イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

『劇場版Fate/stay night [Heaven's Feel] 第二章 lost butterfly』感想

須藤監督とufotableが贈る劇場版Fate/HF三部作、その第二章を見てきた。
一章から感じられた原作へのほとばしる愛情と狂的なまでの思い入れ、それに押し流されない堅牢な物語構造、激烈なる映像体験は更に凄みを増し、桜と士郎を押し流す運命の激浪を見事に切り取ってきた。
ホラーとして、現代伝奇として、ロマンスとして、青春物語として。
HFが持つ複雑な色彩は艶然と咲き誇り、豊かな音響と映像で混沌たる対比が暴れまわる。

様々な価値観や感情が荒れ狂う中、『人間でいたい』というあまりに悲痛で醜い叫び声が、2時間の視聴体験を貫通し、重たい読後感を残す。
とにかくとんでもないカロリーのドラマと演出を、しかし不可思議にも混乱なく、食わされてしまう。
美醜、善悪、正誤。
憧れと憎悪、愛欲と清廉、夢と現、傷と癒やし。
様々な対比概念は非常にリッチな映像体験、整備された物語体験の中で複雑に混じり合……うことなく、あくまでゴロリと硬い感触をそれぞれに残したまま、視聴者の脳髄に癒着してくる。

何が正しく、間違っているのか。
どうすれば、幸福にたどり着けるのか。
悲惨極まる青春と恋愛を、士郎と桜のつがいとともに駆け抜けつつ、その答えは三部作の中間点にふさわしく、出ない。
『しかしその誠実なる混迷こそが、この物語の核なのだ』と堂々宣言し、実際に心地よく(あるいは最悪の気分のまま)押し流してしまう圧力の強さ。
それを背中に受けて、来年の春桜の季節に、物語は終極するだろう。
その頂に確実にたどり着く激しさと強さをしっかり兼ね備え、なおかつただの繋ぎではない。
そこには悲痛と汚濁、祈りと裏切りがみっしりと満ち、冷え切った灯火と隠然たる湿度が……少年と少女が触れ合い、離れ、体を重ね、そんなものでは乗り越えられない運命に押し流されていく生き様が、強く刻印されている。
その衝撃を今、受け取ることには大きな意味があるだろう。
映画館へ行くことを、強くおすすめする。
以降、様々にネタバレの感想を書くので、未見の方は注意していただきたい。
前作の感想は http://lastbreath.hatenablog.com/entry/2017/10/18/173950 にある。

 

 

 

というわけでHF映画第二章である。
第一章で上がったハードルを華麗に、そして強引にぶっ飛ばし、こちらの期待と想像を遥かに超えた傑作が、真ん中に来てしまった。
HFルートは桜ルートとイリヤルートを強引にまとめた経緯もあり、かなり混乱した作りになっている。
正直桜に寄せて『ヒロインとしてのイリヤ』に切り込む尺はないかな、などと侮っていたが、相手は世界最強の強火HFオタク、須藤友徳である。
第1話冒頭で見せた『みんな知ってるだろうから、ここはOPバックで飛ばします』という省略の妙技を維持し、錯綜した物語を二時間の尺に収めてきた。
士郎と視聴者のテンションがガッツリ下がる時に、見た目に似合わぬ人格成熟度を生かして助け舟を出すことで存在感を強くするのが、なかなかに巧妙である。

決定的な終わりが第三章に予定されている以上、第二章はクライマックスへの繋ぎの意味合いが強い。
しかしそこで出番を終えるもの、あるいは繋ぎの物語の中での起伏は確かにあって、一つ一つのシーケンス、キャラクターの輝きをしっかり終わらせる必要がある。
例えば、神話的激戦の果てに散り果てるバーサーカー
例えば、自分殺しの夢を途中で諦め、士郎と凛に未来の可能性を託すしか無いアーチャー。
例えば、少しの手番の中で『大人』『教師』としての存在感を強烈に見せた藤村。
例えば、桜が夢うつつの『捕食』ではなく真昼の『殺人』として命を奪う慎二。
主役たり得ない彼らは、第一章における英霊たちのように途中退場していくが、その生き様は鮮烈で、敬意を絵の具に色濃く描かれる。

それを支えるメインシャフトもまた、非常に堅牢かつ濃厚な個性を備えている。
SNやUBWでは少年漫画的ヒロイズムにたどり着けた士郎は、切嗣から継承した鉄の正義と、桜への慕情の間で悩む。
清廉潔白なサバイバーとして、女の肉に溺れ、不安を忘れる/忘れさせる生々しさに怯える。
桜もまた、肉体と魂を汚された過去、それを人質に士郎の抱擁を独占していくズルさ、人でなしに落ちていく不安と快楽、魂と肉を貪り食らう浅ましさに、喉笛まで浸かっていく。
けして『正しく』などない、個人的で薄汚れ、犠牲の多い物語。
セックスシーンも捕食シーンも多数描かれ、そこに宿るエロスもグロテスクも、どうしようもなく重たい理不尽も原作そのまま……UFOの作画力をブースターに時に原作以上の圧力で、思い切り叩きつけてくる。

人が生きるということは、このようにどうしようもないこと。
人が愛し合うということは、このように醜く美しいもの。
自己肯定と自己否認が幾重にも折り重なる答えのない物語の中で、視聴者は迷い込んだ蝶のようにフラフラと、藤色の花に引き寄せられていく。
ヒクヒクと蠢き、闇の中艶然と輝く、美しい肉と魂。
その即物性の浅ましさに軽い吐き気を覚えつつも、目をそらすことは出来ない。
それは自分の中の浅ましさを加速させられるだけではなく、ひどくズルくて浅ましい男と女が、それでも綺麗なものを夢見、流した涙の透明さが突き刺さるからでもある。
第一章からして人間モドキ、嘘の上に嘘を塗り重ねてきた少年少女が、それでも人間でい続けたいと吠えたけり、叶わない様に心を動かされるからだ。

