イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

僕の心のヤバイやつ:第3話『僕は抱きしめたい 』感想

 純情と下世話を行ったり来たりで耳キーンなる系気圧差ラブコメ、主人公が己の思いを自覚する第3話である。
 ダークな妄想とピンクな欲望で頭とチンポコパンパンにしている京ちゃんだが、山田を見守る視線は臆病かつ繊細で、あれ程待ち望んでいた血しぶきと涙を間近にすると、思わず共鳴して泣いてしまう。
 山田への恋心が触媒となり、思春期に殺そうとしていた持ち前の優しさという”ヤバいやつ”も目覚めてしまう中で、そんな怪物と市川京太郎少年はどう付き合っていくのか。
 等身大過ぎて時折イカ臭い、中二病患者(なりかけ)の人生生き直しストーリー、大きな転換点である。
 このお話、否応なくヤバくなっていく季節とどう向き合っていうか、中二”病”の療養記録でもあるので、話数カウントは”karte”なんだわなぁ……。

 

 

 

 

画像は”僕の心のヤバいやつ”第3話から引用

 つーわけで今日も今日とて青春シンドローム罹患者は、遠くから憧れの光を見つめる……だけでは終わらず、日常の片隅で触れ合ったり、その温もりに悶絶したり、観察対象が勝手にグイグイ来たりして、結構動きの多い日々を送る。
 眼の前を暴走自転車が駆け抜けたときから、山田にとって市川は目で追いかける対象になっていて、二人の関係はもはや一方的な消費ではない。
 死姦という、一方的な関係性消費の究極系を妄想していた市川くんは、血を流す山田杏奈と付き合う中で、自分に流れている(特に下半身に過剰に流れ込む)血液を自覚していくことになる。
 そんなモゾモゾした触れ合いが、全身チンポ人間の下世話な妄想と隣り合いつつ展開していくことになる。

 最悪な猥談に積極的には加わらないが、耳ダンボな京ちゃんにとって、性(あるいは異性)は興味津々だがその実態がわからない。
 頭痛”にも”効く痛み止めを手渡してくれた山田が、一体何に苦しんでいるのか。
 中学ニ年生女子のリアルを理解したり、あまつさえ共感して助けたりする器用さはまったくないまま、山田のジャージが思いの外汗臭かったり、グイグイ押し込んでくる手応えに驚き、翻弄され、ちょっとずつ自分の側に寄せていく。
 性欲パンパン人間がその対象の生理を知らず、傷つき血を流す人間だと思わないからこそ消費出来てる状況がサラッと書かれつつ、ボンクラ三人を置き去りにちょっと大人で、だから優しい場所へと京ちゃんが進んでいく姿が、下ネタの裏でうっすら滲んでいく。

 それは京ちゃんが好きな女の子の実像に近づいていく足取りであり、同時にそれに惹かれた山田が京ちゃんの方へと、歩み寄ってくる記録でもある。
 一歩間違えば超イタい優しさでもって、激ヤバ質問の代わりに自作のヒロインキャラデザを手渡されて、山田はとても嬉しそうだ。
 人間関係のキャッチボールが、暴投になるか真芯を捉えるかはその人その人、その場その場の個別的なものであり、正解はない。
 世間がどんだけイタくてヤバいと判断しようが、俺がモニタの前で『どう考えても”爆弾”だよぉ!!!』と叫んでも、京ちゃんがテンパって選んだ解決法が山田の心を叩くのならば、それは”正解”なのだ。
 トンチキな凸凹がお互いに上手く噛み合って、眼が話せなくなっていく感じはやっぱり良いね……でも”爆弾”だよね!!

 京ちゃんの中二病は、挫折に擦れた自意識を鋳型にはめ込んで守る、自衛的な側面が濃いと思う。
 ヤバくて特別な輩は黒い妄想を膨らませ、他人を苛んで顧みない心の強さを持つのだと、勝手に世の中のスタンダードを推察して、自分をそこに近づけることで強くなろうとする。
 しかし市川京太郎くんの魂は擦り傷だらけの不格好ながら純白で、特に大好きな女の子の前では飾りを投げ捨てて優しくなってしまう気質なので、誰かが用意した『こうあるべき自分』とは、上手く噛み合わない。
 このノイズが積み重なって生まれた頭痛は、山田相手に純情と性欲のヤバい合金を擦ってると落ち着いて、股ぐらに住み着いて熱く燃える。
 ハタから見てると、何とも幸福な悶絶である。

 

 

画像は”僕の心のヤバいやつ”第2話から引用



 当人必死、外野ニヤニヤの幸せな日々は、バスケットボールの直撃で崩れていく。
 京ちゃんに一瞬目を奪われた山田の顔面にぶち当たったボールは、彼女が学校の外で仕事をし、容姿に優れ皆に愛される特別な女の子であると同時に、血も涙も流す生身の少女である事実を、京ちゃんに教えていく。
 点々と流れる血は”ヤバいヤツ”であることで自分を守ろうとしている京ちゃんが、このみ弄ばなければいけないハズの色合いで、しかしベッドの下から覗き見た傷の手触りは、笑えるものでも楽しめるものでもない。
 京ちゃんが流れる血を追いかけたのは借り物の猟奇趣味ではなく、その主が山田杏奈だったからで、ナンパイに自転車ぶん投げた時のように京ちゃんは、山田に恋してるときだけ心の底から、演技ではなくヤバくなる。
 それは薄暗い闇の下に、確かに降り注ぐ光だ。

