る姿がきれいに収まるしね。
勢いの良さ、アンバランスな腕力な強さ、作画の圧力を最大限振り回しつつ、自作が抱える歪みに自覚的で、それをしっかりケアしたアニメだったと思います。そういう巧さが最大限出るのは、やっぱ中盤の繋ぎ回だよなぁ……物語構造全体に興味が強いので、印象的に刺すところより、それを効果的に見せる布石の方に目が行きがちなのかな?
あ、クマゴローやハムスター、犬といった動物描写が最高に冴えてて、毎週可愛い『アニメの中の動物』を見れたのはホント最高でした。1クールに一個くらい、こんくらい気合い入れて動物さんを書いてくれるアニメがあると、俺の魂が潤って最高に良いんだが…そういう意味でもありがたいアニメだった。

 

・SSSS.GRIDMAN
ベストエピソード 第2話『修・復』

まだ記憶とアイデンティティが戻らない主人公を、あえて置き去りにする運び含めて、この話の心臓部分に血が通ったような感覚を、今回で僕は覚えた。

SSSS.GRIDMAN:第2話『修・復』感想ツイートまとめ - イマワノキワ

TRIGGERの秀英、雨宮哲によってアニメートされた”グリッドマン”は、色んな意味でアンバランスな作品だった。
終わりから振り返ってみればアカネちゃん一人を”退屈から救う”ことに終止した、コンパクトでありながら過剰な時間を使う全体の構成。アカネちゃんの”退屈”を反映した街の、息苦しい情景。そこをジリジリと歩いていくグリッドマン同盟の、遅々として進まない真相究明、あるいは関係構築。
様々なものがノーマルなテンポではなく、過剰な抑圧の中で近視眼的に描かれ、それをぶっ飛ばすはずのアクションも大量の引用と既視感でサイバーアップされていて、素直にはぶち上がらない。『抑圧的なドラマと、開放的なアクション』という分かりやすい二分法で、物語を仕上げない。
TRIGGERらしい大量の引用、オタクによるオタクのための幾度目かのコピーのコピーのコピーもまた、単純にネタを引っ張ってきて満足するわけではなく、何処か新規な解釈、私小説的な滲みを残した筆致で、記号を濫用する知的で詩的で痴的なゲームに溺れるには、ちと匂いがありすぎる。

多分このアニメは雨宮監督の私小説的側面が非常に強く、それはTRIGGER諸作品に必ずつきまとう属性であるけども、それを上手くコントロールして娯楽性とバランス取りに成功した(と、僕は思った)ことで、より目立った感じもある。
自分を作り出し、アニメーション監督の位置まで押し上げた諸作品への愛と、少しの憎悪。遅れてくるしかなかった世代の気恥ずかしさと気後れをスパイスに、しかし堂々と語られる『円谷以降・エヴァ以降』でしかない自分。
それをアカネちゃんの面倒くさい心情へのクローズアップ、彼女の心象(であり、でしかないことが第6話、”怪獣少女”によって明言される)たる”街”のポートレートに乗せて、ときに神経症的に、ときに愛情深く切り取っていく。

このアニメに広がっていた”夏”が、僕にはとても懐かしく、また新しかった。視聴者それぞれが身の養いにしてきたフィクション・ジャンルによって、この多層にオタク的な引用の織物に何を感じるかは違うのだろうけども、僕はやっぱりエヴァンゲリオン……”ヱ”ではなく”エ”の方、10代の僕がズッポリハマって、なんだかんだ今でも創作物と世界を切りとる起点となってるTV版エヴァの匂いを、深く吸い込んだ。
そこにあるのはノスタルジーと再演……だけでなく、造り手自身が乗り越えて”新”へと進んでしまったあのお話を、懐かしく温め続ける恋情であり、そこから帰った自分だけの雛だと、僕は身勝手に思う。
陽炎に揺らぎ、霧に霞む”街”の不在感は第三新東京市によく似ていたけども、しかしその仮想に血が通い、不在なるフィクションに耽溺せず、切り捨てず、”トモダチ”と肯定して背中を押して貰う関係性を、堂々肯定したように思う。
それはずーっとエヴァに呪われていた僕にとって、正直それなり以上によく聞く特効薬であり、ずーっとエヴァのことを考えていた雨宮哲が最良の形で出した、自分を生み出したものへのアンサーだったとも思う。

ここで僕が特撮オタク(あるいは円谷マニア)だったら、グリッドマンウルトラマンを視界においたり、あるいはまた別の作品から景色を借りてくることができるのだろうけども、僕にも特撮への素養も信心もなく、そっちの景色を語ることは出来ない。
そういう人にも、このアニメはいろいろな窓を開けて、コンピューターワールドの欺瞞と優しさ、喪失と興奮を与えてくれた。ごった煮であることで、どっかに自分が引っかかる釘が伸びていた。少なくとも、僕は引っかれたのだ。
それは固有の作品へのオマージュと批評だけでなく、キャラクターの造形においても、またそうだったと思う。あんま声を張り上げない、ダルく生っぽいディレクション。BGMを切り飛ばし生活音で埋めた”夏”を歩く、どこか自信なさげで自動的な少年少女たち。
彼らの切り口は(こんだけオタク汁にまみれたオタク作品なのに)妙に生っぽく、景色と人物のミスマッチ(あるいはベストマッチ)が、作品への興味を強く掻き立てた。古臭いものへの郷愁で溢れかえりつつ、妙に新しい造形、不安に満ちた彼らの歩みは、何かのコピーでありながら新しく、ちゃんと彼ら個別のものだった。

そういうオリジナリティとミメーシスの混在が、一番最初に刺さったのがこの話数、第二話である。曖昧さで思いっきり殴ってくる第一話も、ダラダラと抑圧を続ける中盤も、潮目が変わる第6話、第10話も、凄く好きだ。頭っからずっと続いていた”裕太”の白紙性は謎解きされる最終話、大量の伏せ札をアクションの中で表替えしつつ、作品のたどり着くべき場所へと全力疾走した最終話も、非常に良い。
しかしやっぱり、作品を見続けよう、自分のものとして受け止めようと思った瞬間……面映ゆく大げさな言葉を使えば『アニメと恋に落ちる瞬間』が、やっぱり僕は大事だなと思っている。『このアニメの、ここを信頼しよう』と、眼球に突き刺さる映像から選び取って、そっと触れた瞬間。そこがあるから、僕らは作品を最後まで見て、エンドマークの先の光景を創造する。