そういうHFの核を、穏やかな日常シーンにすらしっかりと敷衍し、緊張感を維持したまま上映時間を走り切る。
暖かな食事、夕暮れの伝奇、夜闇の決戦。
残虐極まる捕食と虐殺、エロティックで哀しい肌の重なり、切なる愛の告白と過去への裏切り。
場面は千変万化、複雑な色彩とトーンで色を変えていくのだが、最深部に宿っている心臓の音は、一定のリズムと圧力で映画に統一感を与える。
それは理想が腐敗する音であり、手のひらから逃げた蝶の鱗片であり、泥に溺れる視線の先で微かに輝く光だ。
あらゆる場所が裏腹で、全てが矛盾していて、しかし何か、強烈に全てを貫くものがある。
その徹底が、この長く起伏の激しい映画を、終極に繋がる一つの過程として、一つの物語として、しっかり支えているように思う。

 

アニメ映画としての見どころは様々なところにあって、どこから手を付けたものか悩むほどだが、骨格となる士郎の正義、桜の日常の変遷が大事だろう。
イリヤが作中で明言するが、聖杯戦争は夜に起こる。
人間性を回復するような恋の成就、当たり前の日常、学校などは白い日の光の中で。
人間同士(加減して芝居の戦闘をこなすライダー含む)の闘争、セックスの眼前で立ちすくむような受血行為は赤い夕日の中で。
その線引はかなり明瞭であり、進む時間の中に常人と超人の線引がある。
それを行き来し、何かが成就しそうな期待感と輝かしいイベント、その想いが実を結ばない残酷が繰り返される中で、衛宮士郎の理想はどんどん削れていく。

サーヴァント・セイバーを失い、マスター権限を喪失してなお、"正義の味方"として単騎夜を駆ける決意。
慎二との闘争を乗り越え、桜の命を救い、今までの生き方を投げ捨てて"桜の味方"になろうと固めた拳。
聖杯戦争を勝ち残り、桜に"マトモな人間"としての生存を掴んでもらうという新しい夢、戦う理由。
士郎は主人公に相応しくタフに、誠実に、物語に居続ける理由を幾度も探して掴む。

言峰の心霊的切開により、桜が人喰いの怪物に変じつつある事実が暴かれ、凛は"魔術師"の仮面……士郎が捨てた"正義の味方"の似姿で情を殺す。
何もわからないままフラフラ彷徨い出た士郎は、イリヤ(切嗣の娘、士郎の義姉、聖杯の器としての桜の先輩)のアドバイスを受け、桜が投げ捨てた"家の鍵"の意味を再獲得する。

自分が桜を受け止め、その悪を正し、人として生きる道を共に探す。
雨の中愛の告白をし、二人の"家"が確かにそこにあって、これからもあり続ける、守り続けるという幻想を確認した直後に、桜は発情する。
士郎は修行僧の高潔で部屋の敷居をまたがず、真実桜が求めるものを与えないし、勘付きつつ背負えない。
それは"影"と桜の共通点に気づきつつ、真っ直ぐ見ない少年の自己防衛とよく似ている。

超常の戦いに食い込む資格、圧倒的な暴力がなくとも思いは届くと強がった直後に、アインツベルン城での決戦がやってくる。
そこで展開されるセイバーオルタとバーサーカーの戦いはまさに神話の領域、人間など木っ端に吹き飛ぶ圧倒的なパワーの発露だ。
凛もイリヤも士郎も、そこでは呆然と立ちすくみ、英霊たちの超決戦を見守るか、死の河に飲まれないよう逃げることしか出来ない。
愛の告白も、健気な決意も、左腕と一緒に千切れ血に塗れていく。
手に入れたと思ったものは再び、現実の前に否定される。


士郎は"動かない腕"という非常に重たい現実を背負い、桜はなんか新しい女たちが先輩の横にズルズル滑り込んできて、状況は余裕をなくしていく。
英雄の世界に参戦するための鍵……アーチャーの腕は、軽く封印を解いただけで士郎を溺死させかけ、桜は受血や自涜といった代償行為ではなく、直接的に肌を重ねる性交を求める。
『私、処女じゃないんですよ』という雨中の告白は、その領域でしか己の価値を判断されない地獄がどれだけ桜に染み込んでいるか判らせ、なんとも哀しい。
『それでも大丈夫』と鍵を預けてくれた先輩を、桜は信じきれず、豊かに育った肌を晒し、情けを誘惑/懇願する。

言葉でも思い出でもなく、形のある手触りを(時に暴力的に)伝えなければ何も手に入らない。
アインツベルン城の決戦で思い知らされた現実は、士郎の手を奪い、自分のものではない英雄の腕を繋いだ。
それは心細さに震える恋人を抱きしめる役にも立たず、士郎は自分から扉を開けて桜を求めることも、セックスの主導権を取ることも出来ない。
それでも、体は繋がり、思いは届いた。
永遠を約束するエンゲージは、確かにそこにあった。

はずなのだが、桜に刻まれた悪意と運命は簡単にエンゲージを裏切り、彼女は街に彷徨いでて人を喰う。
英霊・ギルガメッシュの金色を飲み干し、完全な怪物に近づいていく。
たかだか真夜中にセックスした程度で現実は変わらないし、あまりにも長い虐待によって染み付いた自虐、刻み込まれた恨みも消え去るわけじゃない。
むしろそれに流されるまま食らった人命(影絵芝居のように、フッと人が消える清潔な殺戮のおぞましさは、非常に冴えた演出だった)が、消せない罪を強く刻む。
無防備な全裸のまま褥で夢を見る士郎の間抜けと、"魔術師"として冷徹に状況を飲み込む(飲み込もうとする)凛の必死の対比が、滑稽で残虐である。

