イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

江戸前エルフ:第6話『Stand by Me』感想

 今日も今日とて江戸前ぐらし! バブリバブられイッチャイチャ、巫女と生き神様のゆったり月島ライフを追うアニメ、愛しさと切なさが入り交じる第6話である。
 24分まるまる”エルこい”であり、彼女たちの穏やかで結構複雑な距離感を山盛り吸えて、大変ありがたいエピソードだった。
 厄介な人たちがお互いに甘えあい支え合う奇人日常コメディとしても、変わりゆく時代に取り残される永生者と、その瞬きに確かに己を刻もうとする少女の触れ合いの物語としても、色んな面白さがある。
 作品の豊かさをAパートBパートにしっかり投影して、いい気持で見届けさせてくれる回でもあった。
 色んな角度から現在と歴史を繋げる大江戸教養エンタメでもあるし、小糸の学生生活奮戦記でもあるし、結構色んな要素が乗っかってるアニメなんだけども、見事に制御されてモタれる感じがない。
 やっぱ良くできたアニメ化だよなー……つくづく、ありがたい。

 

 

 

画像は”江戸前エルフ”第6話より引用

 つーわけでAパートは愉快な二人の楽しい日常を、アップテンポに追いかけるお話。
 エルダは小糸にすがり、小糸はエルダに甘え、お互い様のバブリ愛こそが彼女たちの当たり前なのだと、イヤってほど教えてくれるお話で……いやー、素晴らしかったね。
 試験も学校もなーんもない駄エルフが、一方的に若人の可能性を搾取する構造とおもいきや、小糸もしっかりダメダメで、その欠落がいい具合に噛み合ってる様子が、なんとも微笑ましい。
 こういう形で自然と、永生者と定命種の釣り合いが取れて風通しがいいの、やっぱ好きだな。

 『家康くんが死後神様に祀られて、東照大権現の神号を与えられたから歯朶具足をモチーフにした”機動武士ゴンゲム”なんだなぁ』などという、今更な納得なども受け取りつつ、神様と巫女のドッタンバッタンイチャコラ地獄は楽しく転がる。
 自分が拓いた江戸の未来を生き神に託しつつ、自分は神号を贈られることでようやく同じ永遠になった末路は、プラモというポップカルチャーに加工されて実在の手応えを現在に宿す。
 エルダとゴンゲム、そこはかとなきエモを感じ取れるな……”家エル”はありますっ!!(ヘテロ過激派の意見)

 400年前の男がどうあれ、今のエルダは小糸とともにいるわけで、いつまでたってもガキ臭い駄々をぶん回し、ダメダメな巫女の世話を焼き、日々を楽しく過ごしている。
 この時間が嘘じゃない……どころか最高にLOVEで満ち溢れている手応えが、ギャーギャーわめきつつ愉快に弾む日常には、たっぷりとあふれている。
 俺はとにかく、日常を共にする二人が小さく確かな、当たり前すぎてそれこそが真実なのだとなかなか気づかないような愛で結ばれている描写が、本当に好きだからよ……ありがてぇよこのアニメ。

 

 

画像は”江戸前エルフ”第6話より引用

 そういうケの日を朗らかにスケッチしてからのBパート、50年に一度のハレを追いかける、高耳神事ドキュメンタリーである。
 現代の神殿的空間と言える、無人スカイツリーを進んでいくエルフと巫女を遠景で切り取っていくカットが随時挟まれ、現代建築の工学的な美意識と、伝統を継ぐ白衣緋袴の共存が、シュールレアリスティックな面白さを生み出す。
 月島のアーバンな情景にエルフをねじ込む情景設計は、緩い日常の優しい心地よさ、女と女の感情爆弾に隠れてなかなか見えにくいけど、間違いなくこのお話の強さだと感じている。
 異様でありながらしっくりと馴染む、実在し空想されるファンタジーとしての手応えが、日の出前の高殿に強く宿る。
 観光客でごった返す”活きた”スカイツリーではなく、聖域として封鎖された無人の箱、信じのために”殺された”スカイツリーが二人のためだけに用意されている特別感が、非日常と日常の混濁を心地よく描いていいよね。

 

 

画像は”江戸前エルフ”第6話より引用

 いつも通りの会話を交えつつ、二人は高くて静かな場所を登っていく。
 そこから見える月は”竹取物語”に暗喩されている死の国で、永生者であるエルダはずっとそこに旅立つ友達を、変わらぬまま見送ってきた。
 地上に縫い留められたかぐや姫が、ふとした瞬間見せるシリアスな寂しさは今小糸の目の前に立ち現れたわけではなく、『あまり好きではない』と判断できるくらいの頻度で、長耳の巫女を襲ってきた。
 エルダは不老であっても不変ではなく、不死であっても不滅ではなく、変わりゆく人の世を心の底から楽しみ、瞬く間に育ち去っていく人の子を慈しみながら、対等なおバカ加減で、現世を楽しんでいる。
 そこは召喚主である家康くんに託された約束の地で、世知辛い時の流れに置いてけぼりにされても、悪くないと思える永世の現場だ。
 それでも、月は時折陰る。