このエピソードで言えばやっぱりそれは、六花ちゃんが言葉を見つけられないまま街をさまよい、失われたトンカワの死をどこに据え付けたものか迷っている様子であるし、そこに明朗な答えを出し、後にアンチくんというこのアニメ独自の”ヒーロー”を導きもするキャリバーさんである。
彼らが先に”正しさ”にたどり着いてくれたからこそ、後に将が凡俗の無力感とか”トモダチ”への巨大感情に悩んだり、結局他作品のコピー=アバターでしかなかった”裕太”がその白紙性をそれでも受け入れたり、欺瞞の街の神様だったアカネちゃんが位置人間でしかない自分を”トモダチ”に受け止められて肯定したりという、魅力的なよろめきが迷いすぎなかった。

『作り物でも、人が死ねば哀しい』『正しいことは、正しいからやって善い』『硝子の壁が望みを邪魔するなら、壊して飛び出してもいい』
この回でキャリバーさんが六花に見せた”正しさ”は、物語を蔑ろにするニヒリズム、リセット可能な世界で摩耗していくオリジナリティ、悪しき方向に誘導されるクリエイティビティに満ちた”街”で、キャラクターと作品、それを見ている僕が迷わない道標に、ちゃんとなってくれた。
霧の曖昧さを壊し、離れることで自分をFixし物語(はつまり、現実を無条件に優位に立たせるのではなく、仮想と現実を水平な互助関係に置くことで、仮想の尊厳を守る構造を完遂し得たわけだが)は、キャリバーさんから六花(もうひとりの、理想の、独自の意識と尊厳を持ったアカネ)が引き継ぎ、それをメシと屋根と一緒にアンチくんに与えたり、うじうじ悩む将に真正面眼差しに乗せて届けたり、パスケースに託してアカネちゃんに送ったりすることで、旅立つ場所へと走り抜いた。
その号砲を、僕はやっぱりこのエピソードで幻聴したのだ。それが聞こえたから、僕はこのアニメを見ようと思ったし、見続けて好きになった。凄くいいこと、ありがたいことだと思う。

(余計な補記。
個人的でナイーブな話をしておくと、ダリフラで不完全燃焼したアレやソレが、このアニメを見たことでキレイに燃えぬいてくれた感じもある。制作会社が同じだからといって……というか、A-1との共同制作であるあの話を引っ張ってくるのも筋違いなんだが、作品が見据えているもの、描こうとしたもの、そのムードから僕が勝手に感じ取ったものは、どこかで似通っていた。
終盤以降宇宙スケールまで肥大化し、(僕は)上手くハンドルしきれなかった(と判断してしまう)24話の物語に対し、一少女を”退屈から救う”事一本に集中し、彼女の曖昧さを幾重にも執拗に塗り重ねて”街”を描き続けたそのシンプル(な視点に支えられた、描写としての複雑な迂回、結果生まれる奥行き)さ、画面に塗り込めたものにアンサーを出し切った(と僕は読んだ)物語は、凄く僕にしっくり来たのだ。
コピーのコピーのコピーを塗り重ねる同人誌感覚にしても、こっちの扱いのほうがやっぱり、僕にはしっくり来る。
最後を昭和スタイルを取り戻したグリッドマンでも、霧の街を生きるレプリカの人々でもなく、この作品がオリジナルに生み出した”ヒーロー”、アンチくんが”人間の青”と”怪獣の赤”(その色彩の意味論も、このアニメが過去作やもっと広い意味体系……信号機とか、から借り受けつつ、独自のものに仕上げた表現だった)二つの瞳を宿す絵で終えたこと、それと旧グリッドマンから借り受けたアノシラス親父怪獣体と同居しているところが、様々なヒロイズムの物語の先にあるコピーだと己を任じ、しかしその前提に立った上で自分なりの物語とメッセージを出すことを諦めなかったこのお話に、凄く相応しいエンドマークだな、と思う。
そこでオリジナルでござい、と分厚い面の皮(しかも大概の場合機能しない大言壮語)を振り回すのでもなく、何かを借り受けるしかない卑近さに身を縮めるのでもなく、自分なり描いてきたものを嘘なく焼き付けれたのは、やっぱ作品にとって、作者にとって、見てきた僕にとって幸福なことだったと思うし、思いたいのだ。

そしてそのエンドマークを受けて、僕はなんだかんだ、そういう気持ちでダリフラを見たかったのだなと、なんとなく腑に落ちた。
自分が見つけた作品『らしさ』は、作者が見ているとも限らないし、そもそもちゃんと存在しているとも言えない。それでも、卒啄同時に作者と読者のヴィジョンが重なり合って、同じ場所に落着する瞬間は、とても喜ばしい。
僕とダリフラはそういう関係には落ち着けなくて、SSSS.GRIDMANとはなんとなくそういう場所に着地できた。その(多分)事実を、引っかかりなく心にストンと落としてくれたのが、この作品に感謝するもう一つの理由だ)

 

INGRESS THE ANIMATION
ベストエピソード 第11話『Us - Them - All』

やっぱ僕は、このアニメ好きだな。なんというか、肌に合うアニメでした。

INGRESS THE ANIMATION:第11話『Us - Them - All』感想ツイートまとめ - イマワノキワ

 僕はアニメ以外にもTRPGという趣味を持っている。主にFEAR社のゲームで遊んできていて、今もそのストーリー没入性の強いゲーム体験に夢中だ。自分たちが物語の登場雨人物として、『今、ここ』でしか生まれ得ないシーンをリアルタイムで紡ぎ上げ、それを受け取ってロールプレイを返す。非常に濃厚な物語体験は、僕が作品を受け取る時の大事なレセプターを育ててくれた。
アニメを見る時に、誰かが見る客観ではなく、僕が受け取る主観として……しかも視聴者ではなく、作中の登場人物として体験する熱量、面白さをどこかで推量しているのは、多分僕がTRPGユーザーだからだ。
他のプレイヤー=キャラクターが僕の抱える物語のために、シーンや状況、セリフを『用意』してくれるという、公平性の流通感覚。物語の過剰な複雑性が、リアルタイムで推移するロールプレイとストーリー進行のジャマをする感じ。ざっくり分かりやすいキャラクターを、素晴らしいと評価する感覚。
それが作者の意図によって埋め込まれていなくても、TRPGユーザーとしての僕は常にそれを幻視する。『ゲームとしてどうなのか』という価値判断軸を、どうしてもそこに抱えてしまう。
そういう視点が、僕をINGRESSアニメに惹きつけたのだと思う。