淫靡に光る蝶が見守る中、士郎は臓硯の悪意を移植され、最後の日常を桜と共有する。
インストの"花の歌"が、一章で描かれた"家"の温もりを思い出させ、それが決定的に蒸発してしまった現状を突き刺し、容赦なく強い。
やはりかけがえのない日常は陽の光の中にあって、しかしそれは偽りでしかなく、されどその温もりの中で確認した春の夢が、士郎を止めてしまう。
"正義の味方"と"桜の味方"の境界線で、少年は決定的に道(ルート)を選び、過去の自分、衛宮切嗣の継承者、後にエミヤとなる自分を"裏切る"
それは冬木大災害の生存者として、罪悪感にまみれつつ人間を演じてきた自分への決別であり、生身の右手で抱きしめた桜の肉体が、淡い幻影ではないと証明するための出発でもある。


セイバー、あるいは衛宮切嗣
巨大な正義幻想を支えに疾走してきた少年は、ひどくちっぽけで小市民的な"正義"に着陸し、壊れかけの只人として第二章を終える。
惚れた女のため、世界なんてうっちゃって、ただ血みどろに。
人の身には巨大すぎるものをそれでも背負う輝きが、前2ルートに色濃く焼き付くからこそ、士郎が手に入れては廃棄し、打ち捨てては再獲得した"正義"の在り方は鮮明になる。(映画に再構築された結果、ぶっちゃけ原作ゲームよりはるかにその旅路は分かりやすく、共感しやすくなっていると思う)
それをSNやUBWで描かれた爽快さへの"裏切り"、英雄譚の矮小化と取るか、確かな手触りのあるコンパクトな真実へとFateを引き戻す行為と見るかは、人によるだろう。

僕は大好きである。
須藤監督以下、最強に強まったHFオタクたちの愛情が生み出した、最高に"響く""届く"解釈だと思う。

 

HFにおいて士郎の旅路には常に桜が張り付き、道を交えつつ決定的に過ち、奈落に落ちていく。
セイバーの退場によりヒロインとしての桜にグーッとカメラが寄り、第二章の描写は濃厚な湿度と業、むせ返るようなエロティズムと殺意が塗り重なっていく。
油絵の具をパレットナイフで厚塗していくような、一少女の可憐さと弱さ、ズルさと怖さの多重描写は、桜の魅力(つまりは彼女をヒロインとするHFの魅力)をどんどん積み上げ、非常にオリジナルな領域に高めていく。
凛も『間違えた妹を正す姉』『怪物を殺す魔術師』としてヒロイックな側面が強くなり、"女"の情念と引力は桜の専売になっていた。
ちょーっとヒロインっぽいムーブすると、それを桜が立ち聞きして『その思い出まで獲らないでよ……』って重力と殺意高めっからね……そら目線を隠して、公平な殺し屋を演じないとやりきれんわい。

士郎が無力さを思い知り、空疎な"正義"の概念を身の丈に削ぎ落としていくのに対し、桜は諦めていた空疎をどんどんと埋めていく。
"家"の鍵を手渡された時に、瞳に確かに宿った光。
俗に(本当に俗に)『レイプ目』と呼ばれるハイライトのない光は、桜に関しては本当に徹底的に陵辱され、"間桐桜"に『された("なった"ではなく)』結果である。
士郎が何も気づかないまま、当たり前の人間を演じて手渡したものが、そこに光を宿す。
諦めていれば求めることもなく、臓硯の用意した温室に舞う蝶(lost butterfly)でいられたのに、桜は知ってしまった。

一度知れば、より強く、より貪欲に求める。
"性(せい、あるいはさが)"を強制的に身に刻まれ、もはや引き剥がせない(そんな状況のメタファーとして、刻印虫はよく機能していると思う)桜は、血から己の指、士郎の男根と、体の中の空疎を埋める欲望をエスカレートさせていく。
その時求められているのは性の快楽であると同時に、生の実感……自分が空疎な人形ではなく、尊厳と欲望を抱え自由を行使できる主体だという認識なのだろう。

人が人であろうとすることは、こんなにも決死で浅ましい。
泥の中の蓮のように美しい涙を見るごとに、『私は人間だ』という主張が血みどろの闘争、一筋縄ではいかない矛盾と切り離せないと知るたびに、桜を描く陰影は深くなっていく。
その深い影、善悪是非が渾然一体と答えを出しきれない混沌こそが、この映画の、HFというルートの、"Fate/stay night"という作品の面白さなのだと、情念のこもった描写が静かに主張してくる。

聖杯が用意する救済は、アンリマユによる人類皆殺しにしても、第三魔法によるアセンションにしても、今当たり前に眼の前にある命の形を変えてしまう。
死人も神も、志郎と桜が約束したような穏やかな日差しにはたどり着けないだろう。
だが人が人のまま、人であり続けようとすることはとんでもない奇跡で、強い痛みと重たい犠牲を求める。
それでも人であり続けたいという願望が、人間モドキを絶望からすくい上げ、桜以外を死地に追い込んでいく。
少女は無邪気に、その構図に自覚的だ。


『私、処女じゃないんですよ』という告白は、嘘の重さに耐えかねての自白であろう。
同時に、『先輩ならばそんな自分もひっくるめで受け止めてくれる』という打算、『受け止め抱いてもらえば、綺麗なものに生まれ変われるかもしれない』という願望も、複雑に交じる。
白日の下積み重ねた日常の嘘が冷たい雨に溶かされ、全てが剥奪され人間の地金が出る土壇場で、差し出せるものが『汚れたセックス』しかないという、湿度の高い荒廃を叩きつけもする。
じくじく心に染み渡るイヤーな言葉で、とてもいいセリフだなあと思う。