 『んじゃあ、月に魅せられたアタシの気持ちはどうなんのよッ!』ってデケー思いを表立てず、Aパートで描かれたような楽しい日々に上手く溶かして、前向きに生き続けているのが小糸の偉い所だ。
 ぜってーエルフに呪われ、一生を巨大感情に縛られて生きる人間多いよなこの世界……小糸周辺には、人生間違えない人たちが多いだけで。
 ともあれどうやっても越えられない時の川に、愛する女(ひと)が取り残されないよう必死に手を伸ばして、小糸はエルダを捕まえる。
 高校生の小娘だろうが、神様じゃなかろうが、人間なりに色々考えて今、何を捧げるべきなのかを見つけている。
 人見知りの神様のために、スカイツリー無人にした人たちと似通っていて、もっと間近で熱い感情が、穏やかな日常コメディの主役には滾っているのだ。

 そしてその熱量を、人とともにあり続ける神様は見落とさない。
 繋いだ手から伝わる体温は、今この瞬間だけは同じで、いつか泉下に別れるのが定めだとしても、確かに生きて笑い合える。
 それが奇跡なのだと幾度も思い知ってるからこそ、エルダは神域に小糸をいざない、私たちは孤独でも寂しくもないのだと、己たちを言祝ぐのだろう。
 神様とその巫女が、どうやって頑張ってお互いの幸せを祈り、紡ぎ、形にしているか。
 濁りなく伝えてくれるエピソードだ。

 

 

 

画像は”江戸前エルフ”第6話より引用

  Aパートであれほど気楽に、『お互い抱えるものなど、何にもないよ』と告げるような日常を駆けてた小糸が、彼女の神様を見つめる時すっげー視線が湿っているのが好きだ。
 そういうモノはずっと小糸の中にあって、エルダの中にもあって、時折触れ合って外側に引っ張り出されながらも、その重さでお互いが潰れないように気楽に気を張りながら、彼女たちは日々を共にしている。
 その幸せな一瞬が永遠であるように祈った時、日が昇って二人を照らす。
 400年の時間が作り上げた鋼鉄の塔と悠久の富士は隣り合って、令和の朝が明けていく。
 綺麗だ、とても。

 読者が現世で味わう苦痛の麻痺薬として、スルーッと消費されがちな”日常系”の当事者たちがその穏やかな日々を編み上げるべく、切実に汗をかいて、世界を壊さぬよう繊細に努力している様子を見届けるのが、僕は好きで。
 Bパートで描かれた大神事には、小糸とエルダが彼女たちの今を守るべくどんな思いを抱え、どう相手を見つめながら手を握っているのか、良く滲んでいた。
 そういう地金の上に、Aパートで描かれたような幸福な当たり前が、日常を弾む。

 この世界でも時は流れて、人間が生きてしまっている以上必ず起こる厄介と、そこを超越してしまっているからこその寂しさは、否応なく満ちていく。
 でもそれだけが世界の本当ではなく、今二人の間に湧き上がるたった1つの喜びをこそ本当にするべく、二人は闇夜に塔を登って、同じ朝焼けを見る。
 そういうことを、結構頑張っているのだと描いてくれるのは、僕にはとても嬉しい。
 月下に滲む寂しさも、それを打ち破るべく伸ばされる手も、この月島に今生きている二人だからこそ、生まれる物語だ。
 自分たちが作り出した空想を、当たり前に造形される便利な箱ではなく、決死の思いで物語を削り出すからこそ、本当の嘘に仕上げていく。
 そういう姿勢が見ていて感じられるのは、とてもありがたい。

 

 という感じの、前後編でしっかり緩急の付いたお話でした。
 やっぱなぁ……小糸とエルダの間にかなり強い”感情”があるのが、俺は好きだよ。
 エルフが実在してしまっている神道パンクSFとしてこのお話楽しんでる側面もあるので、人間が生きてる以上必ず生まれてしまう硬い芯を、楽しい毎日を壊すことなくしっかり入れ込んでくれている手応えが、作品にしがみつく手がかりになってくれる。
 その重さだけが真実ではなく、バカ話に興じるいつもの時間も同じくらいの重たさで本当なんだと、”日常系”を仕上げる腕前の良さが立証しているのも、大変良い。
 『自分が扱う全領域、ガッツリやりきったるぞ!』って気合を感じる。
 気合の入ったアニメ、やっぱ俺好きだよ。
 次回も楽しみだ。



・追記 『東京下町』『スタンドバイミー』繋がりで、”さらざんまい”とのリンクもできてしまったな……。