商業アニメーションとTRPGのゲーム体験は、その規模、作られ方、受け取られ方全てにおいて大きく異なっている。だから、客観のアニメーションとして優れているものが、主観のTRPGとして優れているとは限らないし、逆もまたそうだ。
しかしその違いを理解した上で、共通したものは当然あるし、別のものだからこその意味というものもあると思う。物語はあらゆるメディア、あらゆる形において物語なのであり、理不尽と矛盾をそのままに行きてはいけない人間にとって、カオスをコスモスに戻していくことがドラマを生む物語生成は常に本能だ。そこから、TRPGもアニメも生まれてくる。

INGRESSアニメは凡庸なストーリーラインと、裏切りの薄いキャラクターと、所々の進行ミスが組み合わさったアニメだ。ベタ足でイベントとキャラ描写を繋げて、オーソドックスに進める。『囚われのお姫様』という類型にコッポラちゃんをハメすぎた結果交流シーンが足りなくなり、ジャックおじさんのほうが存在感出ちゃったのは見てのとおりだ。
しかしそのベタ足加減が、『TRPGとして』アニメを見る感性にはビシッと来る。このタイミングでこのイベントが、このセリフが来たら『気持ちいいだろうな』という感覚。
それは一般的ではないかもしれないけど、僕はいつでもそれを求めている。物語の基本形に忠実な運びは、そういう気持ちよさをだいたい逃しはしなかったと思う。その最たるものがこの最終話の、誠とジャックの離別のシーンだ。
最高。最高に良い。あんだけかっこよく、気持ちよく、自分たちが積み上げてきたものを総括できるシーンをロールプレイ出来たら、本当に楽しいと思う。
自分たちが積み上げた物語は良いものだった。出会ったこと、語り合ったこと、お互いの望みやクエストを確認し、そのために力を貸しあったこと。旅と冒険はすなわち物語であり、それは良いものであったねと確認する瞬間の、信頼感と唯一性。

あのシーンにそういうモノを見るのは僕がTRPGユーザーだからだが、それはなにか特別な趣味の、特別なセンサ故、ってばかりではないと思う。TRPGが持つ『物語を体験する』という娯楽体験は、アニメを沢山の人が見る理由の一つとして、確かにある……はずだ。あなたも多分『この物語は、俺の物語だ』と強く感じるために、アニメを見ている部分はあると思う。
FEAR型のゲームは、この当事者性を強く確保するために、ゲーム体験をデザインしてある。僕はそれに夢中になり、今も夢中だ。再び盛り上がってきたTRPGのトレンドはときにそのデザイン方針に反することもあるけども、やっぱり僕は『それ』が好きで、今後もそういうゲームを追い求めていくだろう。

そしてその方向性は、『それ』を追い求めないときにも力強く有効で、何かに刺さる。普遍性がある。INGRESSアニメを見て、それを楽しく思う自分を見つめ直しながら、そんなことを思った。
半分以上TRPGの話になったけども、アニメとしてとても面白い。ジャックおじさんが良いし、3D表現がアニメに『馴染んで』きた一つの証左として、かなりいい感じの仕上がりだと思う。ベタ足でオーソドックスなことの強さ、ありきたりにあえて進めていく意味を見る教材としても、結構面白いアニメだと思う。
まぁ、そういう固くてデカい視座ぶっ飛ばしても、INGRESSに導かれた旅は面白い。アクションシーン頑張ってくれてるしね!

 

青春ブタ野郎はバニーガール先輩の夢を見ない
ベストエピソード 第11話『かえでクエスト』

はっきり言おう。 もうダメっすマジ。

青春ブタ野郎はバニーガール先輩の夢を見ない:第11話『かえでクエスト』感想ツイートまとめ - イマワノキワ

 最初軽めの恐怖と侮りを込めて、このアニメを見始めたと思う。どーもラノベ原作は肌に合わないというか、食いたい味とちがうというか。創作の中でこそ強調される生っぽい感じを取りこぼして、キャラに乗っかれないままエピソードが滑っていくことが、自分の中で多々あるからだ。(実はきらら系でも、同じ感覚が凄くある)
蓋を開ければ、咲太は立派な青年……10代が遠くに霞むオッサンの老眼にはあまりに眩しいくらい、立派な青年だった。日々の暮らしを大事に、身内に優しく、新しい出会いに対して自分を開き、一度の敗北を心に刻んでけして諦めない。自分が為すべきと思った行いへ、迷いなく突き進んでいく。
そこにはド派手で熱い青春のスローガンと、凄く生っぽい肌触りがちゃんと同居していて、好みの味付け、好きなバランスだった。藤沢の風景がかなり印象的に再現されて、身近なローカル感覚が強めだったのも、作品セナキに体重を預ける足場になっていたと思う。

そんな咲太を好きになったのは、麻衣さんとのエピソード……以前に、かえでへの対応だった気がする。部屋から出れない妹のために、携帯電話を海に投げ捨てられる男。ふつーのことがふつーに出来ない妹モドキを、血を分けた家族のように真剣に受け止め、一緒に生きている男。
そういう男はブタ野郎の軽薄な装いを維持したまま、快刀乱麻を断つがごとく青春を倒していく。恋に落ちた先輩のために世界の中心で堂々愛を叫び、自分をす気になった後輩を適切にフリ倒し、道に迷った親友のために友情を証明し、嫁さんの拗れた姉妹関係にもガッツリ食い込む。
そんな真剣な歩みがちゃんと報われ、少女たちは咲太と関わることで人生を実り多きものにしていく。無視され、衝突し、失敗する。それでも世界は前向きに進んでいって、自分は傷つくだけでなく何かを掴めるのだと確信していく。面白く気持ちのいい若人たちが、そうやって報われるのは気持ちのいいものだ。