 僕は他人の痛みに共感しない強い存在で、だから一方的に傷つけて、傷つくことはない。
 よくある自己防衛の結果、自分の優しさを殺そうとしている京ちゃんは、山田の痛みを制御不能に追いかけることで、誰かの傷に涙を流す自分に出会う(多分、出会い直す)。
 無邪気で無敵な子どもではもはやなくて、でも自分をしっかり持った頼れる大人でもなくて、沸騰する感情を持て余し痛みに素直に泣けはしない、とても複雑な年頃。
 半歩間違えば奈落の底に真っ逆さまな、危うい季節を這いずり回る京ちゃんが、より優しく、より自分らしく進む道標として、山田杏奈はいる。
 そこには彼が手渡した優しさと愛しさが、携帯電話の待受に焼き付いていて、陰キャがクラスのマドンナに横恋慕拗らせて空回りしているわけではない、奇妙ながら確かに繋がった思いが、ちょっとずつ確認されていく。

 それは”ラブコメ”としてジャンルにパッケージされたありものの恋心より、もうちょい扱う範囲が大きく、柔軟で、青臭い性を大量に含み、嘘がなくて優しい。
 ここで豁然と、心の中のヤバいやつに名前をつけてしまった京ちゃんは、気になる異性の血がどんな色で、それを受け取った自分がどんな気持ちになるのか、一個一個確認していく。
 可笑しさや下らなさ、ヤバさもひっくるめでちょっとずつ、子どもが子どもでなくなっていく様子、勝手に身にまとわなければいけないと思い込んだ”大人っぽさ”を脱いでいく姿が、面白くも切なく書かれているところが、やっぱり好きだ。

 

 

 

 

画像は”僕の心のヤバいやつ”第2話から引用

 『大人っぽいな……』と高く見つめる、山田杏奈が何に泣くのか。
 京ちゃんはずっとそれを気にして、憧れと実態のズレを誠実に補正し続ける。
 まだまだ抱き合えるような距離にはいないけども、遠くから見つめキモく手を伸ばすだけだけども、しかし方向性は間違っていない。
 そのまま青春街道、全力で突っ走ろう京ちゃん!

 血と涙を流す山田杏奈の実像に目を焼かれてしまった以上、自分に都合の良いイメージとしてのみ山田を捉えることはもう出来なくて、大人のようにはちゃんと出来ない、周りをガッカリさせてしまう自分に傷ついている、当たり前の少女の涙を見落とさない。
 そこには子どもであることを忌避しつつ、子どもであり続ける自分の実像を、捨てきれない市川京太郎と同じ痛みが、確かに滲んでいる。
 ヤバい恋に浮かれつつも、目の前の人間が何に傷つき苦しんでいるのか、それを通じて自分がどう感じるか、具体的な所を追いかけ続けているのは、京ちゃんの偉さである。
 『山田杏奈が好きな自分が好き』なわけじゃなくて、『山田杏奈が好き』で『山田杏奈が好きな自分は、一体どんな人間か』なんだよな。

 ともすれば綺麗にうわっ付いてしまいそうな純粋さを、いい塩梅にバカに暴走させて、京ちゃんは彼の聖なる箱に優しさを撒く。
 『ヤバいって! 中学生活全部ぶっ壊す”爆弾”だって!!』とハラハラするが、たっぷり泣いてたっぷり食べるヘンテコ少女には、そんな奇妙な優しさがよく効く。
 京ちゃんはベッドの下、山田の涙……に共鳴して流れる無自覚な優しさと出会って、この恋が光であると認識した。
 不格好で暴走しまくりの、匿名な優しさを受け取った山田も、また光の中にいる。
 そうしてヘンテコにすれ違って、大事なものを教えあって、変人二人の青春は前に転がっていくのだ。

 

 ティッシュといえば即オナニー。
 地獄の連想ゲームが脳の中二病野から染み出してくる年頃が、それを『涙を拭う』道具として他人に差し出せること。
 もちろんガッシュガッシュに山田でシコリもするんだけど、凄く辛くて本気で泣いている時に、外野から茶化したりしない生き方をすること。
 教室に一匹はいるヤバい怪物として影に潜みながら、京ちゃんは山田杏奈に恋することで、ヤバさのスイッチをガチッと押し込むことで、眩しい場所に自分を押し出していく。

 そんな歩みがたどり着いた場所と、そこから伸びていく道程に期待が膨らむ、とても良いエピソードでした。
 やっぱ京ちゃん主観のパンパンに張り詰めた余裕の無さと、そこからフッと離れて少年を包んでいる、思いの外悪くはない世界を切り取る客観のバランスが、とても良いアニメだなと思う。
 バッキバッキに勃起した下半身も、異性の苦しさや痛みに気づけない鈍感さも、そんな愚かさに思わず笑ってしまう可笑しさも、全部ひっくるめて中学ニ年生たちの、ありきたりな特別は過ぎていく。
 次回はどんな光に出会うのか、楽しみですね。