イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

鬼滅の刃 刀鍛冶の里編:第6話『柱になるんじゃないのか!』感想

 斬っても斬っても死なないよォ!
 フロムゲーのダルいBOSSみてーなスペックの半天狗さんが、更にダルい五体目ギミックを詳らかにする中、ツンデレモヒカンの過去が明かされる刀鍛冶の里編第6話である。
 炭治郎のサポーター/ディフェンダーとしての強さが解る回でもあり、過酷過ぎる過去と強すぎる思いで鬼になってもおかしくない者が、なんで人間の領分に踏みとどまれるかを教えてもくれる。
 そういう暖かさと併存する形で、前回超かっこよく首切り落としてキメた炭治郎と、指みてぇなサイズの首も落とせず刀を折られる玄弥の残酷な対比、それを飲み込んでフィニッシャーを任せる変化なども見えた。
 やっぱ鬼滅は第一印象最悪なところから、血のインクで好感度向上契約書書かせるのが上手いな……。

 

 つーわけでギリギリ限界のブラコン凡人が、修羅場の未練をどうにか晴らすべく必死にツッパっていたことが解る今回。
 非才を補うべく鬼の血肉を腹に入れた代償で、ずいぶんおかしくなっている玄弥を炭治郎は、持ち前の純朴で迎い入れる。
 嫉妬、執着、独善、憎悪。
 抱えていればその毒で鬼に化けていくだろう感情を、炭治郎は無意識に、正しく跳ね除けて人のあるべき道を進み、他人に示していく。
 色んな人がこれで救われてきたわけだが、玄弥も例外ではない。

 半天狗が僻みと妬みの鬼であることを思うと、ここで玄弥がヤバくなってたのは結構大事なことなのかな、とも感じる。
 そもそも柱に執着し他人を妬むのは、兄弟を襲った理不尽を前に血みどろの兄を罵る””鬼”になってしまった後悔、愛し愛され未来へ進んでいく”人”でありたかった哀切が、玄弥に濃いからだ。
 しかしそんな原点はがむしゃらに死地を駆ける中、非才に似合わぬ過酷な戦場でぼやけてしまって、鬼の血潮が心を揺らす。
 人間であるなら当然揺れてしまう心を抱え、仲間に牙を剥く直前で炭治郎が自分に向き合ってくれたこと、その意味をすくいあげれる余裕がまだ玄弥にあったことは、僥倖であるし運命でもあろう。

 竈門家と不死川家は境遇と思いが良く似ていて、末路が真逆な面白い関係だ。
 炭治郎は(富岡一世一代の大発破の甲斐もあって)家族惨殺の死地から、鬼に墜ちてしまった妹の人間性を信じ続け、苦しい旅路をそれこそ背中におぶって共に、人道の真ん中を進めた。
 玄弥は不意に訪れたあまりの理不尽に抗う力もなく、父が殺された後立てた小さな誓いを踏みにじられ、あるいは自分で裏切ってしまって、以来その断絶と後悔を追いかけるように這いずる。
 共に血縁に導かれ愛を抱えて進んできたのに、片や長い戦いを終わらせる特別な才能を持った主人公であり、片や呼吸も使えず首も切れない凡人だ。

 

 玄弥は炭治郎の歪んだ鏡として、あまりに真っ直ぐな(だからこそ玄弥を救える)炭治郎では描けない物語を、その泥臭い戦いに刻んでいる。
 柱の地位に執着せぬまま上弦殺しの奇跡を成し遂げ、ただただ爽やかに正しく進める炭治郎の影、ちっぽけでみじめな唯の人間がはまり込んでしまう、暗い陰り。
 そこに沈んでしまわないから人間は人間でいられるわけだが、鬼と戦える力の代償としても、主役ほど人間出来てない心の弱さとしても、玄弥は仇敵たる鬼になりかけた。
 そういうことはこの過酷過ぎる戦いの中、理不尽な哀しみが多すぎる世界の中、結構たくさんあるのだと思う。
 でも炭治郎のまばゆい輝きは、そういう”人間らしい”弱さを跳ね除け、消し飛ばしていく。
 その暴力的ですらある正しさこそが、泥まみれの世界の中で誰かを守りたいと剣を握り、血を流して闘う人たちが報われる唯一の兆しなんだけども、それが取りこぼしてしまうものは、確かにある。
 『んじゃあそういう人間は特別に優れた人間に助けてもらうばかりで、そいつ固有の尊さはないのか?』という問い掛けは、竈門炭治郎を主役に据えてしまった以上必ずあるべきで、玄弥の過去と現在は、そこにかなり深いくさびを入れていると思う。