しかし最後のエピソード、咲太にとってすべての始まりであり、とても大事な宝物でもあるかえで(と花楓)のエピソードは、取り返しのつかない喪失で幕を閉じる。かえでは消えゆく自分を自覚して、それでも遺したかった思い、遂げたかった夢を、『お兄ちゃん』と果たしていく。
その歩みは、これまでの少女たちと同じように(あるいはそれ以上に)報われてしかるべきだ。しかし、もうかえではいない。たとえ咲太や花楓や桜島姉妹が彼女の遺言を覚えていて、それを絶対に無碍にはしないと解ってはいても、かえではいないのだ。
その喪失、けして取り戻せない空白は、彼女が確かにそこにいたからこそだ。愛なきものが去っていっても、誰も虚しさなど覚えはしない。愛すればこそ、喪失は強く悼むのだ。

第11話はかえでエピソードの端緒として、非常に静かに始まる。彼女が何が出来なくて、何を頑張ろうとしているのか。咲太が『兄』として、どんなふうにそれを見守ろうとしているのか。彼らを取り巻く世界の色彩はどんな色か。
状況が激しさを増し、ドラマチックに解決するシーンの熱量がちゃんと高いこのアニメだが、勝負を仕掛ける前段階、じわじわと状況が積み重なるシーンの雄弁さが、とても好きである。
この回とその次のエピソードは幸福に、これまでと同じようにかえでが小さな頑張りを積み重ねていく。その先に確かな”何か”があるように、思わず祈りたくなるような小さくありふれて、でも確かに痛い挫折。そこからの再起が丁寧に描かれる。
それは後の喪失を”効かす”ための前振りであると同時に、咲太とかえでが二人三脚、生き延びるために親元を離れいかにもラノベ的生活の中で決死に生き延びてきた歩みの、確かな延長線上にある。
彼らは必死に生きて、生きて、生きようとして、かえでは消えて咲太は生き延びた。今後、花楓とともに咲太は生きていくことになる。それは確かに望んだ”治療”であるが、同時に忘却の海に沈んだかえでの頑張りと望みは、やっぱりかき消えてしまった。

そんななんともいえない哀しさと、でも確かにあの子が頑張っていた歩みが、結晶のようにエピソードを紡ぐその緒が、僕はとても愛おしい。それはかえでのターンが回ってくる前から作品に満ちていて、僕が咲太を好きになる手助けをしてくれた、大事な描写なのだ。
かえでに優しい咲太が好きだった。ハードであることとジェントルであることを両立させて、ハードボイルドにブタ野郎している彼が好きだった。そんな彼によりかかりつつ、その弱さが厳しく生きてるお兄ちゃんの救いにもなっていた、パンダが好きな女の子が僕は好きだった。
そういうふうに、キャラクターが好きになって尊敬できるアニメは、やっぱいいもんである。しょせん二次元、消費物。そうやってニヒルにうそぶいて距離を取り、創作物やそれを感受する他者相手にマウントを取る生き方は、賢いかもしれない。でも、憧れない。面白いとは思えない。
結局そういうふうに、前のめりになれるアニメに体重を勝手に預けて、好きになったり裏切られた気分になったりしながらアニメを見るしかないんだと、この作品を見て気づき直した。
そういう自分のあり方を教えてくれた意味でも、このエピソードは自分にとって大事で、好きで、面白いお話である。
哀しいけども、でも切実で、真剣で、優しかった。そういうアニメが好きなのだ。

 

・DOUBLE DECKER! ダグ&キリル
ベストエピソード 第8話『踊る!学園捜査線!』

すんげぇ荒い言い回しをすると、キャラの座組とジャンルの掛け合わせの時点で、どうあがいても"ホモっぽく"”レズっぽく”なっちゃう話だと思います。 それを『そういうジャンルだから』で流さず、自分なりの答えを出す。メッセージを大上段に振りかぶらず、ドラマとキャラに刻んで届ける。

DOUBLE DECKER! ダグ&キリル:第8話『踊る!学園捜査線!』感想ツイートまとめ - イマワノキワ

 2018年はアニメにおける性役割性自認(認証)/性的決定権において、様々にナイーブな描写が見られる年だった。ヒトと人が交わって暮らす社会の中で、”性”という切り口をどう認識し、選択し、主張し共有していくか。
男と男、男と女、あるいは女と女、そしてその区分に収まらないもの。
HUGっとプリキュア”におけるアンリ、えみる、ルールー、ほまれ、ハリーが織りなす複層的な関係のプリズム。
やがて君になる”における燈子と侑と沙弥香の、青春と自意識、他者性とのつづれ織り。
BANANA FISH”におけるアッシュと、彼周辺の欲望と清廉。
劇場版になるが”リズと青い鳥”におけるみぞれと希美との、緊張感を孕んだ複雑な距離感。

『アナタがアナタでいればいい』と綺麗な題目を放り出すのは楽だが、偏見も差別も実際にそこにある。そも、『オーソドックス(なりスタンダードなりマジョリティなり)』とされるヘテロな性愛にすら、人の常として断絶はつきまとい、早々簡単には自由にはなれない。
そういう蹉跌を乗り越えてこそ『私はそういう存在なのだ』という自認と、『あなたはそういう人なんだね』という受容が交錯し、関係(あるいは社会)が生まれてくる。その切り口の一つとして、アニメーション表現が”性”のナイーブさに寄り添う形で作品を多数形にしたのは、僕は善いことだと思っている。

さて、トンチキでスラップスティックな要素、あるいは男と男の関係性が強調されがちなダグ&キリルだが、刑事モノに相応しい社会派の視点、真面目な姿勢はしっかり姿勢を整えていた。
『貧困と格差の克服』をメインキャラクターの芯にすえ、”刑事”という仕事(なのだが、管轄は軍だし曲者ぞろいだし操作方法も囮に暴力鎮圧にハメ手と、けして”スタンダード”ではない)に必要なシリアスさの背骨を、元気な笑いの奥にしっかり打ち立てる姿勢が作品を支えていた。
華やかなスチームパンク風味の待ち、C調でお馬鹿なノリを大事にしつつも、労働搾取に過剰な暴力、薬物汚染、ターミナル・ケアと麻薬と、相当真面目なネタをしっかり盛り込む。それをただ素材としてアリバイ的に使い潰すのではなく、個別の問題点を”刑事”たちにしっかり考えさせ、背負わせる。