桜が自分なりの"正義"にたどり着くのは第三章になるので、彼女は士郎とは違う道を歩く。
桜は自分ひとりでは運命に抗うことも、我欲に淫楽していく自分を止めることもできない少女だ。
正しくあろうと何処かで望みつつ、人間モドキに徹底的に落ちて行ってしまう。
第二章はその地盤沈下を、二時間ずっと見せられる映画だとも言えよう。
全てを剥奪され、己の身の丈を散々に思い知らされてなお、それでも堕ちていく女に手を伸ばす決意……"裏切り"の覚悟を決めた士郎だけが、魂を堕落させる引力に抵抗することが出来る。
……はずなんだけども、最終決戦でそこに対峙すんのは基本凛なんだよね……面白いよなぁこの構図。

さておき、人間の無力さを"正義の味方"サイドから彫り込む士郎と、セックスの角度から彫り込む桜の共演で、HF第二章は出来ている。
果たして士郎が慟哭の果てにたどり着いた正義の残骸は、間桐慎二の"殺人"を経て決定的に人間を手放した桜に届くのか。
それは白昼の中で起こる。
ドレスに身を包み、お伽噺のお姫様のように王子様に"救済"される夢は、夜にしか見れない。
間桐慎二の"殺人"が人間・間桐桜の殺意が引き起こした事件であることを、人間の領域として描かれ続けてきた白い昼の光が、残酷に照らしていく。

その"正しさ"に耐えきれなくなった時、桜は自分の中に埋め込まれた怪物に身を預け、堕ちる。
第一章のラストがセイバーの堕天だったことを考えると、面白い呼応である。
士郎が運命的に出会った"女"は、章が終わるごとに略奪され、それでも諦めきれないものへと少年は飛び込まなければならないのだ。

情け容赦のない重たい描写を塗り重ねることで、第三章への期待と不安、厳しい問いを投げかければこそ届く答えへの祈りは、非常に強まっている。
同時に、ハードなアクションで解答を出しまくるだろう最終章では描けない、存分に悩み間違え答えを探す歩みも、濃厚かつ的確に描かれきった。
ここで桜と士郎の抱える問題を鮮明にしておくことが、全てのカルマを突き抜ける解決を炸裂させ、物語を終えるためには絶対に必要だろう。
その仕事をしっかり果たし、一つの迷路としてカタルシスを埋め込み、美しく醜怪な人間絵巻を見事に組み上げる映画となった。
非常に面白かった。


"裏切り"は大事なキーワードで、士郎はかつての自分を裏切り、イリヤは士郎と交流し藤村が語る切嗣を立ち聞きすることで"裏切り者"を許す。
言峰は"この世全ての悪"の胎動を感じ、形なりとも神父として使えてきた摂理をも"裏切り"問い殺す覚悟を、黎明の中で見せつける。
間桐慎二は帰還した桜を"裏切り者"と詰り、かつて共有した(暴力により強制されたものでも、像券の我欲が生み出した疑似家族でも、交接の幻想は彼にとって何らかの真実だったのだ)汚濁がまだ桜に残響していると突きつける。
その結果桜は慎二を殺し、士郎と獲得したはずの人間幻想を決定的に"裏切って"しまう。

それはSNやUBWで描かれた、アッパーテンションでポップな現代英雄譚への"裏切り"でもあるのだろう。
だが僕にはやっぱり、15年前にカチカチクリックしながらたどり着いたこのお話こそが"Fate"だなぁという感覚があるし、その想いを共有……どころか圧倒的な才で暴れ回らせ、語り直し、音楽と映像で決定的に刻んでくれたこの映画をありがたく思う。
これが"裏切り"ならば、"裏切り"こそを寿ぎたい。
そういう気持ちにさせるだけの圧倒的な映像体験、よく制御された物語体験が、深く深く感性を突き刺す"映画"である。

 

作中の描写としては、"食事"に注目していたい。
セイバーを失い、マスターの参加資格を失った士郎が家に帰還するところから、映画はスタートする。
泥棒猫を食い殺し、ようやく取り戻した先輩との平穏を、士郎はしかし裏切る。
英霊を失ったとしても、”正義の味方”として闘い続ける。
生き残ってしまったものとしての責務を、傷だらけになっても果たす。
桜の用意した檻に入らない士郎のプライドは、鱈と鮭、主菜である焼き魚のように食い違っていく。

放送を待ちわびる一年強の間に、"衛宮さんちの今日のごはん"が同じくUFOで放送され、第二章の食事シーンはなんだか不思議な文脈を手に入れた。
あり得るはずのない外伝、全てが幸福に包まれた夢。
あのアニメで描かれたものは、この残酷な本伝から見れば嘘でしか無いはずなのに、しかし食卓を同じ場所で囲み、同じように美味そうな命の糧の温もりは、夢の中と代わりはしない。
食べてくれる誰かのために、思いを込めて包丁を振るう。
その結果として出されたものを、同じように食べる。
心情的にも身体的にも人間ではなくなっていく二人にとって、それはやはり人間モドキの夢でしか無いわけだが、だからこそ食事の身近な感触は彼らの願いの切実さを、丁寧に伝えてくる。

朝から夕方、夜を抜けてまた朝。
セックスもバイオレンスも控えめな前半パートの終わりに、全てが決着したような顔で二人は料理を作り、仲間に転じた怪物……ライダー相手に食卓コントを演じる。
同じ卵焼きを、別のカトラリーで食べる。
共食の柔らかなムードは、非暴力的・非性的に事態が収まる予感を静かに打ち立てて、後の展開が全てをぶち壊す。

日が出るシーンは極端に少なくなり、桜は抑えようのない昂ぶりに流され(夕日が沈むほど長く耽ったあとに、『手を洗う』シーンを入れるのは天才以外の何物でもない。彼女は一時の衝動に流され耽溺し、しかしどこか冷静に状況を俯瞰している。それはセックスも殺人も変わりがない)、夜が積み重なるほどに事態は悪化していく。