 鬼に墜ちかけた彼を奈落の淵で押し留めたのは、確かに炭治郎だ。
 でもそこから体を張り、耳を傾け、必死に追いかけた敵の本命を殺しきれず、それでもなお嫉妬と執着を噛み締めて道を譲る決断をするのは、不死川玄弥その人だ。
 鬼の一撃を体を張ってせき止め、首を切れない自分を、柱になって兄に向き合える未来を苦く飲み込んだ上で、勝てるヤツを送り出すために支援に徹する。
 戦いの中炭治郎に触れ合うことで、死に際諦めを諦める主役の強さを手渡してもらうことで、玄弥は竈門炭治郎的な強さを自分のものにしていく。
 誰かを傷つけ殺す強さではなく、誰かを守り支える強さ。
 それは実弥と一緒に荷車を引いた時、こうなりたいと願った原風景に輝いていたものだと思う。

 

 弟の巨大感情が走馬灯に溢れ出すことで、同じく印象最悪だった風柱も一気に好感度稼ぐ形になるけども。
 回想シーンの、傷のない子供の顔をした二人の声がとても優しくて、鬼憎さに荒れ果ててしまった現在と、そこに行き着くまでの旅路の過酷さが際立って、なんとも悲しかった。
 降り掛かった理不尽になすべきことを見据え、たった一人生き残った弟のために元・母を殺し切る選択ができる所が、不死川実弥の才能であり悲しさでもある。
 守るために殺すとうそぶいたところで、殺しは常に血みどろに生臭く、血縁ならばなおさらだ。
 そうして振り回された思いの刃は、実弥に刻まれた数多の傷よりも深く、不死川の長男を傷つけたのだと思う。
 それでも鬼の形相を作って”柱”をやること、弟を苛烈に地獄から遠ざけようとすることを、彼は選び続けている。
 悲しく優しい人である。

 炭治郎と違い、実弥は弟妹に優しいままで戦士ではいられなかった。
 道を間違える寸前まで自分を追い込んで、なんとか背中にすがりつこうとした弟の思いを知りつつ、知ればこそ苛烈に跳ね除けるしかない。
 余裕はなく、優しさは凶器になって心を削り、愛を告げてしまえば何かが壊れると、不器用に背を伸ばし続けるしかない長子の在り方。
 ここらへんも、炭治郎の死角を照らす鏡といえるか。

 過酷で理不尽な運命に飲み込まれて、妓夫太郎と梅ちゃんのように鬼に化けるものもいれば、歯を食いしばって人と鬼の間で揺れる不死川の兄弟もいれば、あまりにも正しく人であり続けられる竈門兄妹もいる。
 ”きょうだい”というフレームの中に、様々な可能性が揺らいで多彩なのは、お話の奥行きを同一テーマで作り込んでいく手付きがあって、なかなか面白い。
 主人公が主人公であるがゆえに真っ直ぐ進む……進まなければ作品の背骨が揺れる部分を、別のキャラクターが別の角度から、自分たちだけの物語を通じて照らせるのは、色んな人間が生きている現場として作品の舞台を拡げ、感慨を置く余地を作る。
 そして色んなやつが力を合わせるからこそ、人は鬼にならず鬼に勝てるのだと、このお話は常に書いてもいる。
 ここら辺の、テーマと筆致の重なり合いが見れて、今回はとても良かった。

 ここからもう一つ、時透の兄弟の物語が戦いの火花の中照らされていくのが、また面白かったりもするけども、それはもう少し先に描かれる物語。
 ダークでありながら哀切に満ちた玄弥の回想が、とてもいい感じに描かれていたので、今後の描写にもより期待が高まります。
 クッッソ厄介なギミックボスとの激闘もまだまだ続き、さてはて一体どうなるか。
 次回も大変楽しみです。