軽妙なギャグの奥にそういう地金があったからこそ、苦しい状況であえて笑い、現実の重たさに挫けず一歩ずつ正義を為していく”刑事”の生き方には、確かな輝きが宿っていた。
それを際立たせる闇も、バンブーマンのいかにも軽薄な(しかしだからこそ、収まりよく勢いよくドラマを転がせる機能性を最大限活かした)悪役っぷりと、仇敵・エスペランサの首魁ザベルの重たさをうまく対比させつつ活かし、作品に深みを生んでいた。
ザベルは底辺から世界をひっくり返し、持たざるモノ唯一の武器として魔薬・アンセムと犯罪組織を使う。その姿勢は”刑事”であり『格差と貧困』に立ち向かうために法を選んだダグと似通って、根本的に違う。
その対比こそが相容れぬ善悪の境界線であり、この話が”刑事”を、”ダークヒーロー”ではなく”ヒーロー”を選んだ理由だったりする。
ザベルが闇の救世主として君臨しなければ、解決できない矛盾が確かにこの街にはある。それでも、SEVEN-0は銃と法を選び、公的に認められた枠組みをギリギリ維持しながら、犯罪に立ち向かい、世界を良くしようとしていく。

そんな大きな正義の構図をしっかり見せると同時に、属する個人が戦う理由、悪を前にして引く訳にはいかない足場も、面白さと熱量を込めて丁寧に描かれた。飄々としたダグのドス黒い復讐心が表に出る第7話、口汚いディーナのデカ魂が吠える第4話。バカな主役が”二階”から堕ちてきた星の王子さまであることが判明し、SEVEN-0全体を揺るがす事件に発展する終盤は、まるごとキリルのオリジンを巡るエピソードと捉えることも出来る。
このエピソードはパンクな外見と細やかな心配りの同居が魅力的な”ボクサー”マキシーン・シルヴァーストーンが、いかな起源から”刑事”となり、どんな人間としていまを生きているかを見せるエピソードだ。
その根源には憧れの男性の性自認、それを受け止めようと己の装いを変えた勇気、それが世界に届かず悲しい結末に終わってしまった後悔が、しっかりと根を下ろしている。僕らが身を置く世界がそうであるように、女の装いをした男にも、男の装いをした女にも、世間は冷たい。その理由を問いただす余裕を持たないまま、捻れた異物として排斥してしまう。

リスヴァレッタはSF風味の架空都市なのだから、性と偏見、差別と排斥の問題だって乗り越えていると設定しても、別に良かったはずだ。しかしダブデカはコミカルで派手な活躍と、現代的で身近な(身近であると考えたほうが、多分幸福の度合いがより大きくなる)問題を、全然僕らとは違う(からこそ惹きつけられる)”街”に入れ込んできた。
マックスは神様のように、全てを解決できるわけではない。
かつて自分が成し遂げられなかった後悔を抱えたまま、その舞台となった”学校”を憎んでいる。でもそこにあるのは焦げ付きだけではなくて、後悔を包む喪服のように続けている男性装だとか、相棒であるユリへの優しさだとか、”刑事”としてのタフで揺るぎない生き様だとか、非常にポジティブなものも手に入れている。
冒頭、マックスは髪を切る。女の装いにサヨナラをして、女になりたかった愛しいものに相応しい自分へと踏み出す。それは幸福な結末に至らなかったが、あるいはだからこそ刻む価値のあるあり方で、彼女はその時選んだかっこいい生き方を続けている。それが、私に相応しいから、と。

装いは『自分がこのような存在である』という外部へのアナウンスであると同時に、『自分はこの様になりたい』という内部への宣言でもある。マックスは社会に認められず傷つく弱者の仲間になろうとした自分を忘れないように、男の装いを維持し、かつて親友を殺した偏見や差別を跳ね返すように、強く生きている。
そしてそこには、生来の”性”が生み出す内面、社会が”女”に求める役割への柔らかな肯定も、しっかりある。優しく、静かに、あるものを受け入れていく。銃と拳で敵を打ち砕く強さと、料理と言葉で誰かを受け止める優しさ。
それが同居したこのエピソードのマックスは、とても誇り高く、美しいキャラだったと思う。そうやって生きていくことはとても大変で、現実の重たさは幾度も彼女(と、彼女のあり方に憧れを抱いた僕ら視聴者)をすり潰していくだろう。

だけど胸を張って装いを改め、”私”のあり方を個別に選択していく中で……戦い、生きていく中で、少しずつ善は増えていく。かつて救えなかったものへの慟哭も、疼く心の傷も、生き方を選んだ後の戦いの果てに、もう一度向き合うことが出来る…はずだ。少なくともそこに希望を抱かなくては、そういう結末は引き寄せられないだろう。
マックスが”学校”への、”男女”の性差を前提としたプロムへの憎しみを飲み込み、ユリといっしょに新しい祝祭を受け入れるラストシーンが、とても優しく強くて好きだ。
あり方を強要される圧力に挫けそうだった容疑者=被害者に、かつて負けてしまった自分を重ねつつも、過去が未来へと生まれ変われる希望を信じ、犯罪へ繋がるニヒリズムを乗り越えようと男らしく、あるいは女らしく、何よりも自分らしく戦うマックスの姿は、非常にヒロイックで絵空事的であり、同時に現実的で地に足がついている。
そういう表現力を”性”に、それを前提とし、またその受け止め方を変化させ規定させてしまう社会に対ししっかり作用させ、独特のドラマと表現を打ち立てられたこのアニメは、とても優れたアニメだったと思う。
”刑事”が主役である理由、リスヴァレッタという街が舞台である理由をしっかり活かして、自分たちが選び取ったものを最大限生かして、自分なりの物語をしっかり創っていた。その手応えが一番強く出ているのは、このエピソードかな、と思うのだ。

 

・色づく世界の明日から
ベストエピソード 第10話『モノクロのクレヨン』

自分が絵を描くことは、それが瞳美に色彩を取り戻したことは、二人が出会って恋に落ちたことは、間違いじゃない。 それを言葉にできなくとも。その信念があるからこそ、紙の船を、鳥を、虹を手渡した。