そんな中でも姉妹は同じキッチンに立ち、イリヤも同じ食卓につく。
凛と桜が作った食事が画面に映らず、共食のシーンも省略されるのは、前半と後半のムードの違いを反映して面白い。
最後の食事でも強調されるのは、桜が人間の範疇を逸脱し、かつてしっかり味わえたはずの"日常"が蒸発している事実だ。
ファンシーな夢遊の描写(ここでも桜はふわふわと自失しつつ、何処かで現実を感覚している。お城は新都、橋は冬木大橋、流れていったぬいぐるみは"影"が食ったサーヴァントだろうか。犬=槍、狐=術、獅子=剣、熊=狂?)を経て、桜は『くぅくぅお腹が空い』て、飴玉……に見える人肉を貪る。

先輩に教えられ身につけた、人としての在り方。
美味しいご飯を一緒に食べて、人間らしく笑い合って、年齢制限なんて一切つかない当たり前の、前半展開した青春小説的な『正しさ』
『それを守るためには、とっとと死ぬしか無いよ』と告げていたギルガメシュの慈悲から、桜はあさましく立ち上がって金色を啜る。
人でなしの食餌のグロテスクは、生ぬるい陽だまりの中の"食事"を一気に押し流し、淡い夢を力強く粉砕する。
たかが飯食った程度、たかが雨の中で抱擁した程度、たかがセックスした程度では洗い流せない呪いの泥が、桜を決定的に人間から遠ざけていく。


そんな怪物を始末し、顔も知らない誰かの幸福を守るために、士郎は"包丁"を手に取る。
本来料理を作り、幸福を生むためのツールのはずなのに、彼の幸福、日常のすべてである桜を貫く時、正義の味方が選んだ武器。
投影魔術が使用可能だとリハビリシーンであえて見せておいて、思い出がたっぷり詰まったキッチンから凶器を抜き取り、桜ごと衛宮士郎の中の"人間"を殺す凶器。
非常に最悪の、しかし決定的に的確な"料理"シーンである。

アーチャーの左手はまともに動かないので衛宮士郎の右手で包丁を握るのは道理なのだが、それは彼が英雄候補生ではなく弱い人間として、生身の"衛宮士郎"で殺意を受け止めようとした表現だとも感じた。
桜とかけがえのない日常を一つ一つ編み上げ、そこから人間モドキが"人間"として生きれる希望を受け取ったのは、やはり衛宮士郎だから。
だから、右手で殺す。

もし左手で武器を取っていれば、"エミヤ"が溺れた正義が勝手に体を動かし、鉄の心で殺せていただろう。
しかし士郎はあくまで"衛宮"として桜を愛し、殺すために武器を取り、果たせない。
その右手は、他でもない桜の肉体を抱きしめ、心と体をつなぎ合わせた腕なのだから。
この後、桜があくまで"間桐"としてが慎二を"殺人"(夢うつつの"捕食"ではなく)し、壊れてしまっても確かにあった兄妹の情ゆえに完全に破綻するのとは、面白い対照であろう。

白髪褐色の自分が桜を殺す幻影を、現実に引き寄せようとする少年の凶行は、しかし涙とともに止まる。
出来ない。
直前の回想シーンで切嗣を遥かに上回る量の思い出を、桜に振り分けていた少年は、間桐桜を殺せはしないのだ。
それはアーチャーが超えてしまった一線であり、英霊と人間を根本的に隔てるライン(を、上から切り分ける大胆なカメラワークが鮮烈だった。雨の街に桜を探すシーンは、大胆に引いたロングと繊細なクローズアップの使い分けが絶妙で、映像詩的なテンポがあったと感じる)に、英霊ならざる士郎が踏み込めないことは、前半凛と対峙するシーンで既に示されていた。
降りしきる雨は"魔術師"の仮面、"遠坂"のプライドで仮面を創って妹を殺そうとする凛の涙なのだが、士郎は(慎二のあまりに人間的な情念を理解できないように)それを見通せはしない。

衛宮士郎は決定的に"正義の味方"の夢を裏切り、"英霊エミヤ"からは離れていく。
むしろそのことを願っていたかのように、アーチャーは士郎に左手(ゆんで)を預け、物語から退場していく。
UBWで語られた"正義の味方"の末路は、この瞬間決定的に遠ざけられ、衛宮士郎は別の物語へと進んでいく。
それは雨の中暖かな"我が家"へと、凛とは別の歩み方で踏み出した時に、決まっていた運命なのだろう。

大人が禁じるセックスへを、上手く動かぬ腕で抱きしめたように。
士郎は父・切嗣の生き方を、その背中を追い続けてきた自分を裏切り、否定する。
それは寄る辺ない暗闇への航海に似てひどく不安定だが、同時に奇妙に誇らしげな『男の旅路』に見える。
外側から押し付けられた運命に、その尊さをしっかり噛み締めつつも、決定的に決別する。
与えられるだけの子供から、性も暴力も自分の意志で引受け振り回す"大人"への脱皮。
慎二殺害を決定的なトリガーに、"人間"であることを手放してしまった桜は、背中合わせに士郎を強く求める。

怪物の愛情はつまり殺意であり、二人の恋の行く末は殺戮しかない。
そういうところで、このお話は終わっている。
それを跳ね返したいのならば、現実を遥かに超える感情のドラマが、身を切り裂くよりも強い犠牲が必要となるだろう。
そして、間違いなく第三章はそれを描く。
描ききる。

士郎の成人儀礼はまだまだ続き、オマケで世界の命運などもかかってくるけども、それを切り抜けなければ今回"裏切った"ものに報いることは出来ない。
一足先に"大人"になった(そのトリガーが士郎には性を許容することであり、桜には性を拒絶することなのは、哀しくも綺麗な対比だ)士郎は、再び桜とキッチンに立てるのか。
おそらく第三章に食事の出番は、エピローグまで無いだろう。
朝→夕→夜→朝……と輪廻していく時間の諸相、"人間"の複雑な貌は第二章で描くしか無いし、それがしっかりと描ききれたからこそ、"繋ぎ"であるはずのこのお話に強烈な魅力が発生しているのだとも思う。
人は飯を食うのだ、どんな状況でも。