色づく世界の明日から:第10話『モノクロのクレヨン』感想ツイートまとめ - イマワノキワ

 火がつくまで時間がかかるアニメ、というものがある。世間様でバズるまでに時間がかかる、というよりは、自分の中で評価が定まるまでマージンが必要なお話。何処が好きなのかはっきり明言できず、しかしなんと話に居心地が良くて見続けてしまうお話。間違いなく好きなんだけども、それを形にして飲み込むのがなかなか難しいお話。
”色づく世界の明日から”はまさしく、そういうアニメだったと思う。驚異的に美麗な背景の豪腕は、間違いなく凄いと言える。おそらく2018のTVアニメでダントツ抜けているだろう。
しかしそれ以外には目立ったフックもなく、主人公のキャラ付けも、彼女が放り込まれた世界の波風も、派手さがなく静かだ。時空跳躍や魔法世界など、いくらでも派手に味付けできそうな要素は転がっているのに、物語はそれを特別に問題視しない。マジカルステイの一環として瞳美の旅はするりと受け入れられ、彼女の鬱屈や欠落も、早々とありふれた青春の中でそれなりに居場所を見つけてしまう。

終わった後から思い返せば、その静かな歩みこそがこのアニメの味わいであり、独自のBPMであり良さなのだと言えるが、体を浸している間はなかなかその良さを把握しにくい。なんと話の心地よさがジワジワ肌から入ってきて、段々と作品を貫通する問題、乗り越えるべき課題が見えてくる。
それは結構多彩、かつ普遍的でありふれていて、失うことを約束された出会いの意味だとか、アートが繋ぎうる人と世界のあり方だとか、青春の無力感とその埋め方だとか、傷つけられた心とプライドの回復方法だとか、全体的にとても真面目だった。
そのシリアスな地味さは、ことエンターテインメンにおいてはヒトを遠ざける欠点になるかも知れないけど、僕は大好きだった。凄く多彩な色合いで、凄くナイーブな問題が複数浮かんでいて、それが恋と美と魔法で緩やかに連結されている。一つが動けば、連動して様々なものが揺れる。
その緩やかで確かななユニティが、ふわっとした作品世界、ドラマの運びに確かな外郭を与えていて、ぼんやりした話のはずなのに強い実感、テーマ性を受け取った。それが明言できるようになるのが第13話なあたりに、このアニメののんびり呑気な時間感覚ががある。生き馬の絵を抜くTVアニメ業界では致命的欠陥なのかもしれないけども、僕はそのペースと味わいが、とにかく好きだった。

色んなものが好きなこのアニメだけど、特に琥珀と唯翔、主人公・瞳美に関わる重要キャラの人格、背負ったテーマ、生み出したものの輝きが好きだ。琥珀は完成された人格を背負って、グイグイと話を牽引し”答え”を連れてくる。唯翔くんは瞳美とおなじような悩みを抱え、アーティストとして自分も作品を作りながら、濃いという世界最大のミステリ、青春の”問い”を投げかけてくる。
それを受け取り、自分なりに考えたり迷ったりすることで、瞳美は傷ついた自分を再生させ、変化させ、また帰還していく。彼女が手に入れていく”色”はかつてあったものであり、新しく手に入れたものでもある。その行ったり来たりがなんともホントっぽくて、焦ることのない青春迷路の歩き方が、僕はとても好きだった。

琥珀が『みんなを幸せにする』という夢を懐き、ただ完璧なだけではない苦悩を抱えていることが判る第8話、あるいは唯翔くんとの恋が世界にどういう色を生み出していくかとんでもない美しさで叩きつける第6話も、凄く良い。
しかしこのエピソードを選ぶのは、青春物語のナイーブな運びだとか、自分が何者で何が出来るかを一歩ずつ探していく震えだとか、その時確かに世界を色づかせてくれる恋の暖かさと特別さだとか、その歩みに寄り添ってくれる親友で師匠で祖母のありがたさだとか、複雑に傷ついた自分を表現し治療していく医療行為としてのアートだとか、それが自分でとどまらず新しいメディアとして他人を巻き込んでいく不可思議だとか、このアニメが背負うものが全部、この話数に詰まっているからだ。
特に”アート”というものがどれだけ強くて、傷ついた人を実際に癒やしうる力に満ちているかという説得力は、このアニメに独自のものだったと思う。瞳美は魔術を学び、それをアートとして自分に、他者に開放することで、確実に整復されていった。そういう力強さを、描くこと、観ることは宿している。
凄まじいクオリティの美術が空転せず、瞳が見据え描きたいと思う全てに実在感と説得力を与えていたことが、とても良かった。その美しい世界は、たしかにそこにあるのだと。否定しようなく”絵”を叩きつけてくる腕力勝負が、うわっ付いた物語に独自の重力を発生させていた。
美しさで強制的に地面に縛り付けられ、作品を真っ直ぐ見ざるを得なくなるような、そしてそれこそ望んでいたものだったかのような体験は、初めてであったし非常に楽しかった。そしてその理不尽な楽しさこそが、アートを前に無条件に魂を揺さぶられ、引き寄せられていく経験……唯翔と瞳美が作品の中で体験した青春そのものでもあるのだ。

ここでまとめられた様々なものを背負って、残り二話で綺麗に解決もして、瞳美は未来へと帰還していく。60年前の友人はあるものは死に、あるものは生きて、彼女の新しい物語に寄り添っていく。
エピローグでこれまで描かれなかった要素がたくさん出てきて、瞳美がこれから描いていく白紙の物語、人生というアートは豊かだ、と言ってくれるのが好きだ。ここまで見てきた物語が嘘ではなかったように、これから彼女を包む幸福と不幸もまた、意味のあるものだろう、と。作品の行く末を信頼できる終わりになったのが、とても良かった。
そういうエンディングに辿り着くためには、ゆったりと点描してきた作品の総体がどういうもので、どういう力を持って人を動かすかをしっかり書かないといけない。
終盤戦に入る直前のこのエピソードは、この兄目がここまで描いてきたものすべて、これからたどり着くもの全てを、しっかり描ききっている。僕が好きになった世界とキャラクターがどういうものか、雄弁に語っている。