士郎は桜を"料理"できず涙を流すが、そこに至るまでの肉体の傷をほとんど気にしない。
慎二から跳ね飛ばしたナイフの傷は気にされず、体をもがれて規格外の腕を無理くり繋がれても、笑顔で日常に帰還する。
セックスの代用品として血液をせがまれ、自分の歯で指先を噛みちぎるときも表情一つ変えない。
第一章、射場のシーンで見せた正しすぎる射形から、ずっと続いている"正義ロボット"の無痛。
それは『女の子を守るための戦いに、血みどろで身を投じる』熱血展開を、そのまま飲ませない奇っ怪なノイズだ。

反面、桜が無意識に暴走させた棘に刺され(慎二が投げつけた淫夢に己を失っても、姉を排除せんと狙いを定めるあたり、遠坂姉妹のシスター・コンプレックスは闇が濃い)た傷は、赤々と腹に傷を残す。
最終的に"正義の味方"という幻想を殺す一撃を、包丁を振り下ろさないことで選び取った士郎は、声を殺し"人間らしく"慟哭する。
士郎の痛みは常に桜からやってきて、赤い血は桜経由で流れる。(体内に注ぎ込んだだろう快楽と精液は、その変種なのかもしれない。HFにおいて(そして時に現実においても)性と暴力は背中合わせの双子だ)
大災害が開けた空疎な穴に"正義の味方"を詰め込み、なんとか人間を演じてきた衛宮士郎
現実による重たい否定で"正義の味方"ではいられなくなっていく彼を英霊ではなく、人間にしていく内実は、桜とのセックスとバイオレンスによって満たされていく。

これに対し慎二の蚊帳の外っぷり、傷つけてもそちらを見ない無視は徹底されていて、ナイフで切り裂こうが、サーヴァントをけしかけようが、慎二は藻の語りが展開するメインステージから遠ざけられる。
夕日の図書館での対決が始まった時は、士郎をライダーとの死闘に引きずり込む主導権を握っていたはずなのに、凛とアーチャーが乱入し挟み込まれる。
窮地に追い込まれる形でも舞台に引っかかっていたはずの慎二は、マスター権限を失い、桜の力が暴走した時、夕日が照らす赤い運命の外側に放置される。
音響は彼の言葉を置き去りにし、桜を中心とした対立関係は未来を暗示するように凛と士郎の間で構築される。

マスター権限の喪失、魔術行使の不得手は共通なのに、慎二は妹からも士郎からも遠くに置き去りにされ、それをひどく暴力的な手段で埋めることしか出来ない。
あるいは謀略、あるいは嫌味、あるいは暴力、あるいは強姦。
借り物の"偽臣の書"と同じように、臓硯のサディズムと陰謀の道具として踊らされ続ける彼は、人間として間違えきっているが故に、あまりに人間らしいメディアで主役になろうとする。
その果てに自室での殴打と強姦(未遂)があり、桜の殺人がある。
お互い裸で向き合えるはずなのに、衛宮士郎を通じてしか繋がれない兄妹の、約束された破滅。
それが桜を、決定的に怪物に落とす。

瞳から光が消え、自分を道具だとしか思えない(そう思うことでしか生存を許されない)桜は、士郎に"家"の鍵を預けられることで色を取り戻す。
時間と運命が流れ、"正義の味方"として"この世全ての悪"を刺し貫こうとする時、士郎の瞳から光は消えている。
しかしもはや"桜の味方"である士郎は心を鉄に固めることは出来ず、桜は生き延びて兄のもとに赴く。
いつものように殴られ、押し倒され、侵される時、彼女は普段と違った反応を示す。
『もう私は、先輩のモノなんです』という言葉からは、自身の身体を明瞭に所有し、その共有権限を選ばれた男に分け与える女のプライド……瞳に宿った光がにじむ。(そのうえで、自己判断せず自己責任を持たない"モノ"として士郎に所有してもらう奴隷の快楽も、たしかにその言葉には滲む)

その抵抗が、慎二が手に入れられなかったものを強烈に印象づけ、士郎と営む『綺麗なセックス』ではありえない、擬似的な近親強姦……『汚れたセックス』を刻み直すべく、暴力を選ばせた。
聖杯戦争は夜にしかやらない』というイリヤの言葉通り、サーヴァント同士の超常の殺し合い("影"による無差別捕食含む)は暗い闇の中で展開する。
しかし慎二との戦いは夕日、あるいは白昼という"人間の時間"に展開し、桜にとっても夢うつつの"捕食"ではなく明確な"殺人"だった。
そう思わせるだけの圧力が、慎二に伸し掛かられられた時の『汚れたセックス』にはあるし、それを殺したいほど億劫に感じるのは、士郎に穢れた自分全てを体で肯定された結果……『綺麗なセックス』を知ったからこそだ。
その差は殺戮の夢の中で着ていたドレスのように虚ろな嘘で、しかしそれを与えてくれたからこそ士郎は桜の生命線(士郎を殺されかけるとゲームをぶち壊すが、姉含めて他の誰を的にかけても動きがないあたり、桜の線引は非常にシビアである)なのだろう。


桜との日々が士郎を"正義の味方"から人間に変え、士郎との日常が桜の瞳にハイライトを宿していく。
当たり前の幸福を知らなければ、地獄を地獄と認識せず過ごせていたのに、人間モドキはお互いの体温を分け合い、それ故致命的な運命に堕ちていく。
そして間桐慎二は、そういうFateから押しのけられ、外野席で吠えることしか出来ない。許されない。
そんな彼の不器用な身じろぎは、結局間違え尽くした結論にたどり着いてしまうわけだが、そんな人間味を人間モドキ達は拾いきれないのだ。
これは冬木の管理者・正当なる"魔術師"として"正しさ"を背負おうとする凛も、当然背負えぬ汚濁だ。
それをはねのけようと憎悪を迸らせて、桜は兄を"殺人"し、最後に残っていた人間性の欠片も殺してしまう。
そんなトリガーになる程度には、"間桐桜"として"間桐慎二"の妹をやっていた時代には情念があった。
しかし魔術に歪められ、マキリの妄執に澱んだ二人は普通の兄妹では(物語開始時点で既に)なく、戻るべき"家"もない。

そういう無様さとどん詰まり、望んだ舞台を結局手に入れられない惨めさをみっしりと詰めて、間桐慎二をしっかり殺してくれたのは、僕は凄く良かった。
許されるべき男ではないし、あり得たかもしれない人の良さもこの話には関係ない。
行き詰まるべくして行き詰まり、傷つけるべくして傷つけ、死ぬべくして死んだ。
そんな少年の無様さに嘘なく、士郎と桜を求めて傷つけた愚かさから逃げず、かなりどっしりと描ききったのは、須藤監督のHF全体、TYPE-MOON全体への愛の結果かな、とも思う。


まだ運命の第三章が控えている関係上、そこで伏せ札がオープンになるキャラクターはかなり身を潜め、自分の舞台を待つ構えになった。
黎明の中で"この世全ての悪"の出産を待つ綺麗、コマに徹するアサシン、憎たらしい外道以外の顔を見せない臓硯、"正しい魔術師"の仮面で本音を隠す凛。
彼らの物語が炸裂するのはあくまで第三章であり、そのための布石を丁寧に配置しつつ、ここで去る者たちの舞台を邪魔しない程度の立ち回りになっていた。
凛が"姉"でも"少女"でもなく"魔術師"として立ち回ろうとする時、その眼がスパッと断ち切られ真意を必ず隠しているのは、なかなか意思を感じるレイアウトで良かったと思う。

藤村大河もワンポイントリリーフで完璧な仕事を果たしており、第一章冒頭で桜が獲得した"家"に、確かに"藤村先生"もいたのだと思い出させる、いい言葉のかけ方だった。
扉越しにイリヤが立ち聞きしている配置が見事で、桜には現在進行系の衛宮士郎イリヤには過去に自分を捨てた衛宮切嗣、それぞれのナイーブな"えこひいき"を思い出させ、凝り固まったカルマを溶かす仕事をしている。
こうして二人のヒロインの心情を同時に鎮静させることで、錯綜した筋立て、必要な尺を適切に整理・圧縮することが可能になっている。

そういうロジカルな巧さだけでなく、すりガラスの向こう側に"衛宮"を見送ることしか出来ない寂しさを桜と共通させることで、共感の足場を見せる詩情もまた豊かである。
情欲を秘めた扉を踏み越えられない士郎の臆病、あるいは待ち続ける女たちの震え。
境界線上に閉じ込められたものは、あるいは殺害のショックで、あるいは人の温もりで仮初めの安定を失い、感情を軋ませながら動き出すのだ。
藤村大河は"大人"として"教師"として、その揺らぎを恐れることはないと告げる。
『待っている』あるいは『受け止めてあげる』と、優しく微笑む。
キッチンに立つことはないぐうたら女でも、彼女は確かに桜の変えるべき"家"、穏やかな"日常"の一員だったのだ。

イリヤの物語も決着は次章であるが、桜と並ぶヒロインとして結構目立っていた。
雪の中士郎と人間的な接触をしたり、雨の中"正義の味方"と"桜の味方"で悩む弟に道を示したり、聖杯の器の先輩として桜に未来を示唆したり。
色んな仕事をやっていたが、ユスティーツァの記憶を継承する人形として、マキリ・ゾォルケンが見失った理想を突きつけるシーンが、なかなかに良かった。
人の身には過ぎた理想をいだき、それに溺れて腐敗し怪物となる未来は、鉄の心の"正義の味方"になった衛宮士郎の未来と通じる部分もある。
孫の慎二と同じように、臓硯がその遠い理想郷を思い出すのは全てが決定的に間違いきったあとなわけだが、それでも綺麗なものを夢見てしまった事実は、何処かで主役と通じている。
あの台詞をわざわざ入れた以上、マキリ・ゾォルケンの終局もしっかりと書いてくれるだろう。


この第二章で出番を終える英霊たちも、しっかりと生き様をフィルムに刻み、格を落とすことなく退場していった。
PC版から15年、最もアイコンとしてのあり方を変えただろうギルガメッシュは、"今のファン"が期待する傲慢とかっこよさを維持したまま、原作通り無様に食われて死んだ。
ファンシーな残酷幻想がスパッと断ち切られ、漆黒のレイアウトが凄まじい緊張感を放つ中、傲然と立ちはだかる金色の王。
一枚絵としての決まりっぷりは、ギルの登場シーンが一番冴えていたように感じる。
PC版を遵守し(た結果が、PG12なエロとグロのフル回転である。ぶっちゃけ、良くやった。これ書かなきゃHFは描ききれないわけで、素晴らしい決断だと思う)つつも、『今お出しするのはちょっとどうかなぁ……』って部分は大胆に切り貼りして書き換え、自分の信じたHFを思いっきり突き出してくる姿勢が、とても好きだ。

バーサーカーは最後の障壁となるセイバー・オルタの怪物的実力をしっかり見せつけ、また戦いを決意した士郎に現実を突きつける仕事もしっかり果たし、見事な奮戦であった。
何しろ士郎と桜の感情が周囲を巻き込みつつうだうだグネグネし続ける暗い話なので、どっかでドカンと上げないといけない。
黒い聖剣の凶悪な熱量、それを押し込んで迫る巨体、ただのジャンプが世界を砕く圧倒、死から蘇る英霊の不気味と狂熱。
アホみたいな派手さとスピード感、むせ返るような暴力を詰め込んだ神話の戦いは、アクションを求める脳髄を満足させるのに十分な圧力を宿していた。
アサシンVSアーチャーもそうなんだけど、ところどころ"Fate/Unlimited Code"を意識したようなアクションが散見され、格ゲー勢としてはなかなか嬉しい。
ぜってーカルキノス回してたでしょ、あの時のヘラクレス