アニメは全てが作りごとなので、そういうふうにちゃんと語らないと、視聴者には伝わらない。セリフで全部言え、という話では当然ない。絵としての強さに暗喩を込め、情報を圧縮したり。キャラクターの細やかな芝居に情感を乗せて、心のうねりをシンクロさせたり。あるいは、描いてきたものを言葉でしっかりまとめ上げたり。
アニメーションという表現には様々なニュアンスの表現があり、それが複雑に組み合わさって物語の体験を生む。馥郁と豊かだった藻の語りが、的確に自分を語る言葉を見つけ、届け、それを足場に先に進もうとする。そういう幸福な交錯が、ちょうどこのエピソードで起きる。
そういうモノを味わうために、僕は一週間ごとの奇跡を期待して、アニメを見続けているのかもしれない。そういうモノが、しっかりと宿るエピソードであり、アニメであった。

 

・衛宮さんちの今日のごはん
ベストエピソード 第1話『年越しそば』

血と宿業に塗れた戦士たちよ、今は休め。温かい我が家で美味い飯を食い、当たり前の人生を丁寧に生きろ。 超巨大コンテンツだからこそ許される、平穏極まる物語。UFOの新機軸としても面白かった。

衛宮さんちの今日のごはん:第1話『年越しそば』感想ツイートまとめ - イマワノキワ

 2018一年を通して、一ヶ月ごとに描かれた衛宮めしも、無事最終回を迎えた。僕は結構フツーじゃない放送形態のアニメが好きで、USATとか刀語とか、形式だけでワクワクしながら見たものである。(現場がぶっ壊れてスケジュールが崩れるのは”ワクワク”ではなく”ハラハラ”なので、極力無いほうが良い)
無論形だけでなく中身も、スケジュールを長く取っただけの丁寧な仕上げ、目立たないところにバカみたいに注ぎ込まれたカロリーを贅沢に味わえる、月に一度のご馳走だった。
料理は非常に細やかな仕草の連続であり、食材が”料理”になっていく過程を追うこのアニメでは、特に大変だったと思う。ただ栄養が詰まった餌が出てくるだけのお話ではなく、何のために誰のために何を作り、どう味わい感謝するかを大事にしたこのアニメにおいては、その”途中”と”最中”の描写は特に大事だった。
冬木の英霊と人間は皆、食べることに熱心であり、食べてもらうこと、食べさせてもらうことにも真剣だった。ヒトとヒトの間を繋ぎ、心を満たすメディウムとしての”料理”が色んな季節、色んな食材、色んな場面で美味しそうに見える。それをともに作り食べる行為が楽しそうに見える。

当たり前に日常の中で消費される”食事”という行為の実相を、静かに掘り下げるために必要な丁寧さ。口で『丁寧』と言えばハイおしまいというわけでなく、絵と演出でしっかり殴りつけて納得させるだけの内実。
そういうモノをしっかり組み上げ続けた一年間であったし、そういう当たり前の豊かさを血みどろの戦士たちが(たとえ別世界の夢みたいなもんだとしても)味わえたのは、なんとも幸福なことだったと思う。
Fateという永遠の物語の中で、彼ら(あるいは、彼らの外装を借り受けた別人の誰か)はまた無惨な運命に飛び込んでいって、戦ったり殺したり裏切ったりのドロドロに身を投じるだろう。それはそれでFateなのだが、この穏やかで温まったい平和な空間もまた、間違いなくFateなのだ。

晦日不意打ちで始まったこの第一話は、季節の切り取り方、キャラクター間の静かな信頼感、身体だけでなく心をも満たし温める”食事”の書き方と、後々十二ヶ月描かれる『このアニメらしさ』が非常に強く、穏やかに焼き付けられている。
メシは美味そうだし、それを大事に大事にみんなで食べる時間を共有する時間の書き方も、焦りがなくて素晴らしい。冬の寒さが頬を切るかのような季節感の描き方、だからこそ暖かな天ぷら蕎麦の丁寧な細工。”食事”を描くことで何を見せたいか、よく判るエピソードだ。
加えて、何かと濃い口のいじられ方をされがちなセイバーが非常に可憐に、他者と食事に敬意のあるキャラクターとして描かれ、自分に糧を与えてくれる士郎に強い敬意を持ちながら一口一口飯を食う描写が、彼女が好きな自分としてはありがたかった。この鮮烈なる士剣描写は随所で顔を出し、最終話でもう一個巨大な爆裂を見せて全てを薙ぎ払うことになる。
Fateというコンテンツ、Ufotableという創作集団に張り付いた先入観を、いい意味で引っ剥がす日常系だったな、とも思う。何かと強く荒々しい部分が目立つけども、両者にとってこういう穏やかで贅沢な物語(その放送形態のリッチさも含め)が作り上げられたこと、その端緒たるこのエピソードがとても良いものだったのは、間違いなく幸福であろう。

 

やがて君になる

ベストエピソード 第2話『発熱/初恋申請』

淡く、超越的で、世界のすべてを動かしてしまえそうな運命の瞬間は、すぐさま内乱の予兆めいた、重たい空模様へ

やがて君になる:第2話『発熱/初恋申請』感想ツイートまとめ - イマワノキワ

やがて君になる”アニメのベストを選ぶのは、凄く悩む。実際話数単位で選ぶ 2018TVアニメ10選 - イマワノキワ では、遠い”星”を巡る侑の探求が一つの決着にたどり着き、作品全体を切り裂く巨大な断絶が顕になる第六話を選んでいる。
アニメになってみて、劇中劇が照らし出すフィクションとリアル(とフィクション)の複雑なダンスの効果も鮮明になり、そこら辺が非常に良く見える第12話なども外し難い。佐伯沙弥香が好きな人間としては、彼女のナイーブな強がりと優しさが全面に出てくる第7話も外せない。
少女が少女と、恋と、性欲と、自分の小さな言葉では動かせない重たい現実と、それでも”星”を動かしたいと胸を打つ輝く願いと、思い込みと演技の仮面に覆い隠されても脈動する鼓動と、ズルさと身勝手さと愛おしさと痛みと、人生の裏腹で複雑な色彩と出会う。
ただ女と女の恋愛模様を記号的にパッチワークするポルノグラフィではなく、性的興奮を伴う『普通の恋』だからこそ、それが女と女の間で脈動する『普通ではない恋』だからこその色彩、恋を通じて血みどろに切り裂かれる心の有り様、そこから見えてくるむき出しの真実(それは侑や燈子、沙弥香個人の真実であると同時に、彼女たちを通して僕らを貫通する普遍的な事実でもある)が、この作品には詰まっている。
そういう事実を、よく思い出させてくれる素晴らしいアニメだったと思う。

それを可能にしているのは非常に繊細、かつ的確な演出の筆運びであり、レイアウトや色彩、暗喩や印象操作をフルに駆使して、画面に描けるもの以上の圧縮を見せた語り口の妙味だと思う。
視線、指先、歩調。身体に込められた細やかなメッセージを丁寧に切りとることで、言葉にすれば奥行きがなくなる感情を生で食わせる。天候と時間を的確に操作して、期待と失望、演技と本音、エゴイズムと博愛が入り乱れる感情のタピストリを編む。
非常に難しく高度な漫画言語を操る原作の強みを、しっかり把握しつつ、いかにアニメにしていくか。そこにしっかり思い悩み、答えにしたアニメだと思う。話が終わりきらないのはそのための必要経費であるし、『過程にこそ真実があり、途中に思えるものの中に既に結論は出ている』という作品のムードを思えば、それで良いのだと思う。

侑は燈子の身勝手で自罰的な振る舞いを飲み込み、彼女を”乗り換え”にまで連れて行ったことで、しっかり終わりにたどり着いているのだ。アニメ版”やがて君になる”は、文句なく終わっている。
第1話で離断していた侑の”星”は、冷たいフィクションの向こう側ではなく、自分がステージに上って一歩一歩、一言一言取り返しのつかない形で投げかけ編み上げられる自分の物語……『やがて君になる』お話はあの光の中で、一つの答え(それが新たな物語を生み出す問いかけにもなるわけだけども)にたどり着いている。
これを燈子がどう受け止め、それを受容/反発することでいかなる藻の語りが描かれるかは、漫画でも完結していない物語だ。だから、終わったアニメの続きを僕は既に切望している。この描き方、この歩調で、複雑な編み物が組み合わさってできる”星”を見通してみたいと思っている。

さて、この二話をベストエピソードに選んだのは、踏切のキスシーンが鮮明だからだ。ありきたりのロマンスなら、胸ときめかせる決定的な瞬間。触れ合った唇から心が通い、恋人たちは真実を手に入れるクライマックス。
……のはずだが、そこには不穏なすれ違いと濃厚な精気が漂う。高校生の身体を突き動かすエロティシズム、心は通じなくても身体は感応/官能する性愛の不可思議。昼と夜の間、”逢魔が時”とも呼ばれる時間帯には、このさく品が主眼に据えた複雑な矛盾、火花を散らす嘘と真実の同居が、みっしりと詰まっている。

僕はこのシーンの空に、サルバドール・ダリの絵を思い出した。

www.philamuseum.org

”茹でた隠元豆のある柔らかい構造(内乱の予感)”と名付けられたこのシュルレアリスム絵画の空は、作中のオレンジとは違って青い。非常に不穏でグロテスクなモチーフは、白々しいほどに清潔な青い空の中に貼り付けられ、いかにもおどろおどろしい曇天を背負うよりも強く、その危うさを強調している。
その青とは違う色彩ながら、しかしそこに込められている的確な断絶は、やっぱりよく似ているように思う。スペイン内戦、あるいはヨーロッパを焼くことになる大戦を見据えて描かれたとも言われるこの絵画の空と、女と女のキス(幸福なものとして寿がれてしかるべきもの)を、”踏切”という危険と隣り合わせの場所、非常に曖昧で肉感的な色彩のなかで踊らせるシーンの空は、その裏腹な不穏さでよく似通っているように感じるのだ。
この色彩を睨みつけつつ、同時にとても清潔で真っ直ぐな植物のシーン、夏の抜けるような雲も、このアニメは切り取っていく。ここら辺は第一話が特に鮮明である。恋の形だけを追いかけ相手を振り回す不実と、そうして形を重ね合う中で一瞬、心の真実に出会って震える誠実は、どれだけ世間一般の常識や倫理がNOといおうが、確かに存在してしまう。
同胞たちが殺し合う内乱のように、死んだ他人を演じて自分を殺し続ける生き方や、遠くの恋物語に憧れて形だけの恋愛をスタートさせることや、自分は”好き”を振り回し相手の”好き”は封じる幼い身勝手は、あってはならないことだ。

しかし、それはそこに確かにある。姉への純粋なる慕情や、秘められた自己実現を強く望む気持ちや、瑞々しく踊る恋の感情や、唇越しに心に触れ合う瞬間の熱量……否定し得ない善なるものと密接に結びついて、けして切り離せるものではない。
放置しておけば確実に悪しき結果が待っていて、しかし否定し離れていけば何も生み出せはしないものを前に、どう前に進むのか。どうやっても間違いな状況で、どれだけ赤心を露わに必死に恋をするか。それは一筋縄で答えが出る、レディ・メイドのロマンスではない。
色んな嘘や矛盾、間違いや破綻をひっくるめてなお、確かにそこに存在してしまう感情と存在を前に、どういう色彩が、どういう熱量が状況を動かしうるのか。このアニメはずっとその疑問を受け止めて、考え抜いて、描いてきた。
その一筆が本物なのだなと、僕が無条件の信頼をおいたのはやっぱり、この内乱の予感に似た夕焼け、清廉なエロティシズムと愛おしいエゴイズムが同居し、恋人たちを引き剥がしつつ結びつける境界線の色合いだったのだと、一応のエンドマークが付いた今、強く思う。

とても面白く、素晴らしいアニメ化だったので、是非にも続きは見たい。しかし、その気持と描き切られたものへの敬意は矛盾しない。
矛盾しねじれた繋がり方をしたまま、それはそこにあり続ける。そのねじれにどうアプローチするか……客観的で冷たい”正しさ”から離れた場所から、どう状況ごと、その個人ごとの体温の宿った歪な”正しさ”を獲得していくか(これに成功できたのが侑であり、出来ないのが沙弥香である。この境界線は非常に堅牢で残酷だ)を、美しく愛おしい残酷な青春、光と滴とグロテスクに満ちた映像のなかで描く。
そんなこのアニメらしいアプローチが、最初に顕在して胸を指したのはやっぱり、この踏切のシーンであったと思うのだ。それは多分深く刺さって、おまけに戻りが付いて抜けない。幾度も、僕は”やがて君になる”というアニメを、その二話を、この踏切を思い出し、舌の上で転がし味わうだろう。とても幸福なことだ。