アーチャーもUBWで散々語った自分の物語を滲ませつつ、あくまで衛宮士郎をHFに送り出すサイドキックとして、超絶の英霊戦士として、非常に良い退場を果たした。
噂によるとアーチャー関係の描写はUBWの三浦監督が担当しているらしいが、それも納得の解像度の高さ、『俺の愛するアーチャーはマジでかっこいいから! 最高だから!!』力である。
士郎はザックリ地面に投げ捨てるのに、イリヤはまるで壊れ物を扱うかのように紳士的に地面に下ろす仕草が、『イリヤの手を取ったなら、守りきれ!』という激に無言の説得力を与えていて、非常に良い。
『露骨士郎な死に際の表情とか、遠坂に投げる愛おしい瞳の意味とか知りたい人は、俺が監督したUBW見てね! たったの25話です! よろしくッ!』って感じの、セリフで一切説明しない濃厚な芝居であった。

悪を殺し尽くすべく魂を座に捧げた迷い子が、最後に投影したのが誰かを守るための盾の宝具というところが、ロマンチックでいい。
アサシンとのアクションも、セイバー・オルタVSバーサーカーでは描ききれない"技"の応酬を詰め込み、別角度からアクション欲求を満たしてくれました。
『くっそ重たいロマンス青春端も見たいけど、アクションで血圧も上げたい! ホラーも見たい!!』という欲張りボーイズ&ガールズを、満腹どころか食中毒にさせるくらいのドカ盛りで見せ場を積み重ねてくるのは、サービス精神旺盛である。

このトーンの移り変わり、過剰なクオリティをさらに別種のクオリティで塗りつぶす贅沢が、『HFとは何か』という強い理解で方向性を与えられ、ちゃんとまとまっている所がHF映画の強いところだと思う。
色んな方向に激しく揺さぶられる、凄まじい視聴体験なんだけども、自分が何を見たかは高揚の中、しっかり把握できている。
それは生半な才能と努力では出来ないことで、尋常ではない思い入れと冷静な作品分析、それを作品に仕上げる業前が合わさって生まれた奇跡だ。

それが今、映画館で見れる。
こんなにありがたいことはないんで、是非今体験してください。
間違いなく凄まじく、面白く、続きが気になるのに一本見きった充実感が体を包む。
そういう気持ちになれる映画の後に、あと一本あるわけです。
とんでもないことですよこれは。
来年春が本当に楽しみです。

 

・追記 ライダーのこと
ヒロイン桜のサーヴァントながら、自分を語らずほぼ眼も見せないライダー。現状映画だけ見ると『なんかスゲェ桜に肩入れしまくって、うっそりと士郎に期待と圧力をかけてくるデカ女』くらいの印象になると思うが、これも第三章にピークを持ってくるキャラ特有の"タメ"であろう。
何しろ真名すら明らかにしていないし、神と崇められつつも時代の流れに押し流され、孤島で姉すら食い殺す意志なき怪物に成り果てた"メドゥーサ"の物語を見せないと、彼女の桜への思い入れは伝わりにくい。
それをオープンにするタイミングでもないし、尺も他のキャラの見せ場に割り振らないといけないしで、現状ライダーは爆発する日を待つ形となった。
VS士郎戦も桜を思いやってむっちゃ手加減してるし、超級英雄として派手に暴れたセイバー・オルタとか、それとは反対方向の技巧戦で魅せたアサシンみたいな晴れの舞台は、まぁ無いわけだ。
卵焼きコントはほっこりしていいし、何かと身長と眼帯で"圧"かけてくる桜モンペっぷりも面白いけども。

ライダーの背負う悲しさとはつまり、桜と呼応する生まれの悲しさ、生き様の寂しさである。
なので、桜を分厚く書いておけば『この女、桜と同じ境遇だったんでむっちゃ同情しました。SNにおける士郎とセイバー、UBWにおける士郎とエミヤみたいなもんです』というメッセージは、ちゃんと伝わるだろう。
何しろ一個一個の"絵"の強さ……色彩とライティングの的確な美麗さ、レイアウトの主張の強さ、印象の鮮烈さが猛烈なので、基本的な演出線に乗っかれれば短い手番でもグンと脳髄にぶっ刺さるのは、今回で証明済みだ。
どこか呼応するもの(強烈なPTSDを抱えた人間モドキ)を持ちつつ、自分に欠けているもの(男女の別、過剰な正義と過剰な我欲)を補い合うように惹かれ合った、桜と士郎。
それとは別角度の、ある種のシスターフッドみたいな関係性で桜を見守るライダーの書き方は、桜という人格の立体感を出す上でも大事なわけで、今回の(おそらくあえての)『タメ』を第三章に活かし、大爆裂させて欲しい。
オルタの強まり加減を最高のアクション作画で見せたのも、それをぶっちぎる士郎&ライダーのコンビ技を印象づける狙い合ってのことだろうしね。
もちろん、バーサーカーへの餞という意味もあるし、バーサーカー・オルタとして立ちふさがった時に『あんなに奮戦したヘラクレスをよぉ! 泥で汚してゾンビにして……ぜってぇ許せねぇ!!』って気持ちに誘導する意味合いもあろう。
強烈なクオリティを布石としても使って、しっかり三部作の構造を支えるようにシーンとシーンを繋げていく。この補助線の使い方、欲張りなシーンの振り回し方が、FH映画の独特な強みかなぁ、と思う。
三部作がただの分割ではなく、それぞれ一個ずつ個別の魅力を持って完結し、なおかつそれぞれ呼応している印象だ。